白蜘蛛探偵事務所

葉薊【ハアザミ】

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最終話:かえる場所

【4】

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 のろのろと起き上がり、布団を片付ける。

 今日も一睡もできないうちに朝を迎えてしまった。もはや眠ることすら必要なくなっている。

 それでも夜には布団を敷いて、朝にはかろうじて日の当たる場所に干したりもして、人間らしい生活を継続するよう心掛けている。

 そうでもしないと本当に自分が「人ではない何か」になってしまう気がして恐ろしいのだ。幸いここには、人らしく在り続けるための一通りの設備が揃っている。

 湯浴みをして新しい着物に着替え、シーツやタオルなどの洗濯物を小窓から外に出しておく。

 死に装束を毎日変えるというのもおかしな話だが、律の母親との約束なので毎日きちんと着替えなくてはならない。

 最初は遠慮していたが、洗い立ての匂いはやっぱり落ち着く。そしてまた生きていると実感して心に安らぎをもらった。

「律、今日も来てくれないのかな……」

 朝のするべきことが一段落すると、途端に心細さがこみあげてくる。固く閉ざされた観音扉の向こうに、慣れ親しんだ大好きな気配はない。

 どれだけ会いたくてももうこちらから会いに行くことはできない。律が訪ねてくれるまで辛抱強く待つしかないのだ。

「……やっぱり、怒ってるのかな」

 勝手に身代わりになったこと。律の外出中にこそこそ継承の儀を行ってしまったこと。

 あの時は、許してくれたように思えたが、あとから冷静になって考えてみたらやっぱり許せないと考えを変えたのかもしれない。

 そのくらいのことをしてしまったのだからと諦めるしかないのだが、千影の視線は気づけば扉の方へと向けられていた。

 そして、少しでも気配を感じると、飼い主が帰って来た時の犬のように扉に飛びついてしまう。

「千影、ちぃ坊や。起きたかい?」

 好々爺こうこうや然とした声は玄武のものだ。律は来ないが、律の周りにいる玄武、白虎、朱雀が数時間ごとに話し相手になってくれる。

「おはよう。玄武。今何時?」

 開口一番、千影は時間を尋ねる。

 奉職者の朝は早いが、木立の奥に隠されたこの場所にまでは生活音が届かない。そして、時間の流れを意識しないよう、ここには時計がないのだ。

 だから千影は誰かが訪ねてくると真っ先に時間を尋ねる。

「朝の八時じゃよ」

 なら、律はもう登校しているはずだ。

「そっか」

 気持ちが声に出てしまったのかもしれない。扉の向こうで玄武が謝った。

「すまんのう。たまには顔を見せてやれと言っておるのじゃが」

「玄武が謝ることじゃないって。俺、ぜんっぜん平気だし」

 空元気に振舞って見せても、きっとばればれなんだろう。扉の向こうから、今度はため息が聞こえた。

「気分はどうじゃ。背中に痛みはないか?」

 継承の儀を済ませた千影の背中の片側には、蝶の羽のような痣が刻まれている。それが痛むかどうか聞いているのだ。

「痛くない。平気だよ」

「そうか。違和感を覚えたらすぐにいうんじゃぞ」

「わかってるって」

「本当かのう。お前は我慢強いところがあるから逆に心配じゃわい」

 数年一緒に暮らしているから、千影の性格などお見通しみたいだ。だが、これに関しては強がりなどせず、少しの違和感でもきちんと伝えるつもりでいる。

 背中が痛むということは妖の力が強くなっている証拠だからだ。封印を強めるなり対処をしなくちゃいけないらしいから、黙っていてはいけないのだ。

 儀式の数日前から何度も聞かされた注意事項だから、きちんと守らなくては。千影が我慢したらより大変なことになって、千影だけじゃなく周りにまで被害が及んでしまうのだ。

 律を助ける目的で役目を代わったのに、律が危険な目にあってしまっては意味がない。

「律は元気にしてる?」

 話が一区切りついたところで、千影は気になっていることを尋ねた。

 自分を許してくれなくてもいいから、いつも元気でいてほしい。風邪などひかず、毎日楽しんで暮らしていてほしい。それが千影のいちばんの願いだ。

「元気にしているとも」

「それならよかった」

 元気なのに会いに来てくれないのなら、やっぱり避けられているんだろう。胸が苦しくなったが、態度には出さないように努めた。

「お前さんも元気にしているとちゃんと伝えておくからな」

「ありがとう」

 玄武の気配が去っていき、千影はその場に座り込んだ。
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