白蜘蛛探偵事務所

葉薊【ハアザミ】

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神影律の記憶[2]

【3】

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 ひとしきり涙を流したおかげか、律の心はすっきりとしていた。落ち込んでふさぎ込んでいる暇などない。こうしている間にも千影の心は蝕まれていく。

 だから、律は奔走ほんそうした。

 霊力に磨きをかけるために場数をこなし、蔵や書庫を漁って妖に関する情報を集め、寝食を惜しんで動き回った。

 あまりに根を詰めるので家族にも玄武たちにも心配されたが、律は聞く耳をもたなかった。一日も早く千影を救いだす、その目的しか頭になかった。

 自分には余裕がないので千影のもとには玄武たちに行ってもらった。

 律は千影が心配で戻って来た彼らにあれこれ聞いてしまうが、千影もまた律のことばかり聞いてくるのだと、彼らは呆れていた。

 最後には決まって「たまには会いに行ってやったらどうだ」と諭されるが、律は今の自分にはその資格がないと考えていた。

 目標を果たすことばかりに気を取られ、最初に千影が言った言葉など記憶の隅に追いやってしまっていたのだ。

 だから律は気づかなかった。千影をまた傷つけてしまっていること。寂しい思いをさせてしまっていたことに。

 それに気づいた時にはすでに、取り返しのつかない事態に陥っていた。

 律は間に合わなかった。それどころか千影を精神的に追い詰めて妖に付け入るスキを与えてしまった。

 ほどなく千影の意識は奪われた。

 本来の千影の心は身体の奥底に封じられ、妖が主導権を握ったのだ。

 暴走は突然だった。暴風が吹き荒れ、禍々しい妖力が一か所に集約した。

 奉職に着く者たちは皆、少なからず霊力を有している。その凶悪な気を前に体調を崩す者たちも相次ぐ中、律は千影と……千影の肉体を奪った妖と対峙した。

 しかし、牛耳ているのは妖であっても、その肉体は愛しい相手そのものだ。立ち向かったはいいが、律は躊躇してしまった。

 躊躇った隙をつかれて律は敗北した。千影の肉体を操る妖がじわじわと歩み寄ってくる。

 あとからやって来た家族も、神職たちも、圧倒的な力を前にあっけなく薙ぎ払われた。

 進行を阻もうとする彼らを、まるでコバエでも追い払うかのように容易くあしらい、千影は……千影の身体を奪った妖は律の前に立った。

 律はあの時確かに死を覚悟した。しかし律は生きていた。千影の心の中で生きながらえた。

「やっぱり律はすごいよ。あんな状況で、術を使うなんて」

 かつて千影を救うために使った術のことを言っているのだろう。律はかぶりを振った。千影が不思議そうな顔で律を見る。

「僕は何もしてないよ。僕を助けてくれたのはちいちゃんなんだ」

「……俺?」

 気付けば千影の中に匿われたかのように思えたが、記憶を遡ってみた今では違うと断言できる。

 あの時律は、確かに誰かに引っ張られた。温かくて優しい、大好きな温度に引き寄せられて迎え入れられたのだ。

「あの時僕は、ちいちゃんに引っ張られてちいちゃんの中に入ったんだよ」

「え、で、でも……俺、律みたいに霊力を使いこなせるわけじゃないのに」

「無意識だったんだろうね。あとは、過去にも僕がお邪魔したことも影響しているのかな。だから、ちいちゃんの中にすんなり入れたんだ」

「……そう、なのか。でも、どっちみちよかった。律は無事だったんだもんな。まあ、あのくらいで律が負けるはずないって信じてたけど」

 千影は胸を張って断言するなり立ち上がると、律の手を引いた。抗うことなく律も縁側から腰を上げる。

「じゃ、こっちへ来てくれ。俺の心の出口に案内するよ」

「……うん」

 千影の心の中で長く眠っていた律は、自我を取り戻した。律のすべてを受け入れてくれる千影の心の中は律にとっても居心地のいい場所だが、ここは本来律が居て良い場所ではない。

 それにいつまでも千影に守られているわけにはいかなかった。

 律には今度こそ千影を救い出すという使命がある。

 門から出ると、その先にはまた暗闇が広がっていた。それだけ、千影の心が浸食されている証拠だ。

 次は決してためらわないように、真っ暗な空間を瞳に焼き付ける。

 その時ふと、視界の端で何かがこぼれた。

 それは、小さな欠片だった。暗闇から、暗闇が剥がれ落ちている。一片ではない。あちこちから、破片がこぼれて、瓦礫のように積み重なっていく。

「ち、ちいちゃん……これ」

 千影は気づいていないのだろうか。いや、そんなはずはない。律の手を握る千影の手が震えている。

「本当に、律が見つかってよかった。このまま気付かずにいたら、取り返しのつかないことになっちゃうところだった」

 律の手を引いて歩く千影は、決して後ろを振り向こうとしない。先ほど律が千影のもとにたどり着いた時のように、わき目もふらず、突き進む。
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