白蜘蛛探偵事務所

葉薊【ハアザミ】

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最終話:かえる場所

【13】

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 駅を出てしばらく歩くと、オフィス街と下町の境界線をなすように古びたビルが出迎える。一階のカフェは今日も繁盛はんじょうしているようだ。

 そして、カフェの脇にひっそりと隠れた階段の前には、見慣れた人影があった。

「あ、寿幸探偵! おかえりなさい!」

 明るい挨拶とともに敬礼をする陽は、未だに寿幸を軍人か何かだと勘違いしているようだ。

 その隣にはいつもどおり要の姿があり、挨拶と、騒がしい幼馴染の代わりに詫びる二つの意味合いを込めてお辞儀じぎをしている。

 蝶の妖が復活した一時はその妖力の影響を受けて体調を崩していた要も、原因である妖の消滅によって、元気を取り戻した。

「また君ですか。うちは高校生のたまり場じゃないんだけど」

「安心してください。依頼を持って来たんですよ。寿幸探偵の腕の見せ所です!」

「はあ。お仕事っていうなら無下にできないなあ。で? 今度の依頼人は彼女?」

 寿幸がため息交じりに視線を送った先には、そわそわしているブレザー姿の女子高生がいた。

 どうしよう。決心がつかないうちに連れてこられちゃったけど、心霊専門の探偵なんてうたい文句からすでに怪しいし、本物かしら。危ない宗教に勧誘されちゃうかも。という心の声が聞こえるようだった。

 でも、初めての依頼者は大抵こういう反応なので、今更気にすることもない。

「ま、怪しいツボとか売りつけたり、変な宗教に誘ったりはしないから、安心していいよ。とりあえず、一度事務所に入って話しを聞きましょうかね」

 蝶の妖が消滅したからといって寿幸の仕事がなくなるわけじゃない。妖や心霊が出没して生者に迷惑をかける限り、依頼は途切れることなくやってくる。

 お決まりのセリフで彼女を安心……させたかどうかは別として、とにかく事務所に入っていく。一美はいつも通り、客人に茶をふるまった。

 一美が席に着き、両サイドから励まされた彼女が訥々とつとつと困りごとを話し始める。

 そして、いつもの通り保たちの手も借りながら、此度の依頼も無事解決に至った。

 変わらない日常、変化のない毎日。いつしか一美も、その中に取り込まれていく。だが、特に不快ではなかった。

 それどころか居心地がいい。ずっと、何年間もこうして過ごしてきたのだから当たり前だ。やはり一美にとって、今以上の幸せなどない。断言できる。

 たとえ、このまま告白の答えをもらえず、なあなあに終わったとしても、それでも構わないと思えるくらい、毎日が穏やかで、幸福だった。

 そんなある日の夜の事。

 寿幸から珍しく一献どうかと誘われた。

 コーヒーテーブルに花冷はなびえの日本酒を注いだグラスを並べ、ソファに並んで腰かける。

 普段は晩酌すらしない寿幸が、何もない日に酒を飲もうとするのも珍しいことだが、その相手に一美を誘ったのもかなり珍しい。というか、はじめてだ。

 実は前々からお酒には興味があった一美は、ちょっとわくわくしている。もうとっくに二十歳を超えたのに、これがほとんど初めての飲酒なのだ。

 大人が翌日しんどい思いをしてまで飲むほどに中毒性のある飲み物。いったいどれほど美味しいのだろう。

 とりこになってしまったらどうしようと心配したが、どうやら杞憂だったようだ。少し舐めてみて、自然と眉間にしわが寄った。

 なんだこれは。苦いだけじゃないか。それに、良く冷えているはずなのに喉が焼けるようだ。

「はは。ちょっと早かった?」

 でも、そんなふうに隣から茶化されると背伸びしたくなるもので、薬でも飲むように一気に煽った。そうだ。薬だ。漢方か何かだと思えばいい。

「あんま飲みすぎないでね。これから大事な話するから」

 震える手で二杯目を注ごうとしていた一美の手が止まった。

「大事な話って、何ですか?」

 酒瓶を手にした一美は、二杯目を自分ではなく寿幸のグラスに注いだ。寿幸もすでに一杯目を飲み干していたのだ。彼にしてはピッチが速い。

「うん。その……ここ数日。ずっと考えてたんだけどさ」

 そう言って、一口。

「いや、考えてたのは半分で、残り半分はどう伝えるべきかっていうのを考えてて」

 そう言って、さらに一口。二口。次に出たのは、言葉ではなくため息だった。

「……あー、っとに」

 苛立った様子で髪の毛を掻き回した後、ちらと一美に恨めしそうな視線をよこした。

「お前、よく素面しらふでああも堂々と言えたな。俺なんか、酒の力頼ってもこの体たらくだもんな。情けないよ、ほんとに。ほんとに、こんなやつでいいの? 引き返すなら今しかないけど」

 寿幸の顔が赤いのは酒のせいだけではないのだろう。彼が何を言いたいのか、一美は予想がついてしまった。

 酒瓶をお盆に戻して、一美はソファに座りなおした。

「引き返すなんてしませんよ。僕の気持ちは変わりません」

「こんなに待たせたのに?」

「このままなかったことにされても、貴方のそばに居られるならばいいと思ってました。そのくらいあなたが好きです」

 寿幸はちょっとむっとした顔になった。

「さすがにそこまでクズじゃないよ。……いや、そのくらい待たせたってことか」

 でも途中から、また自分を責めだす。

 不思議だ。寿幸はいつも、沢山の人の頼みごとを聞いて、沢山の人を助けてきているのに、どうしてかいつもちょっぴり自分に自信がない。

 いつもすぐそばで見ている一美の目には、寿幸以上に格好よく映る存在などいないのに。

 でも、その寿幸が、お酒の力に頼ってもまだ勇気を出せないというなら、自分から一歩踏み出すべきだと一美は考えた。というか、もう待てそうにない。

「寿幸さん、僕は寿幸さんが好きです」

「……うん、知ってます」

 照れくさそうに頬を掻いている。

「もし、寿幸さんも、同じ気持ちでしたら」

 一美は小指を立てた片手を二人の目線の間まで上げた。

「これからも一緒にいると、僕をそばに置いてくれると、約束してください」

 寿幸が瞠目する。

 微笑む一美の脳裏には、遠い過去の寿幸とのやり取りが鮮明に思い出されていた。出会ったころのように、いや、今度は一美から指切りをする。

「……はあ、物好きだねえ」

 寿幸は呆れた様子で言いながらも、一美の小指に自分の小指を絡めてきた。触れる寿幸のぬくもりに心が満たされていく。

「後悔してもしらないよ」

「後悔なんてしません」

 きっぱり言い切って、寿幸に抱き着く。寿幸の手が背中に回ってさらに身体が密着した。耳元で響く、寿幸の鼓動が心地よくて目を細める。

 この鼓動を、ぬくもりを、匂いを、独り占めすることを許された瞬間、一美は泣きたくなるほどの充足感を覚えた。

 そして、思う。ああ、やっぱり自分の幸せはここにあったのだと。



終わり

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