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第5章 ルネッサンス攻防編
第531話 そうか。天秤と名づけたか。
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ステファノは左半身に立ち、杖の先端を真後ろに向けた。石を包んだ革帯が地面すれすれに下がるまで、左手に近い石突き側の先端を持ち上げる。
「色は匂えど 散りぬるをー」
ステファノはギフト「諸行無常」の成句を詠唱する。投擲という行為に没入するためだった。ステファノにとって成句詠唱は、最早「魔核錬成」と同義である。ステファノの体内に高周波化されたイドが満ちる。
「んー」
軽く息を吐き「阿吽」の響きを載せながら、ステファノは杖を振った。肉体と長杖、そして紐が1つの存在として同調する。
鍛え上げた速筋が必要な瞬間のみ収縮し、思考速度で杖を加速させる。
残像さえぶれる速度で杖は垂直に立ち上がり、そこでぴたりと止まった。ピークに達した運動エネルギーが石に伝わったところで、杖に挟まれていた紐の先端が解放された。
礫は地面と水平に紐から撃ち出された。
「飄――」
不定形の石は空気を斬り裂いて飛んだ。その方向は遠的の中心線に載っている。
「ガッ!」
石は遠的の1メートル手前で地面に落ち、勢いのまま跳ね返って遠的が取りつけられた立木の幹を撃った。礫の衝撃で樹皮が細かい破片となって飛び散る。
「ふう。少しだけ石を放つのが遅かったようです」
礫を飛ばした杖を左脚と共に引き戻したステファノは、残心を解きながらネオン師に告げた。
「うん。杖の扱いは見事だな。力みがどこにもない。後は工夫次第だ」
それだけを言い残し、ネオン師はステファノを1人にした。
「工夫次第か。ふふふ、確かにその通りだ。レシピを活かすも殺すも、工夫次第だからな」
要するに「匙加減」というわけだと、ステファノは携えた長杖をひと撫でした。
「随分大きな匙だけど。大釜でスープを煮込んでいると思えばいいか?」
とにかく練習を重ねるしかない。右だけでなく、左構えからも撃ち出せるようにしようと、ステファノは稽古を繰り返した。
幸い杖を振るコツは体に染み込んでいる。修得が必要なのは杖を止めるタイミングだけだった。
杖を使う投擲には利点もあった。右手に比べて左手が弱い弱点を補ってくれるのだ。
遠心力と方向の精確性は杖の長さによって保証される。左からの投擲でも、ステファノはタイミングだけを突き詰めれば良かった。
(名前がないと不便だな。杖を使う投擲を何と呼ぼうか?)
さすがに「右大匙」とか「左大匙」では格好がつかない。何か形の似たものはないかと、ステファノは記憶を漁った。
「棒の上げ下げだから……『天秤』でいいか?」
右から投げる技を「右天秤」、左からの技を「左天秤」と呼ぶことにした。
使い慣れた杖を活用したことが功を奏した。ステファノは「天秤」の使い方をその日の内に習得することができた。
◆◆◆
「そうか。天秤と名づけたか」
夕刻、狩りから戻ったネオン師はステファノの投擲を検分して言った。
100メートルの距離で天秤の命中率は9割を超えていた。紐だけで投げるよりも精度が上がっていた。
「今日で初伝は修了としよう。良く稽古したな」
「ありがとうございます。紐でも100メートルを外さないよう、もっと稽古します」
天秤で当たるという感覚を得たステファノは、それを紐にも生かそうと考えた。極意は1つであるはずだった。
「この道場……と言うのもおこがましいが、ここで学ぶこともそろそろ終わりだな。後は1人でも修行できる」
「まだまだ工夫が足りないと感じますが」
「それは当然だ。やっと礫術の入り口に立ったところだからな。本当に技が身につくには何年もかかるさ」
調理の技もそうだった。包丁の使い方を習ったからと言って、すぐに千切りの名人になれるものではない。
何事も日々の積み重ねだった。
「今は足りないことがわかれば良い。不足を知れば、進むべき道はおのずと開かれる」
「動く的に当てるのは難しそうです」
ステファノは「魔術試技会」のことを思い出していた。弓や槍を使うものも出場していたが、相手が動くと苦労している様子が見えた。
20メートル、30メートルの距離でもあれなのだ。100メートルも先の標的が動けば、当てるのは相当に難しいだろう。
「その通りだ。それを教えるために、明日からは狩りに連れて行こう」
「先生のお供ですね」
「ははは。それ程大袈裟なものではない。食材を取りに行くだけさ」
「わかりました。よろしくお願いします」
翌日は朝食後に山に入ることとなった。
◆◆◆
(山に入るなら、それなりの身支度をしないとな)
ステファノは寝床に入り前に、翌日の準備をすることにした。
そう言っても服は道着しかない。足元も履きなれた革靴で変えようがなかった。
(藪に入れば下ばえが当たるし、蛇や蛭が出るかもしれない)
道着の下半身はくるぶしがむき出しで心許なかった。
(ゲートル代わりに手拭いを巻いておくか)
道着のすその上から足首まで手拭いを巻きつけることにした。もう少し厚手の布があれば良かったが、ないよりはましだ。
山菜やキノコ狩りの経験上、山蛭は厄介だと知っていた。足元ばかりでなく、木の上からもぽたぽたと降って来る。
(笠があれば被りたいが、頭はいつもの手拭いで良しとしよう)
鉢巻にしている黒手拭いを広げて、頭巾の代わりとする。
「明日は肩にでも乗っていてもらおうかな」
ステファノは雷丸に語りかけた。いつもは髪の中に潜り込んでいることが多いが、頭巾があってはそうはいかない。懐に入れると、転んだ時に潰しそうだ。
(上半身は道着の下に長袖の下着を着こむとするか。手首から先は手袋で守れるな)
問題は首筋だった。仕方なく、これも手拭いを襟巻代わりに巻きつけることとした。
(泊まり込みになってもいいように、最低限の野営道具を背嚢に入れていこう)
王都にやって来る時も野営しながら旅をしたステファノである。野営道具は元々背嚢に納まっていた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第532話 いえ、あれは異常なしの合図ですね。」
「今日もその恰好か……と言っても、それしかないか」
翌朝、ステファノのいでたちを見てネオン師は頬に手をやった。
「山歩きは初めてでないな? 足元、襟元、袖口は覆ったようだ」
「手拭い頼みでいささか心許ないですが、気をつけて歩きます」
イドの繭を薄くまとって、蛭などの害虫に備えるつもりだった。野生動物は気配に敏感なので、獲物に近づいたらイドを抑える必要がある。
……
◆お楽しみに。
「色は匂えど 散りぬるをー」
ステファノはギフト「諸行無常」の成句を詠唱する。投擲という行為に没入するためだった。ステファノにとって成句詠唱は、最早「魔核錬成」と同義である。ステファノの体内に高周波化されたイドが満ちる。
「んー」
軽く息を吐き「阿吽」の響きを載せながら、ステファノは杖を振った。肉体と長杖、そして紐が1つの存在として同調する。
鍛え上げた速筋が必要な瞬間のみ収縮し、思考速度で杖を加速させる。
残像さえぶれる速度で杖は垂直に立ち上がり、そこでぴたりと止まった。ピークに達した運動エネルギーが石に伝わったところで、杖に挟まれていた紐の先端が解放された。
礫は地面と水平に紐から撃ち出された。
「飄――」
不定形の石は空気を斬り裂いて飛んだ。その方向は遠的の中心線に載っている。
「ガッ!」
石は遠的の1メートル手前で地面に落ち、勢いのまま跳ね返って遠的が取りつけられた立木の幹を撃った。礫の衝撃で樹皮が細かい破片となって飛び散る。
「ふう。少しだけ石を放つのが遅かったようです」
礫を飛ばした杖を左脚と共に引き戻したステファノは、残心を解きながらネオン師に告げた。
「うん。杖の扱いは見事だな。力みがどこにもない。後は工夫次第だ」
それだけを言い残し、ネオン師はステファノを1人にした。
「工夫次第か。ふふふ、確かにその通りだ。レシピを活かすも殺すも、工夫次第だからな」
要するに「匙加減」というわけだと、ステファノは携えた長杖をひと撫でした。
「随分大きな匙だけど。大釜でスープを煮込んでいると思えばいいか?」
とにかく練習を重ねるしかない。右だけでなく、左構えからも撃ち出せるようにしようと、ステファノは稽古を繰り返した。
幸い杖を振るコツは体に染み込んでいる。修得が必要なのは杖を止めるタイミングだけだった。
杖を使う投擲には利点もあった。右手に比べて左手が弱い弱点を補ってくれるのだ。
遠心力と方向の精確性は杖の長さによって保証される。左からの投擲でも、ステファノはタイミングだけを突き詰めれば良かった。
(名前がないと不便だな。杖を使う投擲を何と呼ぼうか?)
さすがに「右大匙」とか「左大匙」では格好がつかない。何か形の似たものはないかと、ステファノは記憶を漁った。
「棒の上げ下げだから……『天秤』でいいか?」
右から投げる技を「右天秤」、左からの技を「左天秤」と呼ぶことにした。
使い慣れた杖を活用したことが功を奏した。ステファノは「天秤」の使い方をその日の内に習得することができた。
◆◆◆
「そうか。天秤と名づけたか」
夕刻、狩りから戻ったネオン師はステファノの投擲を検分して言った。
100メートルの距離で天秤の命中率は9割を超えていた。紐だけで投げるよりも精度が上がっていた。
「今日で初伝は修了としよう。良く稽古したな」
「ありがとうございます。紐でも100メートルを外さないよう、もっと稽古します」
天秤で当たるという感覚を得たステファノは、それを紐にも生かそうと考えた。極意は1つであるはずだった。
「この道場……と言うのもおこがましいが、ここで学ぶこともそろそろ終わりだな。後は1人でも修行できる」
「まだまだ工夫が足りないと感じますが」
「それは当然だ。やっと礫術の入り口に立ったところだからな。本当に技が身につくには何年もかかるさ」
調理の技もそうだった。包丁の使い方を習ったからと言って、すぐに千切りの名人になれるものではない。
何事も日々の積み重ねだった。
「今は足りないことがわかれば良い。不足を知れば、進むべき道はおのずと開かれる」
「動く的に当てるのは難しそうです」
ステファノは「魔術試技会」のことを思い出していた。弓や槍を使うものも出場していたが、相手が動くと苦労している様子が見えた。
20メートル、30メートルの距離でもあれなのだ。100メートルも先の標的が動けば、当てるのは相当に難しいだろう。
「その通りだ。それを教えるために、明日からは狩りに連れて行こう」
「先生のお供ですね」
「ははは。それ程大袈裟なものではない。食材を取りに行くだけさ」
「わかりました。よろしくお願いします」
翌日は朝食後に山に入ることとなった。
◆◆◆
(山に入るなら、それなりの身支度をしないとな)
ステファノは寝床に入り前に、翌日の準備をすることにした。
そう言っても服は道着しかない。足元も履きなれた革靴で変えようがなかった。
(藪に入れば下ばえが当たるし、蛇や蛭が出るかもしれない)
道着の下半身はくるぶしがむき出しで心許なかった。
(ゲートル代わりに手拭いを巻いておくか)
道着のすその上から足首まで手拭いを巻きつけることにした。もう少し厚手の布があれば良かったが、ないよりはましだ。
山菜やキノコ狩りの経験上、山蛭は厄介だと知っていた。足元ばかりでなく、木の上からもぽたぽたと降って来る。
(笠があれば被りたいが、頭はいつもの手拭いで良しとしよう)
鉢巻にしている黒手拭いを広げて、頭巾の代わりとする。
「明日は肩にでも乗っていてもらおうかな」
ステファノは雷丸に語りかけた。いつもは髪の中に潜り込んでいることが多いが、頭巾があってはそうはいかない。懐に入れると、転んだ時に潰しそうだ。
(上半身は道着の下に長袖の下着を着こむとするか。手首から先は手袋で守れるな)
問題は首筋だった。仕方なく、これも手拭いを襟巻代わりに巻きつけることとした。
(泊まり込みになってもいいように、最低限の野営道具を背嚢に入れていこう)
王都にやって来る時も野営しながら旅をしたステファノである。野営道具は元々背嚢に納まっていた。
――――――――――
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第532話 いえ、あれは異常なしの合図ですね。」
「今日もその恰好か……と言っても、それしかないか」
翌朝、ステファノのいでたちを見てネオン師は頬に手をやった。
「山歩きは初めてでないな? 足元、襟元、袖口は覆ったようだ」
「手拭い頼みでいささか心許ないですが、気をつけて歩きます」
イドの繭を薄くまとって、蛭などの害虫に備えるつもりだった。野生動物は気配に敏感なので、獲物に近づいたらイドを抑える必要がある。
……
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