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第3章 魔術覚醒編

第113話 『あ』で始まって『ん』で終わる物なぁんだ?

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「大丈夫ですか、ステファノ?」

 冷たい手拭いで顔を拭かれ、ステファノは気がついた。書斎のソファに寝かされている。

「あれ? どうしたんでしょう?」
「ひきつけを起こして、気を失ったんですよ」
「ひきつけですか? 覚えていません……」

 マルチェルはケントクのわらべ歌を聞いていたら、急にステファノが具合を悪くしたことを伝えた。

「う。そうでした。ケントクさんの歌を聞いたのは覚えています」
「変わった歌でしたね。お前が取り乱すような内容ではないと思いますが……」

「そうですよね。歌の響きを聞いている内に、頭がぼーっとしてきて……。最後の『ん』という声で震えが起きたような気がします」

 歌にはほとんど音程がなかった。「高」「低」2つの音の間を行き来するような旋律。
 それが妙に頭の中に響き渡って、ステファノは意識を奪われたのだ。

「何だろうな。私は何も感じなかったのだが」
「感覚の差でしょうか? わたしも単調な歌だとしか。あえて言えば……」
「何かあるか、マルチェル?」

「子守歌や、手遊びの歌に似たような響きがあるかと」
「ほう。私には覚えがないが、育った場所や暮らし向きの違いによるのかもな」

 庶民の中で育ったであろうマルチェルと、侯爵家に生まれたネルソンが同じ環境を生きた訳がない。聞かされる歌も異なるはずであった。

「こういうことはドイルの奴が詳しいんだろうがな。自己暗示の話を前にしたと思うが、単調な文様や旋律には意識を麻痺させる働きがあるそうだ」
「ステファノは『旋律』に同調する感覚が敏感なのかもしれませんね」
「なるほど。それ故の『誦文しょうもん法』か」

 とにかく今日は休めということになり、ネルソンを交えた話し合いはお開きとなった。

 自室に戻ったステファノは、記憶に新しい内にケントクの「歌」を記録することにした。

「ケントクさんが歌った『いろは』は、区切りの場所がギフトの成句とは違っていたな」

 歌う前にケントクがそらんじた成句の連なりは、ギフトの物と同じに思える。
「わかよたれそ(え)つねならむ」に続く後半は、おそらくケントクがそらんじた内容で良いのだろう。

「また倒れるとまずいから試すのは明日にしよう」

 どうも最近、自分は倒れてばかりいるようだと、ステファノは困惑した。

「『歌』の方の区切りを書き留めておこう」

 書き並べてみると、冒頭の「いろはにほへと」と末尾の「けふこえて」以降は一致しているが、その間に挟まった文句については分解の仕方が異なっていた。
「通常版」が4句に区切るところを3句にまとめている。

「『歌』の方になると、成句に意味がなくなる気がする」

「ちりぬるをわか」
「よたれそつねなら」
「むういのおくやま」

「この3句は意味がないよね?」

 だったら、飛ばしても良いのだろうか?
 3句を抜いた「歌」はこうなった。

「いろはにほへと」
「けふこえて」
「あさきゆめみし」
「えひもせす」

「色は匂えど 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず」

「『酔いもせず』と言う割に、俺は酔っちゃったけど……」

 辞典などを調べたステファノは、歌の意味をこう解していた。

「いろはにへと」は「色は匂へど」。すなわち「色は匂えど」とした。
 これは物質的な存在つまり「諸行」が人の目に映っていても、ということではないか。

「ちりぬるを」は「散りぬるを」。すなわち「散ってしまった物を」。
 これは「諸行無常」の「無常」を表わすものだろう。すべての物には終わりがある。

「わかよたれそ」と「つねならむ」は、間に「え」を入れて一つのつながりと考えた。
「我が世誰ぞえ常ならむ」である。「え」は「得」であり、可能を表わす。
「この世界で、永遠である者などどこにいると言うのか」と解した。

「うゐのおくやま」と「けふこえて」もひとつながりで考えた。
「この物質世界を今超越して」と解する。

「あさきゆめみし」と「ゑひもせす」を、これも一塊とする。
「浅き夢見じ、酔ひもせず」で、「浅い幻想を抱かず、酔うこともない」と解した。

「ゆめみし」は「夢を見た(夢見し)」と取るか、「夢を見まい(夢見じ)」と取るか悩ましいが、「酔ひもせず」の否定に構成を合わせて否定文とした。

「いろは歌」の短縮版を抜き出せば、「物質的な存在が目に映っても今超越して、浅い幻想を抱かず、酔うこともない」と歌っていることになる。

「どういうことかなあ?」

 ステファノは腕を組んで考える。

「物質とは幻想だと言うのかな? 本質を見通せということだろうか? 酔うこともないというのがなあ……」

 酔うとは何か? 酒を飲んで正体を失うことか? 幻想にうつつを抜かすことか? 痺れ、めまいを起こすことか?

「うんー……」

 ステファノは思わず俯いて唸った。自分が発した唸り声の尾を引くその響きに、ふと聞き覚えを感じる。

「あれ? そう言えばケントクさんが歌い終わりに『ん~』て……」

 ステファノはノートを開き、歌の終わりに「ん」の字を書き足した。

「あさきゆめみし えひもせす」「ん」

 しばらく眺めてみたが、これでは意味ある言葉にはならない。

「ケントクさんは『手習い歌』だって言ってたな。子供が文字を覚えるときに手本にしたり、そらんじたりするんだろう」

 だから単純な旋律なのだろうなとステファノは思った。文字を覚えるなら、確かに「ん」の字を加えなければならないだろう。

「論文なら最後が結論だよね。『あさきゆめみし ゑひもせす』」

「『幻想に騙されない』。そういうことかなあ?」

 明日は辞典で「ん」の文字について調べてみよう。ステファノはそう脳裏のノートに記録して眠りに就いた。

 ◆◆◆

 幼い子供、女の子2人が地面に絵を描きながら語り合っていた。

「『あ』で始まって『ん』で終わる物なぁんだ?」
「え~? 『あ』で始まって『ん』で終わるの? えーと、えーと……」
「とっても大切な物よ~。なくなったら困る物~」
「えーと、『あん』! なくなったら、お饅頭が食べられない!」

「ざ~んねん。答えは『あいうえお』でした!」
「え~? そんなのずるいよ~!」
「ずるくないよ~」
「ずるいよ~!」

 ちょっとずるいかなあと、ステファノは思った……。

 ◆◆◆

 ちゅん、ちゅん……。

 雀の声と共にステファノは目覚めた。

「何だろう? この夢……」

 あまり夢の内容を覚えていることがないステファノにしては、はっきりと情景まで目に浮かぶ昨夜の夢は珍しい物だった。

「答えは『あいうえお』か。子供ってすごいね」

 どこかであんな子たちを見掛けたのだろうか? それを思い出したのだろうなと、ステファノは自分の夢を解釈した。

「『いろは歌』のことを考えながら寝たからなぁ。『あいうえお』の夢を見るなんて、初めてだよ」

 正確に言うと、答えは「50音」だけどね? ステファノは夢の中の女の子に言って上げようかと思った。

「ああ。正確に言うなら『あいうえお』は50音じゃないか? 『や・ゆ・よ』『わ・を・ん』だから、4文字少ない46音だね」

「あれ? いろは歌は? 何文字あるんだっけ?」

 数えてみると、元の読み方で47文字。「得」の字を追加すれば、48文字。さらに「ん」を加えれば49文字になっていた。

「『いろは』の方が3文字も多いのか? あれ、何でかな?」

 ステファノはノートを開いて、「いろは歌」をつぶさに検分した。

「ああ、そうだ。『ゐ』と『ゑ』が入ってるから2文字増えるんだ。後は……『え』が2回使われてる」

 調べてみると、「え」には「あ行のえ」と「や行のえ」があったらしい。「えつねならむ」の「え」は「あ行のえ」で、「けふこえて」の「え」は「や行のえ」であった。

「えっ? こうやってみると『いろは歌』って、1文字も同じ文字を使わずにできているのか?」

 すべての文字を重複せずに1度のみ使って意味のある文章を作る。とんでもなく高度な作業だなとステファノは感心した。

「『あいうえお』は『あ』で始まって『ん』で終わるけど、『いろは』は『い』で始まって『ん』で終わることになるかな?」

 おや。ステファノはふと引っ掛かりを覚えた。「あ」で始まる文章があったはずだ。

「あさきゆめみし ゑひもせす。ん」

「あ」で始まって「ん」で終わる物。「いろは歌」の中にそれは存在した。

――――――――――
 ここまで読んでいただいてありがとうございます。

◆次回「第114話 魔力はこの世の物ならず。」

「『物質界』と『イデア界』を結ぶことができたなら、『結果』を『ここ』に持って来ることができるかもしれない」

「有為の奥山 今日越えて」

 物質界を超えてイデア界に知覚を及ぼすということではないのか? 「奥山」とは存在の中心か。

「あさきゆめみし ゑひもせす。ん」

「阿吽」の間に「宇宙」がある。それが「イデア界」か。ならば――。
 
 ……
  
◆お楽しみに。
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