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第5章 ルネッサンス攻防編
第603話 ジェーンの秘密……?
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(おかげで貴重な時間が稼げた。礼を言うぞ、モーリー侯爵)
モーリー侯爵の死は、同時に戦場で散った数千の命を伴う犠牲だった。しかし、ジェーンの心にはそれを悼む気持ちは起こらない。
彼女には目的がある。
「安定への回帰」
数百万人の死を防ぐために、目先の数千人は必要な犠牲であった。
ジェーンは時間をかけて徐々にモーリー侯爵の精神を支配し、彼を操ってスノーデンと敵対させたのだ。
ただ、わずかな時間を稼ぐという目的のために。
ジェーンはスノーデンの神器製作に立ち会い、その度に少しずつ、少しずつ術式付与に介入した。
甕一杯の水にほんの一滴砂糖水を紛れ込ませるように、スノーデンの術式を僅かに歪める。
それを繰り返した結果、でき上がった神器には目に見えぬ欠陥があった。
「すべての人に魔力を」
そう願って創り出した神器は、100人に1人しか魔力持ちを生み出すことができなかった。その上なぜか、貴族に用いた時は高確率で超常の能力をもたらした。
「貴族に目覚めるこの能力は何だ?」
魔術とは違いギフトは応用が利かず、ほとんどの能力は戦闘向きだった。ギフトをいくら生み出しても、国は豊かにならず平和をもたらすこともない。
「どうなっている? なぜうまくいかない?」
スノーデンは思い通りにならぬ神器を前に頭を掻きむしった。
何度見直しても術式に異常が見つからない。異常がない以上、彼にはどうすることもできなかった。
「ちきしょう! 一体何のためにモーリーを、多くの兵士を死なせたのだ! これでは犬死ではないか……」
スノーデンは両手で顔を覆って慟哭した。
記憶を失っているといっても、スノーデンには良心がある。痛み、苦しむ心があった。
「ご自分を責めないでください。効果はあるのですから、地道に魔力付与を続ければきっと――」
「地道に? 地道にだと! 1年で終わる仕事に100年かかるんだぞ? この国の平均寿命が30そこそこだというのに!」
砂の堤防を築くような仕事であった。積んでも積んでも、足元から崩れていく。
ジェーンは震えるスノーデンの肩に手を回し、優しく引き寄せた。傷ついた男に癒しを与えるのは、いつでも女の優しさだった。
そっと包んだ男の背中を、ジェーンはその白い手で静かに撫でた。
幼い日、母の手にされた温かさを想い出し、スノーデンは目を閉じて吐息を漏らした。
「心配しないで。きっとうまくいきます。わたくしがあなたを支えます」
「ジェーン……」
頬を押しつけるように、ジェーンはスノーデンの耳元で囁いた。
「わたくしの忠誠はこれまでも、これからも常にあなたに捧げます。その証として、人には明かさぬわたくしの秘密をあなたに告げましょう」
「ジェーンの秘密……?」
祈りにも似たジェーンの言葉にスノーデンは己の意識を委ね、ぬるま湯のような安心の中で揺蕩っていた。
「神に捧げたわたくしの真名。それをあなただけに告げます」
真名とはその言葉通りその人物を表す本当の名前。信ずる神と自分との間だけで定めるものであり、親兄弟にも知らせるものではない。
唯一、自分が生涯を共にすると決めた相手にのみ「二心なきこと」の証として告げることがあった。
真名をスノーデンのみに告げるとは、他家に嫁ぐことを放棄し、生涯彼の下に仕えるという意思表示に他ならない。
ポーズと呼ぶには重すぎる意味がある。この時代、この国においてはそれだけの重みがある行動だった。
「わたくしの真の名は『円』」
吐息と共にジェーンが呟いた言葉に、スノーデンの耳はかっと熱を持った。
「まどか……」
「しーっ。呼んではいけません。このことは神にも知らされぬあなただけの秘密」
スノーデンの背に回したジェーンの手が、きゅっと爪を立てる。
「俺だけが知るジェーンの秘密か。ならば俺も、信頼の証にお前に告げよう」
「それは――」
スノーデンに頬を寄せたままのジェーンの眼がゆっくりと開かれた。
「我が真の名は『雪田』。『雪田光』だ」
「おお!」
ジェーンは目を見開き、口を大きく開けた。
「まさかわたくしに真名をお明かしくださるとは」
「俺はこの先、妻を娶ることもない。お前の信頼に答えられるなら本望だ」
「恐れ多いことでございます」
ジェーンはゆっくりとスノーデンから身を離し、深く辞儀をした。
「くれぐれもお力落としなきよう。神器の効果が100に1つであるならば、複製を99体作れば良いこと。神器を宮廷に持ち帰り、王室付魔道具師に複製を作らせましょう」
「俺の手で作っても2カ月かかった。魔道具組が99体作るのに何年かかるかわからんぞ?」
「たとえ10年かかろうと、費やした時間は無駄になりません。完成した暁には、ついにすべての人が魔力を授かることになるのですから」
長い目で見ればジェーンの言う通りだった。時間はかかるが、確実にミッションを果たす方法があった。
神器さえ完成すればミッションが果たせると思い込んでいたため、神器の欠陥に絶望してしまった。
「長期の視野で考えれば、この神器でもミッションを果たせるのか……」
スノーデンはテーブルの上に放り出していた神器を改めて見つめる。
新たな希望を抱き始めたスノーデンに暇を請い、ジェーンは自らの居室に戻った。
(スノーデンの真名をついに得た! これで……これですべてが変わる)
ジェーンは誰もいない部屋で、1人会心の笑みを浮かべた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第604話 なぜわたしが存在を許されているのか?」
真名とはその人の本質を指し示すもの。
敵対する魔術師に知られれば、急所を晒したにも等しいこととなる。
術の発現とその威力が格段に強力となる。
いかに聖スノーデンでも、真名を敵に知られることは大きな不利となる。
(ふふ。どれほど不利になろうとも、己の力があれば跳ねのけられると思ったか?)
……
◆お楽しみに。
モーリー侯爵の死は、同時に戦場で散った数千の命を伴う犠牲だった。しかし、ジェーンの心にはそれを悼む気持ちは起こらない。
彼女には目的がある。
「安定への回帰」
数百万人の死を防ぐために、目先の数千人は必要な犠牲であった。
ジェーンは時間をかけて徐々にモーリー侯爵の精神を支配し、彼を操ってスノーデンと敵対させたのだ。
ただ、わずかな時間を稼ぐという目的のために。
ジェーンはスノーデンの神器製作に立ち会い、その度に少しずつ、少しずつ術式付与に介入した。
甕一杯の水にほんの一滴砂糖水を紛れ込ませるように、スノーデンの術式を僅かに歪める。
それを繰り返した結果、でき上がった神器には目に見えぬ欠陥があった。
「すべての人に魔力を」
そう願って創り出した神器は、100人に1人しか魔力持ちを生み出すことができなかった。その上なぜか、貴族に用いた時は高確率で超常の能力をもたらした。
「貴族に目覚めるこの能力は何だ?」
魔術とは違いギフトは応用が利かず、ほとんどの能力は戦闘向きだった。ギフトをいくら生み出しても、国は豊かにならず平和をもたらすこともない。
「どうなっている? なぜうまくいかない?」
スノーデンは思い通りにならぬ神器を前に頭を掻きむしった。
何度見直しても術式に異常が見つからない。異常がない以上、彼にはどうすることもできなかった。
「ちきしょう! 一体何のためにモーリーを、多くの兵士を死なせたのだ! これでは犬死ではないか……」
スノーデンは両手で顔を覆って慟哭した。
記憶を失っているといっても、スノーデンには良心がある。痛み、苦しむ心があった。
「ご自分を責めないでください。効果はあるのですから、地道に魔力付与を続ければきっと――」
「地道に? 地道にだと! 1年で終わる仕事に100年かかるんだぞ? この国の平均寿命が30そこそこだというのに!」
砂の堤防を築くような仕事であった。積んでも積んでも、足元から崩れていく。
ジェーンは震えるスノーデンの肩に手を回し、優しく引き寄せた。傷ついた男に癒しを与えるのは、いつでも女の優しさだった。
そっと包んだ男の背中を、ジェーンはその白い手で静かに撫でた。
幼い日、母の手にされた温かさを想い出し、スノーデンは目を閉じて吐息を漏らした。
「心配しないで。きっとうまくいきます。わたくしがあなたを支えます」
「ジェーン……」
頬を押しつけるように、ジェーンはスノーデンの耳元で囁いた。
「わたくしの忠誠はこれまでも、これからも常にあなたに捧げます。その証として、人には明かさぬわたくしの秘密をあなたに告げましょう」
「ジェーンの秘密……?」
祈りにも似たジェーンの言葉にスノーデンは己の意識を委ね、ぬるま湯のような安心の中で揺蕩っていた。
「神に捧げたわたくしの真名。それをあなただけに告げます」
真名とはその言葉通りその人物を表す本当の名前。信ずる神と自分との間だけで定めるものであり、親兄弟にも知らせるものではない。
唯一、自分が生涯を共にすると決めた相手にのみ「二心なきこと」の証として告げることがあった。
真名をスノーデンのみに告げるとは、他家に嫁ぐことを放棄し、生涯彼の下に仕えるという意思表示に他ならない。
ポーズと呼ぶには重すぎる意味がある。この時代、この国においてはそれだけの重みがある行動だった。
「わたくしの真の名は『円』」
吐息と共にジェーンが呟いた言葉に、スノーデンの耳はかっと熱を持った。
「まどか……」
「しーっ。呼んではいけません。このことは神にも知らされぬあなただけの秘密」
スノーデンの背に回したジェーンの手が、きゅっと爪を立てる。
「俺だけが知るジェーンの秘密か。ならば俺も、信頼の証にお前に告げよう」
「それは――」
スノーデンに頬を寄せたままのジェーンの眼がゆっくりと開かれた。
「我が真の名は『雪田』。『雪田光』だ」
「おお!」
ジェーンは目を見開き、口を大きく開けた。
「まさかわたくしに真名をお明かしくださるとは」
「俺はこの先、妻を娶ることもない。お前の信頼に答えられるなら本望だ」
「恐れ多いことでございます」
ジェーンはゆっくりとスノーデンから身を離し、深く辞儀をした。
「くれぐれもお力落としなきよう。神器の効果が100に1つであるならば、複製を99体作れば良いこと。神器を宮廷に持ち帰り、王室付魔道具師に複製を作らせましょう」
「俺の手で作っても2カ月かかった。魔道具組が99体作るのに何年かかるかわからんぞ?」
「たとえ10年かかろうと、費やした時間は無駄になりません。完成した暁には、ついにすべての人が魔力を授かることになるのですから」
長い目で見ればジェーンの言う通りだった。時間はかかるが、確実にミッションを果たす方法があった。
神器さえ完成すればミッションが果たせると思い込んでいたため、神器の欠陥に絶望してしまった。
「長期の視野で考えれば、この神器でもミッションを果たせるのか……」
スノーデンはテーブルの上に放り出していた神器を改めて見つめる。
新たな希望を抱き始めたスノーデンに暇を請い、ジェーンは自らの居室に戻った。
(スノーデンの真名をついに得た! これで……これですべてが変わる)
ジェーンは誰もいない部屋で、1人会心の笑みを浮かべた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第604話 なぜわたしが存在を許されているのか?」
真名とはその人の本質を指し示すもの。
敵対する魔術師に知られれば、急所を晒したにも等しいこととなる。
術の発現とその威力が格段に強力となる。
いかに聖スノーデンでも、真名を敵に知られることは大きな不利となる。
(ふふ。どれほど不利になろうとも、己の力があれば跳ねのけられると思ったか?)
……
◆お楽しみに。
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