電車の男 番外編

月世

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crazy dream

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〈九條編〉

 喫煙ルームで、加賀が一人、煙草を吸っていた。
 足が、止まる。
 そして、一歩後退する。
 このまま回れ右をして、戻ろう。と思ったのに。
 加賀がこっちに気づいてしまった。
 ひら、と手を振って、笑いながら煙を吐く。
 会いたくなかったのに。
 両肩が、鉛をのせたように重くなった。
 動けない。
 不思議そうに、加賀が俺を見ている。
 そして、人差し指を招いて、こっちに来い、という仕草をした。
 操られるように、喫煙ルームのドアを開ける。
「久しぶり」
 加賀が言った。
「ああ」
 答えて、視線を逸らす。
 煙草を出して一本咥え、火を点けた。
「九條」
 加賀が、俺の顔を下から覗き込むようにして、見てくる。
「お前、俺に何か言うことない?」
「……別に、何も」
 平静を装って煙を吐いた。
「あるだろ。言えよ。言ったらどうなるのか、知りたいんだろ?」
「なんのことかわからない」
 本当に、わからない。
 加賀は煙草をもみ消して、灰皿に吸い殻を捨てた。
「早く、言え」
 言いながら、ネクタイを緩めた。
「加賀」
 どうして。
 逡巡する俺を、加賀が目を細めて見ている。
 緩めたネクタイを解き、床に落とす。ワイシャツのボタンを一つ、二つ、外していく指から、目が離せなかった。
「言えよ」
 顔が鼻先に迫る。
「俺は」
 加賀の目が、至近距離でゆっくりと瞬きをする。
「お前が好きだ」
「うん、よく言った」
 唇が、重なった。夢中で、舌を吸う。加賀の細い体を抱きしめて、好きだ、と繰り返した。
 加賀の指が、俺の下腹部に触れる。
 いつの間にか、二人とも裸で、汗で濡れた身体が、折り重なっていた。
 どうなってる。
 二人の体が、溶けるように、繋がった。
「加賀」
 強く抱きしめて、体を揺する。加賀が、俺の動きに応える。
 果てたあと、抱き合って、まどろむ。
 腕の中に加賀がいる。髪を撫でて、訊いた。
「不倫は嫌いなんじゃなかったのか」
「何言ってる。俺もお前も、結婚してないだろ?」
 思わず左手の薬指を確認した。
 指輪が、ない。混乱する。
「そういえば、お前、煙草は辞めたんじゃ」
「辞めた。体に悪いから。小さい子にはなおさら悪いよ。お前も辞めたら?」
「え……?」
「九條、もう、俺を避けるなよ」
 泣き声が、遠くで聞こえる。
 目が覚めた。心臓の音が耳元でやかましく鳴り響いている。
 汗が、ひどい。服が肌に張りついて、気持ち悪かった。
 布団をはね除け、体を起こすと、ドアの向こうで子どもの泣く声が聞こえた。
 時計を見る。深夜二時だ。
 ベッドから出て、動きを止める。下着が濡れている。
 加賀を抱く夢を見て、夢精することはよくあった。
 もう、この罪悪感と絶望感も慣れたものだ。
 汗で湿った服と汚れた下着を脱いで、全裸になった。
 服を着替え、ベッドに倒れ込む。
 この前の慰安旅行で、久しぶりに会話をしたせいか、今日の夢は妙にリアルだった。支離滅裂ではあったが、いつもより、生々しく感じた。
 俺が結婚に逃げる前に、好きだと言ったら、どうなっていたか。
 言えばよかった、と加賀が言った。
 どういうつもりでそう言ったのか。
 加賀は、社内恋愛はしないから断っていた、と簡単に言ったが、告白した末にそう返されたら、俺は会社を辞めていただろう。
 それで加賀を手に入れられるなら、喜んで、辞める。
 何を怯えていたのか。
 社会的マイノリティになるのが、怖かったのかもしれない。
 正統に地位を築き、順当に家庭を持って、安穏な老後を迎え、死ぬ。
 そんなものになんの意味がある。
 好きな物を諦めて、見なかったことにした結果、今の俺がある。
 失う物なんて何もなかったのに。
 どうして、好きだと言えなかった。
「好きだ」
 呟いた。
 子どもの泣き声が、ひときわ大きく聞こえた。
 かすかに、すすり泣く声。
 俺は体を起こし、寝室を出た。
 暗いリビングで、娘を抱いた妻が泣いていた。
「どうした」
 声を掛けると、驚いて顔を上げた。
「ごめんなさい、うるさかった?」
「泣き止まないのか」
 そういうことはよくあって、俺に気を遣っていつも別室であやしている。
「おむつも替えたし、おっぱいもたくさん飲んだし、でも、泣き止まないの」
 語尾は震えていた。俺は妻のそばに膝をついて、両手を差し出した。
「俺が抱く。お前は寝ろ」
「……え?」
「日中も、眠れてないんだろう。酷い顔だ」
 長い前髪が顔にかかって、悲壮感が漂っている。髪を指ですくい、耳に掛けてやった。そして、背中を撫でる。
 妻の手から、娘を受け取ると、部屋の中を歩きながら言った。
「明日は休日だ。起きてても支障がない。だからお前は寝ろ」
 妻は立ち上がらなかった。膝を抱えて、泣き出した。
 不思議なことに、俺が抱くと、娘は泣き止んだ。しばらく揺らしていると、すぐに眠った。
 いつの間にか、妻の泣き声も止んでいる。
 床で、体を丸めて眠っている。寝室に戻り、タオルケットを出して掛けてやった。
 リビングのカーテンを開けて、外を眺めた。
 夜景が綺麗だ。だから、このマンションを選んだ。
 苦笑する。
 こんなものを手に入れたからといって、心はまったく満たされない。
 本当に欲しいものは、一つだけ。
 でも、俺には責任がある。
 腕の中の温かくて小さな命。床の上で死んだように眠る妻。
 守ろう、と思った。守らなければならない。
 欲しくても手に入らないものは、永遠に尊く、美しくあり続ける。

〈了〉
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