電車の男 番外編

月世

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母と息子

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〈加賀編〉

「母ちゃんが、入院した」
 仕事中にかかってきた電話で、弟の政宗がそう告げた。
 突然すぎて、何も言えなかった。
 何かの病気なのか、とか、怪我をしたのか、とか、訊くべきだったかもしれない。でも俺は、何も言えなかった。
「会えるうちに会っておいたほういいんじゃない?」
 思わせぶりなことを言って、入院先の病院と病室の番号を伝えただけだった。どうして入院したのかは言わずに、電話を切った。見舞いに行け、という意味だ。
 母に会ってやれ、と言われてから数ヶ月経った。いまだに電話すらしていない。
 誕生日に携帯を切っていた理由を、政宗は母に伝えていないだろう。俺が自分で解決するのを待っているのだ。
 解決。しなければいけないのだろうか。よくわからない。
 これから先の人生に、母は必要ない。関係ない。極端な話、死のうが生きようが、無関係だ。
 そう思っていたが、本当は違うのかもしれない。
 どこかで、このままじゃ駄目だと思っている。
 母の影がよぎるたび、暗くなる。強がっていても、気にしてしまう。
 また今年も誕生日に電話がかかってくるだろう。来年も、再来年も。永遠に。それを、心の深層で、恐れ続ける。
 今俺は、幸せだ。倉知と一緒にいるのが楽しい。あいつが可愛い。
 その幸せに、水を差す存在であることは確かだ。わだかまりを払拭してしまいたい。
 会って、決着をつけなければ。
 完全に縁を切るのか、関係を修復するのか、どっちかしかない。
 現状は、臭いものに蓋をしているだけ。見ないフリを、いつまで続けるつもりだ。
 営業のフロアには、俺一人。時計を見た。十時半を過ぎている。
 パソコンの電源を落とすと、熱と明かりが断たれ、唐突に孤独になった気がした。
 帰ろう。腰を上げてフロアを出た。アパートに帰ったところで一人なのだが、倉知が出入りするようになってから、たとえ誰もいなくても、あの部屋に帰ると安心する。
 電車に揺られ、アパートに着き、鍵を差し込み、ドアを開ける。
 ふわ、とかすかな暖気とカレーの匂い。
「来てたのか」
 リビングのソファで勉強していた倉知が顔を上げる。嬉しそうに笑って立ち上がり、抱きついてくる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 人肌が、心地いい。抱きしめ返して、離さない俺の頭を、倉知が撫でてくる。
「何かありました?」
 静かに訊いて、俺の言葉を待つ。たった数秒で、俺の異変を察知したらしい。
 黙って抱きついたまま、目を閉じる。倉知の心臓の音が聞こえた。倉知は心臓の音まで優しい。眠ってしまいそうだ。
 くす、と笑って見上げた。
「お前は優しいな」
 倉知が不安そうに俺を見たが、何も言わなかった。
「カレー作ってくれたの?」
 倉知から離れて、寝室に向かう。いつもはあとについてきて、着替える俺にちょっかいを出したり視姦したりするのだが、今日はリビングで待機している。
「金曜日なんで」
 倉知家は金曜日がカレーの日、と決まっているらしく、倉知はその伝統を健気に守ろうとしているようだ。
「今日泊まってく?」
 次の日が休みの金曜日に泊まるのも、恒例になりつつある。
「いいですか?」
「泊まってって」
 一人になりたくない。という言葉を飲み込んだ。
 カレーを堪能している間、倉知は何も言わなかった。何かあったのか、としつこく訊かない。倉知は、優しい。
「ごめんな」
 食べ終えて、食器を洗いながら謝った。自分では普通のつもりでもすぐに気取られた。構って欲しいわけでも、心配して欲しいわけでもない。だから謝ったのだが、さらに不安にさせただけだった。
 ソファから立ち上がり、こっち側に飛んでくる。
「大丈夫です。謝らないでください」
 後ろから抱きしめられて、笑みが漏れた。決して自分の気持ちを押しつけず、俺を尊重してくれる。
 水を止めて、タオルで手を拭い、倉知に体重を預けると、ため息と同時に言った。
「明日、病院にお見舞い行ってくるわ」
「え、誰のですか?」
「母親」
 倉知の体が一瞬強ばった。
「お母さんに、何か……?」
「政宗から電話あって、入院したってことしかわからない」
「俺もついていっていいですか?」
 予想外な科白に驚いて振り仰ぐと、倉知がふわっと微笑んだ。
「病室の外で待ってます」
「……倉知君」
「はい」
「サンキュ」
 一気に体が軽くなった気がした。会いたくないのに、無理に会おうとしている俺を、理解して助けようとしてくれている。背中を押して、いざというときの逃げ場になろうとしている。
 巻き込みたくはなかったが、今回は甘えようと思った。
 もう、母のことで悩むのはこれで終わりだ。
 明日で最後。どんな結果でも、最後にしよう。
 と、決意したのに。いざ病室を前にすると脚がすくんで動かなくなった。
 病室の前のプレートに、母の名前を見つけただけで、心が簡単に、ざわつく。
 病室のドアは全開になっている。すぐそこに、母がいると思うと吐き気がした。
「大丈夫ですか?」
 口を抑える俺の背後で、倉知が心配そうに言った。
「うん」
「無理しないでください」
 大きく息を吐いて、倉知を振り返る。
「行ってくる」
「待ってます」
 励ますようにそう言うと、俺の肩を軽く撫でて、頷いてみせた。
 もう一度深呼吸をして、病室に入る。六人部屋の大部屋で、すべてのベッドが埋まっている。母は左手の一番奥のベッドだ。
 手前のベッドで雑誌を読んでいた若い女が顔を上げて俺を見た。こんにちは、と会釈して微笑むと、裏返った声で「ど、どうも!」と答えて何度も頭を下げた。
 母のベッドのほうを見た。カーテンが引いてある。
 思わず脚が止まった。病室の真ん中で立ち尽くす俺を、入院患者が揃って動きを止めて、注視していた。
 こんなところに立ち止まっていたら、不審者扱いされる。早足で母のベッドに回り込む。
 カーテンは窓側が開いていて、ベッドの上の人物と、目が合った。
 その人を見て、母本人か、確信が持てない。なんせほぼ十年ぶりだ。
 長い髪を一つに束ねた、普通の女だ。化粧気のない顔は、血色が良く見える。病気で入院したわけじゃない、とすぐにわかった。
 大口を開けて、シュークリームを頬張っていたからだ。
「ふぇっ、む、むぇっ」
「むえ?」
 母とおぼしき女が、口から生クリームをはみ出させながら謎の声を発した。手に持っていたシュークリームをサイドテーブルの上に置いて、しばらく口をもごもごさせてから、湯飲みのお茶を急いで飲み干した。
「さ、さだ、みつ?」
「うん」
 涙目になって、もう一度俺の名前を呼ぶ。
「定光」
 母の目から涙が、溢れ出る。大粒の涙が、面白いほどボロボロとこぼれ落ちるのを、突っ立ったまま、黙って見ていた。
 やがて母は天井を見上げて、声を上げて泣き始めた。いい大人が、こんなふうに泣くなんて。口の周りに生クリームをつけた、汚い顔で、子どものように号泣する母。
 十年ぶりの再会。俺も、泣くべきなのだろうか。でも、込み上げるのは涙ではなく。
 堪えきれずに、吹き出した。
 笑い出す俺を見て、母が泣くのをやめた。
「あーもう、すげえ気ぃ抜けた。あ、これお見舞い」
 手土産のフルーツをサイドテーブルの上に置いてから、ティッシュの箱から二三枚取って、母に手渡した。
「クリームついてる」
 自分の口を指差してみせると、母が我に返ったように、顔を染めて慌てて口を拭った。
 カーテンの向こうに顔を出して、騒いだことを同室者に詫びてから、ベッドの脇の椅子に腰掛けた。
「どうして、なんで、どうやってここが」
 母は混乱している。苦笑して、「政宗だよ」と言った。
「あいつが電話で知らせてきた。会えるうちに会っとけって、まるで死ぬみたいに言うから」
 母は俺から目を逸らした。そわそわと落ち着きがなく、布団のしわを伸ばしている。
「で、なんで入院したの?」
「えっ、あっ、あの、脚、骨折したの」
 鼻をすすりながら、ギプスがはめられた脚を指差した。
「職場の階段から、落っこちて」
 そこまで言うと、顔を歪めて、また泣き始める準備をする。
「もう泣かなくていいから。周りにも迷惑だし」
「……ごめんなさい」
 顔を覆って肩を震わせ、静かに嗚咽する母を黙って見守った。
 普通の人だ、と思った。ごく普通の、どこにでもいる、中年の女性。俺の中では、毒々しく禍々しいイメージだった母からは、特別な何かは感じない。善良で、地味で、大人しい女。自宅に男を連れ込んで、不倫した過去があるようには見えない。
 俺は何に怯えていたのだろう。
 母を、薄汚いふしだらな娼婦だと、蔑んできた。憎んで、疎んで、敬遠してきた十年が、馬鹿らしく思えてきた。
 俺はこの人を、母を、愛していた。愛して、信頼していたからこそ、裏切られたときの反動が大きかった。どうでもいい人間なら、とっくの昔に許していた。
 裏切られても、母への愛は、消しようがない。
 ごめんなさい、と泣きながら謝り続ける母の声。痛々しかった。
 声をかけたいのに、呼び方がわからない。俺は母を、どんなふうに呼んでいただろう。そんなことも忘れてしまうほど、かたくなに、この人を拒み続けてきた。
「母さん」
 試しに呼んでみた。母の体がビクッと震えて、指の隙間から俺を見た。
「お母さん? 母ちゃん? おふくろ? 俺、なんて呼んでた?」
 どれもピンとこない。うっ、と声を上げて、再び泣き始める母。
「ママ」
 俺の一言に、母が吹いた。
「母さんって、呼んでたよ」
 笑いを含んだ涙声で教えてくれた。
「母さん、ごめん」
 自然と謝罪が口をついて出た。
「今まで避けてきて、ごめん」
 母が手をどけて、顔を上げ、放心したような表情で俺を見る。涙と鼻水で濡れている。
「俺を産んでくれて、ありがとう」
 母が布団に突っ伏して、声を殺して泣き出した。一心不乱に泣き続ける母の体は細くて小さくて、頼りなさそうに見えた。こんな小さな体で、子ども二人を育ててきた。苦労してきたのだと思う。結んだ髪に白髪を見つけて、流れた月日の大きさを痛感した。
 泣き止まない母の背中を撫でた。骨が、手に当たる。痩せた体が、無性に切なくなった。
「母さんがしたことは、最低だし、擁護してくれる人は誰もいないと思う。いたとしても同類くらいだろうな」
 俺の科白に、母が息を詰めたのがわかった。
「でも、もういいよ。泣くのも謝るのも、今日でおしまい。俺も、憎むのをやめた」
 静かに続ける俺を、母が少し顔を上げて確認する。
「嫌いで居続けるのって、すげえ疲れるんだよ。人を嫌うのにもエネルギーがいるから、やめる。俺ももうおっさんだし」
 母の体から力が抜けた。懺悔の時間はもう終わりだ。母の頭に手を置いて、顔を覗き込んで笑う。
「男は浮気する生き物ってよく言うだろ。でも自分は絶対ないって言い切れる。正しい倫理観が持てたのは母さんのおかげだと思う」
 浮気することで多くの人を傷つけることを学んだ。離婚してくれたおかげで、料理も覚えたし、掃除も洗濯も完璧にできるようになった。いいことだって、あったのだ。
 父との間にしっかりとした絆があるのも、二人だったからこそ。
 もし、両親の離婚がなかったら。
 今の生活も、仕事も、人間関係も、違っていたかもしれない。
 それは困る。
 現状に満足していて、大事な人とも出会えた。
 だから、むしろ感謝している。
 自分でも驚くほど前向きな捉え方だ。ゆっくりと伝えると、母が体を起こした。ティッシュで顔を拭い、鼻をかむ。涙は止まっていた。鼻の頭とまぶたが真っ赤で、ひどい顔だったが、表情は清々しく見えた。
「いい男になったね」
「はは、そうかな」
「会いに来てくれて、ありがとう」
「うん」
「もう二度と会えないと思ってた」
 目を細めて儚げに笑う母の肩に手を置きながら、腰を上げる。
「会わないつもりだったよ、一生」
 俺を見上げる母の唇が、震えた。
「電話にも出てやるかって、ずっと思ってた。でも去年、考えが変わった」
「……どうして?」
「さあ、なんでかな」
 肩をすくめてズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
「人待たせてるから、もう行くわ」
「その人?」
 母が穏やかな声で訊いた。
「考えが変わったのは、その人のおかげ?」
 母の目をじっと見て、笑みを作る。質問には答えずに、「じゃあね」と言い置いて背を向ける。
「定光」
 切羽詰まった声で、慌てて俺を呼び止める母を、振り返った。
「また、また会おうね」
「うん、またね。お大事に」
 骨張った肩を叩いて、カーテンを開けて病室に出ると、同室者が一斉にこっちを見た。よくわからないがみんな複雑な表情だ。涙ぐんでいる人もいた。もしかしたら聞かれていたのかもしれない。
「うるさくしてすいませんでした。失礼します」
 頭を下げて、逃げるように病室を飛び出した。廊下の壁に寄りかかり、立って待っていた倉知が俺に気づいて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「うん。帰ろう」
 歩きながら、隣を歩く倉知を見上げた。俺の視線に気づき、無言で静かに微笑んだ。
 こいつと出会わなかったら。
 俺は一生母に会わなかった。
 母に触れた手を、見下ろした。毛嫌いしていたあの人に、自分から触る日が来るとは思わなかった。
 こんなに簡単なことを、避けてきた。意地を張る必要はなかったのだ。
「倉知君」
「はい」
「ほんとに、ありがとう」
 母の感触が残った手を、きつく握りしめた。

〈おわり〉
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