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神影律の記憶[2]

【4】

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 やがて、前方に鳥居が見えはじめた。

 進めば進むほど、周りには黒い破片がうずたかく積みあがって小山を作っているのに、鳥居とその周囲だけは、淡い光に守られ無傷だった。

 あれは千影の心の出入り口だ。あそこをくぐれば律は本来の肉体も戻ることが出来るだろう。だが。

「ちいちゃん、待って」

 千影の心がぼろぼろになっていくのを、看過できない。

「待ってったら、ちいちゃん」

 だが、いくら呼び掛けても千影は足を止めてはくれなかった。

「待てない。ここで律が何かして、妖に勘付かれたら困るだろ」

 あまりにもしつこかったからだろう。黙り込んでいた千影はようやくそれだけ口にした。

「でも。そんなのダメだ。このままじゃちいちゃんの心が壊れちゃうよ!」

 今、剥落しているのは千影の心だ。黒く染め上げられた千影の心が、もろく崩れ落ちている。あのすべてが剥がれてしまったら、千影の人格は壊れてしまう。

「いいんだ」

「よくないよ!」

「いいんだよ」

 振り向いた千影は柔らかく微笑んでいた。

「律があの時助けてくれなかったら、俺の命はとっくになくなってる。この数年間が奇跡だったんだ。その奇跡の間に俺は沢山思い出をもらった。律と過ごした時間は、俺の宝物だ」

 両手をつなぎあって、千影が「ありがとう」と言う。

 お礼を言われることなどしていないのに。

 だが、言葉が詰まって何も返せなかった。唯一出来たことと言えば、離れがたいというように手を強く握り返すことだけ。

「さようなら、律。今までありがとう」

 千影は今まさに自我が崩壊しようとしているというのに、心から幸せそうで、それが胸が引き裂かれるほど悲しかった。

 いったいどうして、千影ばかりがこれほど苦労を背負わなくてはならない。千影が一体何をしたというのか。

「ちいちゃん……僕は、」

 どうにか千影を説得しようとするも、唇に指先を当てられて阻止された。その手は次に律の目元をぬぐった。

「言わないで。律の気持ちはわかってる。だって律、泣いてるから。俺のために泣いてくれてるんだよな」

「……だって、ちいちゃんばっかりこんなに辛いの、おかしいよ」

「辛くなんかない。俺は幸せだったよ」

 律と一緒にいられて幸せだった。噛みしめる様に呟く。そんなにも自信を持って断言されると、律にはもう否定することはできない。

 ただ、どうしても千影を置いていくことは出来なくて、つないだ手をいつまでも離すことが出来なかった。

「律、そろそろ行かなきゃ」

「嫌だ。僕もここでちいちゃんと一緒に逝く」

「子供みたいなこと言うなよ」

 千影が普段じゃれあっているときと同じ顔で笑う。

「そうだ。じゃあ、最後に俺の願いを叶えてくれよ」

 有無を言わさぬ口調で言った千影が、はだしの足を一歩踏み出した。あどけなさを残す顔が見えなくなるほど近づいて、頬に柔らかいものが押し当てられる。

 知識こそあるものの経験は一度もない行為を、愛しい相手からもたらされた。その事実になかなか思考がおいつかない。

 はじくように触れただけで顔を離した千影は、照れくさそうに笑っていた。律はわずかに桜色を帯びた頬に触れる。

 千影にとっては決別のキスだったのかもしれない。だが、律にとっては意味合いが違った。

 その口づけは、律の心に火をつけた。

「律……?」

 普段と同じ声で自分の名を呼ぶふっくらとした唇に、今度は律の方から触れた。先ほど千影がしたように。

 よほど驚いたのか、千影の身体がびくんと弾む。だが、拒む様子はない。

 唇を重ねたまま、律は最後に見た時より少しばかり伸びた黒髪を逆撫でしつつ、後ろ頭を支える。

 一度口を離し、角度を変えて再び奪う。律を受け入れようとしてくれているのか、千影の手がおずおずと背中に回された。

 世界は崩壊を続け、いよいよ地面にも亀裂が走った。壊れゆく世界になど目もくれず、律は一心不乱に千影を貪り続ける。

 存分に味わいつくした後、ようやく口を離した。

 唇を赤く濡らし、浅い呼吸を繰り返す千影は腰が重くうずくほどに官能的だった。もはや身体は弛緩しきって、律が支えていなければ立つこともままならない。

 身も心もすべてを預けてくれているようで、たまらなく愛おしい。

「ちいちゃん、もう少しだけ頑張って。必ず迎えに来るから」

「……り、りつ」

 いつもより舌ったらずな声が、名前を呼ぶ。

 これを最期などにさせるものか。再びこの鳥居をくぐるとき、必ず妖に好き勝手に蹂躙されたこの世界を本来の姿に戻してみせる。

 陶然としている千影の前に小指を差し出した。

「約束して。ちいちゃん。僕が来るまで待ってるって」

「……」

 まだぼんやりしている千影は、多分理解が及ばないまま、反射的に小指を絡めてきた。

 それでも指切りは指切り。これで約束は結ばれた。

 今一度、痩せた身体を強く抱きしめ、律は千影を置いて鳥居をくぐる。周囲の景色が一変し、律の意識はつかの間途切れた。
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