603 / 663
第5章 ルネッサンス攻防編
第603話 ジェーンの秘密……?
しおりを挟む
(おかげで貴重な時間が稼げた。礼を言うぞ、モーリー侯爵)
モーリー侯爵の死は、同時に戦場で散った数千の命を伴う犠牲だった。しかし、ジェーンの心にはそれを悼む気持ちは起こらない。
彼女には目的がある。
「安定への回帰」
数百万人の死を防ぐために、目先の数千人は必要な犠牲であった。
ジェーンは時間をかけて徐々にモーリー侯爵の精神を支配し、彼を操ってスノーデンと敵対させたのだ。
ただ、わずかな時間を稼ぐという目的のために。
ジェーンはスノーデンの神器製作に立ち会い、その度に少しずつ、少しずつ術式付与に介入した。
甕一杯の水にほんの一滴砂糖水を紛れ込ませるように、スノーデンの術式を僅かに歪める。
それを繰り返した結果、でき上がった神器には目に見えぬ欠陥があった。
「すべての人に魔力を」
そう願って創り出した神器は、100人に1人しか魔力持ちを生み出すことができなかった。その上なぜか、貴族に用いた時は高確率で超常の能力をもたらした。
「貴族に目覚めるこの能力は何だ?」
魔術とは違いギフトは応用が利かず、ほとんどの能力は戦闘向きだった。ギフトをいくら生み出しても、国は豊かにならず平和をもたらすこともない。
「どうなっている? なぜうまくいかない?」
スノーデンは思い通りにならぬ神器を前に頭を掻きむしった。
何度見直しても術式に異常が見つからない。異常がない以上、彼にはどうすることもできなかった。
「ちきしょう! 一体何のためにモーリーを、多くの兵士を死なせたのだ! これでは犬死ではないか……」
スノーデンは両手で顔を覆って慟哭した。
記憶を失っているといっても、スノーデンには良心がある。痛み、苦しむ心があった。
「ご自分を責めないでください。効果はあるのですから、地道に魔力付与を続ければきっと――」
「地道に? 地道にだと! 1年で終わる仕事に100年かかるんだぞ? この国の平均寿命が30そこそこだというのに!」
砂の堤防を築くような仕事であった。積んでも積んでも、足元から崩れていく。
ジェーンは震えるスノーデンの肩に手を回し、優しく引き寄せた。傷ついた男に癒しを与えるのは、いつでも女の優しさだった。
そっと包んだ男の背中を、ジェーンはその白い手で静かに撫でた。
幼い日、母の手にされた温かさを想い出し、スノーデンは目を閉じて吐息を漏らした。
「心配しないで。きっとうまくいきます。わたくしがあなたを支えます」
「ジェーン……」
頬を押しつけるように、ジェーンはスノーデンの耳元で囁いた。
「わたくしの忠誠はこれまでも、これからも常にあなたに捧げます。その証として、人には明かさぬわたくしの秘密をあなたに告げましょう」
「ジェーンの秘密……?」
祈りにも似たジェーンの言葉にスノーデンは己の意識を委ね、ぬるま湯のような安心の中で揺蕩っていた。
「神に捧げたわたくしの真名。それをあなただけに告げます」
真名とはその言葉通りその人物を表す本当の名前。信ずる神と自分との間だけで定めるものであり、親兄弟にも知らせるものではない。
唯一、自分が生涯を共にすると決めた相手にのみ「二心なきこと」の証として告げることがあった。
真名をスノーデンのみに告げるとは、他家に嫁ぐことを放棄し、生涯彼の下に仕えるという意思表示に他ならない。
ポーズと呼ぶには重すぎる意味がある。この時代、この国においてはそれだけの重みがある行動だった。
「わたくしの真の名は『円』」
吐息と共にジェーンが呟いた言葉に、スノーデンの耳はかっと熱を持った。
「まどか……」
「しーっ。呼んではいけません。このことは神にも知らされぬあなただけの秘密」
スノーデンの背に回したジェーンの手が、きゅっと爪を立てる。
「俺だけが知るジェーンの秘密か。ならば俺も、信頼の証にお前に告げよう」
「それは――」
スノーデンに頬を寄せたままのジェーンの眼がゆっくりと開かれた。
「我が真の名は『雪田』。『雪田光』だ」
「おお!」
ジェーンは目を見開き、口を大きく開けた。
「まさかわたくしに真名をお明かしくださるとは」
「俺はこの先、妻を娶ることもない。お前の信頼に答えられるなら本望だ」
「恐れ多いことでございます」
ジェーンはゆっくりとスノーデンから身を離し、深く辞儀をした。
「くれぐれもお力落としなきよう。神器の効果が100に1つであるならば、複製を99体作れば良いこと。神器を宮廷に持ち帰り、王室付魔道具師に複製を作らせましょう」
「俺の手で作っても2カ月かかった。魔道具組が99体作るのに何年かかるかわからんぞ?」
「たとえ10年かかろうと、費やした時間は無駄になりません。完成した暁には、ついにすべての人が魔力を授かることになるのですから」
長い目で見ればジェーンの言う通りだった。時間はかかるが、確実にミッションを果たす方法があった。
神器さえ完成すればミッションが果たせると思い込んでいたため、神器の欠陥に絶望してしまった。
「長期の視野で考えれば、この神器でもミッションを果たせるのか……」
スノーデンはテーブルの上に放り出していた神器を改めて見つめる。
新たな希望を抱き始めたスノーデンに暇を請い、ジェーンは自らの居室に戻った。
(スノーデンの真名をついに得た! これで……これですべてが変わる)
ジェーンは誰もいない部屋で、1人会心の笑みを浮かべた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第604話 なぜわたしが存在を許されているのか?」
真名とはその人の本質を指し示すもの。
敵対する魔術師に知られれば、急所を晒したにも等しいこととなる。
術の発現とその威力が格段に強力となる。
いかに聖スノーデンでも、真名を敵に知られることは大きな不利となる。
(ふふ。どれほど不利になろうとも、己の力があれば跳ねのけられると思ったか?)
……
◆お楽しみに。
モーリー侯爵の死は、同時に戦場で散った数千の命を伴う犠牲だった。しかし、ジェーンの心にはそれを悼む気持ちは起こらない。
彼女には目的がある。
「安定への回帰」
数百万人の死を防ぐために、目先の数千人は必要な犠牲であった。
ジェーンは時間をかけて徐々にモーリー侯爵の精神を支配し、彼を操ってスノーデンと敵対させたのだ。
ただ、わずかな時間を稼ぐという目的のために。
ジェーンはスノーデンの神器製作に立ち会い、その度に少しずつ、少しずつ術式付与に介入した。
甕一杯の水にほんの一滴砂糖水を紛れ込ませるように、スノーデンの術式を僅かに歪める。
それを繰り返した結果、でき上がった神器には目に見えぬ欠陥があった。
「すべての人に魔力を」
そう願って創り出した神器は、100人に1人しか魔力持ちを生み出すことができなかった。その上なぜか、貴族に用いた時は高確率で超常の能力をもたらした。
「貴族に目覚めるこの能力は何だ?」
魔術とは違いギフトは応用が利かず、ほとんどの能力は戦闘向きだった。ギフトをいくら生み出しても、国は豊かにならず平和をもたらすこともない。
「どうなっている? なぜうまくいかない?」
スノーデンは思い通りにならぬ神器を前に頭を掻きむしった。
何度見直しても術式に異常が見つからない。異常がない以上、彼にはどうすることもできなかった。
「ちきしょう! 一体何のためにモーリーを、多くの兵士を死なせたのだ! これでは犬死ではないか……」
スノーデンは両手で顔を覆って慟哭した。
記憶を失っているといっても、スノーデンには良心がある。痛み、苦しむ心があった。
「ご自分を責めないでください。効果はあるのですから、地道に魔力付与を続ければきっと――」
「地道に? 地道にだと! 1年で終わる仕事に100年かかるんだぞ? この国の平均寿命が30そこそこだというのに!」
砂の堤防を築くような仕事であった。積んでも積んでも、足元から崩れていく。
ジェーンは震えるスノーデンの肩に手を回し、優しく引き寄せた。傷ついた男に癒しを与えるのは、いつでも女の優しさだった。
そっと包んだ男の背中を、ジェーンはその白い手で静かに撫でた。
幼い日、母の手にされた温かさを想い出し、スノーデンは目を閉じて吐息を漏らした。
「心配しないで。きっとうまくいきます。わたくしがあなたを支えます」
「ジェーン……」
頬を押しつけるように、ジェーンはスノーデンの耳元で囁いた。
「わたくしの忠誠はこれまでも、これからも常にあなたに捧げます。その証として、人には明かさぬわたくしの秘密をあなたに告げましょう」
「ジェーンの秘密……?」
祈りにも似たジェーンの言葉にスノーデンは己の意識を委ね、ぬるま湯のような安心の中で揺蕩っていた。
「神に捧げたわたくしの真名。それをあなただけに告げます」
真名とはその言葉通りその人物を表す本当の名前。信ずる神と自分との間だけで定めるものであり、親兄弟にも知らせるものではない。
唯一、自分が生涯を共にすると決めた相手にのみ「二心なきこと」の証として告げることがあった。
真名をスノーデンのみに告げるとは、他家に嫁ぐことを放棄し、生涯彼の下に仕えるという意思表示に他ならない。
ポーズと呼ぶには重すぎる意味がある。この時代、この国においてはそれだけの重みがある行動だった。
「わたくしの真の名は『円』」
吐息と共にジェーンが呟いた言葉に、スノーデンの耳はかっと熱を持った。
「まどか……」
「しーっ。呼んではいけません。このことは神にも知らされぬあなただけの秘密」
スノーデンの背に回したジェーンの手が、きゅっと爪を立てる。
「俺だけが知るジェーンの秘密か。ならば俺も、信頼の証にお前に告げよう」
「それは――」
スノーデンに頬を寄せたままのジェーンの眼がゆっくりと開かれた。
「我が真の名は『雪田』。『雪田光』だ」
「おお!」
ジェーンは目を見開き、口を大きく開けた。
「まさかわたくしに真名をお明かしくださるとは」
「俺はこの先、妻を娶ることもない。お前の信頼に答えられるなら本望だ」
「恐れ多いことでございます」
ジェーンはゆっくりとスノーデンから身を離し、深く辞儀をした。
「くれぐれもお力落としなきよう。神器の効果が100に1つであるならば、複製を99体作れば良いこと。神器を宮廷に持ち帰り、王室付魔道具師に複製を作らせましょう」
「俺の手で作っても2カ月かかった。魔道具組が99体作るのに何年かかるかわからんぞ?」
「たとえ10年かかろうと、費やした時間は無駄になりません。完成した暁には、ついにすべての人が魔力を授かることになるのですから」
長い目で見ればジェーンの言う通りだった。時間はかかるが、確実にミッションを果たす方法があった。
神器さえ完成すればミッションが果たせると思い込んでいたため、神器の欠陥に絶望してしまった。
「長期の視野で考えれば、この神器でもミッションを果たせるのか……」
スノーデンはテーブルの上に放り出していた神器を改めて見つめる。
新たな希望を抱き始めたスノーデンに暇を請い、ジェーンは自らの居室に戻った。
(スノーデンの真名をついに得た! これで……これですべてが変わる)
ジェーンは誰もいない部屋で、1人会心の笑みを浮かべた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第604話 なぜわたしが存在を許されているのか?」
真名とはその人の本質を指し示すもの。
敵対する魔術師に知られれば、急所を晒したにも等しいこととなる。
術の発現とその威力が格段に強力となる。
いかに聖スノーデンでも、真名を敵に知られることは大きな不利となる。
(ふふ。どれほど不利になろうとも、己の力があれば跳ねのけられると思ったか?)
……
◆お楽しみに。
10
Amebloにて研究成果報告中。小説情報のほか、「超時空電脳生活」「超時空日常生活」「超時空電影生活」などお題は様々。https://ameblo.jp/hyper-space-lab
お気に入りに追加
104
あなたにおすすめの小説

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。


【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました
ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

断罪イベント返しなんぞされてたまるか。私は普通に生きたいんだ邪魔するな!!
柊
ファンタジー
「ミレイユ・ギルマン!」
ミレヴン国立宮廷学校卒業記念の夜会にて、突如叫んだのは第一王子であるセルジオ・ライナルディ。
「お前のような性悪な女を王妃には出来ない! よって今日ここで私は公爵令嬢ミレイユ・ギルマンとの婚約を破棄し、男爵令嬢アンナ・ラブレと婚姻する!!」
そう宣言されたミレイユ・ギルマンは冷静に「さようでございますか。ですが、『性悪な』というのはどういうことでしょうか?」と返す。それに反論するセルジオ。彼に肩を抱かれている渦中の男爵令嬢アンナ・ラブレは思った。
(やっべえ。これ前世の投稿サイトで何万回も見た展開だ!)と。
※pixiv、カクヨム、小説家になろうにも同じものを投稿しています。

悪役貴族の四男に転生した俺は、怠惰で自由な生活がしたいので、自由気ままな冒険者生活(スローライフ)を始めたかった。
SOU 5月17日10作同時連載開始❗❗
ファンタジー
俺は何もしてないのに兄達のせいで悪役貴族扱いされているんだが……
アーノルドは名門貴族クローリー家の四男に転生した。家の掲げる独立独行の家訓のため、剣技に魔術果ては鍛冶師の技術を身に着けた。
そして15歳となった現在。アーノルドは、魔剣士を育成する教育機関に入学するのだが、親戚や上の兄達のせいで悪役扱いをされ、付いた渾名は【悪役公子】。
実家ではやりたくもない【付与魔術】をやらされ、学園に通っていても心の無い言葉を投げかけられる日々に嫌気がさした俺は、自由を求めて冒険者になる事にした。
剣術ではなく刀を打ち刀を使う彼は、憧れの自由と、美味いメシとスローライフを求めて、時に戦い。時にメシを食らい、時に剣を打つ。
アーノルドの第二の人生が幕を開ける。しかし、同級生で仲の悪いメイザース家の娘ミナに学園での態度が演技だと知られてしまい。アーノルドの理想の生活は、ハチャメチャなものになって行く。
魔境へ追放された公爵令息のチート領地開拓 〜動く屋敷でもふもふ達とスローライフ!〜
西園寺わかば🌱
ファンタジー
公爵家に生まれたエリクは転生者である。
4歳の頃、前世の記憶が戻って以降、知識無双していた彼は気づいたら不自由極まりない生活を送るようになっていた。
そんな彼はある日、追放される。
「よっし。やっと追放だ。」
自由を手に入れたぶっ飛んび少年エリクが、ドラゴンやフェンリルたちと気ままに旅先を決めるという物語。
- この話はフィクションです。
- カクヨム様でも連載しています。

〈完結〉この女を家に入れたことが父にとっての致命傷でした。
江戸川ばた散歩
ファンタジー
「私」アリサは父の後妻の言葉により、家を追い出されることとなる。
だがそれは待ち望んでいた日がやってきたでもあった。横領の罪で連座蟄居されられていた祖父の復活する日だった。
十年前、八歳の時からアリサは父と後妻により使用人として扱われてきた。
ところが自分の代わりに可愛がられてきたはずの異母妹ミュゼットまでもが、義母によって使用人に落とされてしまった。義母は自分の周囲に年頃の女が居ること自体が気に食わなかったのだ。
元々それぞれ自体は仲が悪い訳ではなかった二人は、お互い使用人の立場で二年間共に過ごすが、ミュゼットへの義母の仕打ちの酷さに、アリサは彼女を乳母のもとへ逃がす。
そして更に二年、とうとうその日が来た……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる