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第二話:隠し事
【8】
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『最初は変わった趣味を持った人間もいるのねえと気にも留めていなかったんだけれど、翌日になったら急に前が騒がしくなって。しかも人が石段の下で倒れてるっていうんですよ。わたくしそこで気付いたの。昨日の大きな荷物は人間だったんだって』
倒れていたのは若い男だった。
私服姿で、傘もレインコートも身に着けてはおらず、雨の日に出歩く格好とは思えない姿だったことから、一時事件性があると判断されかけたが、男の近くに酒瓶が転がっていたことから、最終的に酔っ払いが当てもなく徘徊したのち、足を滑らせ石段を転落したことによる事故とみなされた。
ただでさえ視界の悪い雷雨の夜だったのだから、酒に酔った状態ならなおさら事故は起こりやすいだろうと、警察の判断に疑問を抱く者はいなかったという。
被害者は既婚者で、妻と幼児の息子がいたらしい。この母子は事故後どこかへ引っ越したらしい。
被害者はあんまり評判がいい方ではなく、酒に酔うと夜中でも平気で大声を出すと近所で煙たがられていたのだとか。
『まあ、参拝客の噂を聞いただけですから、どこまで本当かはわかりませんけどね』
最後にそう付け加え、神様は話を締めくくった。
丁寧に礼を告げ、寿幸と一美は神社を辞す。石段を下りたところで携帯電話が鳴った。
『もしもし、探偵さんですか。先ほどはどうも』
正樹の父親だった。内緒話をするような小さな声で、ぼそぼそと話す。どうやら別の部屋にこそいるものの、正樹も家の中にいるようだ。
「何か思い出しましたか?」
寿幸が水を向けると、正樹の父親は訥々と妻から打ち明けられた過去を話し始めた。
彼女と元夫の仲は良好とは言えなかった。
近所の噂通り、酒癖が悪く、酒に酔うと身の回りのものすべてに当たりたがる。その周りの物の中には自分の妻や子も含まれていた。
日常的な暴力に耐えていた母子にとって、夫の事故死は救いだったのかもしれない。本当に事故死だったらの話だが。
どうしても先ほど神様から聞いた話が寿幸の脳裏にちらつく。
「奥さんが前の旦那さんと死別したのは、いつ頃だかわかりますかね?」
寿幸の方から聞きだし、七年前だと分かった。
出来れば名前も分かるとありがたかったが、事情が事情だけに夫は妻を気遣って、元夫に関する話題は極力避けてきたのだという。
ただ、彼女が使っていた名字が一度目の結婚の際に変わったままだということが分かったのは僥倖だった。「塩谷」というらしい。
こんなことになるのならもっと日常的に話しておけばよかった、と電話口で後悔しているが、さすがにこんな未来を予想できる者はそういないだろう。
まさか元夫が悪霊となって再び姿を現すなんて、そんな話をすんなり受け入れられるのは日ごろ霊を身近に感じている一部の人間くらいのものだ。
月並みな言葉で消沈する正樹の父親を励まして、寿幸は電話を切った。
少しずつ謎が解けていくのに、見え始めた真実の不穏な気配にため息が出る。
とはいえ突き止めないわけにはいかない。今この瞬間にも、悪霊が生者を苦しめているのだ。命が奪われてしまう前に何とか居所を突き止めて助け出さなくては。
「……寿幸さん」
気持ちを切り替え聞き込みを開始しようとした矢先、一美が寿幸を呼んだ。
視線を向けるが一美は寿幸を見てはいなかった。一美の見ている先へ、寿幸も目を向けてみる。
そこにシュシュで黒髪を一つに束ねた若い女性がいた。
白いブラウスに水色のロングスカート姿の女性だ。足元ははだしで、そして、うっすら透けている。
ずっと正樹の背後に立っていた人物だった。藤谷家を訪問した今では彼女の正体も判明している。
「正樹くんのお母さんですね」
ダイニングに仏壇があって、そこに彼女の遺影が飾られていた。寿幸の視線に気づいた正樹が教えてくれた。
彼女は僕の母親です。といっても僕に命をくれてすぐに亡くなってしまったんですけど。
『正樹が……、』
彼女は消え入りそうな声で呟いた。
『蝶を追いかけていってしまいました』
か細い声で告げられた言葉に、寿幸は戦慄した。
倒れていたのは若い男だった。
私服姿で、傘もレインコートも身に着けてはおらず、雨の日に出歩く格好とは思えない姿だったことから、一時事件性があると判断されかけたが、男の近くに酒瓶が転がっていたことから、最終的に酔っ払いが当てもなく徘徊したのち、足を滑らせ石段を転落したことによる事故とみなされた。
ただでさえ視界の悪い雷雨の夜だったのだから、酒に酔った状態ならなおさら事故は起こりやすいだろうと、警察の判断に疑問を抱く者はいなかったという。
被害者は既婚者で、妻と幼児の息子がいたらしい。この母子は事故後どこかへ引っ越したらしい。
被害者はあんまり評判がいい方ではなく、酒に酔うと夜中でも平気で大声を出すと近所で煙たがられていたのだとか。
『まあ、参拝客の噂を聞いただけですから、どこまで本当かはわかりませんけどね』
最後にそう付け加え、神様は話を締めくくった。
丁寧に礼を告げ、寿幸と一美は神社を辞す。石段を下りたところで携帯電話が鳴った。
『もしもし、探偵さんですか。先ほどはどうも』
正樹の父親だった。内緒話をするような小さな声で、ぼそぼそと話す。どうやら別の部屋にこそいるものの、正樹も家の中にいるようだ。
「何か思い出しましたか?」
寿幸が水を向けると、正樹の父親は訥々と妻から打ち明けられた過去を話し始めた。
彼女と元夫の仲は良好とは言えなかった。
近所の噂通り、酒癖が悪く、酒に酔うと身の回りのものすべてに当たりたがる。その周りの物の中には自分の妻や子も含まれていた。
日常的な暴力に耐えていた母子にとって、夫の事故死は救いだったのかもしれない。本当に事故死だったらの話だが。
どうしても先ほど神様から聞いた話が寿幸の脳裏にちらつく。
「奥さんが前の旦那さんと死別したのは、いつ頃だかわかりますかね?」
寿幸の方から聞きだし、七年前だと分かった。
出来れば名前も分かるとありがたかったが、事情が事情だけに夫は妻を気遣って、元夫に関する話題は極力避けてきたのだという。
ただ、彼女が使っていた名字が一度目の結婚の際に変わったままだということが分かったのは僥倖だった。「塩谷」というらしい。
こんなことになるのならもっと日常的に話しておけばよかった、と電話口で後悔しているが、さすがにこんな未来を予想できる者はそういないだろう。
まさか元夫が悪霊となって再び姿を現すなんて、そんな話をすんなり受け入れられるのは日ごろ霊を身近に感じている一部の人間くらいのものだ。
月並みな言葉で消沈する正樹の父親を励まして、寿幸は電話を切った。
少しずつ謎が解けていくのに、見え始めた真実の不穏な気配にため息が出る。
とはいえ突き止めないわけにはいかない。今この瞬間にも、悪霊が生者を苦しめているのだ。命が奪われてしまう前に何とか居所を突き止めて助け出さなくては。
「……寿幸さん」
気持ちを切り替え聞き込みを開始しようとした矢先、一美が寿幸を呼んだ。
視線を向けるが一美は寿幸を見てはいなかった。一美の見ている先へ、寿幸も目を向けてみる。
そこにシュシュで黒髪を一つに束ねた若い女性がいた。
白いブラウスに水色のロングスカート姿の女性だ。足元ははだしで、そして、うっすら透けている。
ずっと正樹の背後に立っていた人物だった。藤谷家を訪問した今では彼女の正体も判明している。
「正樹くんのお母さんですね」
ダイニングに仏壇があって、そこに彼女の遺影が飾られていた。寿幸の視線に気づいた正樹が教えてくれた。
彼女は僕の母親です。といっても僕に命をくれてすぐに亡くなってしまったんですけど。
『正樹が……、』
彼女は消え入りそうな声で呟いた。
『蝶を追いかけていってしまいました』
か細い声で告げられた言葉に、寿幸は戦慄した。
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