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兄と弟
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〈政宗編〉
兄に、振られることが多くなった。
避けられている、かもしれない。
元々、俺は歓迎されていたわけじゃない。兄は俺を嫌いではないが、好きでもないのだ。
それは知っている。
でも俺は兄が好きだから、会いたいと思うこともある。
「今日、泊まり行ってもいい?」
兄が電話口で「あー……」と口ごもる。
「なんか、最近会ってくれないよね」
この前倉知と再会したあの日以来、アパートに行っても中に入れてくれないことが続いた。来るとき連絡入れろ、と追い返される。そんなことは今までなかった。
彼女がいたときを除いては。
ということは、彼女ができたと考えるのが妥当なのだが、
「やっぱ彼女できた?」
と、訊いても、否定される。
「兄ちゃんは、俺のことが嫌いだよね」
そう言うと、兄はため息をついた。
『嫌いじゃないよ』
「そう、嫌いじゃないけど好きでもないだよね」
『政宗、俺は複雑なんだよ』
好きだとは言ってくれない。
「俺、父ちゃんに嫌われてもなんとも思わないけど、兄ちゃんに嫌われるのはつらいよ」
『親父は嫌ってるわけじゃ』
「ううん、嫌ってるよ。それが別に寂しいとか悲しいとかじゃないし、いいんだホント。どうでもいい。父ちゃんはどっかのおっさんと同じだし」
父と兄は一つの家族で、母と俺と小春が一つの家族。俺は父がいなくても平気だったし、滅多に会わないから、どう接していいかもわからない。何を話せばいいかもわからない。
あの人が俺を見る目は冷たくて、他人行儀だ。だから俺も他人だと思っている。
それは兄にとっても同じで、俺たち三人は、他人なのだ。
もう二度と、俺にも妹にも母にも、会わないつもりかもしれない。
先日、兄の誕生日に、電話をかけたが電源が入っていない、と母が落ち込んでいた。
毎年誕生日に電話をかけるのだが、一度も出たことがない。どうせ出てくれないのだから、同じことじゃないかと思いたかった。
でも、何かよくない前兆にも思えた。兄と最後に会ったのは約二ヶ月前。ずっと、何か理由をつけて来るなと言われている。そして電源を切られた携帯電話。兄が携帯の電源を切るなんて、ほとんどありえない。
「もう、俺にも会ってくれないんだな」
『政宗、違う』
「兄ちゃんに会いたいよ」
兄が電話口で黙った。じわ、と涙が目の端に浮かぶ。
『今から来れるか?』
「え」
『話したいことがある』
兄の声は硬かった。
すぐにアパートに向かった。
よくわからないが、深刻そうだった。
もしかして、本当にこれっきり、縁を切るから二度と来るなと言われるのかもしれない。
アパートに着いて、ドアの向こうの兄の顔を見ると、自然と涙が出た。
「あのな、別に避けてたわけじゃないからな」
俺の頭を撫でてそう言った。
「でも兄ちゃん、ずっと会ってくれなかった」
泣きじゃくる俺の手を取って、部屋の中に引っ張っていく。
「会わなかったのは、土日ずっと、人が来てたから」
「やっぱり、彼女いるんじゃん」
「彼女、ではない。そこ座れ。倉知君の隣」
「倉知?」
顔を上げると、倉知がソファに座って申し訳なさそうに眉を下げていた。
ハッとして慌てて涙を拭う。同級生に泣き顔を見られるなんて最悪だ。
「なんで倉知……、え? いつも会ってたのって、倉知?」
にわかに混乱する。そんなに仲が良かったのか、と不思議な感じがしたが、倉知なら倉知だと言えば済む。
「なんで、言ってくれなかったんだよ? 倉知がいるって言ってくれれば」
「言ったら来るだろ? 邪魔されたくないんだよ」
「え?」
倉知と兄の顔を見比べる。倉知は俺から目を逸らし、うつむいた。
「政宗、座れ」
兄が壁にもたれて、腕を組んでいる。俺は黙って倉知の隣に腰を下ろした。
「実は、倉知君と付き合ってる」
兄が言った。
「何? 何それ……、え? 兄ちゃんが?」
混乱した。倉知を見ると、うつむいたまま、黙って両手の指を組み合わせていた。
「兄ちゃんと、倉知が、付き合ってる?」
「そう」
「いやいや、ないよね」
「あるんだよ」
「兄ちゃん、男と付き合ったことないじゃん。ゲイじゃないだろ?」
「うん、そうだね」
「よく、よくわからない」
ソファの背もたれに倒れ込んで顔をこすった。
「え、いつから?」
「十月の中頃、かな?」
兄が倉知に確認するように疑問系で答えた。倉知が短く「はい」とだけ答えた。
「じゃあ、この前俺がここに来たとき、もう付き合ってたってこと?」
「そういうこと」
「だから邪魔そうだったの?」
兄が笑って「うん」とうなずいた。
泊まるというと険しい顔をしていた。倉知が泊まるからだ。食事に乱入したのも、きっといい気がしなかっただろう。
「ごめん……」
つい、謝ってしまった。
「いいけど、そういうわけだから、お前を避けてたんじゃない。わかった?」
「うん、わかった。……よかった」
嫌われていたわけじゃなかった。縁を切られるわけじゃなかった。
もうそれだけで充分だ。
兄が男と、俺の同級生と付き合っているという事実は、勿論ショックではある。でも安堵が勝った。
「よかった……、よかった」
それしか出ない。よかったを繰り返す俺を、兄が笑って見ている。
「よかったの?」
「よかったよ。だって、俺もう兄ちゃんに会えないと思った。会ってくれないと思ったから」
声が震えた。また涙が出そうになる。目元を拭っていると、隣で倉知が鼻をすすった。なんでか知らないが、泣いている。
「なんで倉知が泣いてるんだ?」
「いや、なんでだろ」
慌てて涙を拭う。
「倉知、お前」
「う、はい」
倉知の胸ぐらを掴んで、顔を寄せる。
「兄ちゃんのこと、大事にしろよ」
「うん、大事にする」
倉知が即答する。
「傷つけたら許さないからな。ぶっ殺してやるから」
倉知の目は穏やかだった。少し潤んだ瞳で俺を見て、微笑んだ。
「うん、もし傷つけたら、俺を殺してくれ」
その言葉で、どれほど兄を慕っているのかがわかった。体の力が一気に抜ける。どうしてだろう。こんなに簡単に、許せてしまうのは。
多分、倉知以外の男なら、俺はごねていた。男同士なんておかしい、と兄を責めていたかもしれない。
倉知なら、大丈夫。こいつでよかった、と思える。
「政宗」
兄が壁に寄りかかったまま、俺を呼ぶ。
「俺、この前の誕生日、夜携帯切ってて」
「え、あ、そう、そうだった。母ちゃんがなんか騒いでたけど」
ハッと思い至る。そうか、倉知と二人だったから、邪魔されないように電源を切っていたのか。
「そういうこと?」
ラブラブかよ、と急に落ち着かない気分になった。掴んでいた倉知の胸ぐらを放り出す。
「でもどうせ毎年、出ないじゃん」
「そうなんだけど、今年はちゃんと電話に出て、ありがとうって言おうと思ってたんだよ」
兄の科白だと思えない。驚いて兄の顔を凝視する。
兄は昔から母を嫌っている。母が男と浮気して、その現場を見てしまったからだ。俺も離婚の原因を知らされてから、母を疎ましく思うようになったが、自分に子どもが産まれる、となったときに、あっさりと考えが変わった。母は、どうしたって偉大なのだ。
兄と違って俺は、母の手一つで育てられた。今更嫌おうとしても難しい。
兄が母を許すのも、同じくらい難しいと思っていた。
「お前から言っておいて」
「……は?」
「ありがとうって」
「冗談だろ? 自分で言えよ。ていうか電話じゃなくて会って言ってやってよ」
兄と会ったら母は延々泣き続けそうだが、直接言うと価値があると思う。
兄は口に手をやって、「う」とうめいた。
「想像でも無理」
「兄ちゃん……」
「お前だって親父と会うの嫌だろ」
それを言われると何も言えなくなる。
「でも、兄ちゃん、母ちゃんに何年会ってない? 五年? どころじゃないよな。あれ、もしかして十年以上経つ?」
「さあ」
考えたくもない、という感じで壁に寄りかかって両手をポケットに突っ込んだ。ただのスウェットの上下なのに、兄がそうして立っているとモデルに見える。
この人が俺と兄弟だなんて、正直ピンとこない。妹の小春が熱を上げるのも仕方がないのかもしれない。
「母ちゃんの電話に出る気になったのって、倉知のおかげ?」
それ以外に兄を変えた原因が思いつかない。
「そうだな、倉知君のおかげ」
隣の倉知を見る。倉知は兄を見ていた。眩しい物でも見るかのように、目を細めている。
俺は頭を掻いて、腰を上げた。二人が付き合っていると知った上で、居座り続けられるほど図太くない。
「俺、帰るわ」
「ん、おう」
結論は出てないが、あとは兄の問題なので、俺はもう何も言わない。
「倉知、兄ちゃんのこと任せた」
「うん」
手を差し出すと、倉知が立ち上がり、握ってきた。
「たまには俺もまぜてくれる?」
嫌がるかな、と思ったが、倉知は笑って「うん、遊ぼう」と言ってくれた。やっぱりいい奴だ。
玄関で靴を履いて、振り返る。並んで立っている二人を見て、不思議なことにお似合いだと思った。何故だか、すごくしっくりくる。
「小春には黙ってろよ?」
兄が、思い出したようにそう言った。
「言ったほうがいいと思うけど」
「怖いこと言うなよ」
「真剣に付き合ってる奴がいるってわかれば、小春も諦めつくんじゃない?」
「つくと思う?」
かすかに身震いをして、自分の体を抱くようにしながら、兄が訊く。小春は兄が病的に好きだ。小学校に入る前から、兄に会うたびにどんどん好きになっていった。兄弟じゃないと言い張って、十六歳になったら結婚する、と子どもじみた夢を抱いている。
最後に二人が会ったのは、二年前。兄は人に冷たい態度をとったり、突き放したりするのが苦手だ。兄がそれをできるのは母に限られている。
いつも優しい態度の兄だから、小春は単純に、好かれていると勘違いしているのだ。兄は誰にでもああなのだ、と俺が説明しても信じない。
「どうかな……。俺は、もういい加減、わからせてやりたいって思うけど」
「今年中三だっけ?」
兄が訊いた。
「うん、公立高校に推薦決まってる」
「もうだいぶ、人の話聞けるようになった?」
「まあ、うん、年相応に」
小春は兄に会うと舞い上がり、周りが見えなくなる。普段は大人しくて引っ込み思案だが、兄がからむと人が変わる。
「後顧の憂いを断つか」
兄が呟いた。よくわからないが、小春に会う気になったのかもしれない。
「また連絡する」
俺の肩を叩いて、手を振った。
アパートを出て、駅に向かう。歩きながら、頭の中を整理した。
倉知と兄が、付き合っている。
兄が母の電話に出ようとしていた。
衝撃のニュースは、頭の片隅に追いやられる。
嫌われていなくて、本当によかった。
整理すると、それが大部分を占めた。
道の真ん中で、両手を突き上げ跳びはねた。
小春のことをとやかく言えないかもしれない。
俺も兄が、大好きだ。
〈おわり〉
兄に、振られることが多くなった。
避けられている、かもしれない。
元々、俺は歓迎されていたわけじゃない。兄は俺を嫌いではないが、好きでもないのだ。
それは知っている。
でも俺は兄が好きだから、会いたいと思うこともある。
「今日、泊まり行ってもいい?」
兄が電話口で「あー……」と口ごもる。
「なんか、最近会ってくれないよね」
この前倉知と再会したあの日以来、アパートに行っても中に入れてくれないことが続いた。来るとき連絡入れろ、と追い返される。そんなことは今までなかった。
彼女がいたときを除いては。
ということは、彼女ができたと考えるのが妥当なのだが、
「やっぱ彼女できた?」
と、訊いても、否定される。
「兄ちゃんは、俺のことが嫌いだよね」
そう言うと、兄はため息をついた。
『嫌いじゃないよ』
「そう、嫌いじゃないけど好きでもないだよね」
『政宗、俺は複雑なんだよ』
好きだとは言ってくれない。
「俺、父ちゃんに嫌われてもなんとも思わないけど、兄ちゃんに嫌われるのはつらいよ」
『親父は嫌ってるわけじゃ』
「ううん、嫌ってるよ。それが別に寂しいとか悲しいとかじゃないし、いいんだホント。どうでもいい。父ちゃんはどっかのおっさんと同じだし」
父と兄は一つの家族で、母と俺と小春が一つの家族。俺は父がいなくても平気だったし、滅多に会わないから、どう接していいかもわからない。何を話せばいいかもわからない。
あの人が俺を見る目は冷たくて、他人行儀だ。だから俺も他人だと思っている。
それは兄にとっても同じで、俺たち三人は、他人なのだ。
もう二度と、俺にも妹にも母にも、会わないつもりかもしれない。
先日、兄の誕生日に、電話をかけたが電源が入っていない、と母が落ち込んでいた。
毎年誕生日に電話をかけるのだが、一度も出たことがない。どうせ出てくれないのだから、同じことじゃないかと思いたかった。
でも、何かよくない前兆にも思えた。兄と最後に会ったのは約二ヶ月前。ずっと、何か理由をつけて来るなと言われている。そして電源を切られた携帯電話。兄が携帯の電源を切るなんて、ほとんどありえない。
「もう、俺にも会ってくれないんだな」
『政宗、違う』
「兄ちゃんに会いたいよ」
兄が電話口で黙った。じわ、と涙が目の端に浮かぶ。
『今から来れるか?』
「え」
『話したいことがある』
兄の声は硬かった。
すぐにアパートに向かった。
よくわからないが、深刻そうだった。
もしかして、本当にこれっきり、縁を切るから二度と来るなと言われるのかもしれない。
アパートに着いて、ドアの向こうの兄の顔を見ると、自然と涙が出た。
「あのな、別に避けてたわけじゃないからな」
俺の頭を撫でてそう言った。
「でも兄ちゃん、ずっと会ってくれなかった」
泣きじゃくる俺の手を取って、部屋の中に引っ張っていく。
「会わなかったのは、土日ずっと、人が来てたから」
「やっぱり、彼女いるんじゃん」
「彼女、ではない。そこ座れ。倉知君の隣」
「倉知?」
顔を上げると、倉知がソファに座って申し訳なさそうに眉を下げていた。
ハッとして慌てて涙を拭う。同級生に泣き顔を見られるなんて最悪だ。
「なんで倉知……、え? いつも会ってたのって、倉知?」
にわかに混乱する。そんなに仲が良かったのか、と不思議な感じがしたが、倉知なら倉知だと言えば済む。
「なんで、言ってくれなかったんだよ? 倉知がいるって言ってくれれば」
「言ったら来るだろ? 邪魔されたくないんだよ」
「え?」
倉知と兄の顔を見比べる。倉知は俺から目を逸らし、うつむいた。
「政宗、座れ」
兄が壁にもたれて、腕を組んでいる。俺は黙って倉知の隣に腰を下ろした。
「実は、倉知君と付き合ってる」
兄が言った。
「何? 何それ……、え? 兄ちゃんが?」
混乱した。倉知を見ると、うつむいたまま、黙って両手の指を組み合わせていた。
「兄ちゃんと、倉知が、付き合ってる?」
「そう」
「いやいや、ないよね」
「あるんだよ」
「兄ちゃん、男と付き合ったことないじゃん。ゲイじゃないだろ?」
「うん、そうだね」
「よく、よくわからない」
ソファの背もたれに倒れ込んで顔をこすった。
「え、いつから?」
「十月の中頃、かな?」
兄が倉知に確認するように疑問系で答えた。倉知が短く「はい」とだけ答えた。
「じゃあ、この前俺がここに来たとき、もう付き合ってたってこと?」
「そういうこと」
「だから邪魔そうだったの?」
兄が笑って「うん」とうなずいた。
泊まるというと険しい顔をしていた。倉知が泊まるからだ。食事に乱入したのも、きっといい気がしなかっただろう。
「ごめん……」
つい、謝ってしまった。
「いいけど、そういうわけだから、お前を避けてたんじゃない。わかった?」
「うん、わかった。……よかった」
嫌われていたわけじゃなかった。縁を切られるわけじゃなかった。
もうそれだけで充分だ。
兄が男と、俺の同級生と付き合っているという事実は、勿論ショックではある。でも安堵が勝った。
「よかった……、よかった」
それしか出ない。よかったを繰り返す俺を、兄が笑って見ている。
「よかったの?」
「よかったよ。だって、俺もう兄ちゃんに会えないと思った。会ってくれないと思ったから」
声が震えた。また涙が出そうになる。目元を拭っていると、隣で倉知が鼻をすすった。なんでか知らないが、泣いている。
「なんで倉知が泣いてるんだ?」
「いや、なんでだろ」
慌てて涙を拭う。
「倉知、お前」
「う、はい」
倉知の胸ぐらを掴んで、顔を寄せる。
「兄ちゃんのこと、大事にしろよ」
「うん、大事にする」
倉知が即答する。
「傷つけたら許さないからな。ぶっ殺してやるから」
倉知の目は穏やかだった。少し潤んだ瞳で俺を見て、微笑んだ。
「うん、もし傷つけたら、俺を殺してくれ」
その言葉で、どれほど兄を慕っているのかがわかった。体の力が一気に抜ける。どうしてだろう。こんなに簡単に、許せてしまうのは。
多分、倉知以外の男なら、俺はごねていた。男同士なんておかしい、と兄を責めていたかもしれない。
倉知なら、大丈夫。こいつでよかった、と思える。
「政宗」
兄が壁に寄りかかったまま、俺を呼ぶ。
「俺、この前の誕生日、夜携帯切ってて」
「え、あ、そう、そうだった。母ちゃんがなんか騒いでたけど」
ハッと思い至る。そうか、倉知と二人だったから、邪魔されないように電源を切っていたのか。
「そういうこと?」
ラブラブかよ、と急に落ち着かない気分になった。掴んでいた倉知の胸ぐらを放り出す。
「でもどうせ毎年、出ないじゃん」
「そうなんだけど、今年はちゃんと電話に出て、ありがとうって言おうと思ってたんだよ」
兄の科白だと思えない。驚いて兄の顔を凝視する。
兄は昔から母を嫌っている。母が男と浮気して、その現場を見てしまったからだ。俺も離婚の原因を知らされてから、母を疎ましく思うようになったが、自分に子どもが産まれる、となったときに、あっさりと考えが変わった。母は、どうしたって偉大なのだ。
兄と違って俺は、母の手一つで育てられた。今更嫌おうとしても難しい。
兄が母を許すのも、同じくらい難しいと思っていた。
「お前から言っておいて」
「……は?」
「ありがとうって」
「冗談だろ? 自分で言えよ。ていうか電話じゃなくて会って言ってやってよ」
兄と会ったら母は延々泣き続けそうだが、直接言うと価値があると思う。
兄は口に手をやって、「う」とうめいた。
「想像でも無理」
「兄ちゃん……」
「お前だって親父と会うの嫌だろ」
それを言われると何も言えなくなる。
「でも、兄ちゃん、母ちゃんに何年会ってない? 五年? どころじゃないよな。あれ、もしかして十年以上経つ?」
「さあ」
考えたくもない、という感じで壁に寄りかかって両手をポケットに突っ込んだ。ただのスウェットの上下なのに、兄がそうして立っているとモデルに見える。
この人が俺と兄弟だなんて、正直ピンとこない。妹の小春が熱を上げるのも仕方がないのかもしれない。
「母ちゃんの電話に出る気になったのって、倉知のおかげ?」
それ以外に兄を変えた原因が思いつかない。
「そうだな、倉知君のおかげ」
隣の倉知を見る。倉知は兄を見ていた。眩しい物でも見るかのように、目を細めている。
俺は頭を掻いて、腰を上げた。二人が付き合っていると知った上で、居座り続けられるほど図太くない。
「俺、帰るわ」
「ん、おう」
結論は出てないが、あとは兄の問題なので、俺はもう何も言わない。
「倉知、兄ちゃんのこと任せた」
「うん」
手を差し出すと、倉知が立ち上がり、握ってきた。
「たまには俺もまぜてくれる?」
嫌がるかな、と思ったが、倉知は笑って「うん、遊ぼう」と言ってくれた。やっぱりいい奴だ。
玄関で靴を履いて、振り返る。並んで立っている二人を見て、不思議なことにお似合いだと思った。何故だか、すごくしっくりくる。
「小春には黙ってろよ?」
兄が、思い出したようにそう言った。
「言ったほうがいいと思うけど」
「怖いこと言うなよ」
「真剣に付き合ってる奴がいるってわかれば、小春も諦めつくんじゃない?」
「つくと思う?」
かすかに身震いをして、自分の体を抱くようにしながら、兄が訊く。小春は兄が病的に好きだ。小学校に入る前から、兄に会うたびにどんどん好きになっていった。兄弟じゃないと言い張って、十六歳になったら結婚する、と子どもじみた夢を抱いている。
最後に二人が会ったのは、二年前。兄は人に冷たい態度をとったり、突き放したりするのが苦手だ。兄がそれをできるのは母に限られている。
いつも優しい態度の兄だから、小春は単純に、好かれていると勘違いしているのだ。兄は誰にでもああなのだ、と俺が説明しても信じない。
「どうかな……。俺は、もういい加減、わからせてやりたいって思うけど」
「今年中三だっけ?」
兄が訊いた。
「うん、公立高校に推薦決まってる」
「もうだいぶ、人の話聞けるようになった?」
「まあ、うん、年相応に」
小春は兄に会うと舞い上がり、周りが見えなくなる。普段は大人しくて引っ込み思案だが、兄がからむと人が変わる。
「後顧の憂いを断つか」
兄が呟いた。よくわからないが、小春に会う気になったのかもしれない。
「また連絡する」
俺の肩を叩いて、手を振った。
アパートを出て、駅に向かう。歩きながら、頭の中を整理した。
倉知と兄が、付き合っている。
兄が母の電話に出ようとしていた。
衝撃のニュースは、頭の片隅に追いやられる。
嫌われていなくて、本当によかった。
整理すると、それが大部分を占めた。
道の真ん中で、両手を突き上げ跳びはねた。
小春のことをとやかく言えないかもしれない。
俺も兄が、大好きだ。
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