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父と息子
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〈加賀編〉
毎年誕生日が近づくと、父と食事会をする。普段行かないような高級な店だが、常連らしい父は店員に顔と名前を覚えられている。
堅苦しさはあるものの、周囲の客も静かに会話し、誰も他のテーブルには関心を示さない。店員の接客も卒がなく、落ち着いて話すには最適な環境だ。
「今年は会うの、二回目か?」
「うん、だな」
「忙しかったな、お互い」
ワインで乾杯し、グラスに口をつけると、父が俺をじっと見ていた。
「何か、変わったことがあったか?」
「え?」
「いいことがあったな」
「うわ、こええ。やめて、透視すんの」
父は仕事柄か、すぐに内面を探ろうとする。
「女か」
「……あー」
今日、言うべきかずっと迷っていて、結論は出ていない。悲しむか、怒るか、呆れるか。どれかだ。喜びはしない。付き合っているのが男、まではまだ許してくれるかもしれないが、高校生となると、下手をしたら殴られる。いや、半殺しだ。
「前の彼女から五年経ったか」
「あの、親父」
「なんだ、結婚するのか?」
ワイングラスを置いて、ひたいを抑える。今日を逃すと永遠に言えない気がする。
父には感謝している。母親がいなくても大丈夫だったのは父のおかげだ。
「結婚は、しない」
「そうか。それもいい」
簡単に肯定する。自身が離婚経験者、というのもあるが、結婚がいいことばかりじゃないことをよくわかっている。
「一生しないかも」
父がナイフとフォークを動かしながら、ちら、と俺を見る。
「それもいい」
父はいつも短い言葉で、片付ける。
「孫の顔、見たくない?」
「お前の顔で十分だ」
肉を口に放り込んで、にや、と笑う。
「それに、政宗の子どもが生まれるだろう。一応、孫だ」
「一応って」
「私の息子は、子どもは、お前だけだ」
ぎく、とした。離婚して、母に引き取られた弟と妹が、もしかしたら別の男の種なのではないか、と周囲が噂していたことがあった。確かに政宗も小春も、父にまったく似ていない。父の要素が、一切見あたらない。
もしそうだとしても、自分は関係ない、と思っていた。真実には興味がない。
父も、追求はしなかった。母に問いただすことも、DNA鑑定もしなかった。ごたごたを避けたかったのだ。
今の発言は、政宗と小春は自分の子ではないと確信している証拠かもしれない。
薄ら寒くなる。
「お前がいればいい。孫には興味がない」
父は子どもが好きというわけじゃない。というか、小さな子どもを見て表情を和らげたり、可愛がったりしているのを見たことがない。
だからか、再婚してからも子どもを作ろうとはしなかった。
「結婚に興味がない女なのか?」
突然訊かれて「はっ?」と間抜けな声が出た。父が射るような目で見てくる。
「あ、いや」
「定光」
「あー、やべえ、殺される」
「言いなさい。何を隠している」
ナイフの先端を、突きつけてくる。父は剣道五段で、ことあるごとに、こうやって殺気を放ってくるから身が持たない。
「男か」
手から、フォークが滑り落ちた。すぐにウェイターが飛んできて、片膝をついてフォークを拾い、「新しいものをお持ちします」と言って去って行った。
「ごめんなさい」
怖くて目を合わせられない。代わりにロブスターと目が合った。
ウェイターが新しいフォークを置いて去ると、父が言った。
「どんな男だ」
「あー、あの」
「ろくでもないのに引っかかったか?」
倉知の顔が浮かんで、消える。
「ろくでもなくない」
「じゃあ何故謝った。チンピラか?」
「いやいや」
「無職か?」
「む、無職、ですね」
学生だから、職がない。父の片眉が跳ね上がる。
「ヒモか? 飼ってるのか?」
「ではなく」
「お前は賢いと思っていた」
父の顔に失望が広がっている。
「親父、違う」
「男と付き合うことが悪いとは言わない。ただ、相手は選びなさい」
相手は高校生だ、と本当のことを言っても、状況が良くなるとは思えない。
でもここまできて黙っているわけにはいかない。嫌なことは済ませてしまおう、と思った。
「無職なのはしょうがないんだよ」
「なんだそれは。夢を追ってるとか抜かすなよ」
父のひたいに血管が浮いている。久しぶりに怒ったところを見た。
「高校生なんだ」
父が黙ってナイフとフォークを置いた。
「あの、俺は今から殺されるんでしょうか」
「場合によっては」
「マジで」
「定光」
「はい」
「リスクのある遊びはやめなさい」
「遊びじゃない。俺は本気だ」
父が目で俺を殺そうとする。総毛立ち、汗が噴き出した。怯みそうになるのを、必死で堪えた。
「何を手放してもいい。何を犠牲にしても、惜しくない。あいつと別れるくらいなら、親父と縁を切る」
目を見返して、言い切った。父がテーブルを叩きつけて、去って行く映像を想像した。たった一人の家族を失う恐怖。
「よく言った」
父の目が、笑う。空気の抜けた風船のように、脱力する。
「定光」
「……はい」
「大人になったな」
「二十七ですから」
「そうだな。誕生日おめでとう」
誕生日は明日だが、父の都合がいいのは今日しかなかった。別に一日前でも、二日後でも、なんだっていい。俺には父がいて、大事な家族だと認識できる、年に一度のかけがえのない日だ。
「食べよう」
「食欲なくなった……」
仕事の後で、ほんの少し残っていた体力が奪われた。ワインを一気に飲み干す。
「高校生のその子は、何歳だ」
「高二だよ。あとからわかったんだけど、政宗の小学校の同級生」
「縁とは不思議なものだ」
のほほんとして言った。あの殺気はなんだったのか。
「惚れられたか」
俺から好きになる、という選択肢はないらしい。
「そうだね」
「話しなさい。全部だ。どうやって知り合い、付き合うことになったか、会話もすべて思い出せるだけ言いなさい」
「え、聞きたいの?」
意外だ。俺の恋愛には興味がないと思っていた。
「いざというとき弁護しなきゃならん」
「そっち? 俺淫行で捕まる?」
「相手の親が訴えてきたら、あるいは」
「向こうの親公認だから、それはないよ」
「どうしてそうなった」
父がスーツの上着からメモ帳とペンを取り出した。
「順を追って説明しなさい。詳しい日付も、全部だ」
「あの、食べないの?」
「それはあとだ」
「わかりました」
俺が話している間、父は難しい顔でメモを取っていた。あいつとの馴れ初めを人に話すのは何回目だろう、と思った。無駄を省いて、効率的に語り尽くすのにも慣れてきた。
「相手の親が出来た人間で助かったな」
父がメモとペンを片付ける。
「はい、それはほんとに」
「今度、挨拶に伺おう」
ひい、と引きつった悲鳴が出た。
「なんだそれは」
「いや、あの、それはどうだろう」
「その前に、七世君に会わせなさい」
「うっ、そ、そうですね」
あいつがこの人の眼光その他諸々に耐えられるとは思えない。失禁するかもしれない。
「とりあえず、食べよう」
デジャブを感じた。食欲は回復していないが、せっかくの料理を無駄にするのももったいない。
黙々と食べて、ワインを一本空け、さて帰るかとなったときに父がウェイターを呼んで、何かを持ってこさせた。小さな手提げ袋だ。
「忘れるところだった。おめでとう」
「ありがとう……、ってロレックス? 値段聞いてもいい?」
以前、百万越えの時計を渡され、どこにも着けていけないからやめてくれ、と言ったのに。父が申し訳なさそうに眉を下げる。
「さん……、いや、今までで一番高い。悪かった。見てたら欲しくなって」
「三って言った? 三百万? もうほんと、そんな高いのいいから。身の丈に合ってないし」
「何を言う。この時計はお前に相応しい。開けてみろ、美しいぞ」
外箱を開けて、中のケースを取り出し、息を吐いてから蓋を開けた。
「デイトナ? またクッソ高いやつを……」
「どうだ、美しいだろう。着けてみなさい」
父が興奮しながら言った。着けていたタグホイヤーを外し、新品のロレックスをはめる。サイズは調整済みだ。
「やはり、似合う」
うっとりとして言った。別に似合うもクソもない、と思うのだが、父は腕時計フェチだ。
「よし、一枚撮るぞ」
スマホを出して俺に向けてくる。新しい時計をはめた俺を、いつも撮りたがる。はいはい、と言って顔のそばに時計をはめた手首を持ってきて、父を見る。すごく、嬉しそうだ。毎年のことだから慣れたが、変態の域に達しているかもしれない。
「素晴らしい」
画面を確認しながら満足そうに呟いて、スマホを片付けた。
「こんな高い時計、会社に着けてくのも嫌味だし、ほんとタンスの肥やし」
「着けなさい。それを着けているだけで身が引き締まるぞ」
「つーか、うち泥棒入ったらアウトだな。想像したら怖い」
「もっとセキュリティのしっかりしたところに引っ越せばいい」
「簡単に言うよね」
苦笑する。
「わかった」
父が俺を見て頷いた。何がわかったのかわからないが、嫌な予感がする。
「来年の誕生日は、セキュリティのしっかりしたマンションをプレゼントしよう」
「出た。出たよ、この人は」
「楽しみができた」
うきうきと嬉しそうだ。いらない、と断ってもきっと言うことを聞かない。金持ちの道楽だ。好きにさせよう。
帰りのタクシーでもずっと、立地や間取りのことを楽しそうに語り続けた。
父は弁護士業の他に不動産業もやっていて、この手の話はいつかされるかもしれないとは思っていた。
時計を買う感覚でマンションを買おうと言い出すのだから、本当に怖い。
「もう、マンションはありがたくちょうだいするけど、これから時計はいいから」
「何を言う。セキュリティが確保されれば時計が増えても問題ないだろう?」
「時計が基準なの?」
「私の楽しみを奪わないでくれ」
懇願されて何も言えなくなった。
「時計のコレクション部屋がいるな」
「いらないっつの」
アパートが見える。
「お前の部屋は二階の角だったな」
父が窓の外を見て言った。
「そうだけど、何」
「明かりが点いてる」
「え」
まずい、倉知だ。
「泥棒か?」
「いやいや朝消し忘れたんだろ、きっと。運転手さん、止めて、降ります」
はい、と言って路肩に停車した。
「今日はありがとうございました」
「待て、泥棒だったらどうする。私も行く」
「泥棒じゃないから」
降りようとする父を笑って押し戻す。
「……七世君か?」
顔が引きつった。父は俺の体をどかして、タクシーを降りた。
「せっかくだから会っていこう」
「嘘でしょ」
「少し待ってて貰えますか」
運転手が、どうぞ、と返事をする。
「ちょっと待って、いきなり親父が現れたらびびるに決まってる。心の準備くらいさせてやりたい」
「私は別に、怖くないだろう?」
怖いよ! と叫びたくなった。階段を上がって、迷いのない足取りで俺の部屋の前に立つ。そして、チャイムを押した。
「俺、鍵持ってるんだけど」
「そうだった」
「加賀さん? おかえりなさい」
扉が開き、倉知が輝く笑顔で出迎えた。父を見て、面食らう。
「あ、え? どちら様ですか?」
「遅くに申し訳ない。定光の父です」
倉知は後ずさり、玄関の段差につまずいて、尻餅をついた。
「こん、ばんは、初めまして」
尻餅をついたまま、蒼白な顔で言った。
「大丈夫?」
父を押しのけて、倉知の手を引いた。
「腰が、抜けました」
「ごめん、急に連れてきて」
「いえ、大丈夫です」
助け起こそうとする俺の手をそっとどけて、正座をし、そして、そのまま頭を下げた。
「なんで土下座してんの?」
「わ、わかりません。でもなんか、あの、すいませんでした!」
父の顔が怖くて、謝らずにはいられないのだろう。
「ほら見ろ、すげえ怯えてんじゃん」
「何故だ、わからん」
「顔が怖いんだよ、顔が」
「なるほど。七世君、頭を上げなさい」
命令口調で言うと、倉知の体がびくついた。おそるおそる顔を上げる。
父が、優しい表情で笑う。最初からそういう顔をしていてくれ、と思った。
「定光から君とのことを聞きました」
倉知がガクガクと震え出す。
「私には、この子がすべてだ。とても大切に育ててきた、私の宝物だ」
父が俺をそんなふうに思っていたなんて、初めて知った。少し寂しそうに、俺を見ている。
父が倉知の前に屈み込んだ。
「定光は、君と別れるくらいなら、私と縁を切ると言った」
「え」
倉知が青ざめた顔で、俺を見上げる。
「縁を切られるのが嫌だから、不本意だが君たちのことを認めようと思う」
「何それ、そうなの?」
「冗談だ」
はは、と笑ったが、倉知は強ばった表情のまま、床に手をついている。
「七世君、笑うところだよ」
倉知が笑わないのが不思議らしく、父は首を傾げた。倉知は真剣な顔で父の顔を凝視している。とても笑える状態ではない。
「さて。タクシーも待たせていることだし、また今度ゆっくり話そう」
父が立ち上がった。倉知が慌てて腰を上げて、軍人のように直立不動になった。
「君のご両親も、同じように、君を宝物だと思っているだろう。覚えておいて欲しい。君たちは、宝だ。だから、傷つけ合うようなことだけはしないで欲しい。仲良くしてくれれば、他に何も望まない」
「お」
倉知が泣き顔で口を開いた。
「怒らないんですか?」
「定光が私より優先する男だ。君はきっと、何か持っている」
その言葉を聞いて、今までそんな相手は存在しなかったことに気づく。俺の中で、父は揺るぎないトップだった。
父が手を差し伸べた。倉知がその手を見て、自分のズボンで手のひらを拭い、握手をした。
「息子を、どうか大切にしてください」
握手をした右手に、左手を添えて、倉知の顔を静かに見据えて言った。
「はい、絶対、傷つけません。大切にします」
「いい目をしてるな」
父は笑って倉知の腕をポンポンと叩き、「おやすみ」と言って踵を返し、ドアを開けて出て行った。
「ここで待ってて」
倉知の頭を撫でてから、父の後を追う。
「親父」
階段を下りようとしていた父が振り返った。
「俺は、親父のことも大事だよ」
確かに、別れろと言うなら縁を切ると脅したが、だからと言って父を蔑ろにしたわけじゃない。どっちが大事、と順位をつけられるものでもない。
父がゆっくりとした足取りで、こっちに戻ってきた。
「わかってる」
俺の頬を撫でてから、抱きしめてくる。
「愛してる」
「う、お、おう」
「どうした、愛してると返してくれないのか」
「海外ドラマかよ。こんなおっさんが親に愛してるって言うの、おかしくない?」
「定光、お前はおっさんじゃない。美しい、私の宝」
頬ずりをされた。なんだこれは。
今になって、気づいた。
父は酔っている。
「愛してると言うまで離さんぞ」
「愛してる!」
即座に叫ぶと、すぐに解放された。
「よし、おやすみ。七世君も、おやすみ」
俺の背後を見て言った。振り返ると倉知がドアの隙間からこっちを見ていた。呼ばれて、ガタガタと慌てて飛び出してくる。
「ごっ、ごめんなさい、おやすみなさい」
腰を九十度に折り曲げて頭を下げる倉知を見て、親父はふふふ、とほくそ笑みながら、階段を下りていった。
二人で上から見下ろして、タクシーに乗り込む父に手を振った。
「加賀さん」
「うん」
「お父さん、加賀さんのこと、大好きですね」
「そうだよ」
「本当に、愛されてますね」
「うん、俺もちゃんと、愛してる」
タクシーが走り去る。見えなくなるまで、二人で並んで見送った。
「それなのに、縁を切るって」
倉知がボソッと言った。
「それぐらいの覚悟で付き合ってるって言いたかっただけだし、親父もわかってるよ。寒いな。中入るぞ」
部屋に戻ると、倉知が後ろから抱きしめてきた。
「お父さん、加賀さんに似てますね」
「ん、そう?」
「男前です。カッコイイです。あとすごい迫力でびっくりしました」
「常人離れしてるからな、あの人」
「それは加賀さんもですけど」
「えー?」
「俺を見て、でかいとか、大きいとか、驚かない人って、珍しいです」
「お前、びびりすぎて体半分になってたからな」
倉知をくっつけたまま、寝室に向かう。
鞄を置いて、俺を抱きしめている倉知の腕を撫でた。ずっと、体が震えている。
「寒い? 裸で温め合う?」
「違うんです。怖くて」
「怖かった? ごめんね」
「お父さんが怖いんじゃなくて、もし、認めてくれなかったらって、加賀さんと、別れなきゃいけなくなったら、俺」
倉知を不安にさせたくなかったから、今日父と会うことを伝えなかった。
でも結局、泣かせてしまった。
「泣くな。大丈夫。現実に、親父は許してくれたし、お前を気に入ったみたいだよ」
「気に入って、ました?」
「いい目をしてるって言ってただろ? あれ、親父が気に入った奴に言う科白」
そういう気障なところがある。
「気むずかしそうに見えるけど、子どもっぽいところもあるし、まあ怒るとすげえ怖いけど、いい人だよ」
「怒ると怖いんですね」
「……うん」
理不尽なことで怒ったりはしないが、怒ると怖い。
身震いをすると、倉知もガタガタ震えだした。
「お前みたいないい子は、多分一生怒られないから大丈夫」
「加賀さんもいい子ですよ?」
「あー、悪い子だったときもあったんだよ」
竹刀を持って追いかけられたこともある。母の不貞が発覚した頃、俺は若干荒れかけたが、父が力任せに更正させてくれた。
「お父さんのおかげで、今の加賀さんがいるんですよね」
「うん、そう。だから感謝はしてる」
「俺も、感謝します。だって、加賀さんの全部が好きです」
「おう」
倉知が俺の首に唇を押しつける。
「着替えていい?」
倉知が黙って俺から離れて、ベッドに腰掛けた。
「明日、誕生日ですね」
「うん、そうだね」
「本当は日付変わるまでいたいんですけど」
コートをクローゼットにしまってから、腕時計で時間を確認した。ロレックスが目映すぎて目が眩む。
「あと二時間で明日だな。制服持ってこなかったの?」
「はい、もう帰りますね」
寂しそうに俺を見る。スーツを脱いで、倉知の頭を撫でる。
「それ、新しい時計ですか?」
「目ざといね。さっき貰ったんだよ」
「高そうですね」
「ロレックスだからね。三百万以上するっぽい」
「……はい?」
ロレックスを外してサイドテーブルに置いた。
「親父、時計が異常に好きなんだよ。アパート置いとくの怖いって言ったら、来年マンション買ってやるって言い出すし」
倉知が黙った。そりゃあ、引くだろう。誕生日のプレゼントが高級時計で、マンションまで買い与えようとしている。どんな甘やかしだ、と自分でも呆れる。
「……加賀さんは、すごく、お金持ちのおうちの子なんですね」
スーツから部屋着に着替えて振り向くと、倉知がようやく口を開いた。
「まあ、金で苦労しなかったかな。でも俺、わりと倹約家だよ。衝動買いしないし、金銭感覚もまともだろ?」
「そうですね」
奢り癖はあるが、貯金はそれなりにしているし、欲しい物があれば自分で買う。親にたかったことはない。
「くれるっていうんだから、貰っとくよ。一緒に決めような」
倉知の膝の上に向かい合って座る。
「え?」
「俺とお前の新居だろ」
「え、う、うわ、そう、そうなんですか?」
「そうだよ? 俺はキッチンさえ思い通りになればそれでいいけど。お前は何にこだわる?」
俺の腰を抱き寄せて、キリッと男らしい表情で言った。
「お風呂です」
「お、おう。さすがだな」
「二人で入れる大きいお風呂がいいです」
「なんでそんなかっこつけた顔してんの?」
頬を引っ張ってひたいとひたいをくっつけた。
「早く一緒に暮らしたいです」
「うん」
「もう帰らないと」
「うん」
軽くキスをしてから、膝からどいた。
玄関で、靴を履きながら思い出したように倉知が言った。
「日付変わったらおめでとうメールしていいですか?」
倉知以外がそれをやったらうざいとしか言いようがないが、こいつがやると可愛いと思えるから不思議だ。
「うん」
「寝ないように頑張ります」
「無理すんなよ。それより俺は、プレゼントが楽しみだなあ」
誕生日に抱かせてくれる約束だ。赤面して顔を背けるところを見ると、覚えていたらしい。
「……期待しないでください。三百万円の腕時計には勝てません」
「馬鹿言え。勝つよ」
倉知が片手で顔を隠して、玄関のドアに激突した。開いていると勘違いしたらしい。
「大丈夫?」
「はい、あの、帰ります」
「うん、気をつけて」
ドアを開けて、一度出て行って、すぐに戻ってくる。唇に吸い付いて「おやすみなさい!」と叫ぶと、ドタバタと逃げるように去って行った。
羞恥と闘う表情がものすごく可愛い。
「やべえ、可愛い」
明日はせいぜい、壊さないように可愛がろう、と決めた。
〈おわり〉
毎年誕生日が近づくと、父と食事会をする。普段行かないような高級な店だが、常連らしい父は店員に顔と名前を覚えられている。
堅苦しさはあるものの、周囲の客も静かに会話し、誰も他のテーブルには関心を示さない。店員の接客も卒がなく、落ち着いて話すには最適な環境だ。
「今年は会うの、二回目か?」
「うん、だな」
「忙しかったな、お互い」
ワインで乾杯し、グラスに口をつけると、父が俺をじっと見ていた。
「何か、変わったことがあったか?」
「え?」
「いいことがあったな」
「うわ、こええ。やめて、透視すんの」
父は仕事柄か、すぐに内面を探ろうとする。
「女か」
「……あー」
今日、言うべきかずっと迷っていて、結論は出ていない。悲しむか、怒るか、呆れるか。どれかだ。喜びはしない。付き合っているのが男、まではまだ許してくれるかもしれないが、高校生となると、下手をしたら殴られる。いや、半殺しだ。
「前の彼女から五年経ったか」
「あの、親父」
「なんだ、結婚するのか?」
ワイングラスを置いて、ひたいを抑える。今日を逃すと永遠に言えない気がする。
父には感謝している。母親がいなくても大丈夫だったのは父のおかげだ。
「結婚は、しない」
「そうか。それもいい」
簡単に肯定する。自身が離婚経験者、というのもあるが、結婚がいいことばかりじゃないことをよくわかっている。
「一生しないかも」
父がナイフとフォークを動かしながら、ちら、と俺を見る。
「それもいい」
父はいつも短い言葉で、片付ける。
「孫の顔、見たくない?」
「お前の顔で十分だ」
肉を口に放り込んで、にや、と笑う。
「それに、政宗の子どもが生まれるだろう。一応、孫だ」
「一応って」
「私の息子は、子どもは、お前だけだ」
ぎく、とした。離婚して、母に引き取られた弟と妹が、もしかしたら別の男の種なのではないか、と周囲が噂していたことがあった。確かに政宗も小春も、父にまったく似ていない。父の要素が、一切見あたらない。
もしそうだとしても、自分は関係ない、と思っていた。真実には興味がない。
父も、追求はしなかった。母に問いただすことも、DNA鑑定もしなかった。ごたごたを避けたかったのだ。
今の発言は、政宗と小春は自分の子ではないと確信している証拠かもしれない。
薄ら寒くなる。
「お前がいればいい。孫には興味がない」
父は子どもが好きというわけじゃない。というか、小さな子どもを見て表情を和らげたり、可愛がったりしているのを見たことがない。
だからか、再婚してからも子どもを作ろうとはしなかった。
「結婚に興味がない女なのか?」
突然訊かれて「はっ?」と間抜けな声が出た。父が射るような目で見てくる。
「あ、いや」
「定光」
「あー、やべえ、殺される」
「言いなさい。何を隠している」
ナイフの先端を、突きつけてくる。父は剣道五段で、ことあるごとに、こうやって殺気を放ってくるから身が持たない。
「男か」
手から、フォークが滑り落ちた。すぐにウェイターが飛んできて、片膝をついてフォークを拾い、「新しいものをお持ちします」と言って去って行った。
「ごめんなさい」
怖くて目を合わせられない。代わりにロブスターと目が合った。
ウェイターが新しいフォークを置いて去ると、父が言った。
「どんな男だ」
「あー、あの」
「ろくでもないのに引っかかったか?」
倉知の顔が浮かんで、消える。
「ろくでもなくない」
「じゃあ何故謝った。チンピラか?」
「いやいや」
「無職か?」
「む、無職、ですね」
学生だから、職がない。父の片眉が跳ね上がる。
「ヒモか? 飼ってるのか?」
「ではなく」
「お前は賢いと思っていた」
父の顔に失望が広がっている。
「親父、違う」
「男と付き合うことが悪いとは言わない。ただ、相手は選びなさい」
相手は高校生だ、と本当のことを言っても、状況が良くなるとは思えない。
でもここまできて黙っているわけにはいかない。嫌なことは済ませてしまおう、と思った。
「無職なのはしょうがないんだよ」
「なんだそれは。夢を追ってるとか抜かすなよ」
父のひたいに血管が浮いている。久しぶりに怒ったところを見た。
「高校生なんだ」
父が黙ってナイフとフォークを置いた。
「あの、俺は今から殺されるんでしょうか」
「場合によっては」
「マジで」
「定光」
「はい」
「リスクのある遊びはやめなさい」
「遊びじゃない。俺は本気だ」
父が目で俺を殺そうとする。総毛立ち、汗が噴き出した。怯みそうになるのを、必死で堪えた。
「何を手放してもいい。何を犠牲にしても、惜しくない。あいつと別れるくらいなら、親父と縁を切る」
目を見返して、言い切った。父がテーブルを叩きつけて、去って行く映像を想像した。たった一人の家族を失う恐怖。
「よく言った」
父の目が、笑う。空気の抜けた風船のように、脱力する。
「定光」
「……はい」
「大人になったな」
「二十七ですから」
「そうだな。誕生日おめでとう」
誕生日は明日だが、父の都合がいいのは今日しかなかった。別に一日前でも、二日後でも、なんだっていい。俺には父がいて、大事な家族だと認識できる、年に一度のかけがえのない日だ。
「食べよう」
「食欲なくなった……」
仕事の後で、ほんの少し残っていた体力が奪われた。ワインを一気に飲み干す。
「高校生のその子は、何歳だ」
「高二だよ。あとからわかったんだけど、政宗の小学校の同級生」
「縁とは不思議なものだ」
のほほんとして言った。あの殺気はなんだったのか。
「惚れられたか」
俺から好きになる、という選択肢はないらしい。
「そうだね」
「話しなさい。全部だ。どうやって知り合い、付き合うことになったか、会話もすべて思い出せるだけ言いなさい」
「え、聞きたいの?」
意外だ。俺の恋愛には興味がないと思っていた。
「いざというとき弁護しなきゃならん」
「そっち? 俺淫行で捕まる?」
「相手の親が訴えてきたら、あるいは」
「向こうの親公認だから、それはないよ」
「どうしてそうなった」
父がスーツの上着からメモ帳とペンを取り出した。
「順を追って説明しなさい。詳しい日付も、全部だ」
「あの、食べないの?」
「それはあとだ」
「わかりました」
俺が話している間、父は難しい顔でメモを取っていた。あいつとの馴れ初めを人に話すのは何回目だろう、と思った。無駄を省いて、効率的に語り尽くすのにも慣れてきた。
「相手の親が出来た人間で助かったな」
父がメモとペンを片付ける。
「はい、それはほんとに」
「今度、挨拶に伺おう」
ひい、と引きつった悲鳴が出た。
「なんだそれは」
「いや、あの、それはどうだろう」
「その前に、七世君に会わせなさい」
「うっ、そ、そうですね」
あいつがこの人の眼光その他諸々に耐えられるとは思えない。失禁するかもしれない。
「とりあえず、食べよう」
デジャブを感じた。食欲は回復していないが、せっかくの料理を無駄にするのももったいない。
黙々と食べて、ワインを一本空け、さて帰るかとなったときに父がウェイターを呼んで、何かを持ってこさせた。小さな手提げ袋だ。
「忘れるところだった。おめでとう」
「ありがとう……、ってロレックス? 値段聞いてもいい?」
以前、百万越えの時計を渡され、どこにも着けていけないからやめてくれ、と言ったのに。父が申し訳なさそうに眉を下げる。
「さん……、いや、今までで一番高い。悪かった。見てたら欲しくなって」
「三って言った? 三百万? もうほんと、そんな高いのいいから。身の丈に合ってないし」
「何を言う。この時計はお前に相応しい。開けてみろ、美しいぞ」
外箱を開けて、中のケースを取り出し、息を吐いてから蓋を開けた。
「デイトナ? またクッソ高いやつを……」
「どうだ、美しいだろう。着けてみなさい」
父が興奮しながら言った。着けていたタグホイヤーを外し、新品のロレックスをはめる。サイズは調整済みだ。
「やはり、似合う」
うっとりとして言った。別に似合うもクソもない、と思うのだが、父は腕時計フェチだ。
「よし、一枚撮るぞ」
スマホを出して俺に向けてくる。新しい時計をはめた俺を、いつも撮りたがる。はいはい、と言って顔のそばに時計をはめた手首を持ってきて、父を見る。すごく、嬉しそうだ。毎年のことだから慣れたが、変態の域に達しているかもしれない。
「素晴らしい」
画面を確認しながら満足そうに呟いて、スマホを片付けた。
「こんな高い時計、会社に着けてくのも嫌味だし、ほんとタンスの肥やし」
「着けなさい。それを着けているだけで身が引き締まるぞ」
「つーか、うち泥棒入ったらアウトだな。想像したら怖い」
「もっとセキュリティのしっかりしたところに引っ越せばいい」
「簡単に言うよね」
苦笑する。
「わかった」
父が俺を見て頷いた。何がわかったのかわからないが、嫌な予感がする。
「来年の誕生日は、セキュリティのしっかりしたマンションをプレゼントしよう」
「出た。出たよ、この人は」
「楽しみができた」
うきうきと嬉しそうだ。いらない、と断ってもきっと言うことを聞かない。金持ちの道楽だ。好きにさせよう。
帰りのタクシーでもずっと、立地や間取りのことを楽しそうに語り続けた。
父は弁護士業の他に不動産業もやっていて、この手の話はいつかされるかもしれないとは思っていた。
時計を買う感覚でマンションを買おうと言い出すのだから、本当に怖い。
「もう、マンションはありがたくちょうだいするけど、これから時計はいいから」
「何を言う。セキュリティが確保されれば時計が増えても問題ないだろう?」
「時計が基準なの?」
「私の楽しみを奪わないでくれ」
懇願されて何も言えなくなった。
「時計のコレクション部屋がいるな」
「いらないっつの」
アパートが見える。
「お前の部屋は二階の角だったな」
父が窓の外を見て言った。
「そうだけど、何」
「明かりが点いてる」
「え」
まずい、倉知だ。
「泥棒か?」
「いやいや朝消し忘れたんだろ、きっと。運転手さん、止めて、降ります」
はい、と言って路肩に停車した。
「今日はありがとうございました」
「待て、泥棒だったらどうする。私も行く」
「泥棒じゃないから」
降りようとする父を笑って押し戻す。
「……七世君か?」
顔が引きつった。父は俺の体をどかして、タクシーを降りた。
「せっかくだから会っていこう」
「嘘でしょ」
「少し待ってて貰えますか」
運転手が、どうぞ、と返事をする。
「ちょっと待って、いきなり親父が現れたらびびるに決まってる。心の準備くらいさせてやりたい」
「私は別に、怖くないだろう?」
怖いよ! と叫びたくなった。階段を上がって、迷いのない足取りで俺の部屋の前に立つ。そして、チャイムを押した。
「俺、鍵持ってるんだけど」
「そうだった」
「加賀さん? おかえりなさい」
扉が開き、倉知が輝く笑顔で出迎えた。父を見て、面食らう。
「あ、え? どちら様ですか?」
「遅くに申し訳ない。定光の父です」
倉知は後ずさり、玄関の段差につまずいて、尻餅をついた。
「こん、ばんは、初めまして」
尻餅をついたまま、蒼白な顔で言った。
「大丈夫?」
父を押しのけて、倉知の手を引いた。
「腰が、抜けました」
「ごめん、急に連れてきて」
「いえ、大丈夫です」
助け起こそうとする俺の手をそっとどけて、正座をし、そして、そのまま頭を下げた。
「なんで土下座してんの?」
「わ、わかりません。でもなんか、あの、すいませんでした!」
父の顔が怖くて、謝らずにはいられないのだろう。
「ほら見ろ、すげえ怯えてんじゃん」
「何故だ、わからん」
「顔が怖いんだよ、顔が」
「なるほど。七世君、頭を上げなさい」
命令口調で言うと、倉知の体がびくついた。おそるおそる顔を上げる。
父が、優しい表情で笑う。最初からそういう顔をしていてくれ、と思った。
「定光から君とのことを聞きました」
倉知がガクガクと震え出す。
「私には、この子がすべてだ。とても大切に育ててきた、私の宝物だ」
父が俺をそんなふうに思っていたなんて、初めて知った。少し寂しそうに、俺を見ている。
父が倉知の前に屈み込んだ。
「定光は、君と別れるくらいなら、私と縁を切ると言った」
「え」
倉知が青ざめた顔で、俺を見上げる。
「縁を切られるのが嫌だから、不本意だが君たちのことを認めようと思う」
「何それ、そうなの?」
「冗談だ」
はは、と笑ったが、倉知は強ばった表情のまま、床に手をついている。
「七世君、笑うところだよ」
倉知が笑わないのが不思議らしく、父は首を傾げた。倉知は真剣な顔で父の顔を凝視している。とても笑える状態ではない。
「さて。タクシーも待たせていることだし、また今度ゆっくり話そう」
父が立ち上がった。倉知が慌てて腰を上げて、軍人のように直立不動になった。
「君のご両親も、同じように、君を宝物だと思っているだろう。覚えておいて欲しい。君たちは、宝だ。だから、傷つけ合うようなことだけはしないで欲しい。仲良くしてくれれば、他に何も望まない」
「お」
倉知が泣き顔で口を開いた。
「怒らないんですか?」
「定光が私より優先する男だ。君はきっと、何か持っている」
その言葉を聞いて、今までそんな相手は存在しなかったことに気づく。俺の中で、父は揺るぎないトップだった。
父が手を差し伸べた。倉知がその手を見て、自分のズボンで手のひらを拭い、握手をした。
「息子を、どうか大切にしてください」
握手をした右手に、左手を添えて、倉知の顔を静かに見据えて言った。
「はい、絶対、傷つけません。大切にします」
「いい目をしてるな」
父は笑って倉知の腕をポンポンと叩き、「おやすみ」と言って踵を返し、ドアを開けて出て行った。
「ここで待ってて」
倉知の頭を撫でてから、父の後を追う。
「親父」
階段を下りようとしていた父が振り返った。
「俺は、親父のことも大事だよ」
確かに、別れろと言うなら縁を切ると脅したが、だからと言って父を蔑ろにしたわけじゃない。どっちが大事、と順位をつけられるものでもない。
父がゆっくりとした足取りで、こっちに戻ってきた。
「わかってる」
俺の頬を撫でてから、抱きしめてくる。
「愛してる」
「う、お、おう」
「どうした、愛してると返してくれないのか」
「海外ドラマかよ。こんなおっさんが親に愛してるって言うの、おかしくない?」
「定光、お前はおっさんじゃない。美しい、私の宝」
頬ずりをされた。なんだこれは。
今になって、気づいた。
父は酔っている。
「愛してると言うまで離さんぞ」
「愛してる!」
即座に叫ぶと、すぐに解放された。
「よし、おやすみ。七世君も、おやすみ」
俺の背後を見て言った。振り返ると倉知がドアの隙間からこっちを見ていた。呼ばれて、ガタガタと慌てて飛び出してくる。
「ごっ、ごめんなさい、おやすみなさい」
腰を九十度に折り曲げて頭を下げる倉知を見て、親父はふふふ、とほくそ笑みながら、階段を下りていった。
二人で上から見下ろして、タクシーに乗り込む父に手を振った。
「加賀さん」
「うん」
「お父さん、加賀さんのこと、大好きですね」
「そうだよ」
「本当に、愛されてますね」
「うん、俺もちゃんと、愛してる」
タクシーが走り去る。見えなくなるまで、二人で並んで見送った。
「それなのに、縁を切るって」
倉知がボソッと言った。
「それぐらいの覚悟で付き合ってるって言いたかっただけだし、親父もわかってるよ。寒いな。中入るぞ」
部屋に戻ると、倉知が後ろから抱きしめてきた。
「お父さん、加賀さんに似てますね」
「ん、そう?」
「男前です。カッコイイです。あとすごい迫力でびっくりしました」
「常人離れしてるからな、あの人」
「それは加賀さんもですけど」
「えー?」
「俺を見て、でかいとか、大きいとか、驚かない人って、珍しいです」
「お前、びびりすぎて体半分になってたからな」
倉知をくっつけたまま、寝室に向かう。
鞄を置いて、俺を抱きしめている倉知の腕を撫でた。ずっと、体が震えている。
「寒い? 裸で温め合う?」
「違うんです。怖くて」
「怖かった? ごめんね」
「お父さんが怖いんじゃなくて、もし、認めてくれなかったらって、加賀さんと、別れなきゃいけなくなったら、俺」
倉知を不安にさせたくなかったから、今日父と会うことを伝えなかった。
でも結局、泣かせてしまった。
「泣くな。大丈夫。現実に、親父は許してくれたし、お前を気に入ったみたいだよ」
「気に入って、ました?」
「いい目をしてるって言ってただろ? あれ、親父が気に入った奴に言う科白」
そういう気障なところがある。
「気むずかしそうに見えるけど、子どもっぽいところもあるし、まあ怒るとすげえ怖いけど、いい人だよ」
「怒ると怖いんですね」
「……うん」
理不尽なことで怒ったりはしないが、怒ると怖い。
身震いをすると、倉知もガタガタ震えだした。
「お前みたいないい子は、多分一生怒られないから大丈夫」
「加賀さんもいい子ですよ?」
「あー、悪い子だったときもあったんだよ」
竹刀を持って追いかけられたこともある。母の不貞が発覚した頃、俺は若干荒れかけたが、父が力任せに更正させてくれた。
「お父さんのおかげで、今の加賀さんがいるんですよね」
「うん、そう。だから感謝はしてる」
「俺も、感謝します。だって、加賀さんの全部が好きです」
「おう」
倉知が俺の首に唇を押しつける。
「着替えていい?」
倉知が黙って俺から離れて、ベッドに腰掛けた。
「明日、誕生日ですね」
「うん、そうだね」
「本当は日付変わるまでいたいんですけど」
コートをクローゼットにしまってから、腕時計で時間を確認した。ロレックスが目映すぎて目が眩む。
「あと二時間で明日だな。制服持ってこなかったの?」
「はい、もう帰りますね」
寂しそうに俺を見る。スーツを脱いで、倉知の頭を撫でる。
「それ、新しい時計ですか?」
「目ざといね。さっき貰ったんだよ」
「高そうですね」
「ロレックスだからね。三百万以上するっぽい」
「……はい?」
ロレックスを外してサイドテーブルに置いた。
「親父、時計が異常に好きなんだよ。アパート置いとくの怖いって言ったら、来年マンション買ってやるって言い出すし」
倉知が黙った。そりゃあ、引くだろう。誕生日のプレゼントが高級時計で、マンションまで買い与えようとしている。どんな甘やかしだ、と自分でも呆れる。
「……加賀さんは、すごく、お金持ちのおうちの子なんですね」
スーツから部屋着に着替えて振り向くと、倉知がようやく口を開いた。
「まあ、金で苦労しなかったかな。でも俺、わりと倹約家だよ。衝動買いしないし、金銭感覚もまともだろ?」
「そうですね」
奢り癖はあるが、貯金はそれなりにしているし、欲しい物があれば自分で買う。親にたかったことはない。
「くれるっていうんだから、貰っとくよ。一緒に決めような」
倉知の膝の上に向かい合って座る。
「え?」
「俺とお前の新居だろ」
「え、う、うわ、そう、そうなんですか?」
「そうだよ? 俺はキッチンさえ思い通りになればそれでいいけど。お前は何にこだわる?」
俺の腰を抱き寄せて、キリッと男らしい表情で言った。
「お風呂です」
「お、おう。さすがだな」
「二人で入れる大きいお風呂がいいです」
「なんでそんなかっこつけた顔してんの?」
頬を引っ張ってひたいとひたいをくっつけた。
「早く一緒に暮らしたいです」
「うん」
「もう帰らないと」
「うん」
軽くキスをしてから、膝からどいた。
玄関で、靴を履きながら思い出したように倉知が言った。
「日付変わったらおめでとうメールしていいですか?」
倉知以外がそれをやったらうざいとしか言いようがないが、こいつがやると可愛いと思えるから不思議だ。
「うん」
「寝ないように頑張ります」
「無理すんなよ。それより俺は、プレゼントが楽しみだなあ」
誕生日に抱かせてくれる約束だ。赤面して顔を背けるところを見ると、覚えていたらしい。
「……期待しないでください。三百万円の腕時計には勝てません」
「馬鹿言え。勝つよ」
倉知が片手で顔を隠して、玄関のドアに激突した。開いていると勘違いしたらしい。
「大丈夫?」
「はい、あの、帰ります」
「うん、気をつけて」
ドアを開けて、一度出て行って、すぐに戻ってくる。唇に吸い付いて「おやすみなさい!」と叫ぶと、ドタバタと逃げるように去って行った。
羞恥と闘う表情がものすごく可愛い。
「やべえ、可愛い」
明日はせいぜい、壊さないように可愛がろう、と決めた。
〈おわり〉
応援ありがとうございます!
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