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私は自転車に乗れない。トラウマのせいだ。
幼い頃、父はスパルタだった。ヘルメットとプロテクターをつけられて、特訓させられた。乗れるようになるまでやる、と張り切った父に、休日のたび、自転車に乗ることを強要された。何度転んでも、泣いても、許してくれなかった。
結局乗れず仕舞いのまま成長した。でも自転車に乗れないからと言って、生活になんの支障もなかった。
高校生になって、近所の友人に一緒に登校しようと誘われたとき、初めて自転車に乗れないことを不便だと感じた。
友人は自転車で登校しようと言ったのだ。
乗れないから、と断ったときの惨めさを、電車に乗るたびに思い知らされた。駅に向かう途中ですれ違う自転車を見るたびに、父を恨んだ。父のやり方が間違っていたとしか思えない。
強引に訓練されなければ今頃自分も颯爽と、自転車を漕いでいたに違いない。
満員の電車に揺られる毎日が屈辱だった。一度痴漢に遭ってから、なおさら電車が怖い。犯人は中年のスーツの男だった。それ以来、スーツのおじさんが、怖くて堪らなくて、近寄れなくなった。
高校生ばかりの車両に乗ることで、痴漢は回避できたのだが、快適とは言い難い。音漏れのするイヤホン、大声でおしゃべりをする女子、スマホゲームで盛り上がる男子。
電車は苦痛でしかなかった。
それを変えたのは一人の男の人だった。
ある日、気づいたのだ。同じ時間、電車を待つ駅のホームに、すごくカッコイイ人がいる。
こんな場所に、こんな人が、どうしているのか、と最初は何かの撮影か、と疑ったほどだった。気持ち悪い、嫌悪の対象でしかなかったスーツの男性が輝いて見えた。
細身で、すらっと脚の長い、美しい人だった。
それから毎日、私は電車に乗るのが楽しみになった。かと言って、その人の乗る車両に、私は乗れない。一度痴漢に遭った車両で、乗客に中年男性やスーツのサラリーマンが多い。あとを追いかけて、危うく同じ車両に乗りかけたときは、しばらく震えが止まらなかった。
同じ車両には乗れない。でも、駅のホームではなるべく近くに陣取り、こっそりと盗み見をする毎日。
ああなんて、美しいのだろう。
今日も、美しい。昨日も美しい。明日も明後日も、とちらちら見ていると、思いも寄らないことが起きた。
初めて、目が合った。
飛び上がる私に、その人は優しく微笑んだ。
天使が舞い降りた。鳴り響く、鐘の音。
そのとき、やっと自覚した。私はこの人に、恋をしている。
恋をするってすばらしい。世界が急に、色とりどりになり、何もかもが楽しくて仕方がない。あんなに嫌いだった電車通学も、苦にならない。
笑いかけられたからと言って、特に劇的な展開になることはなかった。目が合ったのはその日だけで、距離が縮まることはない。話しかけられるとか、そんな少女漫画みたいなイベントは発生しない。勿論、私から話しかけるなんてとんでもない。
何も起こらない。それでよかった。見ているだけで、満足だった。
それから数ヶ月後。十二月に入ったばかりの頃だった。その日は寒く、コートとマフラーで防寒して、駅のホームに立っていた。
あの人も寒そうに、身をすくめていた。マフラーを巻いてあげたい。そんな変態じみた願望を抱きながら、盗み見をしていると、衝撃の光景が目に入った。
隣に立っていた背の高い高校生のポケットに、あの人が、手を突っ込んでいた。
え? と我が目を疑った。私が見ていることに、高校生のほう気づいたが、手はポケットに突っ込んだまま。二人で同じポケットに手を突っ込んでいる、ということは、中で手を繋いでいるに違いない。
え? という感想以外、なかなか出てこない。
混乱しながら、ホームに着いた電車に、乗り込んだ。混乱していたせいで、いつもと違う車両、あの人と同じ車両に乗り込んでしまった。周りはスーツのサラリーマンだらけ。気づいたときには遅く、満員なので移動するのも難しく、背後に気を遣いながら二人を凝視した。
壁際にあの人を追い込むようにして、守っている。ように見えた。
一体この二人は、どういう関係なのだろうか。
兄弟、には見えない。毎日一緒、というわけでもなさそうだし、そういえばたまにでかい人が隣にいるな、くらいの感覚でしかなかった。
あの人が電車から下りるときに、「今日早く帰るから」と声をかけていた。
同じ家に住んでいないと出ない科白だ。やっぱり、兄弟?
多分同じ高校の人だ。バスケ部かバレー部の人かもしれない。これだけ大きい人だから、何年何組の誰かは、少し調べたらわかるかもしれない。
調べたら。それを知って、どうするというのだ。
私はあの人と、どうにかなりたいわけじゃない。
二人の関係を、突き止めたいわけじゃない。
ただ、美しい人を見ていたいだけ。
それ以上望まない。ほのかな恋心を、成就させたいとも思わない。
邪魔はしない。だから、お願い。
もう少しだけ、あなたを見つめさせてください。
〈おわり〉
幼い頃、父はスパルタだった。ヘルメットとプロテクターをつけられて、特訓させられた。乗れるようになるまでやる、と張り切った父に、休日のたび、自転車に乗ることを強要された。何度転んでも、泣いても、許してくれなかった。
結局乗れず仕舞いのまま成長した。でも自転車に乗れないからと言って、生活になんの支障もなかった。
高校生になって、近所の友人に一緒に登校しようと誘われたとき、初めて自転車に乗れないことを不便だと感じた。
友人は自転車で登校しようと言ったのだ。
乗れないから、と断ったときの惨めさを、電車に乗るたびに思い知らされた。駅に向かう途中ですれ違う自転車を見るたびに、父を恨んだ。父のやり方が間違っていたとしか思えない。
強引に訓練されなければ今頃自分も颯爽と、自転車を漕いでいたに違いない。
満員の電車に揺られる毎日が屈辱だった。一度痴漢に遭ってから、なおさら電車が怖い。犯人は中年のスーツの男だった。それ以来、スーツのおじさんが、怖くて堪らなくて、近寄れなくなった。
高校生ばかりの車両に乗ることで、痴漢は回避できたのだが、快適とは言い難い。音漏れのするイヤホン、大声でおしゃべりをする女子、スマホゲームで盛り上がる男子。
電車は苦痛でしかなかった。
それを変えたのは一人の男の人だった。
ある日、気づいたのだ。同じ時間、電車を待つ駅のホームに、すごくカッコイイ人がいる。
こんな場所に、こんな人が、どうしているのか、と最初は何かの撮影か、と疑ったほどだった。気持ち悪い、嫌悪の対象でしかなかったスーツの男性が輝いて見えた。
細身で、すらっと脚の長い、美しい人だった。
それから毎日、私は電車に乗るのが楽しみになった。かと言って、その人の乗る車両に、私は乗れない。一度痴漢に遭った車両で、乗客に中年男性やスーツのサラリーマンが多い。あとを追いかけて、危うく同じ車両に乗りかけたときは、しばらく震えが止まらなかった。
同じ車両には乗れない。でも、駅のホームではなるべく近くに陣取り、こっそりと盗み見をする毎日。
ああなんて、美しいのだろう。
今日も、美しい。昨日も美しい。明日も明後日も、とちらちら見ていると、思いも寄らないことが起きた。
初めて、目が合った。
飛び上がる私に、その人は優しく微笑んだ。
天使が舞い降りた。鳴り響く、鐘の音。
そのとき、やっと自覚した。私はこの人に、恋をしている。
恋をするってすばらしい。世界が急に、色とりどりになり、何もかもが楽しくて仕方がない。あんなに嫌いだった電車通学も、苦にならない。
笑いかけられたからと言って、特に劇的な展開になることはなかった。目が合ったのはその日だけで、距離が縮まることはない。話しかけられるとか、そんな少女漫画みたいなイベントは発生しない。勿論、私から話しかけるなんてとんでもない。
何も起こらない。それでよかった。見ているだけで、満足だった。
それから数ヶ月後。十二月に入ったばかりの頃だった。その日は寒く、コートとマフラーで防寒して、駅のホームに立っていた。
あの人も寒そうに、身をすくめていた。マフラーを巻いてあげたい。そんな変態じみた願望を抱きながら、盗み見をしていると、衝撃の光景が目に入った。
隣に立っていた背の高い高校生のポケットに、あの人が、手を突っ込んでいた。
え? と我が目を疑った。私が見ていることに、高校生のほう気づいたが、手はポケットに突っ込んだまま。二人で同じポケットに手を突っ込んでいる、ということは、中で手を繋いでいるに違いない。
え? という感想以外、なかなか出てこない。
混乱しながら、ホームに着いた電車に、乗り込んだ。混乱していたせいで、いつもと違う車両、あの人と同じ車両に乗り込んでしまった。周りはスーツのサラリーマンだらけ。気づいたときには遅く、満員なので移動するのも難しく、背後に気を遣いながら二人を凝視した。
壁際にあの人を追い込むようにして、守っている。ように見えた。
一体この二人は、どういう関係なのだろうか。
兄弟、には見えない。毎日一緒、というわけでもなさそうだし、そういえばたまにでかい人が隣にいるな、くらいの感覚でしかなかった。
あの人が電車から下りるときに、「今日早く帰るから」と声をかけていた。
同じ家に住んでいないと出ない科白だ。やっぱり、兄弟?
多分同じ高校の人だ。バスケ部かバレー部の人かもしれない。これだけ大きい人だから、何年何組の誰かは、少し調べたらわかるかもしれない。
調べたら。それを知って、どうするというのだ。
私はあの人と、どうにかなりたいわけじゃない。
二人の関係を、突き止めたいわけじゃない。
ただ、美しい人を見ていたいだけ。
それ以上望まない。ほのかな恋心を、成就させたいとも思わない。
邪魔はしない。だから、お願い。
もう少しだけ、あなたを見つめさせてください。
〈おわり〉
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