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第二話:隠し事
【15】
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室内は正樹が捕らわれていた部屋と同じように、壁や天井にびっしりと蝶が貼り付いていた。
真っ暗な空間を血の色の斑点が不気味に照らしている。
絶えず明滅する光が連なっている様は脈打つ血管にも見え、まるで臓腑の黒い化け物に飲み込まれてしまったかのような錯覚を覚えた。
室内には三つの人影があった。部屋の奥まった場所には抱き合う母と子の姿があり、中央には身を竦める親子を威圧的に見下ろす男の姿がある。
『邪魔をするな』
憎悪に燃える声とともに振り返った男の顔を見るなり、正樹が悲鳴をかみ殺した。しかし堪えきれなかった声がうめき声となって食いしばった歯の隙間からこぼれる。
男の顔は血みどろだった。山肌を流れおちる雨水のように幾重にも枝分かれして顔中を濡らし、顎から滴り落ちている。
「そうはいかないんですよね。職業柄、死者が生者に害を及ぼすと分かっていて放っておくなんて出来ないもんで」
流れる血液のせいか、それとも憤怒のせいか、血走ってぎょろぎょろとした瞳は焦点があっておらず、カエルの目玉のように黒目が落ち着きなく動き回っている。
その眼を見れば一目瞭然だが、やはりすでに自我は失われているようだ。自分を害した者に対する怒りの感情のみが残った化け物へと成り果てている。
「……正樹、」
かつての伴侶を極力視界に入れないようにと俯いていた女性が顔を上げ、入り口付近にいる正樹の姿を見つけた。
その声に反応して、腕の中に隠れていた幼い少年も兄を見た。ほんのわずかだが、ほっとしているように見える。
『邪魔をするな。邪魔をするなら。殺す』
「そんな物騒なこと言わないでくださいよ……て言っても無駄か」
寿幸にはいざとなれば強制的に霊の無念を晴らし、悪事を働く妖を祓う力がある。
しかし、それはあくまでも最終手段だ。
死者であれ妖であれ、何らかの事情がある場合がほとんどなのだから、極力相手の気持ちに寄り添って、彼ら自身の手で未練をなくしてもらいたかった。
だが、この男の場合は、すでに言語を理解できる状態ですらない。寿幸は早々に説得を諦めた。
「掛けまくも畏き、神代神社の大前に畏み畏みも白さく……」
寿幸が唱え始めると同時に、悪霊はその場から動かなくなった。正しくは、動けなくなった。
寿幸があらかじめ放っておいた式神たちが、男の足元に輪になって逃げ場を封じているからだ。
ふくらはぎの高さにすら届かない小さな式神たちだが、彼らには寿幸の霊力が宿っている。踏みつぶすことなどできない。むろん、輪の中から出ることも叶わない。
「尊き慈しみの御心に依りて、我が前に在りし日の憎悪、無念に捕らわれ、神去ますこと能わず、さ迷い留まる御霊を赦し鎮め給いて、一切の穢れを祓い給え。其の力、我に授け給えと畏み畏み白す」
寿幸の声に応え、神代神社祭神の力が降り立つ。それは淡い光となって寿幸の輪郭を縁取った。
式神たちが手を取り合って作る輪の中で男が血まみれの頭を押さえてもがき苦しんている。薄くまぶたを開いてそれを確認した寿幸は正樹に頷いて合図を送った。
正樹は寿幸に指示された通り、極力隅の方を進んで家族のもとにたどり着く。
家族が無事に再会するまで見届けて、寿幸は今一度同じ詞を唱える。淡い光は鮮烈になり、そのあまりの眩さに蝶たちが錯乱し飛び交い始めた。
彼らは自分たちに害をなす寿幸を追い払おうとするかのように体当たりを仕掛けてくる。しかし、寿幸に届く一歩手前で、見えない壁に焼かれ、溶けて、消え失せた。
蝶の数が減る程、悪霊も弱体化していく。一方で寿幸の霊力は祭神の力を得て二倍にも、三倍にも膨れ上がっていた。
寿幸は護符を挟んだ指先に意識を集中させる。すると、寿幸の身体を包んでいた光も、導かれるように指先へと集まっていった。
今度は護符が光を放ち、青白い炎の塊へと変わった。寿幸はそれを、輪の中で悶えている男に向けて投げた。
刹那、耳をつんざくような悲鳴があがった。
男の身体が炎の塊に飲み込まれる。
悪感情のみを焼き尽くし、怨恨のみを消滅させる火炎は、男のすべてを喰らいつくそうとまとわりついている。
人としての自我を失った悪霊は、ただ足掻くことしかできない。怨嗟の声をあげながら、やがて男は跡形もなく消え去った。
役目を終えた炎も消え失せ、室内は先ほど同様本来の姿を取り戻す。
呆気ない幕引きだったが、そもそも此度、騒動の発端となった悪霊は妖に利用されただけだったのだろう。
自らの片割れを封じ込める一美を巣に誘き出し攫うための。
そして寿幸は、まんまと術中にはまってしまった。今改めて自責の念に駆られる。浅はかな自分を許しがたく思う。
「……終わった、んですか?」
しばし室内は静まり返っていたが、呆然としていた正樹が沈黙を破った。
狂ったように飛び交う蝶たちからかばうために、母子二人を覆うように抱きしめていた正樹が寿幸に恐る恐る尋ねてくる。
寿幸は頷いた。悪霊は確かに消滅した。悪霊自体は。
真っ暗な空間を血の色の斑点が不気味に照らしている。
絶えず明滅する光が連なっている様は脈打つ血管にも見え、まるで臓腑の黒い化け物に飲み込まれてしまったかのような錯覚を覚えた。
室内には三つの人影があった。部屋の奥まった場所には抱き合う母と子の姿があり、中央には身を竦める親子を威圧的に見下ろす男の姿がある。
『邪魔をするな』
憎悪に燃える声とともに振り返った男の顔を見るなり、正樹が悲鳴をかみ殺した。しかし堪えきれなかった声がうめき声となって食いしばった歯の隙間からこぼれる。
男の顔は血みどろだった。山肌を流れおちる雨水のように幾重にも枝分かれして顔中を濡らし、顎から滴り落ちている。
「そうはいかないんですよね。職業柄、死者が生者に害を及ぼすと分かっていて放っておくなんて出来ないもんで」
流れる血液のせいか、それとも憤怒のせいか、血走ってぎょろぎょろとした瞳は焦点があっておらず、カエルの目玉のように黒目が落ち着きなく動き回っている。
その眼を見れば一目瞭然だが、やはりすでに自我は失われているようだ。自分を害した者に対する怒りの感情のみが残った化け物へと成り果てている。
「……正樹、」
かつての伴侶を極力視界に入れないようにと俯いていた女性が顔を上げ、入り口付近にいる正樹の姿を見つけた。
その声に反応して、腕の中に隠れていた幼い少年も兄を見た。ほんのわずかだが、ほっとしているように見える。
『邪魔をするな。邪魔をするなら。殺す』
「そんな物騒なこと言わないでくださいよ……て言っても無駄か」
寿幸にはいざとなれば強制的に霊の無念を晴らし、悪事を働く妖を祓う力がある。
しかし、それはあくまでも最終手段だ。
死者であれ妖であれ、何らかの事情がある場合がほとんどなのだから、極力相手の気持ちに寄り添って、彼ら自身の手で未練をなくしてもらいたかった。
だが、この男の場合は、すでに言語を理解できる状態ですらない。寿幸は早々に説得を諦めた。
「掛けまくも畏き、神代神社の大前に畏み畏みも白さく……」
寿幸が唱え始めると同時に、悪霊はその場から動かなくなった。正しくは、動けなくなった。
寿幸があらかじめ放っておいた式神たちが、男の足元に輪になって逃げ場を封じているからだ。
ふくらはぎの高さにすら届かない小さな式神たちだが、彼らには寿幸の霊力が宿っている。踏みつぶすことなどできない。むろん、輪の中から出ることも叶わない。
「尊き慈しみの御心に依りて、我が前に在りし日の憎悪、無念に捕らわれ、神去ますこと能わず、さ迷い留まる御霊を赦し鎮め給いて、一切の穢れを祓い給え。其の力、我に授け給えと畏み畏み白す」
寿幸の声に応え、神代神社祭神の力が降り立つ。それは淡い光となって寿幸の輪郭を縁取った。
式神たちが手を取り合って作る輪の中で男が血まみれの頭を押さえてもがき苦しんている。薄くまぶたを開いてそれを確認した寿幸は正樹に頷いて合図を送った。
正樹は寿幸に指示された通り、極力隅の方を進んで家族のもとにたどり着く。
家族が無事に再会するまで見届けて、寿幸は今一度同じ詞を唱える。淡い光は鮮烈になり、そのあまりの眩さに蝶たちが錯乱し飛び交い始めた。
彼らは自分たちに害をなす寿幸を追い払おうとするかのように体当たりを仕掛けてくる。しかし、寿幸に届く一歩手前で、見えない壁に焼かれ、溶けて、消え失せた。
蝶の数が減る程、悪霊も弱体化していく。一方で寿幸の霊力は祭神の力を得て二倍にも、三倍にも膨れ上がっていた。
寿幸は護符を挟んだ指先に意識を集中させる。すると、寿幸の身体を包んでいた光も、導かれるように指先へと集まっていった。
今度は護符が光を放ち、青白い炎の塊へと変わった。寿幸はそれを、輪の中で悶えている男に向けて投げた。
刹那、耳をつんざくような悲鳴があがった。
男の身体が炎の塊に飲み込まれる。
悪感情のみを焼き尽くし、怨恨のみを消滅させる火炎は、男のすべてを喰らいつくそうとまとわりついている。
人としての自我を失った悪霊は、ただ足掻くことしかできない。怨嗟の声をあげながら、やがて男は跡形もなく消え去った。
役目を終えた炎も消え失せ、室内は先ほど同様本来の姿を取り戻す。
呆気ない幕引きだったが、そもそも此度、騒動の発端となった悪霊は妖に利用されただけだったのだろう。
自らの片割れを封じ込める一美を巣に誘き出し攫うための。
そして寿幸は、まんまと術中にはまってしまった。今改めて自責の念に駆られる。浅はかな自分を許しがたく思う。
「……終わった、んですか?」
しばし室内は静まり返っていたが、呆然としていた正樹が沈黙を破った。
狂ったように飛び交う蝶たちからかばうために、母子二人を覆うように抱きしめていた正樹が寿幸に恐る恐る尋ねてくる。
寿幸は頷いた。悪霊は確かに消滅した。悪霊自体は。
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