電車の男 番外編

月世

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腐女子の幸福

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〈六花編〉

 七世の部屋を、ノックもせずに開け放つ。
 数学の教科書を眺めながら腹筋していた七世が私を振り返った。
「何?」
 動きを止めずに七世が訊いた。
「最近、毎週加賀さんとこ泊まってるでしょ?」
「え、は、はい」
 駄目? という不安げな目で見上げてくる。駄目ではない。大いに泊まりまくればいいと思う。
「たまにはうちに泊まって貰おうよ」
「えー……」
 七世の頭の中が透けて見える。
 自宅だと、何もできない。
「お父さんもお母さんも、言ってたよ。もっと加賀さんと話したいんだって」
「それ、加賀さんが嫌がらないかな?」
「彼氏の自宅に泊まって両親の相手するって、そりゃ普通は嫌でしょ。疲れるに決まってる」
「うん、加賀さんが可哀想」
「でもね、加賀さんって根っからプラス思考みたいなんだよね」
「……? うん、よく知ってるね」
「メル友だから、私たち」
「メルと……、え? いつの間に?」
 この前の三連休で旅行に行くとき、連絡が取れないと困るので、お互いの連絡先を交換したのだ。
 数回のやり取りで、加賀さんが楽しくてポジティブで面白い人だ、ということがよくわかった。冗談が通じるからつい調子に乗って変なことを言っても、恐ろしいほどの包容力で許してくれる。
 あんな人はなかなかいない。大事な弟の相手があの人で、本当によかったと思う。
「加賀さん、面白そうだからいいよって」
「な、何、なんで俺に内緒でそんな話になってんの?」
「七世に言っても、えーではぐらかすと思ったからだよ」
 実際にその通りだった。
「なので、今度の土曜日は加賀さんがうちにお泊まりにやってきます」
「やったー!」
 開けっ放しのドアの向こうに、五月が立っていた。風呂上がりらしく、下着姿だ。うちは本当にプライバシーというものがない。こんな状態で、ラブラブ期真っ盛りの男カップルを家に置いていいのか、とも思ったが、いいに決まっている。何か起きればいいし、現場を見たい。
 七世が頭を抱えた。ぽん、と肩に手を置いて言った。
「大丈夫、加賀さんがいる間は下着姿でうろつかないようにするから」
「当たり前だし、普段からそうしてよ」
 頭を抱えたままうめく。
 楽しいお泊まりの日はあっという間にやってきた。
 家の中の歓迎ムードがすごい。数日前から、家族総出で大掃除をし、父は、加賀さんと観るんだ、と言ってDVDを何本も買ってきて、母はレシピ本を見ながら何を作ろうかとそわそわし、五月は慣れないお菓子作りに挑戦しようとするし(当然失敗)、私は新しいスケッチブックを三冊買った。
 デッサンさせて欲しい、とあらかじめ頼んである。特に怪しむ様子もなく、いいよ、と承諾してくれた。
 美しい人をモデル料なしで描き放題なんて楽しすぎる。そしてそのデッサンは、今後の創作に生かすつもりだ。
 二人をモデルにした漫画も、出会いの部分は仕上げている。
 試しにネットに上げてみたら、続きを要求する声が多かった。
 本格的に描く前に、もう少し二人を間近で観察し、加賀さんを「自分のキャラ」にしておきたい、と思ったのだ。
 土曜日に家族が揃うのは珍しい。
 彼氏が切れたことがない五月は大体デートで、七世は部活だし、私はバイト、父と母は二人でどこかに遊びに行っていないことが多い。
 今日、加賀さんは半日仕事らしく、終わったら連絡する、と言って二時過ぎに七世のスマホにメールが来た。三時には着くって、と告げた七世は時計を見ながらそわそわと落ち着かない。
 一人ひとりに、「変なことしないでよ」と何度も念を押す。
「七世、落ち着いて。大丈夫、うちの家族が変なことするのは、いつものことだし加賀さんは心が広いから許してくれるよ」
「大丈夫じゃないよね、それ。なんで最初から変なことする気満々なの?」
 七世がひたいを抑えて天井を仰いだところでチャイムが鳴った。
「あああ、加賀さんだ……」
「あたしが出る!」
 五月がリビングから飛び出して行く。我も我もと父と母が追いかける。当然私も追いかける。七世が最後に重い足取りでついてくる。
「いらっしゃいませ!」
 五月が叫んで玄関のドアを開けた。全員に迎えられて、加賀さんは気圧された様子でよろめいた。
「うお、こんにちは、皆さんおそろいで」
「キャーッ! 加賀さんだ、加賀さんだあ!」
 五月のテンションがおかしい。ピョンピョン跳びはねている。
「はは、五月ちゃんはまた酔ってんのかな?」
「お仕事お疲れ様。むさ苦しいところですが、ようこそ」
 父が頭を下げ、母は嬉しそうにフィギュア選手のように二回転した。加賀さんはそれを笑いながら見て、頭を下げた。
「今日はお世話になります、すいません」
「荷物俺の部屋置いて来るんで、貸してください」
 七世は荷物を預かると、階段を三段飛ばしで駆け上がっていった。
 五月が七世の後ろ姿を見送って、
「加賀さん、七世の部屋で寝るの? あたしと寝るよね?」
 と言った。
「え? いやいや、なんで? それはないよね」
 本当になんで、だ。父が振り返り、じっと二人を見て、何か言いたそうにしている。
「加賀さんは」
 父が真面目な顔で口を開く。
「お父さんと寝るよね?」
 急に娘が心配になったのか、と思ったが違ったようだ。父の発言に、加賀さんは戸惑いを隠し切れていない。一瞬、助けを求めるように二階を見た。
「あの、俺と寝たいんですか?」
「うん、寝たいよ。七世とはいつも一緒に寝てるんだから、お父さんと寝ようよ」
 さらっと過激な発言をしたが、あっという間に戻ってきた七世が「なんの話?」と助け船を出す。
 それにしてもさっきから「寝る」とか「寝たい」を連発しすぎだ。
 別の意味にとらえてしまって困る。
 残念ながら、父と加賀さんの絡みはまったく萌えない。
「お父さんが加賀さんに一緒に寝ようって誘ってる」
 私が言うと、七世が声を裏返らせた。
「……はあっ!? ていうか、なんで廊下で立ち話?」
 七世につっこまれて、全員でぞろぞろとリビングに移動した。
「加賀さん、映画観よう」
 加賀さんをソファに座らせると、隣に父が座り、DVDをテーブルに並べて言った。
「どれ観たい? 全部俺のお薦めだから」
「駄目、加賀さんはあたしとゲームするんだから! どれします? 格ゲーと、マリオと、ぷよぷよ!」
 五月がゲームのパッケージを加賀さんに突きつける。父と五月が顔を見合わせ、火花を散らす。
「加賀さんは俺と映画観るんだよ」
「あたしとゲームするの!」
 七世がリビングの床に正座をして、「ほんとすいません」と恥ずかしそうに顔を手で隠した。
「はは、いいよ。じゃあ、とりあえず映画観ましょう。見終わったらゲームしよ。それでいい?」
 加賀さんの朗らかな笑みにあてられてか、二人が大人しくなった。
 それを見て「あの」と挙手をした。
「普通にしててもらっていいんで、デッサンしてもいいですか?」
 私が言うと、七世が「六花まで」とあからさまにがっかりした。
「いいよ」
 加賀さんが答えて、七世を見る。
「元々約束してたし、六花ちゃんみたいな上手い子に描いて貰えるなんて光栄だよ」
「ほんと、どんだけ心広いんですか」
 惚れ直した、という顔で七世がうっとりと加賀さんを見る。
「で、どれ観る? どれ?」
 父が急かす。一度観た映画を他人と観て、その反応を見たり感想を聞いたりするのが父は好きだ。
「あー、じゃあ、観たかったんで、これで」
 パッケージを見比べていた加賀さんが、父にDVDを渡した。
「おお、これか。そういやこの前二人で映画行ったんだって? あれ、どうだった?」
「あー……、駄目でしたね」
「だよね、やっぱ主演がねえ、まあそれ以前に監督がねえ」
「二作目までの監督が最高なんですけど」
「あ、やっぱそう思う? 三作目から監督変わって駄作になったんだよなあ」
「ご飯の用意するけど、うるさかったらごめんね」
 母がお菓子とコーヒーを持ってきた。
「いえ、大丈夫です。何か手伝うことあったら言ってください」
 加賀さんが客らしくないことを言うと、母は調子に乗った。
「えっ、手伝ってくれるの?」
「お母さん」
 七世が顔をしかめる。
「加賀さんとキッチンで並んでお料理とか、夢みたい。お願いしちゃおうかしら」
「加賀さんは俺と映画観るの!」
 父がだだっ子のように拳を振る。五月も同じ格好で拳を振る。
「映画終わったらあたしとゲームするんだから!」
「えーと」
 加賀さんが苦笑する。私は黙ってスケッチブックを開いて鉛筆を走らせた。とにかくいろんな表情を描きたい。
「いいもん、じゃあお母さん、一人で寂しくご飯作る。みんなのために、ご飯作る」
 とぼとぼと母が去って行く。父がしまった、という顔でDVDのケースを開けたり閉めたりしている。
「あの、ちょっと手伝って、また戻ってきます」
 加賀さんが腰を上げながら言った。父はもうだだっ子にはならなかった。五月が口をとがらせてブーブー言っている。
「あー、ごめんね、お客さんに手伝わせるなんて」
 父がお菓子を頬張りながら手を合わせた。母が喜ぶなら多少の無礼も目をつぶるのだ。父は母が大好きだから。
「いえ」
 加賀さんが笑ってキッチンに向かう。七世が心配そうについてく。その後ろを、スケッチブックを持って私も続く。
「何しましょうか」
 加賀さんが言うと、母は驚いて「本当に手伝ってくれるの?」と目を輝かせた。
「お許しが出たんで」
 リビングで、父がテレビを観ているふりをしている。
「私のエプロン貸してあげる」
 母がひらひらのエプロンを見せると、加賀さんが笑って「いつもしてないんで大丈夫です」と断った。ひらひらのエプロン姿もちょっと見たかった。
「何作るんですか?」
「あのね、パエリアとグラタンとキッシュとロールキャベツ」
 母が答えると、加賀さんが「本気ですか」とリビングの時計を見た。何時間かかるかわからないメニューだ。
「キッシュはできてるんだ」
「じゃあよかったです」
 私はダイニングテーブルに座って、スケッチブックを広げる。七世が私の前に座って、二人の様子をそわそわして見ている。
「お母さんが何かやらかすんじゃないかと思って心配?」
 七世が私を見て、「うん」と深刻な顔でうなずいた。
「でも見てよ、すごい嬉しそう」
 加賀さんと並んで料理をする母は、少女に返ったように見える。
「六花」
「うん」
「お母さん、いまだに俺の片思いだって思ってるみたい」
 テーブルにへばりついた七世が、声を潜めて言った。
 泊まりにも何度も行っているし、合い鍵だってもらった。二人が付き合っていることを前提にした会話も、母の前で堂々としている。それで七世の片思いだと思う、母の思考回路が心配だ。
「反対はしてないんだから、ほっといてもいいんじゃない。そのうち気づくよ」
「うん、でも、両思いだって言ったら、多分すごく喜ぶと思うんだ」
「わっかんないなー、普通喜ぶ? ていうか加賀さんの包丁さばきが素敵すぎる件!」
 知らないうちに私の隣に座っていた五月が両肘をついた乙女ポーズで加賀さんを眺めている。確かに、ピーラーじゃなく包丁でじゃがいもの皮を剥いている時点で勝てる気がしない。
「料理できる男の人っていいよね」
 ほう、とため息をついて五月が言った。
 母が一生懸命、いかに七世が真面目でいい子かを力説している。加賀さんはずっと笑顔でそれを聞いている。
 私は鉛筆をひたすら動かしながら疑問を口にした。
「加賀さんが料理できるのって、やっぱり一人暮らしだから?」
 七世が「うーん」とうなってそれ以上何も言わない。私たちの会話を聞いていたらしい加賀さんが、ちら、とこっちを見る。
 もしかして、加賀さんは何か特別な事情を抱えていたりするのだろうか。そういえば、七世は加賀さんの家族のことを何も言わない。一人暮らしだから、ということを除いても、今まで家族の話が出なかったのは妙だ。
 きっと、聞かれたくないことなのだ。天涯孤独ならまだしも、最悪、身内が犯罪者、とかもありうる。そういうダークな話題になっても困る。そっとしておこう、と決めた瞬間、母が無神経に訊いた。
「加賀さんは、ご実家は県内? 一人暮らしして長いの? あ、ご兄弟はいらっしゃる?」
 母が地雷原に踏み入った。七世が顔を覆う。
「実家は県内です。弟と妹がいるんですけど、弟と七世君、同級生で同じ小学校だったんですよ」
「えっ」
 母が素っ頓狂な声を上げた。五月が「えー? 何それ初耳」と身を乗り出す。
 そういう接点もあったとは。デッサンする手が自然と止まった。
「同級生に加賀君って子、いたかしら」
「両親が離婚して、名字変わってるんで。辻政宗です」
 七世はずっと顔を覆って動かない。加賀さんの表情を観察する。笑顔は消えていないし、触れて欲しくない話題というわけでもなさそうだ。七世がこんな状態になる意味がよくわからない。
「ああ辻君、覚えてる。七世、仲良かったよね、ねえ、知ってた?」
 母が七世に同意を求めるが、知らないわけがない。七世は顔面を無言でこすっている。
「加賀さんの弟ってことは、やっぱイケメンなの? 似てる?」
「似てない。俺の同級生だよ? 変なこと考えるなよ」
 五月が良からぬことを考えているのは私もわかった。
「高校二年生かあ。まあ、ギリギリ、ありっちゃあり?」
 五月が希望の光を見つけた。両手を握りしめる。加賀さんがそれを見て笑う。
「あいつ高校卒業したら結婚する予定だし、狙っても無意味だよ」
「けっ、結婚!? どういうこと!?」
 七世以外、全員が驚いて食いつく。加賀さんはたまねぎの皮を剥きながら、なんでもない口調で言った。
「付き合ってる彼女が妊娠して、来年子どもが生まれます」
 母と五月が声を揃えて「えー!」と悲鳴を上げた。こんなに騒いでいるのに父が無反応だな、と振り返ると、テレビを点けたままソファで死んだように眠っている。
「来年って……高校三年生で父親ってこと?」
 母が目を白黒させている。七世に子どもができる、と想像すると、ありえなさすぎて冗談としか思えない。
 加賀さんは顔色を変えずに、微笑みながら軽快に包丁を動かしている。
「親が離婚してる上に、兄弟がこんななんで、今まで家族のこと話せなくてすいません」
 当然、七世は全部知っていたらしい。驚いた様子はなく、顔中が申し訳なさで埋め尽くされていた。言わせたくなかったのだろう。
「俺、家族に恵まれなかったんです。父のことは尊敬してて、今でも仲はいいですけど、母親の顔も忘れるくらい会ってないし、兄弟ともちょっと微妙で」
 淡々と語る加賀さんを、私たちは息を詰めて見守った。
「だから、倉知家を見てたら本当に羨ましいし、温かくていいなって思います。兄弟仲も、親との関係も、俺からしたら、奇跡です」
 加賀さんが包丁を置いた。そして、手の甲で目元を拭う。
 泣かせた、と全員が戦々恐々とする。それぞれワタワタ騒ぎ出した。
「か、加賀さん、あたし、加賀さんの妹! あ、七世の姉だから、お姉さんになるの? あれ? どっち?」
 五月が立ち上がり、手を挙げて涙ぐむ。私も素早く鉛筆を動かしながら言った。泣く姿なんて貴重だ。
「もう加賀さんはうちの家族みたいなものですよ?」
 母が激しく縦に首を振る。
「そうだよ、加賀さん、ほぼうちの子だよ。ねえ、だって、七世、加賀さんと結婚するんだもんね」
 いつの間にか七世が加賀さんの背後に立っていた。後ろから、包み込むようにそっと、抱きしめた。
「ごめんなさい、加賀さん。泣かないで」
「いや、泣いてない」
 涙を拭いながら加賀さんが言った。
「タマネギが目にしみただけ。お前、料理中に抱きつくなって何回も言ってんだろ。危ない」
 五月が「まさかのたまねぎいいい!」と絶叫する。私は慌てて二人の絵を脳裏に焼き付け、今の科白を脳内で何度も再生する。
 抱きつくなって何回も言ってる、だと……?
 何回言っても抱きつくの?
 七世、何やってんの?
 好きなのね? 大好きなのね?
 恐ろしいくらい筆が進む。ハアハア言いながら二人の姿を模写した。
「なんだ……、タマネギか。ごめんなさい、つらくて泣いてるのかと」
 七世が謝ったが、加賀さんを離そうとはしない。
「つらいって、何が?」
「だって、家族のこと……」
「今更つらいもないだろ。吹っ切れてるよ、お前のおかげで」
 加賀さんがおかしそうに笑った。
「でも、お母さんも五月ちゃんも六花ちゃんも、ありがとう。ほぼ家族とか、すげえ嬉しいよ」
 母と五月の「キュン」という胸の音が聞こえた気がした。
「お前と結婚して、ここんちの子になれたら最高だな」
 手を伸ばして、七世の頭を手探りで探し当て、がしがしと乱暴に撫でた。
「します、結婚します」
 七世が震える声で宣言して、加賀さんを力強く抱きしめる。
 私の頭の中は大変なことになっている。ありとあらゆる賛辞の言葉が溢れ出て、氾濫している。そして手は止まらない。
「羨ま死ぬ」
 五月が急に冷静になって、ぽつりと呟くと椅子に座ってさめざめと泣くフリをする。
 母がぶるぶると激しく震え出した。
「ばんざーい! 七世、おめでとう! やっと両思いになれたね!」
 どこまでもずれた母だった。加賀さんが「えっと」と半笑いになる。
「随分前からベタ惚れです、すいません」
「えっ! そうだったの? じゃあ……、お互いに両思いだって気づかずにいたんだ……。ドラマみたい……」
 もう誰も何も訂正しようとはしなかった。
「加賀さん」
「ん」
「キスしたい」
 耳元でそう囁いたのが、確かに聞こえた。
 しろ、今すぐしろ! と念を送る。
 母も五月も聞こえていたらしい。五月は耳を塞いで机に突っ伏し、母は「誓いのキスだ」と輝く目で二人を見守る。
「ちょっとみんなしてパパをほったらかして、何楽しそうにしてるの?」
 寝ぼけ眼の父が私の前に座った。七世が夢から覚めたようにハッとする。慌てて加賀さんから飛び退いた。
「何も? 何もない。何もしてないよ」
 加賀さんが咳払いをして、みじん切りを再開する。
「お父さん」
 私は机を叩いて言った。
「ん、なんだ?」
「どうして起きてきた。あと数分どうして寝てられなかった。永遠に目覚めないようにしてやろうか」
 私の静かな怒りに気づいて、父が震え上がる。
「えー? 誓いのキスは? しないの? どうして? なんでしないの? したいんでしょ? あっ、あとで二人でこっそりするの?」
 母が父以上に空気の読めない発言をこれでもかと繰り返す。加賀さんが居たたまれない様子で黙々とタマネギを細かくし、七世は顔を覆ってキッチンを退散する。
 母はずっと、七世の片思いだと思い込んでいてくれたほうがよかったかもしれない。
 その後、母と加賀さんの合作ディナーを美味しくいただき、全員で後片付けをし、映画を観てゲームをして、わあわあ騒いで、十二時近くになってようやく母が動き出した。
「加賀さん、遅くなったけどお風呂入って」
 母が言うと、七世が「俺も入る」と当然のような顔をして言った。私は二冊目のスケッチブックを握りしめて親指を立てた。
「加賀さん、あたしと入ろう!」
 五月が言った。
「なんでだよ」
 父と私と七世が同時にツッコミを入れた。
「いいじゃない、家族じゃない」
「加賀さんは俺と入るの」
 七世が加賀さんの手を取る。母が「きゃあ」と言って頬を染める。
「お前みたいなでかいのと一緒じゃ狭くてくつろげないだろ。一人で入らせてあげなさい」
 父が加賀さんに気を遣ってか、正論を言った。七世がシュンとする。
「いえ、あの、大丈夫です。お風呂先いただきます」
 七世と手を繋いだまま、リビングを出て行った。
「……まあ、男同士だから、うん」
 父が頭を掻く。男女のカップルなら、家族がいるのに一緒に風呂なんて、許されない。でも、どっちも男だ。一緒に入ってもおかしくはない。でも二人は付き合っている。それなら止めるべきなのか。父が葛藤しているのがわかった。
 テレビの画面はぷよぷよの対戦画面のままだ。
 父と五月が無言でコントローラを握って、対戦を始める。
 家族の誰も、加賀さんに勝てなかった。大学でぷよぷよ研究会というサークルに入っていた、とかわけのわからないことを言っていた。そんなサークルが本当に存在するのかも怪しい。
 しばらく無心で二人の対戦を見ていたが、飽きた。スケッチブックを持って、ソファから腰を上げる。
「六花、寝るの?」
 母が訊いた。私は「まだ寝ない」とだけ答えてリビングのドアを開ける。
「りっちゃん、やっぱり覗きにいくんでしょ? あたしも行く」
「やっぱりって何? 覗きなんてするわけない。盗み聞きだよ」
「お前ら……」
 父が止めようとしたが、私たちは小走りになって争うようにリビングを飛び出した。
「五月、静かにね」
「りっちゃんこそ、変な声出さないでよ?」
 その約束はできない。
 風呂場の前までこそ泥のような足取りでたどり着いた私たちは、脱衣所の引き戸に耳をつけた。
 シャワーの音が聞こえる。何か喋っている声も聞こえる。五月と顔を見合わせた。音がしないように、少しだけ脱衣所の戸を開けた。シャワーの音が邪魔でよく聞こえないが、七世が謝っているのはわかった。
「すげえ楽しいから謝るなって。俺、ほんとみんな大好きだよ」
 シャワーの音が止んで、加賀さんの声が聞こえた。へへっ、と五月が嬉しそうにほくそ笑む。
「なあ、また泊まりに来ていい?」
 いい! と私と五月が脳内で返事をする。
「いいですけど、俺、二人きりのほうがいいです。キスもできないし」
 すんな! と五月が歯ぎしりをして、しろ! と私が鼻息を荒くする。
「じゃあ今するか」
「します」
 五月が廊下をほふく前進で進み、遠ざかっていった。聞いていられないのだろう。
 でも私にとっては、これはどんな至上のオーケストラよりも価値がある。脱衣所の戸の隙間をそっと大きくし、目を閉じて、ぶるぶる震えながら聴覚に全神経を注いだ。二人とも、湯船に浸かっているらしく、お湯が波打つ音が聞こえた。そしてキスの音。
 もう駄目だ、萌え死ぬ。ハァハァしながら、スケッチブックを廊下に広げて床に寝そべり、鉛筆を動かした。
「ちょ、待て。どこ触ってんだよ」
 加賀さんの甘い声が聞こえた。どこさわったんだよ! と書き殴る。
「もうおしまい。俺、先上がるわ。それ、ちゃんと抜いてこいよ」
 抜くって何をだよ、と混乱していると、湯船から上がる音が聞こえた。あ、やばい、と思った瞬間、風呂場のドアが開く。全身濡れた、湯上がりの加賀さんと目が合った。湯船に浸かっている七世からは見えない位置だ。それが救いだった。
 加賀さんは声を出さずに「え?」という顔をしたが、驚いて悲鳴を上げるとか、慌てて体を隠すとか、そういうことをしなかった。
 私が思わず視線を上から下に移動させても、まったく動じない。
 冷静に風呂場のドアを閉めると、髪を撫でつけてから、バスタオルで体を拭き始めた。
「すごい」
 呟くと、加賀さんが「はは」と小さく笑って人差し指を唇に当てる。
「加賀さん?」
 風呂場から七世が呼ぶ。
「なんでもないよ」
 私に向かって、戸を閉めろ、という仕草をしてみせた。うなずいて、うずくまったまま、ひたいを床につけて謝罪する。そっと戸を閉めて、腰を上げた。スケッチブックを持って二階に駆け上がり、自室に飛び込んだ。
 ベッドに転がってバタバタと足をばたつかせる。
「すごいものを見てしまった! うああああ、くそおおお、ツイートしてえええ」
 スマホに手が伸びそうになるのを必死で堪える。
「すごい、何、え、なんであの人隠さないの? 怒らないの? 神なの?」
 頭を抱えてのたうち回る。
「ていうか何あれ、裸まで綺麗ってどういうことなの?」
 ハッとして、慌ててスケッチブックを開く。こうなって、こうでこうで、こんなだった、と色づけまでして無我夢中で再現していると、階下で何か話し声が聞こえた。
 ドアを開けて耳を傾ける。
「いやだああ、一緒に寝る!」
 五月が駄々をこねる声。もう少し我慢してあそこにいればすごいものが見られたのに。見たことは絶対に言わないでおこう。
「加賀さんは俺と寝るの!」
 父が叫ぶ声。母が「みんなで寝ようよ」と馬鹿な提案をしているが、それを無視して七世が「俺と寝るに決まってる」と譲らない。
 私はペンを置いて部屋を出た。階段を下りると、廊下で加賀さんを取り合う家族が私を見上げる。
「六花、加賀さんと寝るのは俺だよね?」
 七世が泣きそうな顔で言った。加賀さんを、誰にも渡すまいと後ろから抱きしめている。
「あのさ、じゃんけんしたら?」
「それだ、いくぞ! 最初はグー!」
 父が叫んでグーを出す。つられて七世と五月がじゃんけんを開始する。
「じゃんけんぽん!」
 勝負は一回で決まった。チョキを出した父が、拳を突き上げて雄叫びを上げる。
「勝ったああああ!」
 どうしてそこまで加賀さんと寝たいのか、と若干引く思いだったが、多分父のことだから、二人で何か話したいのだろう。
 父はじゃんけんが強い。家族の癖を知っていて、こいつは最初に何を出す傾向があるとか、データを持っていて、勝ったり負けたりをその場に合わせて使い分けている。
 私だけはそれを知っている。父に優位な方法で勝負させたのは、勝たせたかったからだ。
 本当なら、七世と二人きりにして、こっそりいたすのを、隣で聞き耳を立てる、とかいう流れになれば最高だと思ったのだが、父の意思を尊重しようと思った。
 さっき裸を披露してくれた加賀さんへの恩返しの意味もある。
 さすがにいたしているところを聞かれたくはないだろう。
「あーもー、つまんない。風呂入ろ」
 五月が風呂場に向かう。
「よし、お母さん、客間に布団敷こう。俺も手伝う」
 父はうきうきしている。まさか、襲わないよな? とほんの少し心配だ。
「やだ、俺も一緒に寝る。加賀さんがいないと眠れない。抱っこして寝る」
 七世が加賀さんを離さない。ぐだぐだだ。多分、もう眠たくて限界なのだ。七世は普段こんな時間まで起きていない。抱きしめて頬ずりをして離さない。加賀さんは困った顔でされるようにされている。
「七世」
 七世が子どもの頃とまったく一緒な、見事な泣き顔を私に向けた。
「もしあんたが勝ってたら、二人で寝てたでしょ? お父さんが俺も一緒に寝るって割り込んできたら受け入れてた? 勝負事なんだからきっちりしなさい」
「……はい」
 この世の終わりのように落ち込んだ様子で、加賀さんを解放する。
「倉知君」
 階段を上がる七世を、加賀さんが呼び止める。
「おやすみ。また明日ね」
 優しい顔でそう言うと、手を振った。可愛いな、何それ、と見ていると、七世が階段の途中から一気に飛び降りて、着地と同時に走り寄り、加賀さんに噛みつくようなキスをした。
 私の目の前で、繰り広げられる甘いひととき。
 呼吸も忘れて魅入った。
「はい、おわり。めっちゃ見られてるから」
 加賀さんが七世を押す。七世は何度も振り返りながら階段を上がっていった。ドアの開け閉めの音を確認して、二人で同時に息を吐く。
「加賀さん」
「はい」
「さっきはすいませんでした。ほんの出来心で、覗くつもりはなかったんです。ただ、ちょっと盗み聞きをしようと思っただけで」
 覗きも盗み聞きも罪の重さは同じかもしれない。加賀さんは「いいよ」と簡単に許した。
「心広すぎません?」
「六花ちゃんって、俺のこと男として見てないでしょ。ただの創作のネタとして興味があるだけだろうなってわかるから、見られてもなんとも思わない」
 普通、創作のネタにされても気分が悪いものだと思うのだが。やはり、海のように広大な心を持っている。
「まあ、あれだけ綺麗な体してたら、隠さなくてもいいですよね。完璧じゃないですか」
「いやいや、ただのおっさんだよ。じゃあね、おやすみ」
「おやすみなさい」
 頭を下げて、思い直して「加賀さん」と呼び止めた。
「何?」
「私、本当に家族みたいに思ってますから」
 そう言ってから、いまだに敬語を使ってるくせに、嘘臭かったかな、と思った。でも本音だ。七世を任せてもいいくらい、信用しているのだから、家族のようなものだ。
 加賀さんは目を細めて嬉しそうに「サンキュ」と笑った。
「加賀さん、こっちこっち」
 父が客間から顔を出して手招いた。
「何か言われるかもしれませんけど、適当に相手してやってください」
「うん、大丈夫。六花ちゃん、ありがとう」
 おやすみ、と言って私の頭を撫でる。
 普通の女子なら、これで恋に落ちるのだろう。
 でも私は、悲しいかな、腐女子である。優先すべきところは別にある。
 よし、と気合いを入れる。
 創作意欲で溢れている。
 眠れない夜は、始まったばかりだ。

〈おわり〉
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