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神影律の記憶[2]
【1】
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暗闇の中で律はわき目もふらず前進し続けた。暗闇の中のはるか遠くに差し込む、絹糸のように細く白い、唯一の光を目指して。
周囲の景色が変わらないせいもあるのだろう。歩けども歩けども、一向に距離が縮まる様子がない。それでも律は足を止めなかった。止めようとすら思わなかった。
あの先に、探し求めているものがある。会いたかった人がいる。その直感にのみ突き動かされて、ひたすらに進む。
永遠にも思えた道にも、いずれ終わりは来る。光は糸から反物、模造紙とどんどん大きさを広げていく。
そのころになると、光の中に景色が描かれていることがわかるようになる。
反物のころには単なる柄にしか見えなかったが、模造紙くらいになると、見慣れた光景が隙間の向こうにあるのだと気付く。
光がそこにあるのではなく、闇の割れ目が光に見えているのだった。
律は迷うことなくその割れ目に足を踏み入れた。
自分の足音すらも吸い込まれる無音の空間から抜け出すと、様々な音が一斉に主張しはじめた。
等間隔で鳴るししおどし。重みに耐えかねた梢が雪を振るい落とす音。竹垣の向こうから聞こえる、積もった雪を踏みしめる音。控えめに足元をすり抜けていく北風の音。
普段は気にも留めない日常の音を律はしばし堪能した。ずいぶん久しぶりに、これらの音に触れた気がする。
ただ、その中に新たな音色が加わったのを合図に、律はまぶたを開いて再び歩を進めた。
現実では数えきれないほど歩いた道を踏みしめて、建物に沿って曲がれば、雪景色に装いを変えた中庭を見渡せる縁側へとたどり着く。
そこに吐息を白く濁らせながら、歌う青年がいた。
艶を失った黒髪に痩せた身体。唇は本来の桜色からずっと薄くなり、不健康な容貌が死人の纏う衣装にこれ以上なくしっくりきている。
それでも彼は美しかった。再会の喜びに引き寄せられるまま近づいていく。
ある地点まで行くと、口ずさんでいた童謡が止まった。
「ここに居たんだな」
黒く濡れた瞳は前方に縫い付けたまま、彼は……千影は吐息と一緒につぶやいた。
最初は無表情だったが、次第に堪えきれなくなって笑いだす。声を立てて笑う姿が、なんだかひどく懐かしくて、涙が出そうだ。
「まさか俺の中にいるなんて。そりゃあ探しても見つからないはずだよ」
千影は今いる場所が自分の心の中だと気付いているようだ。もしかしたらずっと、ここに隠れていたのかもしれない。
中庭の一角を切り取ったこの場所だけは、妖に穢されずに残されていた。千影の心を守る隠れ家なのだろう。
その隠れ家で、慣れた様子で縁側に腰掛けたまま、千影はひとしきり笑った後、自分の横をぽんぽんと叩く。
「立ち話もなんだから、座ったらどうだ?」
「うん」
久しぶりに千影と会えた。その喜びに打ち震えながら、律は素直に頷く。
隣に腰を下ろすと、体温まで感じた。千影はちゃんと温かい。
「よかった。俺、律はもう帰ってこないんじゃないかって思っちゃった」
「心配かけてごめんね」
千影はゆるゆるとかぶりを振ったあと、足をぷらぷら揺らしながらうつむいた。
「俺の方こそごめん」
「どうしてちぃちゃんが謝るの。ちいちゃんは何も悪いことしてないでしょ」
小学生のころにやってきて、以来一緒に暮らすようになった千影を、律はいつごろからか、ちいちゃんとあだ名で呼ぶようになっていた。
それまではずっと、千影君と呼んでいたのだけど、よそよそしくて嫌だからもっと砕けた呼び方をしてほしいと千影に催促されたのだ。
だが、生まれ持った性格からか、どうしても呼び捨てには出来ず、悩んだ末にあだ名で呼ぶという代替え案を思い付いたのだった。
「ううん。俺、結局妖を抑えきれなくて暴走しちゃった。それで律や律の家族を傷つけた」
まるで罪を告白するように苦しそうに語る姿が痛々しくて悲しい。律は思わず、膝の上でこぶしを作っていた千影の手を包み込むように握った。
千影が驚きに肩を震わせ、顔を上げる。
「ちいちゃんがやったんじゃないよ。妖がちいちゃんの身体を使って悪さをしたんだ」
「でも……俺は、その妖を封じるための器だったのに。妖の好き勝手にさせないために、俺がいたのに……俺は、抑えることが出来なかった」
千影の声は強い悔恨に震えていた。
「当たり前だよ。ちいちゃん。そのくらい恐ろしい妖怪なんだ。本当はね、人一人の手で押さえられるようなものじゃないんだ。そもそも、人を器にして封じ込めようとする考え方自体が間違えていたんだよ」
人は物言わぬ陶器じゃない。複雑な感情を誰しももっている。そんな当たり前のことに気付けず、むしろ妖にとって心地よい空間を提供してしまった。
継承の儀を重ねる度に、妖は継承者の負の感情を食らいながらじわじわと本来の力を取り戻していたのだ。
もしかすると律であっても抑えきれなかったかもしれない。だから決して千影が気に病む必要などないのだ。
力を取り戻した蝶が再び活動を始めるタイミングに、運悪く継承してしまったというだけなのだから。
「……律の手、久しぶりに触った」
ふっと目を伏せた千影の視線の先には、重なり合う二人の手があった。
「あ、ごめんね。急に……」
なんだか急に照れくさくなって手を離すが、千影の手が追いかけてきて両手で包み込まれた。
「……あったかい」
そして噛みしめるように呟く。他者のぬくもりに飢えているのだと気付いた律は、もう片方の手で千影の頬を撫でた。
「これはどう?」
「……うん。あったかいよ。律」
「よかった……」
千影が律のぬくもりを感じてくれているように、律もまた久々に触れる千影の体温に心を締め付けられるほどの喜びを覚えていた。
あたたかくて、柔らかい。ああ、本当に千影だ。視覚で、嗅覚で、触覚で、千影のすべてを味わう。
そうしながら、律は、千影と引き離されたきっかけとも呼べる事件を思い起こしていた。
周囲の景色が変わらないせいもあるのだろう。歩けども歩けども、一向に距離が縮まる様子がない。それでも律は足を止めなかった。止めようとすら思わなかった。
あの先に、探し求めているものがある。会いたかった人がいる。その直感にのみ突き動かされて、ひたすらに進む。
永遠にも思えた道にも、いずれ終わりは来る。光は糸から反物、模造紙とどんどん大きさを広げていく。
そのころになると、光の中に景色が描かれていることがわかるようになる。
反物のころには単なる柄にしか見えなかったが、模造紙くらいになると、見慣れた光景が隙間の向こうにあるのだと気付く。
光がそこにあるのではなく、闇の割れ目が光に見えているのだった。
律は迷うことなくその割れ目に足を踏み入れた。
自分の足音すらも吸い込まれる無音の空間から抜け出すと、様々な音が一斉に主張しはじめた。
等間隔で鳴るししおどし。重みに耐えかねた梢が雪を振るい落とす音。竹垣の向こうから聞こえる、積もった雪を踏みしめる音。控えめに足元をすり抜けていく北風の音。
普段は気にも留めない日常の音を律はしばし堪能した。ずいぶん久しぶりに、これらの音に触れた気がする。
ただ、その中に新たな音色が加わったのを合図に、律はまぶたを開いて再び歩を進めた。
現実では数えきれないほど歩いた道を踏みしめて、建物に沿って曲がれば、雪景色に装いを変えた中庭を見渡せる縁側へとたどり着く。
そこに吐息を白く濁らせながら、歌う青年がいた。
艶を失った黒髪に痩せた身体。唇は本来の桜色からずっと薄くなり、不健康な容貌が死人の纏う衣装にこれ以上なくしっくりきている。
それでも彼は美しかった。再会の喜びに引き寄せられるまま近づいていく。
ある地点まで行くと、口ずさんでいた童謡が止まった。
「ここに居たんだな」
黒く濡れた瞳は前方に縫い付けたまま、彼は……千影は吐息と一緒につぶやいた。
最初は無表情だったが、次第に堪えきれなくなって笑いだす。声を立てて笑う姿が、なんだかひどく懐かしくて、涙が出そうだ。
「まさか俺の中にいるなんて。そりゃあ探しても見つからないはずだよ」
千影は今いる場所が自分の心の中だと気付いているようだ。もしかしたらずっと、ここに隠れていたのかもしれない。
中庭の一角を切り取ったこの場所だけは、妖に穢されずに残されていた。千影の心を守る隠れ家なのだろう。
その隠れ家で、慣れた様子で縁側に腰掛けたまま、千影はひとしきり笑った後、自分の横をぽんぽんと叩く。
「立ち話もなんだから、座ったらどうだ?」
「うん」
久しぶりに千影と会えた。その喜びに打ち震えながら、律は素直に頷く。
隣に腰を下ろすと、体温まで感じた。千影はちゃんと温かい。
「よかった。俺、律はもう帰ってこないんじゃないかって思っちゃった」
「心配かけてごめんね」
千影はゆるゆるとかぶりを振ったあと、足をぷらぷら揺らしながらうつむいた。
「俺の方こそごめん」
「どうしてちぃちゃんが謝るの。ちいちゃんは何も悪いことしてないでしょ」
小学生のころにやってきて、以来一緒に暮らすようになった千影を、律はいつごろからか、ちいちゃんとあだ名で呼ぶようになっていた。
それまではずっと、千影君と呼んでいたのだけど、よそよそしくて嫌だからもっと砕けた呼び方をしてほしいと千影に催促されたのだ。
だが、生まれ持った性格からか、どうしても呼び捨てには出来ず、悩んだ末にあだ名で呼ぶという代替え案を思い付いたのだった。
「ううん。俺、結局妖を抑えきれなくて暴走しちゃった。それで律や律の家族を傷つけた」
まるで罪を告白するように苦しそうに語る姿が痛々しくて悲しい。律は思わず、膝の上でこぶしを作っていた千影の手を包み込むように握った。
千影が驚きに肩を震わせ、顔を上げる。
「ちいちゃんがやったんじゃないよ。妖がちいちゃんの身体を使って悪さをしたんだ」
「でも……俺は、その妖を封じるための器だったのに。妖の好き勝手にさせないために、俺がいたのに……俺は、抑えることが出来なかった」
千影の声は強い悔恨に震えていた。
「当たり前だよ。ちいちゃん。そのくらい恐ろしい妖怪なんだ。本当はね、人一人の手で押さえられるようなものじゃないんだ。そもそも、人を器にして封じ込めようとする考え方自体が間違えていたんだよ」
人は物言わぬ陶器じゃない。複雑な感情を誰しももっている。そんな当たり前のことに気付けず、むしろ妖にとって心地よい空間を提供してしまった。
継承の儀を重ねる度に、妖は継承者の負の感情を食らいながらじわじわと本来の力を取り戻していたのだ。
もしかすると律であっても抑えきれなかったかもしれない。だから決して千影が気に病む必要などないのだ。
力を取り戻した蝶が再び活動を始めるタイミングに、運悪く継承してしまったというだけなのだから。
「……律の手、久しぶりに触った」
ふっと目を伏せた千影の視線の先には、重なり合う二人の手があった。
「あ、ごめんね。急に……」
なんだか急に照れくさくなって手を離すが、千影の手が追いかけてきて両手で包み込まれた。
「……あったかい」
そして噛みしめるように呟く。他者のぬくもりに飢えているのだと気付いた律は、もう片方の手で千影の頬を撫でた。
「これはどう?」
「……うん。あったかいよ。律」
「よかった……」
千影が律のぬくもりを感じてくれているように、律もまた久々に触れる千影の体温に心を締め付けられるほどの喜びを覚えていた。
あたたかくて、柔らかい。ああ、本当に千影だ。視覚で、嗅覚で、触覚で、千影のすべてを味わう。
そうしながら、律は、千影と引き離されたきっかけとも呼べる事件を思い起こしていた。
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