白蜘蛛探偵事務所

葉薊【ハアザミ】

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第二話:隠し事

【9】

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 その蝶は直哉の部屋を優雅に飛び回っていたらしい。

 部屋に何らかの痕跡が残されてはいないかと考えた正樹が扉を開くと、まるでそれを待っていたかのように廊下に出てきた。

 ひらひらと、正樹を誘うように宙を舞い踊りながら、玄関ドアを通り抜けて屋外に出てしまった。

 正樹はそれを追いかけてしまったのだ。おそらく罠だと知りながら。

『探偵さん。正樹を助けてください』

 相変わらずか細かったが、彼女の声には切なる願いが込められていた。

 寿幸は彼女の願いを聞き届け、彼女の後に続いて駆け出した。走りながら、一番目に登録されている友人に電話をかける。



 寿幸たちが神社を去って数十分後、二人の男が同じ場所にたどり着いた。

 片方は長身、片方はちびの見事なデコボココンビは、寿幸から七年前の事故に関する聞き込みを頼まれた、一ノ瀬 保いちのせ たもつ九条 奏くじょう かなでであった。

「近頃は何でも便利になりましたね」

 そう言って、長身の男こと奏が地図アプリを閉じてスマートフォンを背広の内ポケットにしまう。しかしその声は今の保には届かなかった。

「どうしました?」

 しばらく待っても何の反応もかえって来ないことを不思議がって、奏が思いきり身をかがめて顔を覗き込んでくる。

 普段なら低身長を揶揄やゆされるような行為に憤慨しているところだが、今日の保にはそんな心の余裕はなかった。

「何か、薄気味悪い気を感じないか」

 署を出てからずっと、生ぬるい風が肌を撫で上げているような不快感に悩まされている。

 何か良くないことが起こる予兆の様な、嫌な感覚だ。そして、保が感じる不穏な予感は大抵的中する。

 保も比較的、霊力が高いほうだ。寿幸のように霊を祓う力こそないが、常人に比べて神経が研ぎ澄まされており、かすかな気配な変化であっても敏感に感じ取ることができる。

 ただそれは大抵、頭痛や倦怠感など、保の体調に害をなす形で現れるので、厄介な力でもあった。

「そういえば顔色が悪いですね。休みます?」

「平気だ。この程度で休んでなどいられん」

 気遣ってもらえるのはありがたいが、保には寿幸から頼まれた仕事がある。

 たかだか寒気ごときで大事な責務を投げ出すわけにはいかない。持ち前のタフさで不快感を吹き飛ばせば、なんとかなるのだから。

 空元気という言葉が脳裏によぎったが、病は気からという諺で相殺した。

「ま、そういわず」

 言葉遣いこそ時折慇懃無礼いんぎんぶれいだが、基本的に素直な後輩がめずらしく食い下がった。

 それほど顔に出てしまっているだろうか。多少の体調不良ぐらいで後輩に気遣われてしまうとは。

 保は自身の不甲斐なさを反省した後、長めに呼吸をして、気合を入れなおした。

 刹那、周囲の音が消え、保は目を見開く。

 遠くに聞こえていた車の走行音も、風に揺れる草木が鳴る音も、行きかう参拝客の声も、何もかもが一瞬にして無に染まった。

「……なんだ? 何が、」

 身体を撫でまわしていたぬるい風すら消え失せて、代わりにもっと冷たい、氷越しに吹き付けるような冷気が満ちる。

 全身が総毛立つほど邪悪な空気に満ちているのに、なぜか心地よいと感じる奇妙な空間に保は誘われていた。

「九条……、……!」

 後輩はどうしたろう。混乱した頭が真っ先に思いつく。

 九条もまた霊感があるからこそ、保と同じ部署に配属されたのだ。

 こんな空間ではさすがに、いつも飄逸ひょういつとしている九条であっても冷静ではいられないはずだ。

 仲間の無事を確かめたくて視線を向けた保は、そこに確かに後輩の姿を見つけた。見つけたのだが、様子がおかしい。

 九条であって九条でない。いや、確かに九条なのだが、保の知る九条ではなかった。

 服装こそ同じ背広姿のままなのに、頭部からは黒い耳、臀部のあたりからは、広葉樹のようなひし形をした尻尾が五つ。

妖狐ようこ……?」

 口にしてから、保はたまらず一歩後ずさった。

 その辺の心霊などでは太刀打ちできないほどの冷気、霊力……いや、妖力は、九条とよく似たこの男から放たれていたのだ。

「何を怯えることがある」

 男は警戒する保を横目に見て口角を上げた。悪辣な微笑にぞっと肌が粟立つ。さらに距離を取りたかったが、不可能だった。

 漂う冷気が保の足にまとわりついて、気づいた時には身動きが取れなくなっている。

「そう身構えることはない。とおまえは隔絶されたこの時空で幾度となく睦あってきただろう」

「な、なにを……。……!」

 まるで、男の声に呼び覚まされるみたいに、保の中に急激に記憶が流れ込んできた。

 目が回る程の急速で再生される記憶は、言葉にすることも憚られる破廉恥はれんちな映像の数々だった。

「なっ、なんだ……この低俗な記憶は……っ」

 学生時代は勉学一筋、警察官になってからも仕事一筋で生きてきた一本気な保は、思春期の時代であっても淡泊で、大人になっても興味がわくことすらなかった。

 それゆえ色恋に関する免疫、知識は小学生レベルで止まっている。そんな保にとって、接吻以上の記憶など、拷問にも等しい羞恥である。

「こ、こんな……あられもない姿を、俺は……? まさか、何かの間違いだ!」

「相変わらず初々しい反応を見せてくれるな、おまえは」

 真っ赤になって狼狽する保を満足げに見やり、男が距離を詰めてくる。
 急展開に思考が追い付かない保の顎を指先で上向かせ、男は美女のように艶やかな笑みを浮かべた。

「……っ、ふ、ふざけている場合ではないだろう!」

 一瞬見惚れてしまうほどの美貌だが、すんでの所で我に返り、保は両手で男の顔を押しのけようとする。男は動じることなく保の手を掴んで手のひらに口づけた。

「や、やめっ……」

「この空間でどれほどの時が経過しようとも、現実の時間には影響しない。存分にかわいがってやろうではないか。どうせ元の時空に戻れば、おまえはここで起きた何もかもを忘却してしまうのだ。おおいに乱れ啼くといい」

 他の気などに惑わされるな。おまえは余の器なのだからな。

 保の意志など一顧だにせず、自分勝手なことばかり言い放った末に、男はいつもどおり保を蹂躙した。
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