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発展途上の恋人たち

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 珠樹の視線を追いかけるようにしてふりむくと、廊下の角からこちらを覗く小さな影を見つけた。聖と目が合い、彼はぱっと顔を輝かせる。なんだか、人懐っこい小型犬みたいな反応だ。

「あ、あの! 聖先輩、一昨日は大丈夫でしたか!」

 その場に留まったままで声を張り上げている。なぜ近寄ってこないのだろう。

「戌井君。ひーちゃんの匂いはもう俺にしかわかんないから、こっちへ来ても大丈夫だよ」

「ちょっ……!」

 それぞれの教室へ向かう生徒たちがちらほらいる中で、冬治に番になった事を公言されてぎょっとした。聞こえてしまったのだろう数人の生徒が振り返り、聖は恥ずかしくて顔を上げられなくなってしまう。

「そ、そうなんですね! おめでとうございます!」

 戌井がほっとした様子で駆け寄ってくるのを見て納得した。そういえば一昨日、階段の踊り場には戌井もいたのだ。その時すでに聖は発情していたから、アルファの戌井は聖のフェロモンを感じ取ってしまったのだろう。警戒されて当然だった。

「いきなり泣きだして逃げちゃうので、怖がられたんじゃないかと心配で。あっ、大丈夫ですからね! 聖先輩と冬治先輩のご関係は一年の間でも有名ですから。それに自分にもその、好いた相手はおりますので……」

 後半は照れくさそうに言い、なぜか聖の後ろをちらちらと見つめ……いや、見上げている。今、聖たち四人はそれぞれ聖と冬治、珠樹と愛で向かい合っている状態で、振り返った今、聖の真後ろには珠樹がいる。

(あれ、じゃあ、もしかしてこの子の好きな人って……)

「ね、ねえ、貴方。ちょうど良かった」

 聖が真相にたどり着くより少し早く、珠樹が戌井に声をかけた。途端に戌井は背中に物差しでも差し込まれたのかというくらい背筋を伸ばす。

「は、はい!」

 戌井の顔が明らかに紅潮していくのを確認して、聖は自分の推理が間違えていない確信を持つことが出来た。間違いない。戌井の本命は、珠樹なのだ。
 そういえば珠樹は、戌井に見覚えがあるような事を言っていた。二人は知り合いだったのだろうか。

「勘違いかもしれないんだけれど、私たち、どこかで会った事なかったかしら?」

「お、覚えていてくださったんですか!」

 戌井が黒目がちの両目を輝かせ珠樹にずずいと近づく。小さいながら、その気迫はなかなかのもので珠樹の方はちょっと気圧されているようだった。

「え、ええと。ごめんなさい。具体的に覚えているわけじゃないの。ただ、なんとなく、そんな気がして」

「ええ。ええ。ありますよ! ありますとも! 忘れもしません。あの日の珠樹先輩の高貴な御姿……! 情けなくも、ガラの悪い不良どもにお小遣いをせびられていた自分を華麗に助けてくださった先輩は、まるで戦乙女のようでした!」

 戌井が熱弁する内容を要約すると、どうやら彼は過去にも不良に絡まれた経験があるようだ。そこを珠樹に救われたらしい。

「貴方の美しい姿に一目惚れした自分は、ずっと貴方にまた会いたいと願いながら、しかし名前も知らずにいたので不可能と諦めておりました。それが! 偶然にも高校で再会できたのです!」

 お芝居のクライマックスにも負けない盛り上がりっぷりだが、その熱意を一身に受ける羽目になった珠樹は若干引き気味だ。人目もあるし、なんだか可哀想になって来た。でもたぶん、今の戌井を止められる者はこの世のどこにもいない。

「自分はすぐさま貴方にこの溢れんばかりの想いを伝えようとしました。ですが……聞いてしまったのです」

 興奮から一転、がっくりと肩を落とした戌井は、なぜか聖と愛を順番に見やった。

「珠樹先輩はお二方におっしゃいました。番にするなら自分よりも背が高くて格好良くて強い人が良いと」

 具体的にこの日とまでは思い出せないが、たしかに聖たちはしばしば恋愛トークで盛り上がる。そして今戌井が一言一句間違えず口にしたのは、珠樹が常々語っていた理想のアルファ像だ。
 絶望させてしまうから決して口には出せないが、戌井とは正反対のタイプが珠樹の好みなのだ。

「あ、あら……私、そんなこと言ってたかしら? でも理想はあくまでも理想だし、妄想みたいなものなのよ」

 珠樹も正直に答えるのは酷だと判断したらしく、適当に誤魔化している。

「いいえ。いいえ。いいのです。珠樹先輩。貴方の理想を聞いて、自分は決心したのです! 必ず貴方の理想に届いて見せようと! その為に今、冬治先輩の弟子にしてもらおうと頼み込んでいるところなのです!」

 戌井が決然と言い放った言葉は、聖に冬治の話を思い起こさせた。なるほど、だから戌井は冬治にしつこく弟子入りを志願したのか。確かに冬治なら珠樹の理想通りだ。師匠と仰ぐのに冬治以上の適任者はいない。

「だから、待っていてくださいね。珠樹先輩! それでは!」

「あ、ちょ、ちょっと……」

 宣戦布告して、早々に去っていく。戌井はまるで嵐のような子だ。

「行っちゃったわ」

「足はっやー。そういうとこも子犬っぽい」

「ごめんなさいね、聖。彼に弟子入りなんて、そこまでしなくても良いって伝えたかったんだけど」

 その戌井は既にいない。
 彼の事をよく知らない間は、可愛らしくて明るくて、それこそお姫様みたいな子だと思っていたが、蓋を開いてみると第一印象とはだいぶかけ離れている。今となってはあの戌井に嫉妬していたのかと思うと、なんとなく虚しい気分になる聖だった。

「タマちゃん、よかったね。理想とは程遠いかもだけど、なかなか可愛いんじゃない? あの子犬王子こいぬおうじ

「ま、まあ……可愛い子では、あったわね。ちょっと落ち着きがない子だったけれど」

 困ったように笑って、珠樹は小さな声で付け足した。

「……そうね。情熱的な告白は、悪くはなかったわ」

 珠樹の独り言のようなつぶやきを聞いて、聖はここにはいない戌井を憐れんだ。あと少し辛抱出来ていたら、珠樹の素直な気持ちを聞けたというのに、なんて間の悪い男だろう。

「ね? ヤキモチ妬く必要なんてなかったでしょ?」

 冬治にそっと耳打ちされ、聖は微かに頷いた。

「でも嫉妬してくれて嬉しいけどね」

「……俺はもうあんなもやもやすんのやだ。お前こそ、浮気すんなよ」

 ありえないと思いながらも釘を刺さずにはいられなかった。冬治は全く迷うことなく言い切る。

「するわけないよ。俺にはひーちゃんしか見えない」

 また臆面もなくそう言う事を、と聖は赤くなった。

「あー、なんかここだけぬくいわー。ノロケぱわー?」

「本当ね。幸せ成分を分けてもらいましょ」

 友人二人に生温い視線を送られるが、聖はもう意地になって否定はしなかった。真実だから、する必要がないのだ。


 聖は憧れのお姫さまではなくて、冬治は憧れの王子さまではなかった。現実は物語のようにあらかじめ結末まで想定された世界ではないのだから当たり前だ。
 それに現実は童話とは違って、二人が結ばれた後も物語が続いていく。
 いろんな困難が待っているのだろう。またすれ違ったり、想いが上手に伝わらなくて喧嘩をすることもあるかもしれない。
 それでも今、聖は幸せだと断言できる。
 理想通りじゃなくてもいい。自分を卑下する必要もない。
 冬治とどこまでも続く現実を生きていける。これ以上の幸せはないのだから。


終わり
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