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おまけのあれこれ
保と九条1
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寿幸が律とともに出発してしばらく、保はずっと窓の外を睨みつけている。
眼下に広がるオフィス街には今も無数の蝶が飛び交っていた。先ほどより数が増えたようにも見受けられる。
うち数頭がこの事務所の窓ガラスに止まろうとして燃えるように蒸発した。
さすがに祭神の力で守護されているこの建物への侵入は不可能のようだが、他の建物には容易に入り込むことが出来るだろう。
もしも、そこに悪霊や生霊が居たらと思うと気が気でない。
しかし正義感だけで飛び出したところで保には何もできない。ただ、見ることが出来るだけの自分を保は恨めしく思った。
己の無力さに打ちひしがれたのは今回が初めてではない。寿幸と出会ったころから、何度も何度も痛感した。
だからこそ、何か少しでも役に立てればと警察官を志したのだ。しかし結局保に出来ることは普通の人間に出来ることの範疇を出ない。
「せめて、俺に祓う力があれば……」
寿幸のように、妖本体と拮抗できるほどの力は望まない。だがせめて、分身くらいは追い払える能力があったならと、ないものねだりをせずにはいられなかった。
それほどに待つだけしかできない今の状況がもどかしい。
「先輩には退魔は出来ませんよ。間違えても、無鉄砲に飛び出していかないでくださいね」
「わかっている」
後輩に釘を刺されてしまうとは、それほど余裕がないように見えただろうか。焦れたところで仕方がないだろうと自分を戒める。今はただ、寿幸と律が妖を討伐するまで待つしかないのだ。
「……ねえ、先輩」
しばらく沈黙があって、九条が話しかけてきた。
「なんだ?」
保は意識的にゆっくりと話すよう心掛け、冷静であるように努めた。
どれだけ押さえつけても消えてはくれない焦燥や苛立ちを、これ以上後輩に悟られ心配されるわけにはいかない。
「もしも今、あの羽虫どもを一掃できるような力を持った者が目の前に現れたらどうします?」
突然のたとえ話に、保は目を丸くした。
確かに今そんな夢のような存在が現れたら、そんな奇跡が起こったら、自分の何を犠牲にしてでも救いを求めるだろう。
しかし意外だった。九条は基本的に現実的で、受け身だ。こうして自ら話題を振ってくること自体めずらしい。
もしかして荒唐無稽なたとえ話で保の心を落ち着けようとしてくれるのではないかと、保は考えた。
後輩に気遣われてしまうほど余裕をなくしている事実に羞恥心を覚えながらも、励まそうとしてくれている後輩の気持ちは素直にうれしい。だから保も、たとえ話だからと適当に受け流さず、誠実に答えることにする。
「そうだな。もしもそんな奇跡が起こったなら、俺は窮地を救ってくれた相手に対して感謝してもしきれない。俺に出来うるすべてのことをして報いろうと思うよ」
窓の外に視線を向けていた九条が、その言葉にピクリと反応した……ように見えた。
「出来うるすべての事ですか。なんでも?」
「ああ」
たとえ話で念を押されるとはなかなか本格的だ。保の決意の重さを量っているのだろうか。無論、軽々しい気持ちで言っているわけではない。
「もちろん。俺にできることなら、何でもする」
「あ、あの……」
ソファに腰掛けいた一美が、わずかに腰を浮かせたのが視界の端に見えた。何か言いかけたその言葉を遮るように九条が言う。
「その言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
次の瞬間、信じがたい光景が眼前に広がった。
ギリギリまで膨らませた風船が破裂するかのように妖力の暴風が吹き荒れ、九条の頭部、そして背後から獣の尻尾と耳が現れた。
凍てつくような冷気が室温を急激に下げていく。その氷のような妖気をまとった九条が、次の瞬間、閉め切ってあるはずの窓から飛び降りた。
保の視線は本人の意志が働くより先に、その姿を追いかける。次に見た九条は、もはや人の姿ですらなくなっていた。
狐だ。しかし、普通の狐よりもはるかに巨大で、牙や爪は刃物のように鋭く尖り、羽もないのに空中を自在に駆け回る。
「妖狐……」
保は身震いしながらも、その正体を言い当てる。瞬間、割れるような頭痛が襲い、保はその場に蹲った。
遠い昔に封印された記憶が、本性を目の当たりにしたことによって解き放たれ、怒涛の勢いで流れ込んでくる。
激しい痛みの中で、保の意識はしばし途切れた。
あまりの痛みに固く閉じていたまぶたを開くと、目の前の光景はいつの間にやら切り替わっていた。
鼠色のアルファルト、左を見れば河川敷、右を見れば石積みの高台が見える。
郷愁を感じる景色は、保が中学生時代に利用していた通学路だった。
景色が一変すると同時に、当時の心境も蘇ってくる。そうだ。この日保は落ち込んでいた。
今日だけじゃない。保はすでに一年近く同じ悩みに苛まれている。
小学生時代の保は臆病者だった。相手が同じ人ならば臆することはないのだが、当時の保が恐れていたのは、限られた者にしか見えない存在だった。
そんな保の前に現れたのが寿幸だ。
保に直接接触してきたわけじゃない。事故か何かで命を落としたが、その死を受け入れられず学校に留まり続けている少女を救う場面を目撃したのだ。
雷に打たれたような衝撃だった。あの子は幽霊を恐れないどころか、手を差し伸べ、そしてあるべき場所へと導いてしまった。
その現場を目撃して以来、保は寿幸に憧れた。声をかけたのも保からだった。
寿幸は類まれな力の持ち主だった。持ち得たその力で、当時から沢山の霊魂を救ってきた。
しかし、ある日を境にその力は失われた。同時に、寿幸の性格も変わってしまった。
篤実で裏表のない性格はひねくれ、保に対してもそっけなくなった。もう期待には応えられないとはっきり言われたこともある。
当時の寿幸は、保を含め、他者をことごとく拒絶していたのだ。
保自身も迷っていた。離れるべきか、今のままの関係を続けるべきか。どちらの選択が寿幸の為になるのか。
決心がつかぬまま悩み続け、そして一年ちかく。そろそろ保も精神的な疲労を感じ始めていた。
眼下に広がるオフィス街には今も無数の蝶が飛び交っていた。先ほどより数が増えたようにも見受けられる。
うち数頭がこの事務所の窓ガラスに止まろうとして燃えるように蒸発した。
さすがに祭神の力で守護されているこの建物への侵入は不可能のようだが、他の建物には容易に入り込むことが出来るだろう。
もしも、そこに悪霊や生霊が居たらと思うと気が気でない。
しかし正義感だけで飛び出したところで保には何もできない。ただ、見ることが出来るだけの自分を保は恨めしく思った。
己の無力さに打ちひしがれたのは今回が初めてではない。寿幸と出会ったころから、何度も何度も痛感した。
だからこそ、何か少しでも役に立てればと警察官を志したのだ。しかし結局保に出来ることは普通の人間に出来ることの範疇を出ない。
「せめて、俺に祓う力があれば……」
寿幸のように、妖本体と拮抗できるほどの力は望まない。だがせめて、分身くらいは追い払える能力があったならと、ないものねだりをせずにはいられなかった。
それほどに待つだけしかできない今の状況がもどかしい。
「先輩には退魔は出来ませんよ。間違えても、無鉄砲に飛び出していかないでくださいね」
「わかっている」
後輩に釘を刺されてしまうとは、それほど余裕がないように見えただろうか。焦れたところで仕方がないだろうと自分を戒める。今はただ、寿幸と律が妖を討伐するまで待つしかないのだ。
「……ねえ、先輩」
しばらく沈黙があって、九条が話しかけてきた。
「なんだ?」
保は意識的にゆっくりと話すよう心掛け、冷静であるように努めた。
どれだけ押さえつけても消えてはくれない焦燥や苛立ちを、これ以上後輩に悟られ心配されるわけにはいかない。
「もしも今、あの羽虫どもを一掃できるような力を持った者が目の前に現れたらどうします?」
突然のたとえ話に、保は目を丸くした。
確かに今そんな夢のような存在が現れたら、そんな奇跡が起こったら、自分の何を犠牲にしてでも救いを求めるだろう。
しかし意外だった。九条は基本的に現実的で、受け身だ。こうして自ら話題を振ってくること自体めずらしい。
もしかして荒唐無稽なたとえ話で保の心を落ち着けようとしてくれるのではないかと、保は考えた。
後輩に気遣われてしまうほど余裕をなくしている事実に羞恥心を覚えながらも、励まそうとしてくれている後輩の気持ちは素直にうれしい。だから保も、たとえ話だからと適当に受け流さず、誠実に答えることにする。
「そうだな。もしもそんな奇跡が起こったなら、俺は窮地を救ってくれた相手に対して感謝してもしきれない。俺に出来うるすべてのことをして報いろうと思うよ」
窓の外に視線を向けていた九条が、その言葉にピクリと反応した……ように見えた。
「出来うるすべての事ですか。なんでも?」
「ああ」
たとえ話で念を押されるとはなかなか本格的だ。保の決意の重さを量っているのだろうか。無論、軽々しい気持ちで言っているわけではない。
「もちろん。俺にできることなら、何でもする」
「あ、あの……」
ソファに腰掛けいた一美が、わずかに腰を浮かせたのが視界の端に見えた。何か言いかけたその言葉を遮るように九条が言う。
「その言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
次の瞬間、信じがたい光景が眼前に広がった。
ギリギリまで膨らませた風船が破裂するかのように妖力の暴風が吹き荒れ、九条の頭部、そして背後から獣の尻尾と耳が現れた。
凍てつくような冷気が室温を急激に下げていく。その氷のような妖気をまとった九条が、次の瞬間、閉め切ってあるはずの窓から飛び降りた。
保の視線は本人の意志が働くより先に、その姿を追いかける。次に見た九条は、もはや人の姿ですらなくなっていた。
狐だ。しかし、普通の狐よりもはるかに巨大で、牙や爪は刃物のように鋭く尖り、羽もないのに空中を自在に駆け回る。
「妖狐……」
保は身震いしながらも、その正体を言い当てる。瞬間、割れるような頭痛が襲い、保はその場に蹲った。
遠い昔に封印された記憶が、本性を目の当たりにしたことによって解き放たれ、怒涛の勢いで流れ込んでくる。
激しい痛みの中で、保の意識はしばし途切れた。
あまりの痛みに固く閉じていたまぶたを開くと、目の前の光景はいつの間にやら切り替わっていた。
鼠色のアルファルト、左を見れば河川敷、右を見れば石積みの高台が見える。
郷愁を感じる景色は、保が中学生時代に利用していた通学路だった。
景色が一変すると同時に、当時の心境も蘇ってくる。そうだ。この日保は落ち込んでいた。
今日だけじゃない。保はすでに一年近く同じ悩みに苛まれている。
小学生時代の保は臆病者だった。相手が同じ人ならば臆することはないのだが、当時の保が恐れていたのは、限られた者にしか見えない存在だった。
そんな保の前に現れたのが寿幸だ。
保に直接接触してきたわけじゃない。事故か何かで命を落としたが、その死を受け入れられず学校に留まり続けている少女を救う場面を目撃したのだ。
雷に打たれたような衝撃だった。あの子は幽霊を恐れないどころか、手を差し伸べ、そしてあるべき場所へと導いてしまった。
その現場を目撃して以来、保は寿幸に憧れた。声をかけたのも保からだった。
寿幸は類まれな力の持ち主だった。持ち得たその力で、当時から沢山の霊魂を救ってきた。
しかし、ある日を境にその力は失われた。同時に、寿幸の性格も変わってしまった。
篤実で裏表のない性格はひねくれ、保に対してもそっけなくなった。もう期待には応えられないとはっきり言われたこともある。
当時の寿幸は、保を含め、他者をことごとく拒絶していたのだ。
保自身も迷っていた。離れるべきか、今のままの関係を続けるべきか。どちらの選択が寿幸の為になるのか。
決心がつかぬまま悩み続け、そして一年ちかく。そろそろ保も精神的な疲労を感じ始めていた。
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