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最終話:かえる場所
【6】
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気にしないようにと意識していても、苛烈な憎悪はふとした時に千影を追い詰め、その日を境に千影はどんどん消耗していった。
そして、ふいに気が付く。
「背中……、痛い」
背中の半分だけが、拍動するようにうずいている。
最初は肌が突っ張るような違和感だけだったが、今は確かに引っかかれたような痛みが走った。それも、皮膚のうらっかわ。つまり、身体の内側から。
「い、言わなきゃ……、伝えなきゃ」
恐怖と焦燥で心臓が痛い。意味もなく部屋の中を歩き回ってしまう。
落ち着け。誰かが通りかかったら、伝えればいいだけだ。
でもいつ来てくれるんだろう。次の食事の時間まであとどのくらいだろう。そもそも、今は何時だったっけ。
「……うっ、」
次の瞬間、千影は転んだ。
何かに躓いたわけでもないのに、うつ伏せに倒れ込んでしまう。出歩くことがないから筋力が弱まっているのだと言い聞かせ、すぐさま立ち上がろうとしたが、できなかった。
「うっ、あぁ……」
今度は引っかかれたなんて生易しい表現じゃすまなかった。
肌の内側で何かが這いまわっている。もがくような、抗うような動作は、意志を持った生き物の動きだ。
千影も背中で暴れているそれと同じように、その場で背中を丸め、海老反りになって芋虫のように悶絶する。
そうだ。きっと背中に居るのも芋虫なのだ。千影という蛹を食い破って、今にも羽化しようとしている。
「あ、ぐ……ぅ、」
どうしよう。逃れたいのに、そいつは身体の中にいるから、どうやったって逃げられない。
背中が熱くて痛い。今にも肉と皮膚が引き裂かれてしまいそうだ。このままでは本当に千影は食い破られてしまう。
床に立てた爪が剥がれても、そんな些末な痛みなど気にならないほどに、背中の片側が痛む。冷や汗が滲み、目の前の光景がちかちか点滅する。
薄れゆく意識の中、千影は知らない男の声を聴いた。狂ったように大笑いしながら耳元で叫んでいる。
ざまあみろ。お前も僕のように苦しめ。
初めて聞いた声なのに、千影にはその声の主が誰なのか、はっきりと分かった。千影の前の継承者。あの憎悪の塊の日記を遺した者だと。
哄笑は続いている。頭の中で反響して耳鳴りに変わる。やがて、千影の意識はぷっつりと途絶えた。
赤ん坊の泣き声がする。この元気な泣き声は、律のお兄さんと奥さんの間に授けられた第一子の声だ。妹の面倒で慣れていたから、おむつを取り替えたり、遊んであげたこともある。
その無垢な声が千影の意識を呼び戻したのだ。
「え……」
目覚めたはずだが、悪夢を見ている気分だった。
あたりには血の臭いが充満し、あちこちに袴姿の男たちが転がっている。皆、身体のどこかしらを負傷して、白い着物や袴を赤く染めている。
中には律の父や兄の姿もあって、やはり鋭利な刃物で傷つけられたようなけがをしていた。
律の父の傍らには律の母の姿。そして、少し離れたところに抱く我が子を抱いた兄嫁が怯えた表情のまま立ち尽くしている。
そして、千影のすぐ目と鼻の先には、うつ伏せに倒れたまま身じろぎ一つしない律がいた。
「律……?」
皆、負傷していたが、律の怪我は彼らの比ではなかった。その痛々しい姿に怖気づいて、千影は伸ばしかけた手を引っ込める。
「だ、誰が、やったの……?」
分かりきっている事実を、しかし認めたくなかった。だが、記憶が千影を逃しはしなかった。意識を失っていた間の光景が、怒涛の勢いで脳内に流れ込んでくる。
「おれ、が……、」
見下ろした両手は汚れてはいなかったが、血濡れているような幻覚を見た。双眸からあふれ出す涙すらも赤く染まっている気がする。
背中の痛みはすでに消えていたが、片側だけマヒしてしまったかのように感覚も消え失せていた。
千影は自分が人間ではなくなってしまったことを自覚した。人間ではなくなって、取り返しのつかないことをしてしまった。
(もう、ここに居ちゃだめだ……)
ショックのあまり、寝起きのようにぼんやりとした思考の中、とにかくこの身をどこか遠くへ連れて行かなければと考えた。
無数の蝶たちが音もなく現れ、千影の周りを飛び交う。彼らは千影の願いを叶えてくれる存在だとすぐにわかった。だから、抗わずにその渦の中に包まれた。
「いかん、ちぃ坊! 行くな!」
玄武たちが口々に止める声が、蝶が巻き起こす風の音の中に飲み込まれて消えた。
そして、ふいに気が付く。
「背中……、痛い」
背中の半分だけが、拍動するようにうずいている。
最初は肌が突っ張るような違和感だけだったが、今は確かに引っかかれたような痛みが走った。それも、皮膚のうらっかわ。つまり、身体の内側から。
「い、言わなきゃ……、伝えなきゃ」
恐怖と焦燥で心臓が痛い。意味もなく部屋の中を歩き回ってしまう。
落ち着け。誰かが通りかかったら、伝えればいいだけだ。
でもいつ来てくれるんだろう。次の食事の時間まであとどのくらいだろう。そもそも、今は何時だったっけ。
「……うっ、」
次の瞬間、千影は転んだ。
何かに躓いたわけでもないのに、うつ伏せに倒れ込んでしまう。出歩くことがないから筋力が弱まっているのだと言い聞かせ、すぐさま立ち上がろうとしたが、できなかった。
「うっ、あぁ……」
今度は引っかかれたなんて生易しい表現じゃすまなかった。
肌の内側で何かが這いまわっている。もがくような、抗うような動作は、意志を持った生き物の動きだ。
千影も背中で暴れているそれと同じように、その場で背中を丸め、海老反りになって芋虫のように悶絶する。
そうだ。きっと背中に居るのも芋虫なのだ。千影という蛹を食い破って、今にも羽化しようとしている。
「あ、ぐ……ぅ、」
どうしよう。逃れたいのに、そいつは身体の中にいるから、どうやったって逃げられない。
背中が熱くて痛い。今にも肉と皮膚が引き裂かれてしまいそうだ。このままでは本当に千影は食い破られてしまう。
床に立てた爪が剥がれても、そんな些末な痛みなど気にならないほどに、背中の片側が痛む。冷や汗が滲み、目の前の光景がちかちか点滅する。
薄れゆく意識の中、千影は知らない男の声を聴いた。狂ったように大笑いしながら耳元で叫んでいる。
ざまあみろ。お前も僕のように苦しめ。
初めて聞いた声なのに、千影にはその声の主が誰なのか、はっきりと分かった。千影の前の継承者。あの憎悪の塊の日記を遺した者だと。
哄笑は続いている。頭の中で反響して耳鳴りに変わる。やがて、千影の意識はぷっつりと途絶えた。
赤ん坊の泣き声がする。この元気な泣き声は、律のお兄さんと奥さんの間に授けられた第一子の声だ。妹の面倒で慣れていたから、おむつを取り替えたり、遊んであげたこともある。
その無垢な声が千影の意識を呼び戻したのだ。
「え……」
目覚めたはずだが、悪夢を見ている気分だった。
あたりには血の臭いが充満し、あちこちに袴姿の男たちが転がっている。皆、身体のどこかしらを負傷して、白い着物や袴を赤く染めている。
中には律の父や兄の姿もあって、やはり鋭利な刃物で傷つけられたようなけがをしていた。
律の父の傍らには律の母の姿。そして、少し離れたところに抱く我が子を抱いた兄嫁が怯えた表情のまま立ち尽くしている。
そして、千影のすぐ目と鼻の先には、うつ伏せに倒れたまま身じろぎ一つしない律がいた。
「律……?」
皆、負傷していたが、律の怪我は彼らの比ではなかった。その痛々しい姿に怖気づいて、千影は伸ばしかけた手を引っ込める。
「だ、誰が、やったの……?」
分かりきっている事実を、しかし認めたくなかった。だが、記憶が千影を逃しはしなかった。意識を失っていた間の光景が、怒涛の勢いで脳内に流れ込んでくる。
「おれ、が……、」
見下ろした両手は汚れてはいなかったが、血濡れているような幻覚を見た。双眸からあふれ出す涙すらも赤く染まっている気がする。
背中の痛みはすでに消えていたが、片側だけマヒしてしまったかのように感覚も消え失せていた。
千影は自分が人間ではなくなってしまったことを自覚した。人間ではなくなって、取り返しのつかないことをしてしまった。
(もう、ここに居ちゃだめだ……)
ショックのあまり、寝起きのようにぼんやりとした思考の中、とにかくこの身をどこか遠くへ連れて行かなければと考えた。
無数の蝶たちが音もなく現れ、千影の周りを飛び交う。彼らは千影の願いを叶えてくれる存在だとすぐにわかった。だから、抗わずにその渦の中に包まれた。
「いかん、ちぃ坊! 行くな!」
玄武たちが口々に止める声が、蝶が巻き起こす風の音の中に飲み込まれて消えた。
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