鉄と草の血脈――天神編

藍染 迅

文字の大きさ
上 下
31 / 34

第三十章:道賢経筒の謎

しおりを挟む
 醍醐帝逝去前後の法事に関して、当時の記録には「度者どしゃ千をたまわる(賜わる)」「度者五百を給す」等と書かれている。此は朝廷が千人の公度僧くどそうを認めたという事である。
「そうは言っても、一度に千人もの出家が行われる訳ではないだろう。事実上、既に僧侶として生活している者達に公度僧の資格を与えてやったという事だ」
 須佐の解説は続いた。
「公度僧の制度には経済的な意義もある。正式な僧は納税義務も、課役に服する義務も免除されていたんだ」
 古代の税制は人頭税を基本としていたので、公度僧を認められるという事は、寺にとって免税枠を獲得するという事に等しい。
 延暦寺が勢力を拡大した要因には、独自の戒壇を有し、受戒即ち僧の資格授与を公的に行える権限を有していた事が大きく寄与している。
「醍醐帝の時代には、『勝ち組寺院』がはっきり形成されていて、朝廷をも脅かす程の大勢力と成っていたんだ」
 須佐曰く、醍醐帝は此の勢力バランスを突き崩そうとしたのだと言う。
「何せ、醍醐・・帝の供養なんだ。醍醐・・寺を中心に置くのが当然という物だろう」
 堂を建てたり、仏像を建立したり、公度僧枠の「割り当て」も、醍醐寺に手厚かった筈だと、須佐は主張した。
「経済的な側面で言えば、いろんな名目の手当を支給し、免税枠を割り当てたという事に成るわな」
 醍醐寺尊重姿勢は醍醐帝の後継者である朱雀帝にも引き継がれた。お陰で醍醐寺は隆盛を極め、南都北嶺の二極支配体制に楔を打ち込む存在と成った。
「構造的に言えばだ、仏教勢力に対する防御機構として醍醐寺を擁立し、神道勢力に対しては北野天満宮を立てて牽制に努めたんだな。此の二つを権威付けする為に利用されたのが、道真の怨霊だった」
 現代的な表現をすれば、其れは「プロパガンダ」であった。

 一つ、道真は無実の罪で放逐され、非業の死を遂げた事。
 一つ、道真は恨みの内に死に、天満大自在天と成りつつ、怨霊と成った事。
 一つ、其の祟りが世に災いをもたらし続けている事。
 一つ、醍醐帝は道真を無実の罪により大宰府に流した為、地獄に堕ちて苦しんでいる事。
 一つ、祟りを鎮めるには道真を神として祀るべき事。
 一つ、また、仏塔建立、公度僧認可等の仏教式供養を行うべき事。

 此の内容をショッキングなレポートに纏め、世に流布したのである。
「其れが『道賢上人冥途記』であり、『北野天神縁起絵巻』だ」
 冥途記の内容をつまんで述べれば、道賢は修行中に急死し、冥界を彷徨さまよう。其の際に、醍醐天皇、宇多法皇の死後の姿と出会い、日本大政威徳天にほんだいじょういとくてんとなった道真の怨霊と会話する。其の時の会話内容が、先に箇条書きした物であった。
 夢から覚め、一命を取り留めた道賢は夢の内容を世に知らしめ、天神信仰を広める事に寄与した。
「此の道賢という僧は、出自来歴が貞崇に良く似ているんだな。どちらも三善氏の出身といわれ、真言僧であり、金峯山で長年修行を積んだ事になっている」
「貞崇は表の歴史にも登場する実在の人物だろうけど、道賢の方はどうなんだ? 冥途に行って甦ったなんて、如何にも胡散臭い話じゃないか?」
「そう。霊験あらたかな高僧だというなら、他の形でも歴史に名を残していそうな物なのに、冥途記以外では事績が存在しないんだ」
「という事は、架空の人物という事か」
 実在する貞崇の事績を借り、尤もらしく道真怨霊伝説を語らせたのではないか? 私には、そう思えた。
「只ね、道賢と名乗る人物は実在したらしいんだよ。妙な形で証拠が残っている」
「証拠って、何が何処に残っているんだ?」
 須佐の答は、予想もしていない物であった。
中国歴史博物館・・・・・・・さ。其処に道賢の名を記した経筒きょうづつが所蔵されている」
「経筒?」
「うん。長さ十七センチ、直径五センチ程の円筒で、銅板に金メッキが施されている物だそうだ。筒の内部に経を納め、寺に奉納する為の物だ」
「同名の別人という事はないのかな?」
「経筒の表面に刻印がある。『倭国椿谷椿山寺奉納三部経一巻為父母菩提敬白延長三乙  酉年八月十三日道賢法師』と、はっきり刻まれているそうだ」
 延長三年は西暦九二五年に当たり、醍醐天皇が亡くなる五年前である。時代は一致していると言えよう。
「冥途記の道賢は、金峯山の椿山寺で修行したと伝えられているから、刻印の文字と符合する」
 銅製の経筒は当時としては高価な物だった筈であり、其れなりに身分ある者にしか手にする事は出来なかったろう。とすれば、道賢という僧もきちんとしたステータスを持っていたと考えられる。
「経筒が偽物という可能性はないかな?」
 私が疑問を呈すると、須佐は首を横に振った。
「偽物を造る意味がないだろう。現に経筒が世に出たのは、一九三九年の事だ。其れまでは歴史の陰に埋もれていたんだ」
「道賢という僧」は実在した。但し、実際に死んで冥途を見てきた訳ではなく、道真怨霊伝説の語り部として天神信仰流布の中心に存在したのであろう。
「此処からは全くの想像だ。道賢は三善清行の弟ではなかったろうが、恐らく三善氏の一員ではあった。金峯山で修行したというのも嘘ではないだろう。そしてきっと、優秀な学僧だったんだ。天神ネットワークと密に繋がる三善一族の一員だった道賢は、自ら大陸に渡ったのだろう。勿論、博多から異国船に乗って。そして中国大陸で勉学に励んだ」
 当時既に唐は滅亡し、「五代十国」と呼ばれる群雄割拠の時代と成っていた。
「道賢が大陸の何処に渡って修行したかは分からないが、世情は不安定で苦労した事だろう。兎も角も、道賢は無事に帰国出来た」
 だからこそ、冥途記を著わす事が出来たのだ。
「大陸で修行している間に、故郷の父母が亡くなったんだろう。其れで供養の為に経筒を奉納したんだ」
 遙か海の彼方で修行する身では、父母の臨終を看取る事も出来なかった。せめて菩提よ安らかなれと、経筒を納めたのだと想像したい。其れが須佐の思いだった。
「道真には、唐渡からわたり伝説がある。大宰府で死なず、大陸に渡ったという信仰だ。初めは義経=ジンギスカン説と同じ様な物だと思っていたのだが、其れだけではないと思えて来た。道賢の様な渡海僧の存在に道真の姿を重ね合わせたのじゃないかとね」
 須佐の見立てでは、道賢は相当に「出来る」男だったに違いないと言う。そうでなければ、「冥途記」が信用される筈がないと。
 勿論、大陸で仏教の修行を積んで来たのだろうが、其れだけではなかろうと、言う。
「最先端の大陸技術、恐らく医術を身に付けて帰国したのだろう。病気治癒の実績を以て、公家の間で認められたのだと思う」
 扶桑略記に不思議な話がある。延喜二十年(九二〇)大陸から渡ってきた僧長秀の父親が病に倒れ、如何なる治療でも良くならない。思い余って、日本の高僧に祈祷を願った所、たちどころに快癒した。
 是程効験あらたかな僧は中国にもいないと、驚き敬ったという。
「其の高僧とは、浄蔵の事さ」
 浄蔵は、三善清行の子として知られる存在である。
 須佐の説はこうだった。
貞崇、浄蔵、道賢という三善氏属性の僧は、宇多、醍醐、朱雀という帝王三代に寄り添う存在であり、天神仏教勢力の象徴であった。凡そ彼らの事績の陰には、天神使徒の働きがあった。
「浄蔵や貞崇の祈祷というのは、天神使徒による医療行為をカモフラージュしているのさ」
 土師氏が出雲時代からオオナムチに仕えていたとしたら、出雲国風土記に伝えられる様に本草ほんぞう、即ち薬草の扱いにも長けていたろう。更に大陸の医学知識を吸収していたとすれば、飛び抜けた医術者を輩出していたとしても不思議はない。
「大体、三善清行の第八子とされる浄蔵の生まれが、寛平三年(八九一)とされているのに対して、清行の弟だといわれる道賢は延喜五年(九〇五)生まれと推定されている。清行自身は承和十四年(八四七)生まれとされているのにだ。」
 其のまま受け取れば、浄蔵は清行が四十四歳の時の子供となるのに対し、道賢は五十八歳年齢の離れた弟という事になる。
「大分いい加減な設定だという事さ」
 浄蔵や貞崇は歴史の表に実体として存在したが、道賢の場合は「宣伝塔」という役割が先行している様だ。三善氏の持つ役割を象徴する存在ともいえた。
「三善氏イコール渡来系氏族なのだから、そもそも仏教との親和性が高い。そこで、天神ネットワークの仏教方面担当として、中核的な役割を果たす事に成ったのだろう」
 因みに、貞崇は貞観八年(八六六)生まれで、清行とは十九歳しか年が違わないが、清行の弟という紹介は見かけない。其の事から、其れなりの人物として実在したのであろうと推測される。
「証拠は何もないが、中国僧長秀の父を治療したのは道賢で、御礼の意味も兼ねて長秀の船に乗せて貰い、大陸に渡ったのかもしれない」
「其処で、更に医術を修めたという訳か」
 面白い仮説だと思った。
「さて、いよいよ清涼殿落雷事件に迫るぜ。なんたって、道真怨霊伝説の最大事件だからな」
 事件の概要は次のようなものである。
 延長八年(九三〇)六月二十六日、宮中清涼殿において落雷の為に死傷者多数が出た。この日、都周辺で続く旱魃について対策を議する為に帝のいる清涼殿に諸臣が集まっていた。すると、俄に天が曇り、濛々もうもうと雨が降り注いだかと思うと、稲妻が走り、強い風が吹き付ける空模様となった。
 そうこうする内に、清涼殿南西方第一の柱に雷が落ち、炎が燃え上がった。次に、大納言藤原清貫きよつらが衣服を焼かれ、胸を裂かれて死亡・・右中弁うちゅうべん平希世たいらのまれよが顔を焼かれて死亡・・
 紫宸殿にも落雷し、右兵衛佐うひょうえのすけ美努忠包みぬのただかねが髪を焼かれて死亡・・紀蔭連きのかげつらが腹を焼かれて重傷・・安曇宗仁あずみのむねひとが膝を焼かれて死亡・・
 更に清涼殿南側の軒下で、右近衛うこのえ茂景もちかげ撲り殺されて・・・・・・いた。
「『日本紀略』、『扶桑略紀』という歴とした史書の記述を要約すると、こういう事になる」
 少なくとも五人が死亡、一人が重傷という大事件である。
「だけど、様子がおかしい所が幾つかあるね」
「だろう? 髪とか、膝を焼かれて死んだとかね。一番酷いのが、撲り殺された・・・・・・ってやつだがね」
「本当にそう書かれているのか?」
「間違いないね。『右近衛茂景独撲滅・・』と、扶桑略記にはっきり書いてある」
 雷に打たれて、「撲滅」という事はないだろう。
「何者かに撲殺されたという事さ」
「其れなら、他殺じゃないか。」
 単なる自然現象ではなかった。少なくとも、何者かが宮中に襲撃を掛けたのだ。
「俺の見立てでは、天神一派が対立勢力を粛正したのだと思う」
 須佐は、言った。
「藤原清貫は、大納言とはいえ藤原家では傍流だ。時平が斃れ、忠平の代になってから急速に出世しているんだな。せっせと蓄財に励んだのだろう」
 平希世は皇族から臣籍降下した貴族であった。元々の財産は少なく、是もまた寄進系荘園の利を貪った事が想像される。天神の里の平和を、是らの貴族達が武力を以て侵す事態が発生したのではないか。其れが須佐の推測であった。

――――――――――

「長太が死にました」
 感情を亡くした声で、里の長が梅に告げた。昨日から生死の境を彷徨っていたが、夜明けを待たずに息を引き取ったのだ。
「そうか。助からなかったか」
 無惨であった。長太は、可愛い盛りの四つになったばかりで、近衛が乗る馬の蹄に掛けられた。
肋骨が、大方砕けていたという。
 月読つくよみの里は、天神の里の一つであった。其の田畑は里人達が自ら開墾した土地であり、公に認められた私有地であった。
 其処に目をつけた近隣の荘園領主が、土地を寄進せよと里長に迫った。さもなくば、耕作が出来ぬように水路を破壊すると。
 里では、此の言いがかりを撥ね付け、交代で水路の見回りをする等して守りを固めて来た。小競り合いが何度かあったが、大怪我をする者もなく、昨日まで睨み合いが続いていた。
 ところが昨日、突然騎馬の集団に水路を襲われた。蹄を鳴らして押し寄せた集団は、手に手に棍棒を持ち、里人を撲り倒した。
 そうして置いて、供の下人に水路の堤を切らせた。

「良いか! 吾等は右兵衛佐うひょうえのすけ美努忠包みぬのただかね様の手の者である。ぬし等が寄進に応じぬ限り、何度でもやって来るぞ! 吾等に手向かう事は、御上に手向かう事に他ならぬ。身の程をわきまえて、下知げちに従え!」
 兵衛の頭分はそう叫ぶと、手綱を返して引き上げようとした。その時、走り出した馬の足下に、間の悪い事に畦で遊んでいた長太が迷い出た。あっという間もなく、長太の体は馬に踏み付けられた。後続の馬の何頭かにも踏み付けられ、騎馬集団が去った後には、襤褸雑巾の様に成った長太が転がっていた。

「此の様な非道、断じて許せませぬ」
 里長は、抑えた声で梅に訴えた。
「うむ。だが、軽挙はならんぞ。土地の寄進を求めているのは、藤原清貫ふじわらのきよつら様じゃ。先ずは里の入り口に、天満大自在天神ののぼりを立てて、此処が天神の里である事を知らしめよ」
「其れで、相手が収りましょうか?」
 里長が梅に迫った。
「収らねば、此方にも覚悟がある」
 梅はそう言い切ると、腕を組んで瞑目した。
「後の事は吾に任せよ。御前は長太を弔ってやるが良い」
「――はい」
 里長は頭を下げてから、引き下がった。長太は里長の孫であった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

悲恋脱却ストーリー 源義高の恋路

和紗かをる
歴史・時代
時は平安時代末期。父木曽義仲の命にて鎌倉に下った清水冠者義高十一歳は、そこで運命の人に出会う。その人は齢六歳の幼女であり、鎌倉殿と呼ばれ始めた源頼朝の長女、大姫だった。義高は人質と言う立場でありながらこの大姫を愛し、大姫もまた義高を愛する。幼いながらも睦まじく暮らしていた二人だったが、都で父木曽義仲が敗死、息子である義高も命を狙われてしまう。大姫とその母である北条政子の協力の元鎌倉を脱出する義高。史実ではここで追手に討ち取られる義高であったが・・・。義高と大姫が源平争乱時代に何をもたらすのか?歴史改変戦記です

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

歴史酒場謎語りーー合掌造りの里五箇山と硝石

藍染 迅
歴史・時代
酒場に集う歴史好きの酒呑み二人。 今日は何を語らうのか? 合掌造の里五箇山。そこは火薬の里でもあった。 なぜそこで、なぜ硝石を? 呑めば呑む程に謎は深まるーー。

処理中です...