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最終話:かえる場所
【7】
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暗闇の中に球体が浮かんでいる。
遠目からは単なる肌色の珠でしかないが、よくよく目を凝らすとその中に小さな命が丸まっていることに気付くだろう。へその緒がついていないことを除けば、母体で育つ胎児のようだ。
まつげの一本も生えていない瞳は閉じられ、まぶたはやや腫れぼったい。指と指との間にはカエルのそれのような膜がうっすらと見える。そして、左手の小指だけがほのかな光を放っていた。
球体は暗闇の中を浮遊し続ける。小指の光に守られて、再び外の世界に戻る夢を見ながら。
律とともに朱雀の背に乗って、たどり着いたのは意外な場所だった。
「本当にここなのか?」
山道を懸命に登りながら、寿幸は思わずそう尋ねていた。
本殿までは一応道と呼べるものがあったが、それを過ぎれば手付かずの自然が道を阻もうとする。
それでもさすが山岳信仰の家系で育った律の足取りは軽い。歩きにくい道のりを苦とも思っていない様子だ。
「はい。間違いありません。着実に近づいている」
律は自身の小指を見つめながら答えた。ずいぶん歩いたというのに息一つあがっていない。
一方の寿幸は、じわじわと疲労を感じはじめていた。
年のせいだろうか。いやいや、山歩きなんて慣れていないからだ。神代神社は平地にあるのだし、もともと山道とは縁遠い。
「神様の住処なんて、妖にとっちゃこれ以上ないくらいに生きにくい環境だと思うけどねえ」
「だからこそなんでしょう。おそらく、ここに潜伏しようと決めたのは千影でしょうから」
なるほど、千影が選んだというなら合点がいく。
ここは神影神社祭神のおわす場所。神様の力が宿る霊山だ。隙あらば自我を奪おうとする妖を抑え込むためにこれほど適した環境はない。
「なるほど。でも、今は千影の意識は眠っているはずだよね。それでも住処を変えなかったっていうのは……ある種の挑発かな」
神様の力などでは抑え込むことなどできないのだという当てつけか。寿幸の推論に同調したうえで、律はこぶしを握った。
「そうでしょうね。まったく許しがたい話です。もう欠片も恩情がわきません。完膚なきまでに叩き潰して、絶対に消滅させましょう」
律の静かなる怒りは味方の寿幸でさえ気圧されるほどだった。つくづく彼が味方側で良かったと思う寿幸である。
しばらく歩き続けると、やがて、清浄な山の空気に異質の気配が混ざり始めた。それは歩を進めるごとに濃くなって存在感を強めていく。
このころになると、周囲の幹に蝶の姿が見受けられるようになった。
清らかな空気と邪悪な妖気とがぶつかり合い、食らいあって、極限まで張り詰めた空間が形成されている。
「人間の、なんと愚かしいことよ」
樹冠が陰鬱な影を作り出す。その闇の中から一人の青年が姿を現した。
着崩れた死に装束姿に、肩に着くあたりまで伸びた黒髪。そして背後には黒に赤の斑点を散らした蝶の羽が妖美に輝く。
「文明の利器に頼り切り、元来備わっていたはずの危険予知の能力まで失われたようだの」
声帯こそ千影のそれだったが、今、言葉を発しているのは千影ではない。身構える寿幸と律を順に眺め、艶やかに笑って見せたのは、かつて人々を恐怖の底に突き落とした蝶の妖だった。
「かつて、この身が二つに分かたれた時には、実に十人もの霊能者が集った。うぬらの先祖を合わせれば十と二人だの。うち五人を犠牲にして、ようやく籠に収めたのだ。それが、此度はたった二人。ずいぶんと侮られたものだ」
嘲弄する妖が手を叩く。すると羽を休めていた蝶たちが一斉に妖の周りに集まった。皆一様に寿幸たちの方を睨みつけている。
「愚か者には相応の罰を与えてやらねばの。それに、そちらの男を屠ればこの身体の持ち主をも消し去ることができるというもの。そうすれば、もう邪魔者はおらぬ。この地を再び阿鼻叫喚の巷と化してやろうぞ」
「そんなことはさせない」
律が一歩前に出た。寿幸もいつでも応戦できるように全神経を研ぎ澄ます。
「消え去るのはお前の方だ。もうちぃちゃんの身体で好き勝手にさせるものか」
「勇ましいのう。ならば、やってみるがよい」
妖が手を振り上げると、蝶たちは一斉に襲い掛かって来た。
遠目からは単なる肌色の珠でしかないが、よくよく目を凝らすとその中に小さな命が丸まっていることに気付くだろう。へその緒がついていないことを除けば、母体で育つ胎児のようだ。
まつげの一本も生えていない瞳は閉じられ、まぶたはやや腫れぼったい。指と指との間にはカエルのそれのような膜がうっすらと見える。そして、左手の小指だけがほのかな光を放っていた。
球体は暗闇の中を浮遊し続ける。小指の光に守られて、再び外の世界に戻る夢を見ながら。
律とともに朱雀の背に乗って、たどり着いたのは意外な場所だった。
「本当にここなのか?」
山道を懸命に登りながら、寿幸は思わずそう尋ねていた。
本殿までは一応道と呼べるものがあったが、それを過ぎれば手付かずの自然が道を阻もうとする。
それでもさすが山岳信仰の家系で育った律の足取りは軽い。歩きにくい道のりを苦とも思っていない様子だ。
「はい。間違いありません。着実に近づいている」
律は自身の小指を見つめながら答えた。ずいぶん歩いたというのに息一つあがっていない。
一方の寿幸は、じわじわと疲労を感じはじめていた。
年のせいだろうか。いやいや、山歩きなんて慣れていないからだ。神代神社は平地にあるのだし、もともと山道とは縁遠い。
「神様の住処なんて、妖にとっちゃこれ以上ないくらいに生きにくい環境だと思うけどねえ」
「だからこそなんでしょう。おそらく、ここに潜伏しようと決めたのは千影でしょうから」
なるほど、千影が選んだというなら合点がいく。
ここは神影神社祭神のおわす場所。神様の力が宿る霊山だ。隙あらば自我を奪おうとする妖を抑え込むためにこれほど適した環境はない。
「なるほど。でも、今は千影の意識は眠っているはずだよね。それでも住処を変えなかったっていうのは……ある種の挑発かな」
神様の力などでは抑え込むことなどできないのだという当てつけか。寿幸の推論に同調したうえで、律はこぶしを握った。
「そうでしょうね。まったく許しがたい話です。もう欠片も恩情がわきません。完膚なきまでに叩き潰して、絶対に消滅させましょう」
律の静かなる怒りは味方の寿幸でさえ気圧されるほどだった。つくづく彼が味方側で良かったと思う寿幸である。
しばらく歩き続けると、やがて、清浄な山の空気に異質の気配が混ざり始めた。それは歩を進めるごとに濃くなって存在感を強めていく。
このころになると、周囲の幹に蝶の姿が見受けられるようになった。
清らかな空気と邪悪な妖気とがぶつかり合い、食らいあって、極限まで張り詰めた空間が形成されている。
「人間の、なんと愚かしいことよ」
樹冠が陰鬱な影を作り出す。その闇の中から一人の青年が姿を現した。
着崩れた死に装束姿に、肩に着くあたりまで伸びた黒髪。そして背後には黒に赤の斑点を散らした蝶の羽が妖美に輝く。
「文明の利器に頼り切り、元来備わっていたはずの危険予知の能力まで失われたようだの」
声帯こそ千影のそれだったが、今、言葉を発しているのは千影ではない。身構える寿幸と律を順に眺め、艶やかに笑って見せたのは、かつて人々を恐怖の底に突き落とした蝶の妖だった。
「かつて、この身が二つに分かたれた時には、実に十人もの霊能者が集った。うぬらの先祖を合わせれば十と二人だの。うち五人を犠牲にして、ようやく籠に収めたのだ。それが、此度はたった二人。ずいぶんと侮られたものだ」
嘲弄する妖が手を叩く。すると羽を休めていた蝶たちが一斉に妖の周りに集まった。皆一様に寿幸たちの方を睨みつけている。
「愚か者には相応の罰を与えてやらねばの。それに、そちらの男を屠ればこの身体の持ち主をも消し去ることができるというもの。そうすれば、もう邪魔者はおらぬ。この地を再び阿鼻叫喚の巷と化してやろうぞ」
「そんなことはさせない」
律が一歩前に出た。寿幸もいつでも応戦できるように全神経を研ぎ澄ます。
「消え去るのはお前の方だ。もうちぃちゃんの身体で好き勝手にさせるものか」
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妖が手を振り上げると、蝶たちは一斉に襲い掛かって来た。
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