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第5章 ルネッサンス攻防編
第532話 いえ、あれは異常なしの合図ですね。
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「今日もその恰好か……と言っても、それしかないか」
翌朝、ステファノのいでたちを見てネオン師は頬に手をやった。
「山歩きは初めてでないな? 足元、襟元、袖口は覆ったようだ」
「手拭い頼みでいささか心許ないですが、気をつけて歩きます」
イドの繭を薄くまとって、蛭などの害虫に備えるつもりだった。野生動物は気配に敏感なので、獲物に近づいたらイドを抑える必要がある。
「山に入る前に言っておくが、熊には手を出すな。出くわしたら逃げるぞ」
「追い払いながら歩くわけにはいきませんよね」
「音を立てて歩けば熊は避けていくが、獲物も逃げてしまうからな」
季節は初夏だ。熊は活発に動き回っているだろう。獲物を求めつつ、熊を避ける。
「とにかく周りに注意することですね」
「まあそうだ。熊の気配を感じたら、音を立てて追い払う。獲物が逃げてしまうが、命には代えられないからな」
遊びに行くわけではない。山は危険な世界だ。
ネオン師はその他にも山での行動について具体的な注意をステファノに与えた。
パーティーで行動するとは、相手に自分の命を預けることを意味する。もちろん、相手の安全にも責任が生じる。危険を呼ぶ行動は厳禁であった。
最後に互いの装備を確認し合い、2人は猟に出発した。
◆◆◆
「その杖は山で使うには長すぎるが、無駄ということもないな」
「いつも持ち歩いているので、手ぶらでは不安になります」
ステファノの長杖を見て、ネオン師は言った。確かに茂みに踏み込む際には邪魔になるだろうが、下ばえを払ったりかき分けたりするには都合が良い。
何より、猪や山犬程度なら叩きのめせる頼もしさがあった。
実はそれ以外にも、毛布の中央に杖を立てて四方を立木や地面に留めれば簡易的な天幕になるという利用法もあった。長めの杖や六尺棒にはそれなりの効用があったのだ。
2人が踏み入ったのは「山」といっても標高500メートルクラスのものだった。狩りが目的なので登山をするわけではない。なるべく難所を避けて歩く。
「手ごろな石を左手に拾っておけ」
ネオン師は本来右利きだという。もっとも物心ついたころには左手も右手同様に使わされていたそうだ。
ステファノの右手には長杖がある。ネオン師は右手に鉈を持って、時々木の枝を切り払って先に進む。
前方の警戒はネオン師に任せ、ステファノは主に後方に神経を向けていた。
使役獣の雷丸は――。
「ピィー!」
はるか頭上の梢から雷ネズミの声が響いた。
「うん? 何か見つけたのか?」
「いえ、あれは異常なしの合図ですね」
「なぜわかる? 言葉が通じるのか?」
「いや、まさか。何となくですよ」
使役主と使役獣の間に存在する共感とでもいうのだろうか。多くの情報はもちろん伝わらないが、「安全」「危険」「喜び」「怒り」「不安」といった感情の動きならある程度感じ取ることができた。
熊に対する見張り役としてステファノは雷丸を樹上に飛ばした。気配を消している限り、山の自然に溶け込んでいるのでこれ以上ない「隠密役」であった。
雷丸は木から木へ、枝を渡り、宙を飛ぶ。
小さな体はまったく物音を立てなかった。
「犬や鷹に狩りを手伝わせる猟師がいるそうだが、お前のお供は独特だな」
「はい。あれでも魔獣なので、役に立つかと」
「魔術師で魔獣使いか。お前に礫術を習う必要があるのか、はなはだ疑問だな」
「ギフトで魔術を封じられたことがあります。そういう敵を相手にする時は武術の意味があるかと」
ネオン師はややあきれ顔だった。ステファノにしてみれば、必要な用心なのだが。
「そろそろ獣の気配が濃くなる辺りだ。無駄話はこれまでとしよう」
言われてみれば空気の質が変わったような気がする。遠くに鳥の声が聞こえていた。
生き物の中で数が多いのは鳥だろう。だが、空飛ぶ鳥は落としにくい。360度どころか、上下も合わせた3次元の挙動ができるのだ。鳥を狙うなら地上にいる時に限る。地面から飛び立つには前方に飛ぶしかないのだから。
『鳥は数が多いが、獲物としては今一つだ。肉が薄いからな』
狩りに出る前、ネオン師はステファノにそう言った。鳥よりうさぎの方が獲物としては良い。
『もっとも、味に関しては好みもある。わたしは鶉が好きだな』
肉を狙うなら、猪か鹿だろう。1頭仕留めれば相当な量がある。だが、猪は手ごわいし、鹿は逃げ足が速い。
簡単な狩りなどなかった。
置き罠を仕掛けるのが猟師の常だが、ネオンはそれをしていない。本業の猟師ではないからだ。
猟はあくまでも礫術の修業として行っていた。
それで何とか生計を立てているのは、農家の雑用などをこなしているおかげだった。畑や家畜を荒らす獣を駆除する仕事を近隣の農家から請け負っていた。大した実入りにはならないが、作物や卵などを分けてもらって食材の足しにしている。
ひっそりと生きていくだけならその程度で十分だった。あれがしたい、これがしたいという欲もない。
ネオンは独身を通していた。30年前に母親を、23年前に父親を失った。
母は病死した。
父は熊に食われた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第533話 これは人間と熊との、命がけの鬼ごっこだった。」
その年、村に熊の被害が出た。
作物を食われたとか、家畜を襲われたという話ではない。農家が襲われ、一家皆殺しになった。
全員内臓を食われていた。
「このままにはしておけねぇ」
人肉の味を覚えた熊は、再び人を襲う。人間か熊か。村人が生き残るためには、熊を殺すしかなかった。
……
◆お楽しみに。
翌朝、ステファノのいでたちを見てネオン師は頬に手をやった。
「山歩きは初めてでないな? 足元、襟元、袖口は覆ったようだ」
「手拭い頼みでいささか心許ないですが、気をつけて歩きます」
イドの繭を薄くまとって、蛭などの害虫に備えるつもりだった。野生動物は気配に敏感なので、獲物に近づいたらイドを抑える必要がある。
「山に入る前に言っておくが、熊には手を出すな。出くわしたら逃げるぞ」
「追い払いながら歩くわけにはいきませんよね」
「音を立てて歩けば熊は避けていくが、獲物も逃げてしまうからな」
季節は初夏だ。熊は活発に動き回っているだろう。獲物を求めつつ、熊を避ける。
「とにかく周りに注意することですね」
「まあそうだ。熊の気配を感じたら、音を立てて追い払う。獲物が逃げてしまうが、命には代えられないからな」
遊びに行くわけではない。山は危険な世界だ。
ネオン師はその他にも山での行動について具体的な注意をステファノに与えた。
パーティーで行動するとは、相手に自分の命を預けることを意味する。もちろん、相手の安全にも責任が生じる。危険を呼ぶ行動は厳禁であった。
最後に互いの装備を確認し合い、2人は猟に出発した。
◆◆◆
「その杖は山で使うには長すぎるが、無駄ということもないな」
「いつも持ち歩いているので、手ぶらでは不安になります」
ステファノの長杖を見て、ネオン師は言った。確かに茂みに踏み込む際には邪魔になるだろうが、下ばえを払ったりかき分けたりするには都合が良い。
何より、猪や山犬程度なら叩きのめせる頼もしさがあった。
実はそれ以外にも、毛布の中央に杖を立てて四方を立木や地面に留めれば簡易的な天幕になるという利用法もあった。長めの杖や六尺棒にはそれなりの効用があったのだ。
2人が踏み入ったのは「山」といっても標高500メートルクラスのものだった。狩りが目的なので登山をするわけではない。なるべく難所を避けて歩く。
「手ごろな石を左手に拾っておけ」
ネオン師は本来右利きだという。もっとも物心ついたころには左手も右手同様に使わされていたそうだ。
ステファノの右手には長杖がある。ネオン師は右手に鉈を持って、時々木の枝を切り払って先に進む。
前方の警戒はネオン師に任せ、ステファノは主に後方に神経を向けていた。
使役獣の雷丸は――。
「ピィー!」
はるか頭上の梢から雷ネズミの声が響いた。
「うん? 何か見つけたのか?」
「いえ、あれは異常なしの合図ですね」
「なぜわかる? 言葉が通じるのか?」
「いや、まさか。何となくですよ」
使役主と使役獣の間に存在する共感とでもいうのだろうか。多くの情報はもちろん伝わらないが、「安全」「危険」「喜び」「怒り」「不安」といった感情の動きならある程度感じ取ることができた。
熊に対する見張り役としてステファノは雷丸を樹上に飛ばした。気配を消している限り、山の自然に溶け込んでいるのでこれ以上ない「隠密役」であった。
雷丸は木から木へ、枝を渡り、宙を飛ぶ。
小さな体はまったく物音を立てなかった。
「犬や鷹に狩りを手伝わせる猟師がいるそうだが、お前のお供は独特だな」
「はい。あれでも魔獣なので、役に立つかと」
「魔術師で魔獣使いか。お前に礫術を習う必要があるのか、はなはだ疑問だな」
「ギフトで魔術を封じられたことがあります。そういう敵を相手にする時は武術の意味があるかと」
ネオン師はややあきれ顔だった。ステファノにしてみれば、必要な用心なのだが。
「そろそろ獣の気配が濃くなる辺りだ。無駄話はこれまでとしよう」
言われてみれば空気の質が変わったような気がする。遠くに鳥の声が聞こえていた。
生き物の中で数が多いのは鳥だろう。だが、空飛ぶ鳥は落としにくい。360度どころか、上下も合わせた3次元の挙動ができるのだ。鳥を狙うなら地上にいる時に限る。地面から飛び立つには前方に飛ぶしかないのだから。
『鳥は数が多いが、獲物としては今一つだ。肉が薄いからな』
狩りに出る前、ネオン師はステファノにそう言った。鳥よりうさぎの方が獲物としては良い。
『もっとも、味に関しては好みもある。わたしは鶉が好きだな』
肉を狙うなら、猪か鹿だろう。1頭仕留めれば相当な量がある。だが、猪は手ごわいし、鹿は逃げ足が速い。
簡単な狩りなどなかった。
置き罠を仕掛けるのが猟師の常だが、ネオンはそれをしていない。本業の猟師ではないからだ。
猟はあくまでも礫術の修業として行っていた。
それで何とか生計を立てているのは、農家の雑用などをこなしているおかげだった。畑や家畜を荒らす獣を駆除する仕事を近隣の農家から請け負っていた。大した実入りにはならないが、作物や卵などを分けてもらって食材の足しにしている。
ひっそりと生きていくだけならその程度で十分だった。あれがしたい、これがしたいという欲もない。
ネオンは独身を通していた。30年前に母親を、23年前に父親を失った。
母は病死した。
父は熊に食われた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第533話 これは人間と熊との、命がけの鬼ごっこだった。」
その年、村に熊の被害が出た。
作物を食われたとか、家畜を襲われたという話ではない。農家が襲われ、一家皆殺しになった。
全員内臓を食われていた。
「このままにはしておけねぇ」
人肉の味を覚えた熊は、再び人を襲う。人間か熊か。村人が生き残るためには、熊を殺すしかなかった。
……
◆お楽しみに。
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