電車の男 番外編

月世

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王子様の純愛

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〈小春編〉

 私には兄が二人いる。でも片方の兄とは血が繋がっていない。
 一緒に暮らしていないし、名字も違う。顔も似ていない。だから、本当の兄弟じゃない。
 私は彼と結婚する、と決めていた。
 お兄ちゃんはとても綺麗で、優しくて、完璧だった。欠点がない、穢れのない、美しい、理想の王子様だった。
 でもそれはついさっきまでの話。
 帰宅して自室に飛び込むと、荒い息を弾ませながら、壁に貼ったお兄ちゃんの写真を引きはがす。
 丸めて、ゴミ箱に投げ捨てて、ベッドに倒れ込んで、泣いた。
 私の恋は、終わった。
 お兄ちゃんが、結婚もしていない人と、いやらしいことをしていた。王子様のくせに、信じられない。
 そんな人じゃないと思っていたのに。
 騙された。
 裏切られた。
 私はふさぎ込んで、その日も、次の日も、また次の日も、ご飯もろくに食べずに泣いてばかりいた。
「小春」
 下の兄の政宗が、布団越しに私を呼んだ。
「もういい加減、変なことでうじうじしてんなよ」
 何があったのかお兄ちゃんから聞いたらしい政兄は、「どうした」とは言わずに、二日間私を放置した。おにぎりを作って無言で部屋に置いていくだけで、話しかけようともしなかったのに、さすがに三日目となると心配になったのかもしれない。
 ちょうど母が骨折で入院していることもあって、邪魔されることもなく、思う存分泣いて落ち込むことができた。でももうそろそろ布団の中が飽きてきた頃だった。
 もぞもぞと顔を出すと、ベッドの脇に立っていた政兄が鼻から息を吐き出した。
「目ぇ覚めたか」
「……とっくに起きてるよ」
「じゃなくて。血が繋がってないとか、結婚するとか、馬鹿な幻想から目覚めたかって訊いてんの」
 私は何も言わずに、布団の中から政兄を睨んだ。
「勝手に聖人君子だって決めつけたお前が悪い。ていうか、兄ちゃんが童貞なわけなくない? 過去に何人彼女いたと思ってんだよ」
「やめてよ、そういう話したくない」
「まだ夢から覚めてないの?」
 政兄は肩をすくめてから、私の机に何かを置いた。卒業証書の入った筒状のケース。
「これ、お前、落としただろ。わざわざ届けてくれたんだぞ」
 そういえば、落としたかも。いつどこで落としたか記憶にない。それどころじゃなくて、まったく頭になかった。でも卒業証書なんて、住所が書いてあるわけじゃない。
「誰……」
「え?」
「誰が届けてくれたの?」
「兄ちゃんに決まってんだろ。まだうちにいるけど、会いたくないよな?」
「えっ」
 体が勝手に動いた。布団をはね除けて、慌ててベッドから下りていた。政兄がにやりと笑う。
「せめて着替えたら?」
 そう言って出て行った。言われて、自分の姿を見下ろした。子どもっぽい、水玉のパジャマ。鏡を見て、ギョッとする。髪はもさもさで、泣いていたから顔もむくんでいて目が腫れている。
 こんな姿でお兄ちゃんに会えない。
 真っ先にそう思った。でも、もう、どう思われても関係ない。もうお兄ちゃんは、私の王子様じゃなくなったのだ。気合いを入れておめかししたり、かわいこぶる必要はなくなった。
 あえて着替えず、髪も梳かさず、寝起き丸出しの格好で、リビングに向かった。
 何か、すごくいい匂いがする。
 リビングの絨毯に寝転んだ政兄が、一人でスマホをいじっていた。
「お兄ちゃんは?」
「台所。晩ご飯作ってくれてる」
「え、何、何それ」
 胸がキュン、とときめくのがわかった。お兄ちゃんがこの家に来ること自体、初めてなのに、料理までしてくれている。私のために。
「母ちゃん入院してからまともなもん食ってないもんなー」
 政兄はご飯を炊くこと以外できないし、私はそれすらできない。お兄ちゃんはなんでもできるから、きっと料理もすごく上手だ。料理をしている姿を、一目見たい。
 リビングの隣が台所だ。台所の引き戸を音がしないように開けて、覗き見た。
 美味しそうな匂いが充満している。ろくなものを食べていなかったせいか、目眩がした。兄が台所に立って、洗い物をしている。そして、その隣に長身の見知らぬ背中がガスコンロに向かっていた。
 誰?
 一歩あとずさって、そっと戸を閉めると、政兄の背中に飛び乗った。
「ぐえっ! 重っ、何、なんだよ!」
「なんか、でかい人がいるっ」
 小声で叫んで政兄の肩を揺する。
「ああ、あれ、俺の小学校のときの友達」
「なんで政兄の友達が台所でお兄ちゃんとご飯作ってるの?」
「あいつ、料理好きらしいから」
 スマホの画面から目を離さずに言った。答えになっていない。
「小春、起きた?」
 引き戸が開いて、お兄ちゃんが顔を出した。目が合うと、少し微笑んで言った。
「おはよう」
「お……、おは、よう」
 まともに顔を見られない。目を背ける私に構わずにお兄ちゃんが「もう肉焼くけど食える?」と訊いた。
「肉……」
「この前ステーキ、奢り損ねただろ。店のじゃなくて悪いけど、いい肉だから美味いよ」
 その科白に、じわじわと、感動が胸に広がった。やっぱりこの人は、なんて優しい人だろう。
 食べる、と答える前に、私のお腹が「ぐう」と派手な返事をした。二人の兄が同時に笑う。
「よし、じゃあ焼くか。二人ともレアでいい?」
「レアー、激レアー」
 スマホをいじりながら政兄が私の下で答える。私も無言でうなずいた。お兄ちゃんが顔を引っ込めると、代わりにでかい人が頭をぶつけないように身を屈めてリビングに入ってきた。右手にサラダの大皿、左手に取り皿を持っている。
「あ、妹さん」
 私を見ると、ぺこりと頭を下げた。急いで政兄の上から下りて、正座をして頭を下げる。
 テーブルにサラダと皿を置いて、もう一度丁寧にお辞儀をしてから「こんばんは、お邪魔してます」と言った。やけに礼儀正しい人だ。政兄の友人とは思えない。
「小学生のとき会ったことあるけど、覚えてないよね」
 そう言われても、私の記憶にこんな巨人のような小学生はいない。首を傾げると、男は笑いながら名乗った。
「倉知です」
 名前はなんとなく聞き覚えがあった。政兄とは二歳違いだから、お互いの友人同士で遊ぶことがたまにあった。きっと、この人がもっと小さいとき、一緒に鬼ごっこをしたり、サッカーをしたり、ドッヂボールをして遊んだのだろう。
「すいません、よく覚えてないです」
「お前、この前まで小学生だったくせに何忘れてんの」
 政兄が呆れた口調で言った。うるさい、と政兄の尻を叩く。その様子を微笑ましそうに見てから、倉知さんは台所に消えた。
「政兄」
「んー?」
「で、なんであの人も一緒にご飯作ってるの?」
「え、だから、料理好きだからだって」
「そういうことを訊いてるんじゃないの!」
 わかってよ、と尻を連打していると、湯気の上がったスープをお盆に載せた倉知さんが再び現れて「仲いいね」と笑顔で言った。
「そうでもないよ。倉知んとこはお姉さんいなかったっけ?」
「うん、姉二人」
「いいなあ、俺も妹じゃなくて姉がよかった」
「妹ですいませんね」
 政兄の尻を力任せに叩く。
「お前は俺の尻になんか恨みでも?」
 テーブルの上に人数分のステーキが並ぶと、ようやく政兄が起き上がった。
「めっちゃいい匂い! すげー、うまそー、やったー」
 子どものように目を輝かせて、手を叩いている。私もそれに倣いたい気分だった。テーブルの上は、パーティのように華やかで、自宅でこんなごちそうを食べられるなんて夢のようだった。
 それに、お兄ちゃんもいる。もう王子様じゃなくなってしまったけど、やっぱりお兄ちゃんは、すごくカッコイイ。キラキラしている。
 四人でテーブルを囲み、お兄ちゃんが「はい、じゃあ手を合わせて」と言った。政兄と倉知さんが手を合わせる。見惚れていた私も慌てて真似をした。
「いただきます!」
 声を張り上げて、フォークとナイフを握り、肉を切り裂いた。一口大に切った肉片を、口に放り込む。にんにくの効いたソースの香りがたまらない。柔らかくて、とろけるような食感。ステーキ店で食べるより、美味しいと感じた。
「うんま、何これ、相当高い肉じゃない? うわー、悪いわー」
 政兄が興奮した口調で、フォークに刺した肉をまじまじと見ている。
「気にすんな。店で食うより安いよ」
 私がお兄ちゃんにいつも奢らせているステーキ専門店は、ものすごく、高い。うちは母子家庭だから、外食なんて滅多にできない。だから、ここぞとばかりにおねだりしていた。でも、家でこんなに美味しいステーキが食べられるなんて知らなかった。
「このソース、倉知君が作ったんだよ」
 お兄ちゃんが言った。
「え、マジで? 倉知はなんなの? シェフになるの?」
「いや、シェフになる予定はないよ」
 冗談で言った政兄の科白に、生真面目に返答する倉知さんがおかしくて、こっそり笑ってしまった。
「でも短期間ですげえ腕上げてるし、才能あると思うよ」
 お兄ちゃんが倉知さんを見ながら言った。あれ? と疑問が沸く。
 もしかして、二人は面識があるのだろうか。私に卒業証書を届けにきたお兄ちゃんと、政兄と遊ぶ予定だった倉知さんがたまたま鉢合わせになり、一緒に料理をしていた、という流れかと思っていた。
 でも、何か、違う。
 お兄ちゃんが「倉知君」と呼ぶ声が親しげだし、それに、何かがおかしい。
「才能っていうか愛の力だろ」
 政兄が感心したように言って、ステーキを頬張っている。
 愛の力。一体なんの話だ。私一人、取り残されたように感じて、そわそわする。
「そういや子ども、そろそろ産まれるんじゃない?」
 お兄ちゃんが政兄に訊いた。
「もういつ産まれてもおかしくないって」
「名前決めたの?」
 倉知さんの質問に、お兄ちゃんが付け加えた。
「キラキラネームにすんなよ」
「はっは、しないしない」
 嘘だ。名付け候補一覧を盗み見したら、ほぼすべてが読み方がわからないキラキラだった。
「敦子さん、ここで一緒に住むの?」
「その予定」
 政兄が答えると、お兄ちゃんがちら、と私を見た。近いうち、兄の嫁と、兄の子どもが家族に加わる。そんな環境で私がやっていけるか、心配になったのかもしれない。
 高校生の分際で子どもを作った政兄を心底情けなく思う。でも子どもに罪はない。敦子さんのことは嫌いじゃないし、赤ちゃんの世話だって楽しみだ。何も心配はいらない。
 大丈夫、という意味でお兄ちゃんにうなずいて見せると、ふっと表情を和らげた。
「父ちゃんがくれた家だし、大事にするよ」
 政兄がスープをすすりながら言った。両親が離婚するとき、父は私たちに家を買った。父は母の不貞の被害者だし、そんなことをする必要はまったくないのに、住む場所と、養育費の支払いを約束してくれた。
 もし。
 もし、親が離婚しなかったら。私はお兄ちゃんと、一つ屋根の下で、毎日こんなふうに食卓を囲んでいた。兄弟のように。
 いや、私たちは、兄弟なのだ。認めないといけない。私が妹だから、今まで構ってくれていた。妹だから、こうやってご飯を作ってくれている。
「兄ちゃんも来年から倉知と一緒に暮らすんだろ」
「うん、今マンション探してる」
「いいよなー、どっちも料理できるって超便利」
「倉知君だって数ヶ月前は全然だったんだぞ。お前もちょっとは作ろうとする努力をだな」
「……え?」
 思わず、声を上げていた。
 私の手から、フォークとナイフが次々と、音を立てて皿の上に落下した。
 三人の目が、一斉にこっちを見る。
「ちょっと待って?」
「なんだよ、小春。どうした?」
 政兄が怪訝そうに私の顔を覗き込んでくる。
「お兄ちゃんが一緒に暮らす約束してる人って」
 震える指で、倉知さんを指差した。
「あ、やべえ。ばれた」
 お兄ちゃんは全然慌てたふうもなく、笑いながらステーキを口に入れる。
「一生離れたくない大事な人って……この人なの? 好きだって、愛してるって、言ったよね? それ、男の人、なの?」
 笑ってごまかされると思ったのに、お兄ちゃんは平然と、短く「そうだよ」と答えた。
 指差したままの、倉知さんを、じっと見る。どこからどう見ても、男だ。立派な男だ。倉知さんはお兄ちゃんと私を見比べながら、何か言いたそうにしている。
 意味がわからない。精一杯頭の中を整理しようとしても、できない。
「混乱してんなー」
 政兄が付け合わせのマッシュポテトをぱくつきながら、私の顔を観察してくる。政兄はお兄ちゃんが男の人と付き合っていることを、知っていたらしい。知っていて、お兄ちゃんに熱を上げる私を嘲笑っていたのだ。
 いつもなら、怒りで埋め尽くされる私の脳は、もういっぱいいっぱいだった。
 顔を覆って、笑い声を漏らす。
「小春が壊れた」
 政兄の怯えたような声。
「小春、俺の肉分けてやる。元気出せ」
 お兄ちゃんの落ち着き払った冷静な声。
「あの、なんかごめんなさい」
 申し訳なさそうに謝る倉知さんの声。
「あっ!?」
 顔を覆っていた手をどかして、私は大声を上げた。
 政兄が私のステーキを奪おうと、フォークを伸ばしていた。その手をぴしゃりと叩いて、「き」と言いかけて言葉を止める。
「き?」
 みんなが不思議そうに私を見るせいで、続きを言わざるを得なくなった。
「き、キス、……あっ、エッチなこともしてるって……!」
 政兄がぶふっと吹き出してから、ゲホゲホむせ始めた。倉知さんの顔がみるみる赤く染まり、目が合うと、大げさに逸らされた。
「あれは、嘘だったの?」
 力なく呟いた私の言葉に、お兄ちゃんが「なんでだよ」と笑った
「ホントだよ。キスもするし、エッチなこともしますよ、ねえ」
 お兄ちゃんが、赤面する倉知さんの脇を突っつきながら言った。政兄がヒューと下品な口笛を吹く。倉知さんは歯を食いしばって何かに耐えている。
「男同士でキスできるの?」
「え、何、そこから?」
 お兄ちゃんが困った顔で頭を掻く。
「逆になんでできないと思うのか謎だよな」
 政兄がしょうこりもなく私の肉を奪おうとしているのが視界に入り、手の甲をフォークで刺してから、言った。
「して見せてよ」
「……はっ?」
 サラダを取り分けているお兄ちゃんが、驚いた顔で動きを止める。
「できるって言うなら、して見せて」
 私の中で、全部がこんがらがったままだった。でも、からかわれている、という可能性が残っている。好きな人がいる、というのは嘘で、私の恋心を打ち砕くために壮大な芝居を打っている可能性が、ある。
 男同士でキスなんて、冗談でもできるはずがない、と勝ち誇った笑みを浮かべる私の目の前で、お兄ちゃんが倉知さんの肩を抱いて、顔を寄せる。
 ごく自然に、唇が重なり合う。ドラマのようなぎこちなさも嘘くささもない、恋人同士のキス。こんなのは、初めて見た。不思議といやらしさを感じない。
 綺麗だ、と思った。
 唇が離れると、倉知さんがこれ以上ないくらい赤くなって、床に倒れ込んで悶え始めた。
「うわー、えっろー」
 政兄が楽しそうにフォークで皿を鳴らしてはしゃいでいる。
「政兄、何言ってるの」
「は?」
「美しいよ。私、感動した」
「はあ?」
「まっすぐで、純粋な愛を感じたよ。愛しか感じない。変な欲望とか、何もない、濁りのない、純愛だよ」
 政兄が眉間にシワを寄せて私を見て、頭を抱える。
「兄ちゃん、どうすんだよ。なんか目覚めちゃってるじゃん」
 お兄ちゃんは、はは、と軽く笑って私の前にサラダを置いた。
「変態って罵られるよりマシかな」
 何も知らずにひどいことを言ってしまった。
「お兄ちゃん、ごめんね。私、これから二人のこと、応援するから」
「え、そうなの? ありがたいけどなんか極端じゃない?」
「小春、小春」
 政兄が企み顔で私の腕をつんつんする。
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「納得してんのに蒸し返すな、馬鹿」
「えー、俺見たいな。やって見せてよ」
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「倉知さん」
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 背中に頭を下げる。倉知さんがあたふたと、起き上がる気配。
「はい、任せてください」
 顔を上げると、正座をして深々と頭を下げた倉知さんの頭頂部が目に入る。いい人そうだ、と直感的にそう感じた。
 お兄ちゃんは私の王子様じゃなかった。この見るからに真面目で、誠実そうな人の、ただ一人の王子様。
 私にもいつか、私だけの王子様が現れる。
 それを信じて、待つのだ。

〈おわり〉
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