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翌日
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翌日の聖は、とにかく退屈だった。一応怠け癖がつかないよう、登校している体で授業時間に合わせて勉強しているのだが、身体はすこぶる元気なのに自室に引きこもっているから、時間の経過が遅く感じられる。
気もそぞろで、気付くと放課後の事を考えてしまう。冬治は今日の夕方、聖のもとを訪ねてくる。そして聖を番にする。
発情期中しか番契約は成立しないため避けようのない苦行ではあるのだが、冬治が苦痛を強いられることは間違いなく、未だに心苦しい。とはいえ聖には薬を飲むくらいしかしてやれることがないので、冬治の言う奥の手とやらに委ねるしかない状況だ。
幸いなことに母は今日はパート勤務がお休みなので、何か異変を感じたらすぐに助けてもらえる。人生の先輩であり、オメガとしても大先輩の母がいてくれると心強かった。精神が安定しているおかげか、今のところ不調を感じることもない。
あらかじめ時間割の時間に合わせて勉強すると伝えていたので、ちょうど四つ目の教科を終わらせたところでお昼ご飯が出来たと報せに来てくれた。
今日は動いていないせいもあって昨日にも増して食欲がないが、食事を抜くのは身体にもよくない。それにいざ冬治が来た時に腹が鳴っては恥ずかしいので、無理をしない程度に食べることにした。
少しでも食べられるようにと母が用意してくれた茸の雑炊はお腹も心も温かくなる愛情のこもった一品だった。
「大丈夫か? 聖、緊張してる?」
向かいの席に座って白粥を、自家製の佃煮をおかずに食べている母に聞かれる。冬治が今日、どういう目的で来るのかはもう話してある。
「う、うん。まあ……」
もともと双方の両親が決めた婚約関係ではあったが、今日うなじを嚙まれて番になれば、今度こそ本人たちの意志で婚約することになるのだ。舞い上がりそうなほど嬉しい反面、お互いまだ自立した立場ではないからこその不安もある。
絶対に冬治の人生を狂わせるようなことはしないと誓っていたとしても、前日オメガとしての本能がどれほど強烈なのかを思い知らされた今では、百パーセント大丈夫とは言い切れないのが正直なところだ。
「そうだよね」
母は労し気な表情になって呟く。そっとレンゲを置いた。聖がまだ半分ほどしか減っていないのに対し母は既に食べ終えていた。普段仕事をしているからかどうしても早食いの癖がついてしまっているのだ。
「でもお前たちは一度、本能に勝ったんだろ?」
「うん。ほとんど冬治のおかげだけど」
あの時の苦しそうな呼吸は今も耳に残っている。もう二度とあんな思いをさせたくないのだが、冬治がどうしても早くに番になりたいと願う以上、仕方ないと受け入れるしかない。
「それだけじゃないよ。聖だって、冬治君が欲しかっただろ?」
露骨な言い方をされ、聖はご飯粒の飲みこみ方を間違えそうになる。急いで水を流し込んでどうにか事なきを得た。
「か、母さん……っ」
いくら同じオメガとはいえ、血の繋がった母とはあまりしたくない会話だった。だが、母の目が至って真剣だったので、聖は文句を言えなかった。
「そういうもんなんだよ。お母さんたちは駄目だった。まあ、突然だったからなあ。何しろお母さん、事前の調査じゃベータだったんだ。だからお互い油断してた」
そういえば、母は今の聖と同じ年頃には妊娠しているのだと思い出した。両親が子供だった頃はまだ今ほど医学が進歩しておらず、誤診されることも多かったという。もともとオメガだと診断されて心構えも出来ていたはずの聖ですら危うかったくらいなのだ。母が父と一線を越えてしまったのも無理からぬ話に思える。
「だから、もしもの事があったら母さんたちがアドバイスしてやれるから大丈夫だ。もちろん苦労はしたけど、父さんと二人どんな荒波でも乗り越えてきたんだから」
今でこそ思い出話のように笑いながら語るが、そのころはとても笑える状況じゃなかったはずだ。
ましてベータだと思っていたなら、いきなり妊娠が発覚してどれほどショックを受けた事だろう。そうやって精神を病みお腹の子ともども命を絶ってしまった事例は過去にいくらでもあった。
だからこそ、より確実な結果が出せるよう急ピッチで研究が推し進められたのだ。
母は強かった。その力の根源にはきっと父の存在があった。なるほど二人が未だに子供の聖が呆れるくらい仲睦まじいのも道理だ。
「だから聖。お前ももうちょっと冬治君の事信じてやりな」
冬治の事は信頼している。そう反論しかけて、やめた。本当に信頼していたら、こんなふうにうじうじ思い悩んだりはしないと気付いたからだ。
母の諭すような指摘は真実で、聖は未だ心のどこかで冬治を、自分自身を疑っているのだろう。
(馬鹿だな。また元の俺に逆戻りしてる)
昨日、感情に任せることも大事だと気付いたばかりなのに、常識とか良識に囚われて一番大事なことを見落としそうになっていた。
(そうだ。冬治は大丈夫だって言ったんだから。信じよう)
冬治が大丈夫というのだから、きっと大丈夫。そう思うとふっと心が軽くなった。心なしか食欲も出た気がして、雑炊を完食することも出来た。
食休みをした後、聖は午後の勉強は取りやめてお風呂に入ることにした。一応、これから素肌の一部に触れられるのだから、入念に綺麗にしておこうと考えた。特にうなじの所は入念に泡立てたが、擦りすぎた所為だろうか、風呂上りは若干ひりひりしていた。
そして夕刻、家の中にインターフォンが鳴り響く。
出迎えは母にしてもらう事になっていて、聖は自室で冬治が来るのを待っていた。何やら部屋の外で母と冬治が話す気配がある。話の内容は聞き取れないが、冬治が深刻そうなのに対して母が声を立てて笑っているのは分かった。
最後に金属の音のようなものが聞こえた後で、ノックの後に扉が開かれた。
「……冬治?」
いったいどんな密談が行われていたのかと、恐る恐るドアの方を向いた聖は目を瞬かせた。その視線は、当時の腹のあたりに注がれている。何しろ冬治は、まるで逮捕される罪人のように手錠をしていたのだ。
まさかこれが、奥の手なのだろうか。
気もそぞろで、気付くと放課後の事を考えてしまう。冬治は今日の夕方、聖のもとを訪ねてくる。そして聖を番にする。
発情期中しか番契約は成立しないため避けようのない苦行ではあるのだが、冬治が苦痛を強いられることは間違いなく、未だに心苦しい。とはいえ聖には薬を飲むくらいしかしてやれることがないので、冬治の言う奥の手とやらに委ねるしかない状況だ。
幸いなことに母は今日はパート勤務がお休みなので、何か異変を感じたらすぐに助けてもらえる。人生の先輩であり、オメガとしても大先輩の母がいてくれると心強かった。精神が安定しているおかげか、今のところ不調を感じることもない。
あらかじめ時間割の時間に合わせて勉強すると伝えていたので、ちょうど四つ目の教科を終わらせたところでお昼ご飯が出来たと報せに来てくれた。
今日は動いていないせいもあって昨日にも増して食欲がないが、食事を抜くのは身体にもよくない。それにいざ冬治が来た時に腹が鳴っては恥ずかしいので、無理をしない程度に食べることにした。
少しでも食べられるようにと母が用意してくれた茸の雑炊はお腹も心も温かくなる愛情のこもった一品だった。
「大丈夫か? 聖、緊張してる?」
向かいの席に座って白粥を、自家製の佃煮をおかずに食べている母に聞かれる。冬治が今日、どういう目的で来るのかはもう話してある。
「う、うん。まあ……」
もともと双方の両親が決めた婚約関係ではあったが、今日うなじを嚙まれて番になれば、今度こそ本人たちの意志で婚約することになるのだ。舞い上がりそうなほど嬉しい反面、お互いまだ自立した立場ではないからこその不安もある。
絶対に冬治の人生を狂わせるようなことはしないと誓っていたとしても、前日オメガとしての本能がどれほど強烈なのかを思い知らされた今では、百パーセント大丈夫とは言い切れないのが正直なところだ。
「そうだよね」
母は労し気な表情になって呟く。そっとレンゲを置いた。聖がまだ半分ほどしか減っていないのに対し母は既に食べ終えていた。普段仕事をしているからかどうしても早食いの癖がついてしまっているのだ。
「でもお前たちは一度、本能に勝ったんだろ?」
「うん。ほとんど冬治のおかげだけど」
あの時の苦しそうな呼吸は今も耳に残っている。もう二度とあんな思いをさせたくないのだが、冬治がどうしても早くに番になりたいと願う以上、仕方ないと受け入れるしかない。
「それだけじゃないよ。聖だって、冬治君が欲しかっただろ?」
露骨な言い方をされ、聖はご飯粒の飲みこみ方を間違えそうになる。急いで水を流し込んでどうにか事なきを得た。
「か、母さん……っ」
いくら同じオメガとはいえ、血の繋がった母とはあまりしたくない会話だった。だが、母の目が至って真剣だったので、聖は文句を言えなかった。
「そういうもんなんだよ。お母さんたちは駄目だった。まあ、突然だったからなあ。何しろお母さん、事前の調査じゃベータだったんだ。だからお互い油断してた」
そういえば、母は今の聖と同じ年頃には妊娠しているのだと思い出した。両親が子供だった頃はまだ今ほど医学が進歩しておらず、誤診されることも多かったという。もともとオメガだと診断されて心構えも出来ていたはずの聖ですら危うかったくらいなのだ。母が父と一線を越えてしまったのも無理からぬ話に思える。
「だから、もしもの事があったら母さんたちがアドバイスしてやれるから大丈夫だ。もちろん苦労はしたけど、父さんと二人どんな荒波でも乗り越えてきたんだから」
今でこそ思い出話のように笑いながら語るが、そのころはとても笑える状況じゃなかったはずだ。
ましてベータだと思っていたなら、いきなり妊娠が発覚してどれほどショックを受けた事だろう。そうやって精神を病みお腹の子ともども命を絶ってしまった事例は過去にいくらでもあった。
だからこそ、より確実な結果が出せるよう急ピッチで研究が推し進められたのだ。
母は強かった。その力の根源にはきっと父の存在があった。なるほど二人が未だに子供の聖が呆れるくらい仲睦まじいのも道理だ。
「だから聖。お前ももうちょっと冬治君の事信じてやりな」
冬治の事は信頼している。そう反論しかけて、やめた。本当に信頼していたら、こんなふうにうじうじ思い悩んだりはしないと気付いたからだ。
母の諭すような指摘は真実で、聖は未だ心のどこかで冬治を、自分自身を疑っているのだろう。
(馬鹿だな。また元の俺に逆戻りしてる)
昨日、感情に任せることも大事だと気付いたばかりなのに、常識とか良識に囚われて一番大事なことを見落としそうになっていた。
(そうだ。冬治は大丈夫だって言ったんだから。信じよう)
冬治が大丈夫というのだから、きっと大丈夫。そう思うとふっと心が軽くなった。心なしか食欲も出た気がして、雑炊を完食することも出来た。
食休みをした後、聖は午後の勉強は取りやめてお風呂に入ることにした。一応、これから素肌の一部に触れられるのだから、入念に綺麗にしておこうと考えた。特にうなじの所は入念に泡立てたが、擦りすぎた所為だろうか、風呂上りは若干ひりひりしていた。
そして夕刻、家の中にインターフォンが鳴り響く。
出迎えは母にしてもらう事になっていて、聖は自室で冬治が来るのを待っていた。何やら部屋の外で母と冬治が話す気配がある。話の内容は聞き取れないが、冬治が深刻そうなのに対して母が声を立てて笑っているのは分かった。
最後に金属の音のようなものが聞こえた後で、ノックの後に扉が開かれた。
「……冬治?」
いったいどんな密談が行われていたのかと、恐る恐るドアの方を向いた聖は目を瞬かせた。その視線は、当時の腹のあたりに注がれている。何しろ冬治は、まるで逮捕される罪人のように手錠をしていたのだ。
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