電車の男 番外編

月世

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弟の彼氏

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〈五月編〉

 髪を短く切ってから、近づいてくる男が格段に減った。
 所詮は男なんて、そんなもん。
 髪が長くて、可愛い服を着て、ひらひらのスカートを履いて、媚びるように笑っている女が好きなのだ。
 短い髪に、ノーメイク、飾り気のない動きやすさ重視の服。
 着飾らないって本当に楽。
 朝の準備の時間も半分以下だし、それに、ずっと履きたかったごっついスニーカーも履ける。
 これが本来のあたしなのだ。
「一体何があったの?」
 学食でラーメンをすするあたしの前に、亜矢が座った。
 小学校から大学までずっと一緒にいる一番の友人だ。唯一の女友達と言ってもいい。
「失恋して髪切ったついでに、どうせならもう自分を偽るのやめようと思ったの」
 亜矢はあたしが本当は男勝りでがさつな性格ということを知っている。
「似合うでしょ」
「似合う……っていうか、懐かしいよ。五月、小学校の頃、そんなだったね」
 面白そうにあたしの髪を撫でる。
「まあくんと別れたのがそんなにショックだったの?」
 まあくんというのは、先日あたしがふった元彼だ。
「違うよ。そもそも自分からふっておいてショック受けるって変でしょ」
「ふられたんじゃないの? でもじゃあ失恋って、どういうこと?」
 亜矢はのんびりしていて、頭の回転もスローだ。
「まあくんと付き合ってるとき、他の人、好きになっちゃったの。だから別れた」
「でも、まあくんのこと大好きだったじゃない」
「うん」
 顔も好みだし、優しすぎるほど優しいし、背も高くて、身体の相性もいい。
 でも彼は、ふわふわのあたしが好きだった。あたしは彼の前で、素が出ないように、いつも気を遣っていた。
「まあくんのことどうでもよくなるくらい、あの人のこと好きになっちゃったの」
 弟が、近所のお好み焼き屋に「イケメン」を連れてきた。その人を、どうしても見たくなった。あたしはイケメンが大好きで、彼氏がいようと、目の保養になるのなら、見ておきたかった。
 家に呼ぶことに成功し、初めて見たとき、確かにイケメンだ、と思った。
 スタイルがいい、細身のスーツ姿で、びしっとネクタイを締めていて、髪が真っ黒でさらさらしていて、高そうな腕時計をした、姿勢のいい、清潔感のある大人の人だった。
 なんとかこの人と付き合いたい、と思った。まあくんのことなんて、頭の隅に追いやっていた。今まで社会人と付き合ったことがなく、新鮮に映ったのもあるかもしれない。
 絶対に、落とす、と気合いを入れて対峙したのに。
 あの人は大人で、あたしの本性なんてとっくに見透かしていた。
 とびきり可愛い表情を作って見つめても、胸を限界まで披露しても、落ちない。動揺することもなく、余裕で笑っていた。
 猫をかぶっていることを知った上で、普段のほうが可愛いんじゃないか、とすごく優しい声で言われたとき、あたしのほうが落ちてしまった。
 そこからはもう、眩しくて、まともに見られなくなった。
 妹の六花は、彼は弟の七世と付き合ってるんだから、と真面目な顔をして言った。
 馬鹿だ、と思った。
 妹は腐女子で、いい男を見るとすぐにネタにしたがる。
 まさか自分の弟まで餌食にするとは思わなかった。
 いつもの悪い癖、と冷めた目で見ていたのに、妹が正しかったなんて、思いもしなかった。
 あたしが好きになったのは、弟の彼氏だった。
「あの人って、誰?」
「弟の」
 彼氏、という言葉を飲み込んだ。七世のためじゃなく、自分のプライドのためだ。
「弟の、知り合い」
「七世君の? じゃあ年下?」
「年上。社会人」
「へえー。やっぱりカッコイイの?」
「カッコイイ。好き」
 はあ、と息をついて首の後ろを両手で撫でさすり、机に肘をついてうなだれる。
「その人に、失恋しちゃったのね」
「うん、付き合ってる人いるんだって」
「奪わないの?」
 亜矢は首を傾げた。奪うことが正解みたいな言い方だ。
「奪えないよ。アウトオブ眼中って感じだもん」
「五月みたいに可愛い子になびかない男子っているんだねえ」
 そりゃあ、七世にメロメロだからね、とは言えなかった。
 黙ってラーメンを流し込み、器を持ってスープを飲んだ。
「五月、みんな見てるよ」
 あたしはおしとやかで、女の子らしく振る舞っていたから、学食でラーメンなんて食べたことがなかった。いつも、オムライスとかパスタとかを小さな口で時間をかけて食べていた。
「もういいの。これが本当のあたしだもん。それに当分彼氏いらない」
「それ、大事件だね」
 亜矢は心配そうだ。
「五月ちゃん?」
 声を掛けられ、男が顔を覗き込んできた。
「うわお、本当に激変してる」
「熊田君」
 嫌そうな声が出た。熊田は、大学に入った頃からずっとまとわりつき、付き合ってくれと言い続けている。
 あたしがイケメンとしか付き合わないと知って、「俺イケメンでしょ?」と自信満々に迫ってきて、正直うざい。それなりにイケメンかもしれないけど、猫背で服の趣味がおかしいし、舌っ足らずな喋り方も気持ち悪い。要は、生理的に受け付けない。
「え、なになに、なんでイメチェン?」
「別になんでもいいでしょ」
「噂になってるよ、五月ちゃんがおかしくなったって」
「あんたも変な幻想抱いてただろうけど、これがほんとのあたし。諦めついたでしょ」
「え、なんで? 俺、短い髪も好きだし、活発な感じで可愛いと思うよ」
 隣の椅子に座って、熊田がテーブルに肘をつく。足を組んで、あたしの横顔をじっと見る。
「今、ドキッとした?」
「は? 何が?」
「本当の私を可愛いって言ってくれるなんて、やっぱり付き合うなら熊田君しかいない!って思わなかった?」
「思わない」
「本来の五月ちゃんを全力で受け止めるイケメンって、俺しかいなくね?」
「あのね、あんた別にイケメンじゃないから」
 紙パックのジュースにストローを突き刺して、勢いよく飲んだ。
 亜矢があたしと熊田のやりとりを微笑んで見ている。
「きっつう。でも性格きつい女の子っていいよね」
 熊田はめげない。好きでもないこいつの前でも、律儀に、大人しくて可愛い女子を演じていた。急に態度を変えても、引かないところを見ると……。
「あんた、さてはあたしのおっぱいが目当て?」
「えっ、や、やだなあ。そりゃ大きいの好きだけど、それだけじゃないよ。参ったなあ、五月ちゃんの口からそんな単語聞くと思わなかった」
 亜矢が口元をふくらませ、今にも吹き出しそうだ。
「とにかくあたし、今あの人以外の男なんて興味ない。イモに見える」
「あの人?」
 熊田が反応する。
「何、誰?」
 こんな奴に教えるか。ジュースを急いで飲み干すと、席を立つ。
「五月の好きな人だよ」
 亜矢がニコニコしながら言った。
「亜矢!」
 あたしの恫喝にもケロッとして「失恋しちゃったらしいけど。まだ好きなんだって」と丁寧に教えてやった。
「失恋。え、この前まで付き合ってたあいつ? ふられたの?」
 熊田の顔が輝く。
「まあくんじゃない人なんだって」
「亜矢っ!」
 余計なことを言うな、と叫びたかった。でもさすがに大勢の目が痛い。
「何、どんな人? 俺よりイケメン? なわけないよね」
「あんたはなんでそんなに根拠のない自信で満ちあふれてるの?」
「熊田君、イケメンだよ」
 亜矢が何故か熊田のフォローをする。
「さすがあやや、お目が高い」
 熊田は亜矢のことをあややと呼ぶ。気持ち悪い。
「あたしにとってはイモだから」
 二人を置いて、さっさと学食を出て行った。
 それから毎日、熊田の執拗なアピールが続いた。
 うっとうしくて仕方がなく、口汚く罵ったり、時には殴りつけたりもしたのに、めげない。マゾだ。
 それは何日も何日も続いた。とにかくしつこい。いっそ沈めてしまおうか、と思った。男が言い寄ってくること自体はむしろ好きだったはずなのに、今はまったく嬉しくない。
 数週間後の土曜日のお昼頃、リビングでゲームをしていると、亜矢から『今家にいる?遊びにいっていい?』とLINEが来た。『いいよ』と答えると、すぐにチャイムが鳴った。
 玄関に出て「亜矢?」とドアを開けると、熊田を引き連れた亜矢が立っていた。
「な……、なんで熊田が」
「おはよう。たまたまコンビニで熊田君に会って、暇だから一緒に五月んとこ遊びに行こうってなってさ」
 とってつけたような言い訳だ。
「五月ちゃん、おはよ」
 手を振ってくる熊田を無視する。
「亜矢……、あんた、めんどくさい奴に自宅教えたわね」
「えへへ、ねえ、上がっていい?」
 悪びれない亜矢がコンビニの袋をあたしに突きつけた。
「お土産にお菓子買ってきたから許して?」
「ハーゲンダッツ一年分でも許さないわよ」
 ひったくって、二人に背を向けリビングに戻る。背後でおじゃましまーすと二人の声が聞こえた。
 ソファに座り、客をほったらかしてゲームを再開する。熊田がテレビを見て、「あ、無双」と指さした。
「五月ちゃん、こういうのするんだ。意外」
「あんたのせいで日々ストレス溜まるから、無性に人を斬りたくなるのよ」
「やだ、怖い。これ、戦争?」
 亜矢が怯えながらソファに座る。そして熊田は当然のような顔であたしの隣に腰掛けた。
「二人プレイしようよ」
「しない」
「ねえ、お昼まだだよね。三人でどっか食べに行かない? 俺奢るよ」
「じゃあ回らない寿司」
 指を動かしながら答える。う、と熊田が黙る。
「トロかあ」
 亜矢が嬉しそうに身を揺する。
「い、いや、もっとリーズナブルなのにしようよ」
「あんたはあたしをリーズナブルな女だと思ってるわけね」
「そうじゃないよ」
 熊田があたしの肩に手を置いた。振り払って、「千人斬り達成!」と叫ぶ。
「ちょ、殺しすぎじゃない?」
 怯えた声で熊田が身を引いたとき、玄関のドアが開く音がした。多分、七世が部活から帰ってきた。
「あれ、お客さん? あ、亜矢ちゃんだ」
 リビングに顔を出した七世が亜矢に気づいて頭を下げる。小学校の頃からの友人だから、当然面識がある。
「七世君、久しぶり。おっきくなったねえ」
 とぼけた声を出す亜矢に、七世は丁寧に頭を下げてから、熊田を見て一瞬動きを止めた。
「弟君?」
 熊田が訊く。
「はい、こんにちは。あの、ごゆっくり」
 そそくさと去って行こうとする七世を熊田はロックオンしたようだった。
「待って待って、ねえ、弟君の知り合いなんだよね、五月ちゃんの好きな人」
「え」
 七世が固まった。あたしを見る。あたしは黙って亜矢を見る。このおしゃべりめ。
「その人と、俺と、どっちがイケメン?」
 七世は熊田を値踏みするようにじっと見た。クソ真面目だから、本気で比較するつもりだ。少し笑ってから頭を掻いて、口を開く。
「すいません、客観的な意見が言えなさそうなんですけど」
「え、何、どういうこと?」
 熊田がポカンとする。自分の彼氏とどこぞの大学生を比べても答えは見えている。
「人それぞれ好みがあるし、もしかしたらあなたのほうがイケメンだって言う人もいるかもしれません」
「それ、遠回しに俺が負けてるってことだよね」
「あくまで俺の意見です、すいません」
 ぺこりと頭を下げる。
「七世君、相変わらず真面目だね」
 亜矢がほう、とため息をつく。
「ちょっと待って。俺よりイケメンなんてこの世にいる?」
 七世が「あ」という顔をした。
「あの、いいです、よく見たらあなたのほうがイケメンでした、すいません」
 ぶふっ、と勢いよく吹き出してしまった。熊田が痛い奴だと気づき、相手が面倒になったのだ。
「ちょいちょい、待て待て」
 リビングを出て行こうとする七世を熊田がしつこく呼び止める。
「ねえその知り合いの人さ、今呼べない?」
「え」
「熊田てめえ、調子のんなよ」
 すごんで見せると、熊田がちらっとあたしを見て、フッと笑った。
「俺の目で見て負けたなと思ったら、五月ちゃんのことは諦める。約束するよ」
「……熊田」
 意味ありげな視線を寄越してくる。
「そんなことで諦めるの? あんたのあたしへの想いはその程度?」
 という殊勝な科白を期待したのだろうと思って、そのまま口にすると、してやったりという顔になったので、頭を叩いた。
「なんて言うと思ったか! 七世、加賀さん呼んで!」
 熊田が頭を抑えてポカンとする。
「もういい加減うぜえんだよ! いいか、お前に極上の美を拝ませてやるから、金輪際あたしにつきまとうんじゃねえぞ! この小童が!」
 亜矢が腹を抱えて笑い出した。あたしは七世の胸ぐらを掴んで「早く!」とすごんでみせた。
「え、でも、今日加賀さん、午前中仕事だし、まだ終わってないかも」
 七世が時計を見ながら言った。
「いいから電話しろっての!」
「う、は、はい」
 スマホを出して、ちらっと熊田を見る。
「あの、今のが五月の本性なんですが、身を引きますよね?」
「知ってるし、引かないよ」
「えー……」
 熊田の返答に、七世のほうが引いた。顔を引きつらせてスマホを操作し、耳に当てる。
 熊田と亜矢がじっと七世を見る。見られている七世は落ち着かない様子で目を泳がせている。
「あ、加賀さん、すいません。あの、まだ仕事ですよね」
 電話の向こうの声はあたしたちには聞こえない。
「そうですか、あの……、そしたら、本当に申し訳ないんですけど、帰りうちに寄って貰うことって可能ですか? いや、その、なんていうか、五月が加賀さんを呼べって脅迫してくるんです。え? いえ、酔ってるわけじゃないです、しらふです」
 あはは、と亜矢が笑った。加賀さんの中であたしはそういうキャラになってしまったようだ。
「はい、わかりました。すいません、ありがとうございます。待ってます」
 七世が電話を切って、あたしを見る。
「来てくれるのね?」
「うん、どうせ帰り道だからいいよって。今会社出たとこだって」
 加賀さんに、会える。
 熊田のことは嫌いだし、ろくでもない奴だと思っていた。でも今回ばかりはグッジョブと言いたい。
「加賀さんに会える!」
 ソファの上で拳を天井に突き上げるあたしを、三人が揃って見ている。
「付き合えるわけじゃない奴のこと、ずっと好きでい続けるのって虚しくない?」
 熊田があたしを見上げて言った。覚めた目で見下ろして、鼻で笑う。
「それはあんたのことでしょうが」
「え、でも俺のがまだ見込みあるよね。だって五月ちゃんはフリーだけど、その人付き合ってる人いるんでしょ」
 七世が困った顔をしている。その同情したような目にイラッとした。無言でソファの上から飛んで、跳び蹴りをお見舞いした。
 倒れた七世の体の上にダイブして、ばしばしと胸を叩いて攻撃する。
「哀れんだ目で見るな!」
「違う、ちょっと悲しかっただけだよ」
「え、なんで今の流れで七世君を蹴ったの?」
 亜矢が珍しくするどい質問をした。
「別に」
 と答えるしかない。お互いの名誉のため、言わない。
「人を、斬ることにした」
 ソファに座ってコントローラーを握る。七世が部活のバッグを担いでリビングを出ていき、それを目で追っていた熊田があたしの隣に密着するように座った。
「俺も五月ちゃんの弟になりたかったなあ」
「あんたやっぱりマゾだね」
「七世君、かっこよくなったね。もう彼女できちゃった?」
 ぎく、として「し、知らない」と首を振る。
「バスケしてる子ってカッコイイんだよねえ」
 亜矢が両手の指を開いて、ネイルを眺めながら言った。おっとりとしているように見えて、実は肉食だ。七世のように、純朴というか、童貞臭い未経験の年下男が好みだ。
「ちょっと、七世はやめてよね。友達と弟が付き合うとかマジきもい」
「えー、でもお、久しぶりに見たら美味しそうに育っちゃって」
「あややが女の顔になってる」
 熊田が面白そうに言った。あいつはあんたの好きな童貞じゃないんだよ、と喉まで出かかった。
「どちくしょうううう!」
 ボタンを連打して、斬って斬って斬りまくった。二人が半笑いでテレビを眺めていると、シャワーを浴びた七世がリビングに戻ってきた。
「七世君」
 亜矢がソファから腰を上げ、冷蔵庫を開ける七世に駆け寄った。やめろって言ったのに、と舌打ちをする。
「ねえねえ、七世君彼女できた?」
「え」
「高校二年生だっけ? 背も高いし、モテそうだよねえ」
「あ、いえ、全然です」
「じゃあ好きな子いる?」
「す、好きな人は、います」
「あー、そうなんだあ。ねえ、私と付き合おう?」
 好きな人がいると言っているのにこれだ。二人の会話を背中で聞いていたあたしは、コントローラーを熊田に押しつけて立ち上がった。
「亜矢!」
 亜矢が七世の腰に抱きついていた。
「七世君、いい体してるねえ。筋肉すごおい」
「七世はやめろって言ったでしょ」
 体を触られまくった七世が硬直して赤面している。その童貞臭い反応が、ますます亜矢を喜ばせるんだよ、と渇を入れたい。
 ピンポーン、とチャイムが鳴った。
「加賀さんだ」
 七世がホッとした顔で言って、玄関に走っていく。
「亜矢、あとで覚えておきなさいよ」
「ん、今日中に落としちゃう」
「あんたね」
 歯ぎしりをして亜矢の体を揺すっていると、リビングのドアが開いた。
「加賀さん!」
 亜矢を放り出して飛び上がった。スーツ姿の加賀さんを久しぶりに見てテンションが上がる。
「あーん、会いたかった!」
 抱きつこうとするあたしを七世が阻止する。
「五月ちゃん、やっぱり酔ってる?」
 加賀さんが優しい顔で笑う。そして、亜矢と熊田に気づいて「お友達?」と訊いた。
 熊田がコントローラーを取り落として、慌てて立ち上がる。
「どうだ、熊田。わかったかこら」
 熊田は加賀さんを凝視してから、ごしごしと目をこすり、もう一度頭からつま先まで食い入るように見ている。
 亜矢が「完全勝利」と小さく拍手した。
「で、なんだった?」
 加賀さんがあたしに訊く。
「なんか俺に用事あったんだよね?」
「会いたかったから……駄目?」
 両手を胸の前で拝む形に握り合わせ、加賀さんを見上げた。はは、と短く笑ってから、ネクタイを緩めた。その仕草がめちゃくちゃ色っぽい。足下がおぼつかなくなり、ふらふらしていると、七世が「もういい?」と言った。
「今からご飯食べに行くから」
「何それ、あたしも行く!」
「えー……」
 あからさまに嫌そうな顔をする七世の腹を思い切りパンチする。筋肉の塊があたしのパンチを簡単に押し返す。腹が立ったので連打しながら、思いついたように言った。
「加賀さん、あたし回らないお寿司食べたい!」
「え、唐突だな。誕生日かなんか?」
「誕生日は五月五日だけど」
「だいぶ終わってるね」
 肩をすくめてから、ぽん、とあたしの頭に手をのせた。
「じゃあ来年ね」
 触られたことと、来年の約束をしてくれたことが嬉しくて涙が出そうになった。
「どう!? この大人の対応!」
 涙をごまかすために、わめいて熊田を振り向いた。
「はい、負けました」
 熊田がしょんぼりしている。ふん、と鼻を鳴らして中指を立てる。
「僕、帰ります」
 キャラが変わったように大人しくなった熊田が、すれ違いざまに加賀さんに頭を下げて、リビングを出て行った。
「大丈夫? 見送らなくていいの?」
 加賀さんが不思議そうに、熊田が出ていったほうを見る。
「いいの、あいつあたしのストーカーだから。見送りなんて必要ないし」
 玄関のドアが開いて、閉まる音。胸がすかっとした。これでもうまとわりつくのをやめるだろう。
「七世君、これからおでかけなの?」
 亜矢が小首を傾げて訊いた。
「あ、はい。すいません」
 謝る必要がないのに頭を下げて、気まずそうに目を逸らす。
「ねえ、さっきの返事は?」
「あ、あの、すいません、俺、ホントに好きな人が」
「いいよお、好きな人いたって。私そういうの気にしないから。試しに付き合ってみよ? ね? 私がいろいろ教えてあげるから」
 亜矢が七世の腕を取る。やばい、と加賀さんの顔を確認した。笑みが消えて、真顔になっている。見たことがない表情だ。ゾクッとした。
 ていうか、この人やっぱりすごい綺麗だ、と思わず見とれてしまった。
「あ、亜矢ちゃん、俺、あの」
 真っ赤な顔でしどろもどろになる七世を、なんとか助けなくては、と思ったのに、加賀さんの綺麗な顔が気になって駄目だった。
「亜矢ちゃん?」
 加賀さんがにこっと笑って聞き返し、亜矢を見る。ちゃん付けが親しげで気に食わなかったのかもしれない。
「亜矢ちゃんは五月の小学校の頃からの友達で」
「亜矢ちゃん」
 加賀さんが、七世を掴んでいる亜矢の手をそっと、丁寧にどかした。
「こいつ、純情なんでからかわないでくれる?」
 自由を取り戻した七世が、慌てて加賀さんの後ろに隠れた。というか、体がでかいから隠れ切れていない。
「やだ、七世君たら可愛いー。食べちゃいたいな」
 のほほんとした口調で怖いことを言う。我が友人ながらビッチだな、と感心する。
 七世は怯えて加賀さんの後ろで本気で震えている。なんて情けない奴。
「五月ちゃん」
 加賀さんが急にあたしを呼んだ。
「は、はい?」
 慌てて返事をする。
「本当のこと言ったらまずい? 駄目なら別の方法考える」
 付き合っていることを亜矢に言ってもいいか、というお伺いだ。少し考える。
 亜矢はこんなだけど、一応あたしの唯一の友人だ。弟が男と付き合っている、と知って、何か不具合が起きるかといえば。何もない。
 大学中に言いふらすとか、あたしとの縁を切るとか、そんなことはまず考えられない。
 いや、不具合は一つだけある。
 あたしの名誉が傷つけられる。
 好きになった人が、実は弟の彼氏でした、という切ない事実を友人に知られてしまう。
「まずくは、ないです……。亜矢は、いい子だし」
 言ってから、説得力のなさに恥ずかしくなった。
「何? なんの話?」
 亜矢があたしと加賀さんの顔を見比べる。
「倉知君、自分で言えよ」
 加賀さんが背後の七世に後ろ頭で頭突きをして、うながした。
「わかりました」
 七世がおずおずと加賀さんの後ろから出てきて、亜矢に頭を下げた。
「ごめんなさい、俺、亜矢ちゃんとは付き合えません」
「えー?」
 亜矢が不服そうに声を上げて、頬をふくらませる。
「俺、この人と、加賀さんと、付き合ってるんだ」
「えー? って、……え?」
 頭を上げた七世が、照れ臭そうに微笑んで、頭を掻く。
「大好きだから、他の人は考えられない。ごめんなさい」
 はにかんだ表情に腹が立つ。なんで弟ののろけを見せつけられなければならないのか。
「というわけなので、こいつは俺のです。もう二度と触らないでね」
 ニコッと可愛い顔で笑った加賀さんは、「じゃあね」と言って七世の腕を取ってリビングから出て行った。
 廊下を歩く足音。それが一瞬止まって、すぐにまたバタバタと響いて、慌ただしく玄関を出て行った。
 今の一瞬の間は、もしかしなくてもキスした?
 多分、いや、絶対そう。
 ソファに倒れ込んで、打ちひしがれるあたしの背中に亜矢が座った。
「なんで言ってくれなかったの?」
「重いんだけど」
「何、じゃあもしかして七世君童貞じゃないってこと?」
「それ言わないでよ」
「やだ……、そうなの? 嘘みたい、なんで? りっちゃんのせい?」
 亜矢は六花が腐女子だと知っている。
「りっちゃんは関係ないよ。あー、今の、りっちゃんいたら半狂乱になって喜んでたよ」
 ネタになる、と鼻息を荒くする姿が目に浮かぶ。
「もー、七世君も、付き合ってる人いるならそう言ってくれればいいのに」
 亜矢の物わかりのよさそうな発言に引っかかる。
「この前あたしに、奪わないの? って言ってたけど。亜矢はどうなの、奪おうとか思うの?」
 訊くと、亜矢があたしの上で大きなため息をつく。
「相手によるよね。あんな人に勝てる気しない。なんかすっごく」
 そこで言葉を切って、ウフフと笑う。
「エロそう」
「やめて! 恥ずかしくなるから!」
 耳を塞いで必死で頭を空っぽにする。
 加賀さんのエロいところなんて想像するのも失礼な気がする。
「何を処女みたいなこと言ってるの」
 亜矢が呆れる。
「七世が羨ましい。さっき、加賀さん、亜矢が七世に触っただけで、すんごい嫉妬してた。あたしもあんなふうに、大事に扱われてみたい」
 好きな人が、弟の彼氏。たまにでもこうやって会えるのが、いいことなのか悪いことなのか。
 いつ吹っ切ることができるのだろう。
 涙が出てきた。
 うつぶせになったまま、ぐすぐすやっていると、亜矢があたしに座ったまま言った。
「よし、ケーキバイキング行こう」
「何よ、いきなり」
「お昼ご飯の代わり。女子にしかできない芸当でしょ? 私も七世君にふられちゃったし、二人でやけ食い、いこ」
 亜矢があたしを引っ張った。亜矢のはただの気まぐれな童貞狩りだし、あたしの純愛と一緒にしないで欲しかった。
 でも、こういうときは気分転換が必要だ。
 亜矢と手を繋ぎ、外に飛び出した。

〈おわり〉
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