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最終話:かえる場所
【9】
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律は再び千影の心の中へと入り込んだ。
かつてはモノクロに染められていた世界。妖が祓われ本来の色を取り戻したはずの世界は、今度は何もかもを墨汁のような黒に塗りつぶされて景色すら見えなくなっている。
天も地も、熱いも寒いもない。暗黒だ。無だ。
そこに突然、かがり火がともった。一つ、二つ、……飛び散る血痕のような不気味な炎が、赤い火花を散らしながら浮かんでいる。
律は唐突に理解した。ここは、この空間はすべて蝶と化しているのだと。千影の心の中で限界まで巨大化した蝶が、千影の心すべてを覆っているのだと。
ならば今、律も蝶の中に取り込まれている状態に他ならないのだが、律は恐怖を覚えることはなかった。むしろ探す手間が省けたとすら考えている。
飲み込まれていると知りながら顔色一つ変えない律に、蝶の方が慄いてざわめきはじめた。あるいは、体外からの影響を受け始めているのかもしれない。
「ここはお前の居場所じゃない。いつまで我が物顔で入り浸っているつもりだ」
さざめく蝶はまるで千影の心にしがみついているように律には見えた。
かつては人々を恐怖に陥れ、何人もの霊能者を打ち負かした凶悪な妖も、力の大半を失った今では、そこいらの妖と変わらない。
しかし、だからとて欠片も同情するつもりはなかった。
ただ、ここまで妖を消耗させてくれた二人の人物に感謝する。
彼らの尽力無くして、妖の消滅は叶わなかったのだから。
(今度こそ、ちいちゃんを助ける……)
律は一度深く呼吸してから弓を構えた。
幼少期は祭神の力を借りていた律も、今では自ら学んだ技能で乱れのない完璧な姿勢を保つことが出来る。
ギリギリまで引き絞り、霊力の矢を放つ。
刹那、眩い光芒が暗闇を引き裂いた。
纏わりついて勢いを殺そうとする黒い塊たちをことごとく振り払って、暗闇の中でかすかに拍動している豆粒のように小さな心臓を射抜く。
金切り声が暗闇の中に響く。矢が刺さったまま地面に落ちた豆粒がもがき苦しんだのちに痙攣し、やがて動かなくなると、周囲の闇も崩落していく。
卵の殻を割るように、黒いひび割れの向こうから純白の世界が覗いた。千影本来の色を取り戻していく。
(ああ、これでようやく……)
千影が帰ってくる。ほとんどの期間を眠っていた律だったが、それでも懐かしさがこみあげた。それは涙となって頬を伝い、新雪のように白い大地へと落ちて沁みていく。
律は踵を返した。まだ戦いは終わっていない。蝶の本体はきっと千影の身体を抜け出してなお抗っているはずだ。
もうほとんど妖力も残ってはいないだろうから、律の力など必要ないかもしれないが、念のため加勢しに戻るべきだろう。
「ちいちゃん、待ってるからね」
鳥居をくぐるまえに、律は一度振り返って千影に呼びかけた。ここは千影の中だから、たとえ姿は見えなくとも、きっと声は届くはずだ。
広い板の間の拝殿にて、寿幸たちは祓詞を奏上し続ける。
律の魂が千影の中に入り込んでから数分。仰向けに寝かされている千影の身体から黒い塊が抜け出した。
(来たか……)
はじめ靄となって浮き出たそれは、千影の胸の上で輪郭を結ぶ。しかしその形はさほど大きな姿にはならなかった。
もはや、普通の蝶と変わらず、飛び方もおぼつかない。死期を間近に控えた生き物の姿だった。
寿幸は立ち上がって護符を構えた。霊力を籠めた護符を蝶に向けて放つ。意志を持った刃と化した護符は蝶を貫いたうえで壁に縫い付けた。
しばらく痙攣していた蝶は動かなくなり、やがて護符と一緒に粒子と化して微風に流されて消えゆく。
「……勝ったのか」
しばし沈黙が支配した空間で、神影家宮司がつぶやく。と、儀式が始まるなり床に倒れ込んだ律が目を覚ました。
ゆっくりと上体を起こし、きょろきょろと視線をさ迷わせたあとで振り向く。
「終わったみたいですね」
安堵と疲労が入り混じった笑みを浮かべて言う律に、寿幸も似たようなほほえみを返した。禍々しい気配はもはやかすかにも感じ取れない。
蝶の妖は消滅したのである。
「……はあ、」
律は膝を擦るようにして千影に近づき、眠る千影の頬に触れた。愛おし気に、柔らかく。
「終わったよ。ちいちゃん」
かすれた声で呟いたのち、律は再び倒れ伏した。
今度は魂が抜け出たわけではない。律は今まで、ほとんど気力だけで動いていたのだ。目的が達成されて一気に疲れが出たのだろう。
兄が二人の寝息を確認し、それに安堵した宮司が寿幸に頭を下げた。
「ご協力感謝します」
「いやいや、うちの問題でもありますから。こちらこそありがとうございました」
互いに頭を下げあったあとで、健闘を称えあうために握手を交わした。そのままの体勢で、再び宮司は眠る律と千影に目を遣った。
「本当に終わったのですね。まだ実感がわきませんが」
「そもそも俺たちには祓うという発想がなかったのだから、それも当然でしょうね」
妖の力を弱めるためという本来の目的を忘れ、儀式の継承だけを続けていた。叔母がかつて嘆いていた言葉が寿幸の脳裏に蘇った。
かつてはモノクロに染められていた世界。妖が祓われ本来の色を取り戻したはずの世界は、今度は何もかもを墨汁のような黒に塗りつぶされて景色すら見えなくなっている。
天も地も、熱いも寒いもない。暗黒だ。無だ。
そこに突然、かがり火がともった。一つ、二つ、……飛び散る血痕のような不気味な炎が、赤い火花を散らしながら浮かんでいる。
律は唐突に理解した。ここは、この空間はすべて蝶と化しているのだと。千影の心の中で限界まで巨大化した蝶が、千影の心すべてを覆っているのだと。
ならば今、律も蝶の中に取り込まれている状態に他ならないのだが、律は恐怖を覚えることはなかった。むしろ探す手間が省けたとすら考えている。
飲み込まれていると知りながら顔色一つ変えない律に、蝶の方が慄いてざわめきはじめた。あるいは、体外からの影響を受け始めているのかもしれない。
「ここはお前の居場所じゃない。いつまで我が物顔で入り浸っているつもりだ」
さざめく蝶はまるで千影の心にしがみついているように律には見えた。
かつては人々を恐怖に陥れ、何人もの霊能者を打ち負かした凶悪な妖も、力の大半を失った今では、そこいらの妖と変わらない。
しかし、だからとて欠片も同情するつもりはなかった。
ただ、ここまで妖を消耗させてくれた二人の人物に感謝する。
彼らの尽力無くして、妖の消滅は叶わなかったのだから。
(今度こそ、ちいちゃんを助ける……)
律は一度深く呼吸してから弓を構えた。
幼少期は祭神の力を借りていた律も、今では自ら学んだ技能で乱れのない完璧な姿勢を保つことが出来る。
ギリギリまで引き絞り、霊力の矢を放つ。
刹那、眩い光芒が暗闇を引き裂いた。
纏わりついて勢いを殺そうとする黒い塊たちをことごとく振り払って、暗闇の中でかすかに拍動している豆粒のように小さな心臓を射抜く。
金切り声が暗闇の中に響く。矢が刺さったまま地面に落ちた豆粒がもがき苦しんだのちに痙攣し、やがて動かなくなると、周囲の闇も崩落していく。
卵の殻を割るように、黒いひび割れの向こうから純白の世界が覗いた。千影本来の色を取り戻していく。
(ああ、これでようやく……)
千影が帰ってくる。ほとんどの期間を眠っていた律だったが、それでも懐かしさがこみあげた。それは涙となって頬を伝い、新雪のように白い大地へと落ちて沁みていく。
律は踵を返した。まだ戦いは終わっていない。蝶の本体はきっと千影の身体を抜け出してなお抗っているはずだ。
もうほとんど妖力も残ってはいないだろうから、律の力など必要ないかもしれないが、念のため加勢しに戻るべきだろう。
「ちいちゃん、待ってるからね」
鳥居をくぐるまえに、律は一度振り返って千影に呼びかけた。ここは千影の中だから、たとえ姿は見えなくとも、きっと声は届くはずだ。
広い板の間の拝殿にて、寿幸たちは祓詞を奏上し続ける。
律の魂が千影の中に入り込んでから数分。仰向けに寝かされている千影の身体から黒い塊が抜け出した。
(来たか……)
はじめ靄となって浮き出たそれは、千影の胸の上で輪郭を結ぶ。しかしその形はさほど大きな姿にはならなかった。
もはや、普通の蝶と変わらず、飛び方もおぼつかない。死期を間近に控えた生き物の姿だった。
寿幸は立ち上がって護符を構えた。霊力を籠めた護符を蝶に向けて放つ。意志を持った刃と化した護符は蝶を貫いたうえで壁に縫い付けた。
しばらく痙攣していた蝶は動かなくなり、やがて護符と一緒に粒子と化して微風に流されて消えゆく。
「……勝ったのか」
しばし沈黙が支配した空間で、神影家宮司がつぶやく。と、儀式が始まるなり床に倒れ込んだ律が目を覚ました。
ゆっくりと上体を起こし、きょろきょろと視線をさ迷わせたあとで振り向く。
「終わったみたいですね」
安堵と疲労が入り混じった笑みを浮かべて言う律に、寿幸も似たようなほほえみを返した。禍々しい気配はもはやかすかにも感じ取れない。
蝶の妖は消滅したのである。
「……はあ、」
律は膝を擦るようにして千影に近づき、眠る千影の頬に触れた。愛おし気に、柔らかく。
「終わったよ。ちいちゃん」
かすれた声で呟いたのち、律は再び倒れ伏した。
今度は魂が抜け出たわけではない。律は今まで、ほとんど気力だけで動いていたのだ。目的が達成されて一気に疲れが出たのだろう。
兄が二人の寝息を確認し、それに安堵した宮司が寿幸に頭を下げた。
「ご協力感謝します」
「いやいや、うちの問題でもありますから。こちらこそありがとうございました」
互いに頭を下げあったあとで、健闘を称えあうために握手を交わした。そのままの体勢で、再び宮司は眠る律と千影に目を遣った。
「本当に終わったのですね。まだ実感がわきませんが」
「そもそも俺たちには祓うという発想がなかったのだから、それも当然でしょうね」
妖の力を弱めるためという本来の目的を忘れ、儀式の継承だけを続けていた。叔母がかつて嘆いていた言葉が寿幸の脳裏に蘇った。
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