電車の男 番外編

月世

文字の大きさ
上 下
14 / 45

主任と僕

しおりを挟む
〈高橋編〉

 主任のおかげで、前畑若菜さんと付き合えることになった。
 前畑さんは、僕のことをいつもひどく罵ったりして、嫌いでたまらないのだな、と思っていたのに、こんなことになるなんて驚きだった。
 僕のことが好きというわけじゃない。
 主任と卓球で勝負して、負けたから付き合うことになったのだ。
 何度か食事に行って、そのあとホテルに連れられて、セックスをした。
 初めてのことだった。何がなんだかわからなかったけど、前畑さんは経験があるようだったので、全部任せた。
 すごく気持ちがよくて、もう一回したかったけど、前畑さんはそのとき酔っていて、だからできたのだと言われた。
「しらふであんたと寝るなんて無理」
 と言われた。
 その後、デートを重ねて、なんとなく上手く付き合えているかもしれない、と少し自信がついてきたとき、主任が言った。
「前畑とは順調?」
 お昼に二人でラーメン屋に入り、注文をして、待っているときだった。
 僕と二人のときは、前畑さんの話題を避けていたのに。だからびっくりした。付き合いだしてから、一ヶ月経った頃だ。もう営業部の中でも周知の仲になっているし、話題に出してもいい頃合いだと思ったのかもしれない。
「多分、順調です。デートに誘っても断られないんで、嫌われてはいないかなぁ?」
「まあ、出発地点がマイナスからだもんな」
「そうなんですよ。だから、今ようやくゼロになったかなって感じです」
「これからプラスになってくようにしろよ」
「はい、頑張ります」
「おう」
 主任がにこ、と笑った。主任がこうやって労ってくれると、頑張ろうという気持ちになる。主任はカッコイイ。笑ってもカッコイイ。
「あの、主任」
「うん」
「僕、前畑さんより前に、女の人と付き合った経験がないんですけど」
 僕が言うと、主任の後ろにいた、隣のテーブル席の人が振り返ってこっちを見た。若い男女の二人組だ。恋人同士だろうか。
「……うん、ああ、そうか。そうだよな。お前二十二だっけ?」
「はい」
「うん、まあ、いいと思う」
 主任が眉間を掻いて、僕から目を逸らし、水を一口飲んだ。
「それで、訊きたいんですけど、普通、付き合ってどれくらいでエッチしますか?」
 主任が無言でコップをテーブルに置いて、激しくむせ始めた。
「大丈夫ですか?」
 クスクスと笑い声があちこちから聞こえた。隣のテーブルの二人も、カウンター席のお客さんも、振り返ってこっちを見ている。
「お、まえ、でかい声で何言ってんの? こういう話は車ん中でしろ」
「え? ああ、そうですね、すいません」
 はあ、と主任がため息をついたところでラーメンがきた。とりあえずおしゃべりはあとにして、食べることにした。
「お前とこういう話をすんのって、すげえ気持ち悪い。鳥肌止まんねえわ」
「えー、なんですか、気持ち悪いって」
 ラーメンをふうふうしながらついでに口を尖らせた。
「なんかその辺のカップルにアンケートでも取ってきたら?」
 主任が急に投げやりになった。
「わかりました。じゃあ食べ終わったらそうします」
「冗談だよ?」
「えー? そんなわかりづらい冗談やめてくださいよぅ。僕本気にしちゃうんですから」
 うん、と言って主任がラーメンをすする。主任の背後で、カップルが顔を寄せ合って何か喋っている。食べ終わったらあの二人に訊いてみよう、と思った。
「高橋」
「はいー?」
「冗談だからな? 人様を巻き込むんじゃねえぞ」
 主任は僕の考えが読めるようだ。わかりました、と答えてラーメンを口に運ぶ。
 食べ終わって水を飲んでいると、隣のテーブルにいた二人が席を立って、僕たちのテーブルの横で肩を抱く格好で足を止めた。
「俺たち、付き合って五日目でやったよ?」
「え」
 驚いて目を見開いた。金髪の男の人と、茶髪の女の人のカップルで、見た感じは十代に見える。
「お兄さんは、付き合ってどんくらい経つの?」
 金髪の男の人が僕に訊いた。
「えっと、一ヶ月くらい経ちましたねぇ」
「じゃあもうやっちゃえよ」
 やだー、と女の人が男の人の頬をつねる。そして、はた、と主任に目をやると、顔色が変わった。主任はカッコイイから、女の人は大体こうなる。
 主任は爪楊枝をくわえながら、頬杖をついて、難しい顔で二人を見上げている。
「ね、いこ」
 顔を赤くした女の人が、慌てて彼氏の手を引っ張っていく。
「なんだよ、急に」
 二人が会計をしている間、主任は黙ってレジのほうを見ていた。
「あー、凹むわ」
「え、なんですか?」
 二人が出て行くと、主任がうなだれた。
「ああいう性に奔放そうな奴らでも、付き合って五日か……」
「それって早すぎですよね?」
 主任がちら、と僕を見る。
「……うん」
 間を置いて答えると、立ち上がって伝票を取る。主任はいつでも当然のように奢ってくれる。それでも僕は、お礼を忘れない。店を出ると、「ごちそうさまでした」とお礼を言う。
「うん、あー、やべえ。恥ずかしくなってきた。いい大人なのに」
「えぇ? どうしたんですかぁ?」
「なんでもない」
 営業車に乗り込むと、主任がステアリングを握って言った。
「帰るか」
「はい、あの、さっきの二人はあんまり参考にならないんで、主任の経験談を教えてください」
 シートベルトを締めて、エンジンをかけながら、僕を見る。
「高橋」
「はい」
「俺は、童貞だ」
「えっ、……えー? え? そんなあ、え? 主任ですよね?」
 混乱する僕を見て、「すまない」と目を逸らす。
「だからお前の質問には答えられない」
「僕は信じません」
 はっきりと言った。
「え、なんで? 信じろ馬鹿」
「いいえぇ、この件については信じません」
 シートベルトを締めて、胸を張る。
「主任の言うことは全部正しいし、いつもなら信じますけど」
「待て、全部正しいわけないだろ」
「僕が入社したてのとき、訊いたら教えてくれましたよね。過去に付き合った女の人の数、六人でしょ?」
「経験人数なんて誰が言った? 手を繋ぐのが精一杯の、肉体関係のない清らかなお付き合いで」
「信じませんよ?」
「あー、はいはい。童貞じゃなくてすいませんね」
「平均したらどれくらいの期間かかりました?」
 うーん、とうなりながら車を発進させる。
「二ヶ月かな?」
「二ヶ月……、あと一ヶ月かぁ」
 そんなに待たなきゃいけないなんて、悲しい。
 早く、もう一度前畑さんとエッチがしたかった。
「別に、人それぞれなんだからお前のタイミングでいけよ」
「でも、どうやって誘えばいいかわからなくって。主任は、七人目の今の彼女さんとは……、あれ? そもそもいつからお付き合いしてるんでしたっけ?」
「うん、いつからだっけな。あー……、なあ、お前はどう思う? 挿入して初めて関係を持ったと言えるか?」
「え、他に何があるんですか?」
 僕が訊くと、主任は黙った。しばらく黙々と運転した。赤信号で停まったとき、「訊く相手を間違えた」とぽつりと言った。
「まあ、二日も一週間も大差ないか」
「どういう意味ですか?」
 首を傾げる。主任は僕を置いてけぼりにしたまま、アクセルを踏む。
「明日、仕事早めに切り上げて、飲みにいくぞ」
「わあ、やったー。二人でですか?」
「めぐみさんと前畑と、俺とお前」
「へー、四人でですか。珍しいですね。ちょっと早い忘年会ですか?」
「高橋、俺はお前を信用してる」
 僕は驚いて主任の横顔を見た。
「他の奴らに散々言われて自覚もしてるだろうが、お前は仕事ができない。特に秀でた能力もないし、それをカバーする情熱もない。努力が嫌いで、隙あらば手を抜こうとするし、一般常識に欠けるし、ゆとりだって馬鹿にされるのも仕方ない」
 信用している、と言われて喜んでいたのに、急に僕を攻撃し始めた。主任が僕をこんなふうに言ったのは初めてで、びっくりして泣きそうになった。全部本当のことだから、なおさらショックだった。
 主任だけは、僕を悪く言わないと思っていた。
「でも、お前に一切悪意がないのはわかるし、底抜けにいい奴だと思うよ。口も堅いしな。だから俺はお前を信用してる」
 じわ、と涙が出た。
「主任、しゅにーん!」
 運転中の主任に抱きつこうとする。ごん、と目の中で火花が散った。主任が繰り出した肘が、僕のおでこに激突した。
「あっぶね、事故ったらどうすんだよ」
「うわーん、痛いです」
 涙がボロボロこぼれてくる。主任が横目でこっちを見たのがわかった。
「主任」
「うん」
「僕、主任のことが大好きです」
「はは、そうか」
 主任は人から好かれやすいと思う。主任がカッコよくて、優しいから、男の人も、女の人も、主任が好きだ。社内でもそうだし、営業先のお客さんにも人気がある。
 主任は僕の憧れだった。
 前畑さんが、ずっと主任を好きでも、それはどうしようもないことだ。主任より僕を好きになる日なんて、きっと来ない。でも、どうしようもないからそれでいい。
 それに僕も、主任が好きだ。だからちっとも悔しくない。
 それにしても。
 どうして突然、僕を「信用してる」と言い出したのか。
 それは明日の飲み会で、明らかになる。

〈おわり〉
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

温泉でイこう!~イきまくり漏らしまくりの超羞恥宴会芸~

市井安希
BL
男子大学生がノリでエッチな宴会芸に挑戦する話です。 テーマは明るく楽しいアホエロ お下品、ハート喘ぎ、おもらし等

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

真・身体検査

RIKUTO
BL
とある男子高校生の身体検査。 特別に選出されたS君は保健室でどんな検査を受けるのだろうか?

ずっと女の子になりたかった 男の娘の私

ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。 ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。 そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。

【BL】SNSで人気の訳あり超絶イケメン大学生、前立腺を子宮化され、堕ちる?【R18】

NichePorn
BL
スーパーダーリンに犯される超絶イケメン男子大学生 SNSを開設すれば即10万人フォロワー。 町を歩けばスカウトの嵐。 超絶イケメンなルックスながらどこか抜けた可愛らしい性格で多くの人々を魅了してきた恋司(れんじ)。 そんな人生を謳歌していそうな彼にも、児童保護施設で育った暗い過去や両親の離婚、SNS依存などといった訳ありな点があった。 愛情に飢え、性に奔放になっていく彼は、就活先で出会った世界規模の名門製薬会社の御曹司に手を出してしまい・・・。

ショタ18禁読み切り詰め合わせ

ichiko
BL
今まで書きためたショタ物の小説です。フェチ全開で欲望のままに書いているので閲覧注意です。スポーツユニフォーム姿の少年にあんな事やこんな事をみたいな内容が多いです。

処理中です...