電車の男 番外編

月世

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合鍵と倉知君

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〈倉知編〉

1.
 ドアに向かって、息を吸い、吐く。
 それからチャイムを押してみた。返事はない。そうだと思った。八時になったばかりだし、きっとまだ仕事だ。
 合鍵を握り締め、ドアの前で再びの深呼吸。
 ついに、これを使うときがきた。
 勝手に上がって待ってて、と加賀さんは言った。
 だからそうしようと思ったのだが、いざ実行に移すとおじけづく。
 果たして本当に、勝手に鍵を開けて入ってもいいのだろうか。
 加賀さんお得意の、ジョークかもしれない。真に受けて無断で部屋に上がった瞬間、信頼を失う気がした。
 やっぱり事前に承諾を取るべきだ。
 スマホを取り出して、メールの画面を開いたところで指が止まる。
 俺が来ていると知ったらプレッシャーにならないだろうか。まるで、早く帰って来いと急かしているみたいで心苦しい。焦らせるのは不本意だ。
 頭を抱えた。もう、どうしたらいいのか、一体何が正解か、わからなくなった。
「……よし」
 つぶやいて、握り締めていた合鍵をポケットに片付けた。
 帰ろう。
 肩を落として夜道を歩く。
 会いたかった。触れたかった。キスしたかった。
 電車の中の、数分間。挨拶を交わすだけの毎日。俺はもう、限界だった。
 加賀さんに、会いたい。
「あれ、倉知君」
 ハッと顔を上げた。数メートル先の街灯の下に、加賀さんがいた。謎の身震いのあと、幸福が、全身からぶわっとあふれ出すのを感じた。
「加賀さん……!」
「え、何、なんでそっちから? どこ行くの? 私服じゃん、どうした? あ、テスト終わった?」
 駆けよって抱きつこうとする俺を通勤カバンでガードして、加賀さんがいろいろ訊いてきた。
「テスト、終わりました。一回うちに帰って、でもどうしても会いたくて、アパートの前まで行ったんですけど」
「合い鍵忘れた?」
「いえ、いつでも肌身離さず持ってます」
「じゃあ部屋で待ってればいいのに」
 俺の横を通り抜けると、振り返らずに歩いていく。急いであとを追う。
「すいません、なんか、不法侵入みたいで悪い気がして」
 後ろの俺を少し振り仰ぎ、加賀さんがフッと笑った。
「なんでだよ、なんのための合い鍵だよ」
「あの、じゃあ、今度から無断で入る日は、朝一でメールします」
「はは、面白い」
 無断で入るための承諾を得る。確かに何かおかしいな、と頭を掻く。
「連絡しなくていいって。勝手に入っててよ」
「でもそれ、すごく失礼じゃないですか?」
 真面目かよ、と吹き出した加賀さんが、アパートの階段の一段目に足をかけてから、振り向いた。
「勝手に入ってて欲しいから、鍵あげたのに」
「そ、えっと、そう、ですよね」
 勝手に入ってて欲しいという言葉に舞い上がる。にやけそうになる顔を慌てて伏せた。 
「なんかさ、仕事から帰って倉知君がうちで待ってたらめっちゃいいなって、あらゆるバージョン想像してさ。ソファにちょこんと行儀よく座っててもいいし、筋トレしてても面白いし、でも、今日来てるかなって期待して、いなかったらへこみそうなんだよな」
 顔を上げた。階段を上がっていくスーツの後姿。
 見上げながら、唾を飲み込んだ。ちょっと、泣きそうだ。
 加賀さんは本当に俺を好きなのだというのを、今の科白の端々から感じてしまった。
 胸を押さえ、感動にひたったあとで、目元をぬぐい、歯を食いしばって階段を上る。
 廊下の突き当りに、背中でドアを支えた加賀さんが、待っている。
 玄関に飛んで入ると、加賀さんを抱き寄せた。
 ドアが閉まるのと、キスをするのと。
 どちらが先か。

2.
 リベンジのときがきた。
 ゆっくりと鍵を差し込んで、回す。
 思っていたよりも金属音が大きく響き、ビクッと肩が上がる。
 周囲を見回してからノブを握った。そっとドアを開け、隙間からするりと中に侵入する。素早く閉めて、中から鍵をかけた。
 靴を脱ぎ、暗闇の中で壁を撫で、電気のスイッチを見つけた。
 視界が明るくなると、ふうううう、と大きな息が漏れた。無意識に息を止めていたらしい。
 脱いだ靴を揃えてから、「お邪魔します」と誰もいない空間に頭を下げた。
 忍び足で、床を進む。
 静かだ。妙に、緊張する。何度も訪れているはずなのに、落ち着かない。
 壁かけ時計を見た。ちょうど、八時になったところ。きっと、まだまだ帰ってこない。
 ソファの端に浅く腰を下ろした。目を閉じて、鼻から息を、吸う。
 加賀さんの匂い。
 ひたすらに、部屋の匂いを嗅いだ。我ながら変態でやばいと思った。でも、ずっとこうしていられる。幸せだった。幸せだけど、すぐにダメだと気づいた。すごく、ムラムラしてきた。
 肩に担いでいたバッグを急いで下ろし、中から英語の参考書を取り出した。それを開くと、スクワットを開始する。
 頭の中は英単語でいっぱいになり、太ももにはじわじわと乳酸が溜まっていく。邪念は消える。はずだった。ムラムラは消えない。おかしなことに、完全に勃起してしまった。
 まずい、なんてことだ。
 早く、加賀さんが帰ってくるまでに、なんとか鎮めなければ。鎮めるというか、抜いてしまったほうがいいかもしれない。
 でも、もし最中に帰ってきたら? それはすごく気まずい。
 どうしよう、と思案しながらスクワットを続けた。性欲が消えるどころか、硬度が増していく。参考書から目を離し、下腹部を見た。ごまかしようもなく、勃起している。
 どうしよう、どうすれば。
「ただいま」
「うわー!」
 悲鳴が出た。突然、なんの前触れもなく、加賀さんが、そこにいる。
「えっ、あっ、あれっ、おかえりなさい、早いですね? えっ、いつの間に? 玄関、ドア、何も、音が、しませんでしたよね」
 加賀さんがものすごい笑顔だ。よく見ると肩が震えている。声を出さずに笑っている。
「あの……、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
 加賀さんの目が、下に、移動した。勃起に気づかれてしまった。頬が熱くなる。
「エロ本読んでんの?」
「まさか、これ英語です、英語の参考書です」
「参考書で勃起するんだ?」
「違うんです。お願いします、説明させてください」
 参考書で股間を隠しながら、力強く懇願した。
「何、その説明めっちゃ聞きたい」
 ワクワクした声で加賀さんが言った。床に通勤カバンを置いて、ソファに腰を下ろすと、「はい」と手のひらを俺に向けた。
「部屋が、加賀さんの匂いで、あの、だから……、ムラムラして、どうにかして紛らわそうとしたんですけど、英語もスクワットも効果なくて、むしろどんどん硬くなっていくし、どうしようって……。迷ったんです、こっそり処理しようかって。でも、さすがに家主が不在のときに、あんまりですよね」
 加賀さんが、ぶはっと吹き出した。ソファのシートを何度も殴りつけ、ヒーヒー言う加賀さんが、「え、待てよ」と唐突に顔を上げた。
「もう少し待ってたら倉知君のオナニー見れたんじゃない?」
「しないですしないです、できないです。えっと、なんか、すいません……、加賀さんの部屋で、一人で勝手に勃起しちゃって」
 何かがツボに入ったらしい。ソファで笑い転げる加賀さんを見下ろして、途方に暮れた。この状況でも、俺の下半身は元気なままだった。目の前に加賀さんがいて、楽しそうに笑っているのが幸せで、見ているだけで、ムラムラが、加速する。
 ひとしきり笑った加賀さんが、やおら正気を取り戻した。ソファに座り直すと、ネクタイを緩めてから両手を広げて「おいで」と言った。
「俺、まだ、その、た、勃ってて」
「知ってる。だから、おいで」
 体の力が抜けた。手から、参考書が滑り落ちる。
 加賀さんの腕の中に、飛び込んだ。抱きしめられて、抱きしめて。好きです、と囁くと、好き、と返ってくる。
 俺の下半身のふくらみに、加賀さんの指が振れた。根元から先端を撫でさする刺激に、腰が揺れた。
「ここでする?」
 耳元で囁かれ、荒い息でなんとか「出る」と返事をする。
「出る? もう? 何回で出るかな。二回、三回」
 加賀さんの手首をつかみ、三回目の上下運動を慌てて止めた。
「出ます、本当に」
「はは、可愛い」
 至近距離で笑う加賀さんが、キスをくれる。気持ちよくて、達してしまったのは言うまでもない。無様にビクつく俺の体を、加賀さんが優しく抱きしめた。
「倉知君が家で待ってるって、すげえ癒し。元気出た、サンキュ」
 帰宅したら、勃起しながらスクワットをしている男がいる。恐怖でしかないだろうに、加賀さんは心が広い。
「加賀さん、優しい」
「えー? 何がだよ」
 一緒に住んだら。毎日こんなふうに、加賀さんの帰りを待つことができる。
 本当だろうか。そんな夢みたいな生活が、本当に実現可能なのだろうか。
「やべえ、一緒に暮らすの、めっちゃ楽しみだわ」
 加賀さんの声は、弾んでいた。嬉しくて、俺の返事も弾んでいた。
「はい、本当に、楽しみです」
 二人の未来が、待ち遠しい。

〈おわり〉
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