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神影律の記憶

【10】

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 千影の記憶の回想が終わり、あたりは暗闇に包まれた。

 何も見えない、何も聞こえない、ただ「無」だけがどこまでも広がっている。

 その「無」の中心に千影は佇んでいた。ぼんやりと虚空を見つめて立ち尽くしている。

「千影君」

 律が呼びかけると、指先がぴくりと反応した。錆びついたおもちゃの様なぎこちない動作で千影が律を見る。

「……律?」

 律をその眼に映すなり、人形のように生気を失っていた瞳に輝きが取り戻された。

「ここどこ? すごい寒いけど……」

 寝巻代わりの襦袢じゅばんごと自分の身体を抱きしめるようにして二の腕を擦る。

 きょろきょろ、不安そうに周囲を見回す千影に無神経に真実を伝えるわけにはいかず、別の言葉を探そうとした瞬間、千影の足元が泥のように柔らかくなった。

「うわっ……」

 千影の悲鳴によって思惟を止めた律の前で、千影は足元から這い出してきた無数の手にとらわれてしまった。

「なっ、なんだこれ……っ、いやだっ……うっ、ぐ……」

 足に腕に、首にまで絡みついた手が、獲物を奪われまいと幼い身体を容赦なく締め上げる。

 器官を圧迫され、悲鳴をも奪われた千影は、唇の動きだけで律に救いを求めた。

 たすけて、と。

 律は目の前に現れた悪霊から目を反らすことなく睨みつけた。

 恐ろしくて、家業の手伝いからも逃れていた律の中に恐怖はみじんもなく、代わりに血が煮えたぎるような憤怒が支配していた。

「大丈夫。必ず助けてあげるよ」

 千影を、大事な友達を追い詰めるすべてに対して激怒する一方、千影には、安心させるように柔らかく微笑んで見せた。

 そして静かに九字を唱え、刀印とういんを結ぶ。

われ、今、悪しきもの討たんとす。神影神社守みやげみやしろのかみ降伏退散ごうぶくたいさんの力、与え給え」

 慣れないはずの呪文をすらすらと唱える律の周りを赤い薄膜がひらめきはじめた。

 律の霊力に、神影神社祭神の力が加わり、呼応し、その凄まじい霊力によって、実体となったのである。

 邪魔立てしようと近寄って来た無数の手が、たじたじと引き下がっていく。触れてはならないと、本能で理解しているのだろう。

 尻尾を撒いて逃げ出す様は、小動物のようだが、今の律には憐れみなどみじんもわかなかった。

 やがて、具現化された力はひとまとめになり、弓と矢へと変じた。

 律は手慣れた様子で弓を構える。

 和弓の経験など皆無のはずだが、その立ち姿はまるで神懸かみがかりが起こったかのように堂に入っていた。

 炎のように火花を散らす矢じりを向けられ、千影は一瞬怯えた顔つきになる。

「大丈夫だよ。僕を信じて」

 だが律の言葉で腹をくくったらしく、しっかりと頷いて見せた。

 狼狽する悪霊が、慌てて千影を飲み込もうとする。

 それを見逃す律ではなかった。

 風を切る音とともに、霊力の矢が放たれる。真っ赤な尾をたなびいて、空を駆け抜けた矢が千影にまとわりつく黒い影を的確に射抜いた。

 耳をつんざくような悲鳴に、千影の心が反応して鳴動する。

 激しく揺れ動く世界の中、律は千影を苦しめていた悪霊が砂塵となって消えていく様子をしかと見届けた。

「律……、」

 一つ息を吐いた律は、千影がふらつく足取りで歩み寄ってくることに気付いた。身体だけでなく、心も疲労しているから足取りが不安定なのだ。

 律が手にしていた弓を離すと、それは音もなく消えた。しかし消滅したわけではない。本来の持ち主のもとへと還っただけである。

 よろめく千影を抱き留めて、律は再び笑みを浮かべた。

「もう大丈夫。千影君の中の怖いものはいなくなったよ」

 千影は一時ぽかんとしていたが、やがて大粒の涙をこぼし始める。流れ落ちた涙が大地に落ちると、つられるように空からも雨が降り始めた。

 心地よい霧雨が周囲の闇を洗い流し、黒い景色が雪景色の様な純白へと変わっていく。

 ああ、これが本来の千影の心の色なのかと、律は感動していた。

 初めて自分の手で誰かを助けられたことももちろん嬉しかったが、千影を救えたという実感が律の心を満たし、自信を与えてくれた。

 青年は、律は、記憶を遡ったことで自分という存在を思い出した。

 そして、おもむろに立ち上がり、周囲を見回す。

 まだ、取り戻した記憶には穴が開いている。律は欠けている部分を取り戻す為に暗闇の中を歩くことに決めた。

 大事なものを守るために。
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