飯屋のせがれ、魔術師になる。

藍染 迅

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第5章 ルネッサンス攻防編

第545話 また逃げてしまったか。

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 俺は闇の中にいた。

(真っ暗で何も見えない)

 手を伸ばしてみても、何も指先に触れなかった。体の周りには何もないらしい。
 そうは言っても暗闇で動き回るわけにもいかない。

(大体、ここはどこなんだ?)

「すみません。誰かいますか?」

 声を出して問いかけてみたが、返事は何もない。

(俺は……気を失ったのか?)
 
 気を失って、灯りのない病室に運ばれたのかもしれない。そうならば、数歩歩けば壁があり、壁を探ればドアがあるはずだった。
 しかし、一筋の明かりも差し込んでこないのは腑に落ちない。

(ここは家の中なのか?)

 それなら足元には木の床があるはずだ。家の外ならば土か砂だ。
 俺はうずくまって足元の地面に触れようとした。

(何も無い? そんな馬鹿な!)

 足の裏を支えているはずの地面の高さ、それよりも深くまで指先を伸ばしても、触れるものが何もない。
 それどころか、自分の足の裏を触ることができる。

(足の下に何もない? 俺は一体どうなっているんだ? 宙に浮いているのか?)

 自分の感覚には浮ついたところはない。宙に浮くどころか、今の今まで両の足で立っていると信じていた。

(支えるものがないのに、俺はしっかり立っている。夢を見ているのでなければこれはどういう状態だ?)

 自分が夢を見ているという可能性は考えても仕方がない。何を考えても夢の中のことになってしまうのだから。それに、どんな夢だろうと目が覚めた瞬間に消え去る。夢の内容を心配しても仕方がないのだ。

(夢でないとしたら、可能性はいくつかに絞られる)

 第一に、「こういう特殊な空間」に送り込まれたという可能性だ。ヨシズミ師匠のように世界の間に吸い込まれたとしたらどうだ?

 だが、そういう状況はこんなに長い間続くものだろうか? 数えていたわけでないのではっきりしないが、気がついてから3分はこの状態が続いていると思う。

 いまこうしている間にも時間は刻々と過ぎていく。少なくとも俺の感覚では時は流れていた。

(感覚が信じられないとしたら、どんな状況なのか判断しようがない。一旦、自分の感覚は正常だと仮定しよう)

 最後に覚えている場面は衛兵隊の武器倉庫だ。そこで俺はジェラートさんから縄抜けの手解きを受けていた。

(後ろ手に縛られたら体が震え出して……それで、目の前が暗くなって)

 そこで記憶が途切れていた。
 世界の間に吸い込まれるような超常現象は何も起きていなかった。

(やっぱり違うな。そんな大掛かりな現象ではないはずだ。だとすると、俺の心の問題か?)

 現実の空間ならば、何もない空中に立つことはできない。つまりここは現実界ではない。
「世界またぎ」をしていないならば、俺は自分の精神世界に閉じ込められていることになる。

 全ての感覚を閉じて、俺は自分の内面に漂っている。純粋な意思として。

(それってイドそのものじゃないか)

 俺はそう気がついた。外界から逃げて内面に閉じこもったのか、俺は?

(また逃げてしまったか)

 口入屋で囚われた時のことは仕方がない。あの頃は身を守る術も持っていなかった。
 長い時間恐怖を味わい、最後には人の命を奪った。

 平気でいる方がおかしい。

 俺の心はつぶされてしまった。手首を縄で縛られる感触は、死の恐怖を思い出すきっかけに過ぎない。

(俺は恐怖の元と向き合うべきだったんだ。縛られることの何が怖いのか。どうすれば怖くないのか)

 ネルソン邸の人たちはみんなで俺を助けてくれたじゃないか。怖がる俺を優しく包んでくれた。
 俺を傷つける人はもういないと、プリシラはそう言ってくれた。

(プリシラは俺のために祈ってくれた)

 痛みよ去れ、と。

 手首の傷は癒えた。痛みはとうの昔に去ったのだ。残っているのは心の傷だけだ。
 心の傷はいつになったら癒えるのか? そもそも癒えることなどあるのか?

(怖がることが悪いわけじゃない。怖くて動けないことが問題なんだ)

 俺が恐怖に押しつぶされていては、周りの人を守れないじゃないか。
 魔法を身につけても武術が上達しても、友だち1人守ることができない。

 そんな未来は嫌だ。

(今度は俺が、誰かのために祈る番なんだ)

 俺は両手首の傷を見た。醜く引きつった傷痕だ。

(ただの傷痕だ。たかが・・・傷痕だ)

 傷つくのは怖い。殺されるのも怖い。
 でも、俺は生きている。怖くても人を守りたい。

 大切の人のためなら、怖くても俺は戦う。震えを抑えて動くことができる。
 痛みをこらえて祈ることができる。

(俺は恐怖に支配されない。俺の恐怖は俺のものだ。言葉を借ります、ドイル先生)

「天上天下唯我独尊!」

 そう叫ぶと同時に、俺は意識を取り戻した。

 ◆◆◆

「気がついたかい、ステファノ」
「すみません。気を失っていたようです」

 ステファノが目を開けてみれば、意識を失う前と何も変わっていなかった。手首に巻かれた縄が解かれていることだけがさっきと違っていた。

「もう大丈夫です。もう一度腕を縛ってください」
「本当に大丈夫かい? 機会を改めても構わないが」

 ジェラートはステファノを心配して言った。

「大丈夫です。縄で俺の心を縛ることはできません」
「――そうか。では縄抜けの稽古をやり直そう」

 ジェラートはステファノを後ろ手に縛りあげた。今度は震えが起きない。
 ステファノの心はステファノのものだった。

「色は匂えど 散りぬるを――」

 ギフト「諸行無常」の成句を詠唱すると、ステファノの体から緊張とわだかまりが解けて去った。

――――――――――
 ここまで読んでいただいてありがとうございます。

◆次回「第546話 どこに行っても知らない土地だ。」

 心が鎮まれば、縄抜けの技はステファノのギフトと相性が良いことがわかった。

 イドの高周波化オーバークロックでステファノの肉体は反応速度が上がっている。それに精緻な制御を加えれば、体の一部を緊張させたり、逆に弛緩させることができる。
 筋肉を一部分だけ膨らませ、その場所を移動させることもできた。

 そして自在な弛緩が役に立った。

 ……

◆お楽しみに。
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