電車の男 番外編

月世

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男にモテるはずがない

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1.

「好きです!」
 人が行き交う道端で突然そう叫んだ人物は、俺の手を取って、強引に握りしめてきた。
「本気で惚れました!」
 頬を赤らめ、絶叫する男子高校生。
 俺は男にはモテない。
 男にモテるはずがない。
 付き合っているのが男でも、職場の同期に好きだと言われても、その自信は揺らがなかった。
 でも今その自信は、揺らいで、倒れて、崩壊した。
 ことの発端は今年の初め。
 電車を下りて、会社に向かう途中でコンビニに寄った。毎日ではないが、コーヒーが飲みたくなるのだ。
 店に入るとレジで客と店員の男が、揉めていた。
「一生のお願い!」
「困ります、勘弁してください」
 店員があからさまに迷惑そうな顔で応対しているのは、茶髪でチャラついたブレザーの男子高校生だった。一体何事だ、とやり取りを見守っていると、店員がこっちに気づいた。
「あ、いらっしゃいませ。ホットのレギュラーでいいですか」
 俺が朝いつも注文するものを心得ている店員が、目の前の高校生を無視して訊いた。
「うん、いいけど、大丈夫?」
 無視して大丈夫か、という意味だったが、店員はもう高校生を視界に入れていない。
「お願い、ツケにして! 財布取りに帰ってる時間ないんだよ」
「ツケなんてあるわけないでしょ、コンビニだよここ」
 一応客なのに、もはや敬語すら使っていない。店員が「百円です」と俺にカップを手渡した。
「朝も昼も抜きにしろっていうの? 俺運動部だよ? 死ぬよ? いいの?」
「一日くらい抜いても死なないんじゃない。これは返しておきますんで」
 店員が机の上の商品を端に避けて、表情一つ変えずに言った。おにぎりが三個と、菓子パンが二個、ペットボトルのジュースが一本。
 事態が飲み込めた。この高校生は財布を忘れて会計ができず、でも諦められずに粘っている、ということらしい。
 後ろに並んでいる客が、チッと舌打ちをした。朝は誰でも急いでいる。当然の反応だ。
 別の店員が隣のレジを開けて「こちらどうぞ」と促すと、もう一度聞こえよがしに舌打ちをして移動する。
「明日、お金持ってくるからさあ。お願い、ほんとお願い。なんでもします」
 周りが見えない性格なのか、舌打ちにもお構いなしだ。店員は「駄目です」と融通が利かない。というか当たり前だ。ツケが利くコンビニなんて聞いたことがない。
「これ、俺が払うわ。いくら?」
 端に避けられたおにぎりたちを指差して、言った。
「えっ」
 高校生が、初めて俺を見る。
「えー……」
 店員が顔をしかめて高校生と俺を見比べる。
「やめといたほうがいいですよ、そういうの」
「別に、大した金額じゃないし」
 寄付したと思えばなんともない。たとえ返ってこなくても構わない。
「か、神……、神が降臨したああああ!」
 拝むようなポーズで高校生が絶叫する。
「お兄さん、ありがとう。命の恩人です!」
「大げさだな」
「ほんと感動した! 俺はこの日を忘れない! ていうかお兄さんめっさイケメン!」
「ちょ、声でかすぎ」
 あまりの大声に、周囲の客がドン引きしているのにも気づいていない。
 店員が淡々と金額を告げ、商品が入ったレジ袋を俺に手渡した。支払いを済ませ、高校生に袋を渡すと、腰を直角に曲げて頭を下げてきた。
「ありがとうございます、明日お金返しますんで!」
「いや、別にいいよ。俺そんな毎日コンビニ来ないし」
 コーヒーをカップに注ぎ、店を出ると高校生に腕を掴まれた。
「駄目っす、絶対返します! あ、会社この近くですか? なんならお届けします!」
「わー……、うん、わかった。じゃあ明日、同じ時間にここでね」
「はい! ほんと、ありがとうございました!」
 自転車のかごにレジ袋を突っ込み、何度も頭を下げてくる。なんだかせかせかと落ち着きのない奴だ。
「あっ、そうだ、ちょっと待って」
 担いでいたバッグからノートとペンケースを慌てて取り出すと、何かを書いて、豪快に破り、切れ端を俺に寄越した。
「これ、俺の名前と住所と携帯の番号っす。絶対返しますんで、明日来なかったら警察に突き出してください」
「いや、そこまでしないよ。めんどくさい」
 たかが数百円のために、見合わない労力だ。
「大月……よう君?」
 ノートの切れ端に、汚い字で大月要と書いてある。
「かなめっす」
「かなめか、かっこいいね」
 名前を呼ぶと、なぜか恥ずかしそうに「へへっ」と笑って数歩後ずさり、自転車にぶつかって危うく倒しそうになる。
「なんか危なっかしいな。車とか気をつけてね。じゃあね、いってらっしゃい」
 手を振ると、一瞬ぽかんとしてから、すごく嬉しそうに笑って「いってきます、いってらっしゃい!」と自転車で走り出した。
 そして次の日、約束通り金を返して貰ったのだが、それからコンビニに寄るたびに出会うことになる。
 名前を訊かれ、少し躊躇しながら教えると、加賀さん加賀さんとまるでどこかの誰かさんのように連呼し、飛んでくる。まさに飛んでくる、という表現がぴったりで、俺を見つけるとどこからともなく現れて、大声で「おはようございます」と挨拶をしてくる。
 そういうことが何日か続いたある日、突然好きだと手を握られた。
 朝よく会うのが偶然ではないことに気づいたのは、告白された瞬間だった。俺は、鈍い。なつかれているとは思った。でも、恋愛感情だとは思わなかった。
「えっと、とりあえず手ぇ離して?」
 お願いすると、大月は素直に手をどけた。
「俺、本気で」
「うん、わかった。わかったからちょっとボリューム落そうか」
 通行人が見てくる。朝のこの時間だから、誰も特に気にせず去っていくが、目立ってしょうがない。
「好きなんです。優しいし、カッコイイし、喋るのが楽しくて、なんか、いつの間にか、すんげえ好きになってて」
 視線を地面に落として、泣き声でそう言った。
「男に好かれてもキモイっすよね」
 倉知に、ずっと見ていたと告白されたときのことを思い出していた。男に好かれて気持ち悪くないのか、と不安そうだった。気持ち悪いとは思わなかった。大月に対しても、そういう感情はない。
「キモくないよ。あのね、気持ちはありがたいけど」
「じゃあ付き合ってください!」
 再び大音量で叫ぶと、「恥ずかしい!」と赤面して道端にしゃがみこんだ。恥ずかしいのはこっちだ。
「返事、今じゃなくていいんで……、考えておいてください」
「大月君、俺の話を聞いてくれ」
 大月の目の前に同じようにしゃがみこんで、肩を揺する。顔を上げた大月が不満げに言った。
「下の名前がいいです。要君って呼んでください」
「なんでもいいけど、俺付き合ってる奴いるんだ」
 紅潮した頬が、すぐに色を失った。わかりやすく落胆してため息をついて頭を掻く。
「……そりゃそうっすよね。男前ですもん」
「だからごめんね」
 大月が無言で立ち上がる。つられて立ち上がると、俺の肩に手を置いて、にこりと微笑んだ。
「奪います」
「……え?」
「相手がどんな美女でも、奪ってみせます。俺に、惚れさせます!」
「いや、大月君」
「か、な、めです、加賀さん」
「要君、俺は」
「俺、諦め悪いんで、覚悟してください」
 そう言い捨てて、自転車にまたがると、逃げるように去っていった。
 どうしよう、と思案した。
 ただ金を貸して、朝に時々顔を合わせ、一言二言会話する程度の男子高校生。
 倉知に報告するまでもない、と思って大月の話をしたことはなかった。
 でもこうなると、報告の義務がある。かもしれない。
 多分、怒られる。
「ね、だから言ったでしょ」
 後ろから、呆れた声が言った。振り返るとコンビニの店員だった。ゴミ袋を二つ抱えて立っている。いつからそこにいたのだろう。
「やめといたほうがいいって言ったのに。ああいうタイプって関わると面倒なんですよね」
「そうみたいだね」
 認めてうなずくと、店員が肩をすくめた。
「あいつ、お客さんが来ない日でも毎日同じ時間に来るんですよね」
「若干アレだな」
「立派なアレです。優しくするから調子乗るんですよ」
「参ったな」
 本音が出た。
「あーあ、キモイの一言で終わってたのに」
 それだけ言って、店員は店の裏に姿を消した。
 確かに、それで終わっていたかもしれない。でも他人を傷つけるとわかっていて、そんな言葉は使えない。
 さてどうしたものか、と頭を悩ませたが、とりあえず出社することにした。

2.
「主任、なんかお疲れですね」
 パソコンをぼんやり眺めていると、両肩に手がのった。高橋が肩を揉みながら、顔を覗き込んでくる。
「もうお昼ですよ。今日どうします?」
「んー」
「寒いから、うどんとか?」
「あー」
「外出るの億劫なら食堂で済ませちゃいます?」
「おー」
「主任が変だあ」
 がくがくと体を揺すられて、我に返る。
「高橋」
「はい?」
「俺は……、モテるかもしれない」
「はあ、かもじゃないです、モテますよ」
 きっぱりと言い切って「ねえ、前畑さん」と、デスクで弁当を広げている前畑に同意を求めた。
「加賀君がモテるのなんて、太陽が東から昇って西に沈むのと同じくらい当然の話」
「朝から考えごとしてるけど、自分のモテ具合について悩んでたってわけ? 今更すぎ」
 前畑の隣で同じく弁当を食べている後藤が箸をくわえて鼻で笑う。
「違う、女にモテる自覚くらいあるし、もうそれは諦めてる」
 パソコンをシャットダウンさせて、席を立った。
「うっわ、加賀君じゃなかったら殴りたい」
 後藤が左手の拳を握りしめて歯を食いしばっている。
「え、ねえ、てことは、男? 男にモテるってこと? なんかあった!?」
 前畑が箸を持ったまま腰を上げた。ははは、と話を聞いていた同僚の原田が俺の背後で笑い声を上げる。
「おう、俺も加賀ならいけるぞ。付き合うか?」
 椅子に座ったままこっちに近づいてきて、尻を撫でてくる。
「ちょ、やめろ」
「ちょっとそこ! 汚い手で触らない!」
 激昂する前畑を無視して、無遠慮な手が尻を撫でまわしてくる。
「あれ、なんか気色ええ感じ。男の尻ってこんなの?」
「今すぐやめねえと毛根引き抜くぞ」
 原田の前髪を掴んだが、かたくなに離そうとしない。
「主任、危ない!」
 高橋が原田に体当たりをする。椅子ごと吹き飛ばされて「いってえ」と被害者面をしている原田をそのままにして、コートを羽織ってフロアから出た。高橋が小走りでついてくる。
「なんですか、あの人!」
 憤慨する高橋の声に重なって、フロアから前畑の怒声が漏れ聞こえている。少し可哀そうだがこっぴどく叱られて、反省して、二度とやらないで欲しい。
 男に尻を触られるのがこんなにも気持ち悪いとは思わなかった。
 倉知は男に含まれないのだろうか。
「主任のお尻は七世君のものなのに!」
 高橋が唇を尖らせて足を踏み鳴らしてついてくる。
「合ってるけどでかい声で言うな」
「はぁい」
「高橋」
「はぁい」
「助かった。サンキュ」
「……えへっ、はい。で、何かありました?」
 高橋が俺の隣に並んで訊いた。
「男にモテるかもって、告白でもされました?」
「うん、まあ、そんな感じ。付き合ってくれって」
「ちゃんと断れました?」
 高橋に心配されるようじゃおしまいだ。
「付き合ってる奴いるって断ったよ。でも、奪うとか、諦めないとか、なんつーか……」
 異常にテンションが高く、ガキ臭くてしつこくて、やたらめったら明るくて、わがままでやかましく、他人のことにはお構いなしで、我が道を突っ走る。そして多分すごく、根っから前向きなのだと思う。
 つまり、倉知とは真逆の人間。
 少し話しただけでどっと疲れたのはそのせいだと思う。
「あんまり得意なタイプではない」
「なんかめんどくさそうな人に好かれましたねえ」
「高校生なんだよね」
 高橋が足を止めた。
「またですか」
 すぐに追いついてきて、「主任」と深刻な声で呼んだ。
「男子高校生と三角関係とか二股とか、ドロドロしたの、やですよ」
「ない、それは絶対ない」
「七世君を悲しませないでくださいね」
 そんなことは言われなくてもわかっている。
 でも、倉知は俺が誰かに告白された時点で悲しむ。高校生に惚れられて、奪うと言われたなんて知れば、この世の終わりレベルにどん底に落ち込むのは目に見えている。
 モテますね、と笑って流してくれるような奴なら俺も悩みはしない。
 でも倉知はネガティブで、悪いほうの「もしも」を考えて暗くなる。まるでそうすることで快感を得ているかのようでもある。
 奪われようがないし、俺が好きなのは倉知だけだし、目移りはしない。心配するだけ損なのだが。
 とりあえず、明日、大月に会って話をしよう。きつめに断ってやれば終わりにできるだろう。
 と思っていた。
 朝。コンビニの自動ドアが開いた瞬間、雑誌コーナーにいた大月が俺を見つけて駆けてきた。
「おはようございます!」
「おはよう。五分だけ時間くれる?」
「えっ、はい! 勿論です!」
 嬉しそうに、俺の後をついてくる。コンビニの駐車場の隅に移動し、コートのポケットに手を突っ込んで「寒いね」と同意を求めた。
「あっ、あっためますか?」
 抱きつこうとする大月の腕から逃れ、厳しい表情を作って言った。
「時間ないから手短に言うけど」
「はい!」
「俺は大月君とは絶対付き合わない」
 全開だった笑顔がしぼんでいく。すぐにキッと眉を吊り上げて好戦的な目で俺を見る。
「言いましたよね。諦めないすよ」
「困る。迷惑」
 短く吐き捨てると、大月がぐっと息を飲み、怯んだ。悲しそうな顔に申し訳なくなったが、心を鬼にするしかない。
「俺が男だから?」
「それは関係ないよ」
「俺うざい? キモい? 死ねばいい?」
「え、いや、死ぬな馬鹿」
 ギクッとして慌てて言うと、大月は柔らかく微笑んだ。
「やっぱり加賀さんは優しいね」
「お前な……」
「冷たくすれば諦めると思った?」
 距離を詰めて顔を覗き込んでくる。
「バレバレっす」
 どうやら俺が思っていた以上に、手強そうだ。頭を掻いて、息をつく。
「まあ、キモいから死ねって言われても、俺は諦めないけど」
「お願いだから俺のことは忘れて」
「忘れません。加賀さん、近くで見たらますますキレイっすね」
 気づくとコンビニの窓ガラスに追い詰められていて、後がなかった。大月が俺の顔の横に手をついて、不敵に笑う。
「壁ドン。ときめいた?」
 顔を寄せて笑う大月の顔をじっと見る。
 背は俺より高いようだが、やはりまだ高校生だ。幼い、と感じた。
「大月君て何年生?」
「えっ、あっ、高二っす」
 興味を持たれたことが嬉しいのか、輝く笑顔で答えた。
「うわ、同じだ」
「え? 誰と?」
 大月の体を押しのけて腕の中から脱出し、腕時計で時間を確認する。
「あのな、さっきのは本音だから」
「さっきのって?」
「迷惑って言っただろ。ほんと困るし大迷惑なのは事実」
 大月は動じずにケロッとして言った。
「いやよいやよも好きのうちって言いますよね。押して押して押しまくればいつかは振り向いてくれるって信じてます。俺、いい男っしょ? 結構モテるんすよ」
「モテるならおっさんのケツ追っかけてないで大人しく女の子と付き合ってりゃいいだろ」
「いやすよ、だって加賀さんよりキレイな子、いませんもん」
 んなわけあるか、と心底うんざりした。男に惚れた気になって、浮かれているとしか思えない。
「大月君」
 ため息と同時に名前を呼ぶ。
「もおー、要君って呼んでくださいよ」
「呼ばない。今付き合ってる奴、すげえヤキモチ妬くんだよ。誰かに告白されたってだけで多分へこむし、大月君とこうやって喋ってるのも嫌がると思う」
「束縛するタイプっすか?」
 束縛されているとは感じないが、独占欲が強いのは確かだ。
「めっちゃ好きだからあいつになら束縛されても嫌じゃない」
 俺の科白に、大月がわかりやすくムッとした。
「だからもう、今日でおしまい。明日から、話しかけないでくれると非常にありがたいです」
「いやっす!」
 即答する大月が、顔をしかめてもう一度「絶対無理!」と声を荒げた。
「わかった。土下座する」
 地面に膝をつこうとする俺を、大月が慌てて止めた。
「やめてよ、加賀さんに土下座とか究極に似合わないっすよ!」
「どうしたら諦めてくれる? あいつを悲しませたくない」
 倉知の顔がちらついた。昨日はメールだけで、顔を合わせてない。でも会えば、隠しごとをしている俺の異変に気づくかもしれない。
 悲しませたくない。
「ほんと、好きなんすね」
 大月を見上げると、目を細めて俺を見ていた。
「うん」
「わかりました」
 やっと、わかってくれた。肩の荷が一気に下りて、体が軽くなる。
「会わせてください」
「え」
「彼女に会わせて。加賀さんがそれほど好きな人、見てみたいっす」
「いや、それは」
「納得したら、諦めます」
 諦めます。
 殊勝なその一言が魅力的すぎて、二つ返事で了承してしまった。
 秘密裏に解決しようと思っていたのに、結局倉知に話さなければならなくなった。
 速攻で戻ってきた肩の荷が、異様に重かった。

3.
 一通り事情を説明した後、倉知は想像通りの反応を見せた。
 悲しそうに眉を下げて、黙り込んでしまった。
「ごめんね? お前に言わないで終わらせたかったのに」
「……いえ、そういうのは教えて欲しいです」
 はあ、と息を吐いて顔を覆い、再び黙り込む。
 数分間、沈黙に耐えた。別に怒っているわけじゃないと思う。頭の中で良くないことをもやもやと、考えているのだろう。
 倉知が指の隙間から俺を見る。
 会社から帰ると倉知がいて、笑顔で迎えてくれたのだが、服も着替えずに「話がある」と告げ、ソファに座らせると表情が曇った。
「加賀さんが」
 倉知が両手を膝に置いて、こっちを向いて口を開いた。
「困ってる人をほっとけなくて、優しくするのを俺は止められません。止める権利もないし、そういうとこも大好きですから」
 俺があのとき大月を助けたからややこしいことになった。見て見ぬふりをして、店を出ていたら、何も起きなかった。
「わかってると思うけど、落ち込む必要まったくないんだぞ?」
「俺を捨ててその人と付き合うかもとか、思ってません。奪われる心配もしてません。浮気するわけないし、愛されてるのはよくわかります」
「じゃあ今何考えてる?」
 倉知は俺から目を逸らさずに手を握ってきた。
「俺と付き合う前に、その人に付き合ってって言われてたら、加賀さん多分付き合ってますよね。だって、同じ高校生で男だし」
 そう言われて違和感があった。首を傾げると倉知は少し笑った。
「タイミングの問題で順番が逆だったら、恋人がいる加賀さんに告白してたんだなって。そしたらふられて、今のこの瞬間もなかったのかなって想像したら切なくなって」
「ちょっと待て。俺は男子高校生って属性が気に入ったからお前と付き合ったわけじゃないぞ。どんな変態だよ」
 単純に、男子高校生に告白されたのが珍しくて面白そうだから付き合った、というのではない。多少の好奇心はあったが、あのまま会えなくなるのもつまらなく感じた。一緒にいたら楽しそうだと思ったし、とにかく、俺は多分もうすでに倉知が可愛かった。
「大月君と付き合いたいなんてまったく思わない」
「それは、現実に今俺と付き合ってるからですよ。フリーだったら」
「付き合わない」
「なんでそんな自信」
「あるんだよ。だって大月君て倉知君と正反対だし。好きになれない」
 きっぱりと言い切ると、倉知がたじろいだ。一瞬泣きそうになり、うつむいて唇を噛む。
「大体、お前、俺に付き合ってくれなんて一言も言ってないだろ。そこからしてあいつとは全然違うんだよ」
「え」
 顔を上げて、涙目で俺を見る。
「えって。思い返してみろよ。お前、俺をずっと見てたって言っただけで、付き合うかって言ったのは、俺だ」
「そう……だっけ、そうかな、そうだったかもしれません……けど」
「なんで付き合うかって訊いたかわかる? その場で終わりにできたのに」
 倉知が震える唇で「わかりません」と答えた。こんがらがっていて、脳みそが回転していないようだ。
「あれで終わりにしたくなかった。お前ともっと話したかった。もう会えなくなるのが嫌だったんだと思う」
 ぼろぼろと、涙を零す倉知の頭を笑って撫でた。
「これはなんの涙?」
「嬉しくて、勝手に涙が……、すいません」
「素直に感情を表に出すところも、俺は好きだよ」
 そもそも嫌いなところが見当たらないくらい、全部が愛しい。ネガティブなところも可愛いと思えるのだから、病的なレベルだ。
「俺、基本的に他人に執着しないんだよ。でもお前には馬鹿みたいに執着してる」
 倉知が泣きながら抱きついてきた。よしよし、と背中をさする。泣き声が止んで、落ち着いた頃合いを見計らって切り出した。
「大月君と、会えそう? 代役立てようか?」
 付き合っているのが男だとは言っていない。知れば変に盛り上がる危険がある。倉知は嫌がるだろうが、誰か女に、前畑辺りに彼女を演じて貰うことも考えてはいた。
「……大丈夫です」
「喧嘩すんなよ?」
「しません、多分」
 誰かに対して攻撃的になる倉知は想像できない。少し見てみたい気もする。
「加賀さん」
「うん」
「今度、告白されたらすぐ俺に言ってください」
「え。えー……? 男の場合?」
「えーじゃないです。男でも、女でも、どっちでもです」
「そういうのは知らないほうがよくないでしょうか」
 報告するたびに落ち込まれるとトラウマになりそうだ。
 抱きついていた倉知が俺から離れて、鼻をすすって涙をぬぐう。
「俺の知らないところで告白されて、奪うとか宣言されて、黙ってられません。受けて立ちます」
「お、おう。わかった」
 急に男らしさを全面に出してくるから油断できない。ソファから立ち上がり、コートを脱ぎながら寝室に逃げた。
「他にないですか」
 倉知の声が追いかけてくる。クローゼットを開けて、ハンガーにコートを掛ける。ちら、とリビングのほうを見ると、倉知がソファの背もたれ越しにこっちを見ていた。
「他というのは……」
「付き合ってくださいとか、好きですとか、言われてないですか?」
 すぐに思い当たるのは九條のこと。好きだと、抱かせてくれと言われた。でもあれは、誰にも言うつもりはない。あいつだって誰かに話されたくないはずだ。
 それにもう、九條が俺にその手の感情をぶつけてくることは今後ない。ないはずだ。家族を大事にする、とはっきり言った。俺はそれを信じる。
 だから誰にも言わない。九條という人間を尊重したい。
「あー、それは、今後言われたら逐一報告しますので」
 恐る恐る言うと、倉知が「はあ」と大げさなため息を吐き出した。
「すいません、俺、今すごい嫌な奴だった」
「いや、やっぱ気になるよね。ごめんね」
 俺が他人に甘すぎるからいけないのかもしれない。ある程度の冷たさは必要だ。むやみやたらに親切にしない。今年の抱負にしよう。
 スーツを脱いで、着替えてリビングに戻ると、倉知がソファの上で膝を抱えて丸くなっていた。
「俺の中から独占欲を消し去りたい」
 しょんぼりする倉知が可愛くて、思わず抱きしめた。
「いいよ、独占しても。ていうかもうすでにしてるけど」
 身も心も、独占されている。俺はそれが嫌じゃない。好きな奴に独占されるのが苦痛な人間がいるだろうか。
 倉知に触れられるのが好きだ。
 触れられたところが痺れたようになって、熱を帯びる。
 俺の髪を、肌を、大事そうに、丁寧に撫でる指。
 他人に邪魔されないこの時間が、何物にも代え難い宝物だ。

4.
 大月の携帯番号を書いたメモは、貰った当日にシュレッダーにかけていた。
 貸した金が戻ってこなくても、警察に行くつもりはなかったからだ。
 名前と住所と電話番号が書いた紙は個人情報の塊だ。持っているのも気持ち悪いし、他意はないのだが、大月本人にそれを伝えると、憤慨した。
「捨ててもいいけどさあ、せめて登録しといてよ! へこむわ!」
「だって連絡することないと思ったし」
 正直に言うと、「ひでえ」と傷ついた顔をする。警察に突き出すときのために渡したんじゃなかったのか、と腑に落ちない。
「加賀さんからの電話、ずっと待ってたのに。用がなくても電話してよね」
「え、なんで?」
「俺の声、聞きたいなあとか思うっしょ!」
「なんで?」
「なんでって……」
「それで、今日の七時でいい? 夜出歩いて家の人に怒られない?」
「親、俺に興味ないんでそれはまったく。ねえ、今度こそ登録してくださいよ。番号言いますよ?」
 そう言ってスマホを操作する。番号を言おうとするのを遮って、「いらないよ」と止めた。
「待ち合わせ場所と時間、覚えただろ? 電話することないし、いらない」
「また冷たくする作戦すか」
「優しくする理由がない。じゃあね、もう行くわ」
「加賀さん」
 振り返ると、無邪気な笑顔の大月が「いってらっしゃい」と手を振った。その姿が痛々しく感じて、目を背けた。
 自分がひどい人間に思える。倉知と同じ年齢の、まだ子ども相手に冷たく接するのは心苦しい。
 でも、今日で終わる。もう、俺に関わらないでくれ、と願った。
 今度から、大月がいようがいまいが、あの時間にコンビニに寄るのはやめよう。
 コーヒーなら会社の自販機で充分だ。
 そう言い聞かせ、美味くもない缶コーヒーのボタンを押す。
「加賀」
 背後から呼ばれて振り向くと、九條が立っていた。
「九條」
「珍しいな」
 俺が缶コーヒーを飲まないことを知っている。不思議そうに手の中の缶コーヒーを見ていた。
「おはよう」
 動揺を悟られまいと、平静を装って言った。九條は表情を変えずに「おはよう」と返した。
 慰安旅行のあと、何度か顔を合わせたが、九條は普通だ。普通に、会話もする。なんの変化もない。あのときのことは俺の妄想だったのか、それともからかわれていたのか、というくらい、いつも通りだ。
 煙草のパッケージから一本取り出して、咥えながら喫煙ルームに入っていった。もう俺を見ていない。
 大月もこれくらい吹っ切れてくれたらいいのに。
 コーヒーを手の中で転がしながら、歩き出す。
 そういえば、年末に話したときに禁煙していると言っていたのに、相変わらず煙草を吸っている。そう簡単にやめられないのか、と何気なく振り返り、ぎくりとした。
 九條がこっちを見ていた。すぐに目を逸らされたが、一瞬だけ見えた表情が脳裏に焼きついてしまった。
 なんて目で見てんだよ。
 首の裏が粟立ち、缶コーヒーを握る手が、震えた。
 ずっとあんなふうに見られていて、気づかなかった俺は馬鹿だ。鈍感というより愚鈍だ。
 にわかに焦りが芽生える。急に、怖くなった。
 あの熱のこもった視線を、長年無視し続けていた。俺はひどい奴だ。気づかないだけで、九條だけじゃないかもしれない。
「加賀君、大丈夫?」
 自分のデスクでもやもやと考えごとをしていると、前畑が俺の椅子の脇に屈み込んで、顔を覗き込んできた。
「うん、ちょっと考えごとしてただけ」
「おはようって言っても返事ないんだもん」
「ごめん、おはよう」
 謝って、前畑の顔をじっと見下ろした。
 前畑は高橋と付き合ってからも、日課のように好き好き言ってくる。正直、冗談だと思っている。でも、全部本気だったら。
 勝手に気持ちの重さを決めつけて、適当にあしらっていたのが申し訳なくなってきた。
「前畑は、結構本気で俺のこと好きなの?」
「……えっ」
「あ、違う。過去形か。本気で好きだった?」
「ほ、本気だよ! ていうか、何、急に、びっくりした!」
 急いで立ち上がり、隣のデスクから椅子を引っ張ってきて腰掛けた。
「加賀君、なんか最近悩みごと抱えてない? 私が聞いてあげる」
 今フロアには俺と前畑と後藤だけ。後藤はデスクの上を拭いて回っていて、こっちには気を止めていない。
 あと十分もすれば他の社員が出社してくる。それまで話し相手になって貰うのも悪くない。後藤ではなく、前畑相手に相談に乗って貰おうなんて、俺は相当弱っているのかもしれない。
「高橋から聞いてない?」
「え、何? 聞いてない、何?」
「この前男子高校生から告白された」
 前畑の目がこぼれ落ちそうな勢いで見開いた。
「な、な、なんでまた!」
「うーん、まあ、ちょっといろいろあって親切にしたのがいけなかったみたいで」
 簡単に事情を説明すると、いつの間にか後ろにいた後藤が「ホントにこの色男は」と毒づいた。
「男前な言動は慎みなさい」
「ごめんなさい」
「加賀君は悪くない!」
 前畑がデスクを叩いて吠えた。
「惚れられるかもって思いながら行動してるわけじゃないんだし、他人に親切にするなっていうのもおかしくない? 加賀君が優しいのって天然だもん」
「天然たらしだよね」
 後藤の言葉がぐさりと背中に突き刺さる。缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。美味しければ少しは救われたのに、なんの助けにもならない。
「なんか本当に自信なくなった」
「何、なんの自信?」
 後藤が隣のデスクにもたれかかって呆れた声で言った。
「男にはモテないって自信」
 二人が両脇から「あー」と残念そうなため息を漏らす。
「加賀君、男にもモテるよね」
「モテるモテる」
 椅子の背もたれを軋ませながらニヤニヤする前畑に、あっさり同意する後藤。
「あー、倉知君のこと?」
「ちっがーう。社内の話」
「いやいや、やめて。めぐみさん、違うって言って」
 助けを求めると、後藤が頼もしくうなずいて「正確には違う」と明言した。
「憧れ的な? 仕事できて人当たりいいでしょ。あくまで尊敬だよ。この人に頼めば安心みたいな。だからみんな寄ってくるんだよ。恋愛じゃなくて、純粋な好意の話。前畑の腐った目で見ると不純に見えるだろうけど」
「甘いわね。製造部の若い子とか、絶対加賀君のこと好きだよ? 加賀君と話してると目がこう、キラキラしてるっていうかギラギラしてるっていうかヌルヌルしてるっていうか」
「はいはい、腐女子フィルター」
「内線で済むじゃん、って話でもわざわざフロア来たりする男子とか、見てて滾るぅ」
「お前は俺をそういう目で見てたのか」
「私はいつでも透き通った乙女の瞳でまっさらな現実を見てるわよ」
「もう何がなんだかわかんねえ」
 デスクに突っ伏して頭を抱えると、後藤の声が上から降ってきた。
「人に好かれること自体、いいことなんだから悩むことないよ」
 正論だ。正論なのだが今の俺には響かない。
「なんか俺、知らずに人の真剣な気持ちを踏みにじってきたのかな、と思って」
「あ、それでさっき私にあんなこと言ったの?」
「あー、うん」
 ちら、と前畑のほうを見ると、少し困ったような顔で俺を見ていた。
「本気かどうか今になって確認するのもどうなの」
「ごめん」
「私が告白したとき、加賀君はちゃんと誠意を持って断ってくれたじゃない。それで充分だよ」
 慰めるようにポンポンと背中を叩かれた。顔を上げると前畑はニコッと笑って、上目遣いで見てきた。
「今からでも遅くないよ? 付き合う?」
「付き合わない」
 即答すると「ですよね」と悟ったような顔で舌打ちをする。
「加賀君が鈍感なのって、そうしなきゃ生きていけないからだと思う」
 後藤が真面目な顔で大げさなことを言い出した。
「一個一個の気持ちに真摯に応えてあげてたら、体が何個あっても足りないよ。だから、鈍感なのは自己防衛本能」
「それは……、斬新な発想だな」
「目からウロコ!」
 前畑が手を打った。確かに、そういう考え方もあるか、と妙に安心した。さすが後藤だ。心を解すのが上手い。
「ちょっと楽になった。ありがとう」
 二人に礼を言うと、前畑は得意げにニマニマして、後藤は何か言いたげにじっと俺を見た。視線を床に向けてから、持っていた雑巾を折りたたみながら後藤が言った。
「で、その高校生はどうなったの?」
「それ! どうなったの?」
 前畑が食いついてくる。
「付き合ってる奴がいるって言っても諦めなくて、奪います宣言された。で、彼女に会わせろって言うから今日倉知君に会わせる」
「なっ、何その美味しい展開! 立ち会いたい! ていうかどんな子? 可愛い? カッコいい?」
 訊かれて大月の顔を思い出そうとする。どんな顔だったかいまいちイメージが沸かない。男を見て、こいつ可愛いなとかカッコいいなとか、そういう目で見ていないから答えようがない。
「チャラい感じ。茶髪で、制服もすげえ着崩してるし、あー、一言で言うと」
「うんうん」
「倉知君と真逆」
 この説明ですべて事足りる。二人が「はいはい」と理解した。
「七世君に言ったんだ」
 後藤が母の顔になって心配そうに呟く。
「変なふうに落ち込んで大変だったけど」
「可哀想! 彼氏がモテると苦労するよね」
「加賀君は絶対浮気しないのにね」
「浮気の心配はしてないみたいだけど、大概ネガティブだから」
「自分の知らないところでアプローチされてるのがやなんじゃないの?」
 後藤が言ったところで部長が「おはよう」と手を振りながらフロアに入ってきた。その後ろに原田が続く。
「おはようございまーす」
 前畑が苦々しい顔で腰を上げて、自分の席に戻っていった。後藤もデスクを拭く作業を再開させる。
「悩んでるのはその子のことだけじゃないでしょ」
 こっちを見ずに、後藤が小声で言った。
「え」
「言わないのは何か理由があるんだろうけど。いつでも話聞くから」
 そう言いおいて去っていった。さすがに後藤は鋭い。お互いに悩みを聞き合ってきた仲だから、わかるのかもしれない。
 でも、九條のことは、後藤にも言えない。職場の人間だからこそ、言えない。
 温くなったコーヒーを口に含み、頭の中を整理した。
 九條のことはもう考えない。一旦、忘れる。今解決しなければならないのは、大月のこと。
 なるべく傷つけずに、諦めさせてやりたい。

5.
 待ち合わせ場所に指定したのは、駅前の居酒屋だ。個室があるし、誰にも話を聞かれないで済む。
 仕事が終わって店に向かうと、入り口の前で地面に直で座っている大月を発見した。こういうことができるのは今時の高校生だな、と思った。倉知は育ちがいいからまずやらない。
「早いね」
「あっ、お疲れさまっす」
 立ち上がって頭を下げ、咳払いをした。
「どうすか、この服」
「何?」
「何って、着替えてきたんすよ! なんか感想ない?」
 制服じゃなくて私服だということに今気づいた。チェスターコートの下にニットのセーター、スキニージーンズ。意外にも落ち着いたコーディネートだ。もっとやんちゃで馬鹿丸出しの格好のほうがそれっぽい。
「大人っぽくて見直した?」
「うん」
 適当に返事をして、携帯を見る。七時五分前だが、倉知の姿はない。
「寒いし先入ってようか」
「加賀さん」
「ん?」
「俺、二人きりがよかったな」
 大月が俺のコートの端を掴んで言った。鼻の頭が赤い。随分前から待っていたのかもしれない。
「ごめんね」
 振り回しているような気がして、つい謝ってしまった。
「それ、何に対して? 二人きりじゃなくてごめんね? じゃあ今度二人きりで」
「今度がないように今、会ってるんだけど」
「加賀さん、俺」
 大月が震える声で何か言いかけて、ふいに俺の背後に視線をやった。振り返るとジャージ姿の倉知が立っていた。
「倉知君」
「すいません、遅れました?」
「いや、ジャスト。中入るぞ」
 倉知の目が、何かをじっと見ていた。大月の手が、コートを掴んだままだ。
 さりげなく振りほどいて、店の中に入ろうとする俺の背中に大月の大声がぶつかった。
「どういうこと!?」
 大騒ぎするだろうと覚悟はしていたが、駐車場で喚かれると困る。他の客がじろじろと見て、俺たちを避けるようにして店に入っていった。
「え、え? そいつ? 違うよね? だって、え? 絶世の美女は?」
「何それ」
「男じゃん! しかもでかい! ていうか若くない!? ねえ、あなたもしかして高校生なの!?」
 取り乱す大月とは対照的に、倉知は冷静だった。頭を下げて、「倉知七世です。高校二年です」と微笑みながら言った。
「タメなんですけど!」
「大月君は、個室に入るまで黙ってられるかな? 無理なら今日は帰る」
 大月が口を開けたまま言葉を失った。静かになったところで店の中に入り、予約の名前を告げると座敷に案内された。
「ここ居酒屋だけど料理美味いからなんか適当に好きなもの頼んでいいよ」
 コートを掛けて、倉知と並んで座ると、大月が顔を覆って「うわあああ」と雄たけびを上げた。本当にうるさい奴だ。
「聞いてない! 男だなんて、聞いてない!」
「言ってないから」
 倉知にメニューを渡して頬杖をつく。
「座ったら?」
「加賀さん」
 大月が滑り込むようにして対面に座り、身を乗り出して言った。
「男だったら諦めると思って、その辺で捕まえた高校生に恋人のフリさせようって魂胆?」
「男だったらなおさらごねると思ってたけど。諦めてくれるの?」
「ごねますけど」
「付き合ってるよ、こいつと」
 目配せすると、倉知が俺の肩を抱き寄せてキスしてきた。すぐに唇を離したと思ったら、角度を変えてもう一度キスをする。本当にこいつは、人前でキスするのが好きだ。
 やがて俺を解放し、何ごともなかったような顔で「信じましたか?」と言った。
 放心状態の大月の口から「はい」とか細い声がかろうじて聞き取れた。
 これは倉知なりの牽制のつもりだろうか。表情も物腰も穏やかなのに、全身から「俺のものだ」という殺気が漲っている。
 倉知がため息をついた。メニューを伏せると姿勢を正し、大月を真正面から見据えて言った。
「加賀さんは、俺のです」
「お、あ、そ、そう、みたいだね」
 気圧された大月が、仰け反って身をすくめる。
「俺はあなたと食事をしたいなんて思いません。今日は金曜だし、先週から鍋にするって約束してたし、帰って二人で鍋します」
「鍋? いいね、俺も混ぜて?」
 大月が精いっぱいの作り笑顔で抗戦すると、倉知が「いやです」と真顔で断った。
「俺から加賀さんを奪うのは、絶対無理です。卒業したら、一緒に住むんです。一生、離さない。俺の、大事な人です。だからもう、つきまとうのはやめてください」
 畳みかける倉知に、大月はなすすべがない。何も言い返せなくて、助けを求めるような目で俺を見る。
「男同士はさ」
 倉知の背中を軽く叩いてから言った。わざとのんびりとした口調で、落ち着かせるために、間を開けてから喋り出す。
「難しいんだよ」
 倉知が俺を見る。
「お互いの立場もあって、軽々しく人に言えないし、理解されにくい。家族に反対されたり、後ろ指さされたり、公表すれば失うものもある。社会人なら会社の評価も変わるだろうし、学生なら友達を失くすかもしれない」
 目を細めて俺を見る倉知の頭を、笑って撫でる。
「でもそういうリスクを全部背負っても、離れられない。何も怖くない。俺はもう、決めたんだ。何よりも大事なものを見つけた。倉知君とずっと一緒にいる」
 言葉を切ると、部屋の中が静まり返った。倉知は泣きそうな顔で笑っていて、抱きつきたいのを我慢しているのがわかった。
 大月は、俺と倉知を代わる代わる見てから、急に机に突っ伏した。
「参りました」
 降参宣言だ。はは、と笑ってから、「参ったかこのやろー」と言いながらネクタイを緩める。
「もう、ほとんど夫婦じゃん……、やってらんないすよ」
「大月君は、多分そんなに深く考えないで、男の俺を好きだって騒いでたんだよね」
「俺だって……、ちゃんと、好きですよ。そりゃあ、そこまで先のこととかは考えてなかったけど。でも」
 顔を上げた大月が、唇を噛んでから、息を吐き出して、うなだれる。
「加賀さんの姿見つけたら、嬉しくて、舞い上がって、好きで堪らないと思った」
 諦めない、と気の強そうな目で豪語していた人間だと思えない。結局は、まだまだ子どもだということだ。
「わかります」
 倉知が大月を肯定した。
「俺も同じ状況で加賀さんと知り合ってたら、絶対好きになってます」
「お、おおお、わかってくれる? だよね、普通惚れるよね? 加賀さんが悪いんだよ、この顔であんなふうにされたらだれでも惚れるって!」
「いやいや、そんな簡単に男が男に惚れないよ」
「俺たちが普通じゃないってことですね?」
 倉知が心外そうに俺を見る。大月も同じ顔をしている。
「俺、今まで女の子にしか興味なかったんですけど。それを捻じ曲げたのはどこの誰よ」
 普通じゃないのは俺だと言いたいらしい。よくわからないが認めざるを得ないのかもしれない。
「あの、なんかごめんなさい」
 二人に謝ると、倉知がおかしそうに笑って再びメニューを眺め始めた。
「とりあえず注文しましょうか」
「帰って鍋するんじゃなかったの?」
 言いたいことを言って気が済んだようだ。敵意が消え去っている。
「予約したのに食べないで帰ったら、お店の人に失礼じゃないですか」
 さすが倉知だ。大月がいなかったらいい子いい子と褒め称えて頭を撫でまわしているところだ。
「うはー、真面目なんだね」
 大月が感心しながらもう一つのメニューを手に取った。
「俺にはそういう発想ないわ」
「だろうね」
 腹減ったー、とメニューを眺める大月も、緊張を解いている。俺への執着も、もう見えない。清々しいほどだ。
「カルボナーラ食おう。あと唐揚げ。あ、チューハイ頼んでいい?」
「調子乗るな、未成年」
 大月が「えー」と不満そうに口をとがらせる。倉知は信じられない、という顔で見ている。本当に正反対な二人だと思った。
 店員を呼んで注文したあと、大月の質問タイムが始まった。どうやって知り合ったのか、いつから付き合っているのか、とにかくよく喋る。本当にこいつは俺を好きだったのか、と根本的な部分を疑うほど、俺たちの関係に興味があるようだった。
「もうヤっちゃったの?」
 下卑た笑みを浮かべて、訊かれた。訊かないわけがないよな、と苦笑する。
「って訊かなくてもわかるけどね。ああいうキスしといて、やってないわけないよなあ。めっちゃ羨ましいんですけどぉ」
 横目で倉知を見る。赤い顔でカルビ丼を掻っ込んでいる。
「いいなあ、俺も加賀さん抱きたい!」
「やめろ、寒い」
 身震いをする俺と、真顔になる倉知を見比べて「やっぱ抱かれる側だよね」と肩をすくめた。
「でもなんか、倉知君って童貞っぽいな」
 あはは、と笑ってカルボナーラを掻き混ぜながら「あ」と声を上げた。
「もしかして加賀さんで童貞卒業?」
 無言でビールジョッキを傾けて、倉知を見る。答えるつもりはないらしく、目を逸らしてひたすら食べている。
 それからも大月は喋り倒し、食べまくり、やりたい放題だった。
 こいつに対して悪いことをした、という罪悪感は、おかげでもうない。
 充分、償った。
「食った食った、ごちそーさまでした!」
 店から出ると、大月が敬礼をした。
「はいはい。満足ですか」
「満たされたー、あざっしたー」
 アルコールは飲んでいないのに、酔っているように見える。ヘラヘラ笑って、車止めの上に飛び乗った。すぐに寒そうにポケットに両手を突っ込むと、ふらつきながら言った。
「もう俺、二人の間に割り込もうとか考えてないし、奪えるとも思ってないし、完全に戦意喪失してはいるんだけど」
 けど、がつくのか、と次の言葉に警戒する。
「これからも、見かけたら声かけていい?」
 訊かれて倉知の反応を確認する。鞄を肩に担ぎ、白い息を吐いて「はあ」とため息とも返事ともつかない声を出した。
「だって俺、いつもあのコンビニ使ってるし、加賀さんもでしょ?」
「会社から一番近いからね。でももう朝は行かないようにするから」
「え、俺のせいで? そこまで警戒しなくても、俺、無害だよ? 人畜無害!」
 黙って倉知の反応を見た。面白くなさそうな顔だ。当たり前だ。
「待ち伏せしたり、ストーカーみたいなことは辞めるから。倉知様、お願い!」
 拝まれた倉知は難しい顔で黙り込んだ。もう二度と、俺の前に姿を見せて欲しくないのだと思う。
「俺は、加賀さんを信用してます」
 俺を見て倉知が言った。
「でも、そういうのに関係なく、好意持ってる人に触られるだけでも嫌なんです」
「触らない! 約束する!」
「服引っ張ったりも駄目だから」
「え、あ、はい、気をつけます!」
「もし何かしたら」
 そこで言葉を切って、じっと大月の顔を見つめる。こういうときに効果的な脅しを考えているようだが、倉知の平和で穏和な頭では答えが見つからないようだった。変な間が空いた。
「何もしないって! 殺さないで!」
 無言の圧力に怯えた大月が両手を挙げて降参する。
「ていうか俺だって、手に入らない人いつまでも追っかけるほど人生捨ててないから。すげえ可愛い彼女ゲットして見返してやる!」
「はは、うん、頑張って」
 大月が前向きな性格で助かった。
「巨乳だから! どうだ、羨ましいだろ! くそー、揉んでやる! 揉んでやるんだから!いいだろ、いいだろ!」
 おっぱいおっぱい、と叫びながら駆け出した。すぐにピタリと脚を止めて戻ってくる。
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「嬉しかった、ですか?」
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「愛してます」
 即答する倉知の頬を軽くつねって笑う。
「それに、倉知君が男らしくてちょっとときめいた。かっこよかったよ」
 年下だし、今は可愛くて子ども扱いしている部分もある。でもそのうち精神的に成熟して大人になったとき、きっと頼れる男になる。
 その成長を、そばで見ていられる。それはすごく、幸せなことかもしれない。
 倉知の体にぶつかるようにしてくっついて、手を握る。
 握り返してくる大きな手は、温かかった。

〈おわり〉
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