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神影律の記憶[2]

【2】

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 小学生のころに千影を救ってからというもの、律は少しずつ自分に自信をつけていった。

 律の両親も玄武げんぶたちに諭され、日々の仕事や祭事の手伝い以外の仕事も律に任せる様になっていた。

 一方、千影は健康体には戻ったが、霊や妖に魅入みいられやすい体質は変わらないため、そのまま神影家に居候いそうろうすることになった。

 千影の心の中で彼と家族との関係を知った律はほっとしたが、唯一仲が良かった妹と引き離してしまうことに関しては、可哀想でならない。

 本人も最初は寂しそうにしていたが、母を手伝って家事をするようになると、日々の忙しさの中で寂しさを紛らわせたようだった。それが強がりなのか本心なのかまでは律には判別が出来ないけれど。

 そんな日々が長いこと続き、お互い高校生になっていた。

 掃除と日供祭にっくさいを終えて朝食を済ませ、二人でバスに乗って登校する。つつがなく授業を終えて、再びバスに乗って下校するという日々を送っている。

 道中、畑に出ていた農家の方々が、収穫したばかりの野菜を分けてくれる。

 彼らは皆、神影神社の氏子だから、宮司の子である律を幼いころからかわいがってくれているのだ。

 新たに居候になった千影に対しては、はじめ大人としての憐憫の情が強かったようだが、千影の気さくさにすっかりとりこになって、今では千影までも神影神社の子として認識されるようになった。

 今日も野菜農家の奥さんに冬野菜と手作りのおはぎをもらった。

 彼女の作るおはぎが大好きな千影はいつにもまして楽しそうだ。足取りの軽さが、千影の喜びを如実に表している。

 スキップ交じりで先を歩いていた千影は、距離が空いていることに気付くと戻ってきて律の手を握った。

 スキンシップが突然で、律には心の準備をする時間さえ無い。

 千影に対して、友情と呼ぶには不純すぎる感情を抱いている律は、熱くなった頬を隠す為にマフラーで口元を覆った。

 オレンジ色の空を仰ぎ、千影が夕刻にふさわしい童謡を口ずさむ。心が洗われるような澄んだ歌声に耳を澄ませながら、律は幸せをかみしめた。

 たとえ、そう遠くない未来に失われる幸福だとしても、嘆いたりしないように、恋しくなったりしないように、今存分に味わっておこうと、この当時の律は考えていた。

 今ある自由はいずれ奪われる。自分は妖の器だから。それでも、千影がそばにいてくれれば、乗り越えられると信じていた。

 だから、思いもしなかったのだ。隣で純真無垢に笑っている千影が、実はすべてを知っていただなんて。

 そして運命の日は訪れる。

 律はこの日、地鎮祭じちんさいに赴く兄を手伝うために遠出をしていた。バスではなく自家用車で現場に向かい、神事が滞りなく行われる。

 まさか、同じころに継承けいしょうの儀が執り行われているなどとは知る由もなく、玄武たちを引き連れて、出かけてしまった。

 家路についたころにはすでにとっぷり日が暮れていた。なのに、真っ先に出迎えてくれるはずの千影の姿が見えない。

 嫌な予感がして、様子がおかしい両親を問い詰め、そして耳を疑いたくなる事実を聞かされた。

 律は家族が止める声も振り切って離れに向かった。

 外側からかんぬきが掛けられている他、おびただしい量の真新しい札が扉中に貼られている。厳重に封じられた木の扉を乱暴に叩きながら、律は千影の名を叫んだ。

「ちいちゃん、ちいちゃん! 聞こえる? 聞こえたら返事して!」

「……律?」

 姿こそ見えないが、声には普段と同じ張りがあってひとまず安心した。

 肩の力が抜けたのもつかの間、心の中に様々な疑問が、やりきれない思いが満ちあふれる。律はそれを、直接千影にぶつけた。

「どうして? どうしてちいちゃんがここに居るの?」

「どうしてって、律ならわかってるだろ?」

 はぐらかすような言い方に苛立つ。そういう意味じゃないことくらい、分かってるくせに。

「そういう事じゃないよ! どうしてちいちゃんが受け継ぐことになったの? 妖の器は神影家の次男が受け継いでいくもので、次の継承者は僕だったんだ。だから、ちいちゃんには関係ないのにっ」

 思わず口を滑らせた直後、律は自身の失言に狼狽え黙り込んだ。案の定、扉の向こう側から、寂しそうな声が聞こえる。

「関係ない、なんて、そんな寂しいこと言うなよ」

「……ご、ごめん」

 仲間外れにされることを千影がどれほど嫌っているか、幼少の記憶を覗き見た律は知っていたはずなのに。

 怒りに任せて、心にもないことを言ってしまった。いや、関係ないというのはそもそも、千影を除外しようという気持ちで言ったのではなくて。

 もごもご言い訳をしていると、扉の向こうで笑う気配がした。

「いいよ。律が怒るのも分かる。でも、俺だって怒ってるんだからな」

 いずれ、器となること。離れ離れになるかもしれないこと。すべて律の口から聞きたかったのだと千影は不満を訴える。でも言えるはずがないのだ。律はいずれ離れに幽閉される直前まで、千影とは何の憂いもなく、親しくしていたかったのだから。

「それにな、律。律みたいにすごい力を持った人が、一生閉じ込められるなんてそんなのダメだと思うんだ。世の中には、昔の俺みたいに霊や妖のせいで困ってる人がたくさんいる。律には、そういう人たちをもっといっぱい助けてあげてほしい」

 だから律の代わりに自分が器となる。そのくらいしか自分にはできないのだから、と千影は言う。

 律は言葉を失った。口からは一言も発することが出来ないのに、頭の中では様々な思いがめぐる。

 いったいいつから千影はすべてを知っていたのだろう。いつから、身代わりになろうと考えていたのだろう。

 そんなそぶりを少しも見せず、千影はずっと明るかった。その明るさに騙されて、能天気に幸福を享受していた自分が心の底から恨めしい。

 一人思い悩んでいた時期に、もっと寄り添ってあげればよかった。いや、もっと早くに気付いて、考え直すように説得するべきだった。

「……ああ、でもさ、律。俺、今、うまれてはじめて霊力を持って生まれた事を良かったなって思ってる」

 握り締めた拳にぬくもりが触れた気がしてはっとする。

 千影が扉に手のひらを当てているのだ。それに気づいた律も、同じように手のひらを押し当てた。扉越しに、互いのぬくもりを分かち合う。

「今、律の手と触れ合ってるって分かる。律の霊力を感じるんだ」

「ちいちゃん……」

 律もまた、千影のかすかな霊力を感じ取っていた。

 雪のように白く清らかな千影の霊力、それを、はるかに大きな闇がむしばもうとしている。小さな力は壁際に追いやられ、今にも喰らいつくされてしまいそうだ。

 千影の無垢な力が穢されていく。それが悲しくて、涙があふれた。
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