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神影律の記憶
【5】
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その日の晩、律は再び千影と食事をすることになった。自ら母に頼み込んだのである。
この時にはすでに父親にも言いつけを破ったことを知られていて、ちょっとばかり叱られたが、最終的には仕方がないと許可をもらえた。
もう会えなくなるかもしれないと心配していたから、ほっとする律である。
千影の夕食は昼と変わらずおかゆだが、お膳の脇には昼にはなかった果物がちょこんと乗せられている。
「これ、ミカン?」
千影がさっそく興味を示した。律がリクエストした甘夏である。収穫して寝かせてあったものが、ぼちぼち食べごろだったのだ。
「うん。うちの庭で採れた甘夏だよ。甘くておいしいから食べてみて」
千影は小さくうなずくと、さっそく一房口に運ぶ。
嚥下するまでを固唾をのんで見守る律の前で、千影がため息とともにつぶやいた。
「美味しい。すっごく甘い」
昼食時には何かを堪えながら無理矢理食事しているように見えたが、甘夏を一房、また一房と運ぶ姿に義務感や遠慮は感じられなかった。
よかった、と安堵したのもつかの間、千影の笑顔がだんだんとゆがんでいき、しまいにははらはらと涙をこぼし始めるのでぎょっとした。
「ご、ごめん、無理しないで……!」
律のお節介のせいで、無理をさせてしまったのかもしれない。オロオロしながら謝る律に、千影は鼻をすすってかぶりを振る。
「ちがくて、俺……ずっと、ごはんの味わかんなくて……、」
涙声で告白され、律は今一度昼食時の千影の様子を思い起こした。
そういえば、我が家の梅干しは父好みの、甘さの一切ない梅干しなのだった。
子供の律にはごはんがなくては太刀打ちできない相手なのに、千影は顔色一つ変えずに口にしていた。
あれは酸味に強いのではなく、そもそも酸味を感じていなかったのだ。
食事が喉を通らないのも当然である。
きっとこれも千影の中に巣食うモノの仕業なのだろう。そうやってどんどん千影を弱らせようとしているのだ。
律ははらわたが煮える思いがして、こぶしを握った。昼間にも感じた血が沸騰するような感覚が蘇る。
それは生まれて初めて抱いた。憤怒という感情だった。
「これ、凄く美味しい。律、ありがとう」
涙を拭いながら言われ、我に返った律は急いで笑い返した。
ずっと味覚を感じられなかったのに、何の変哲もない甘夏を美味しく感じた理由は分からないが、それをきっかけにして千影の食欲が戻り始めていたのは確かだった。
毎食お邪魔しては迷惑かなと思いながらも、律は千影の様態が気になって、千影が拒まないのをいいことに翌朝も食事を共にした。
「おいしい。律のお母さんって料理上手なんだな」
千影は味覚を取り戻したことがよほど嬉しいのか、一口食べる度に感激した様子で感想を述べる。
順調に快復に向かっている千影の姿に、律も肩を撫で下ろした。
千影の中に潜む霊を祓うために、何をおいても千影に健康になってもらう必要があった。そうでなければ、運よく除霊できたとしても千影の身体がもたない。
「ありがとう。お母さんもきっと千影君に喜んでもらえてうれしいと思うよ。あとで伝えておくね」
嘘ではなかった。
律の母は家族の健康を守るのは自分の役目だと、家事に情熱を燃やしている人だ。
毎度おかゆのほかに様々な小鉢を添えていたのも、どれか一つでも食べられるものがあればという母の工夫だろうから、手料理を褒めてもらえたらきっと喜ぶ。
「うん。よろしくな。……それにしても、律の家って朝早いんだな。もう二時間位前からみんな起きてたよな?」
「うん。朝食の前に、いろいろとやることがあるからね。学校も遠いから、このくらいの時間に朝食なのがちょうどいいけど……。あっ、もしかして起こしちゃった?」
冬にはそれこそ日も昇りきらない時間に起きて、掃除に日供祭に玉串作り……神社は朝から目が回る程忙しい。その分夜は早く寝る、という生活は律にとっては当たり前だったが、慣れない千影には大変だったかもしれない。
「ううん。早起きすると気持ちいいし、暗いのは嫌いだから夜は早く寝たいからちょうどいい」
千影はそう答えると、律の傍らに置かれているランドセルを見やった。
「学校、どのくらい遠いんだ?」
「バスで三十分くらいかな」
「そ、そんなに?」
千影が仰天した様子で目を丸くした。
聞けば千影の学校は忘れ物をしたとしても休み時間にこっそり取りに帰れるくらいの距離なのだという。
この時にはすでに父親にも言いつけを破ったことを知られていて、ちょっとばかり叱られたが、最終的には仕方がないと許可をもらえた。
もう会えなくなるかもしれないと心配していたから、ほっとする律である。
千影の夕食は昼と変わらずおかゆだが、お膳の脇には昼にはなかった果物がちょこんと乗せられている。
「これ、ミカン?」
千影がさっそく興味を示した。律がリクエストした甘夏である。収穫して寝かせてあったものが、ぼちぼち食べごろだったのだ。
「うん。うちの庭で採れた甘夏だよ。甘くておいしいから食べてみて」
千影は小さくうなずくと、さっそく一房口に運ぶ。
嚥下するまでを固唾をのんで見守る律の前で、千影がため息とともにつぶやいた。
「美味しい。すっごく甘い」
昼食時には何かを堪えながら無理矢理食事しているように見えたが、甘夏を一房、また一房と運ぶ姿に義務感や遠慮は感じられなかった。
よかった、と安堵したのもつかの間、千影の笑顔がだんだんとゆがんでいき、しまいにははらはらと涙をこぼし始めるのでぎょっとした。
「ご、ごめん、無理しないで……!」
律のお節介のせいで、無理をさせてしまったのかもしれない。オロオロしながら謝る律に、千影は鼻をすすってかぶりを振る。
「ちがくて、俺……ずっと、ごはんの味わかんなくて……、」
涙声で告白され、律は今一度昼食時の千影の様子を思い起こした。
そういえば、我が家の梅干しは父好みの、甘さの一切ない梅干しなのだった。
子供の律にはごはんがなくては太刀打ちできない相手なのに、千影は顔色一つ変えずに口にしていた。
あれは酸味に強いのではなく、そもそも酸味を感じていなかったのだ。
食事が喉を通らないのも当然である。
きっとこれも千影の中に巣食うモノの仕業なのだろう。そうやってどんどん千影を弱らせようとしているのだ。
律ははらわたが煮える思いがして、こぶしを握った。昼間にも感じた血が沸騰するような感覚が蘇る。
それは生まれて初めて抱いた。憤怒という感情だった。
「これ、凄く美味しい。律、ありがとう」
涙を拭いながら言われ、我に返った律は急いで笑い返した。
ずっと味覚を感じられなかったのに、何の変哲もない甘夏を美味しく感じた理由は分からないが、それをきっかけにして千影の食欲が戻り始めていたのは確かだった。
毎食お邪魔しては迷惑かなと思いながらも、律は千影の様態が気になって、千影が拒まないのをいいことに翌朝も食事を共にした。
「おいしい。律のお母さんって料理上手なんだな」
千影は味覚を取り戻したことがよほど嬉しいのか、一口食べる度に感激した様子で感想を述べる。
順調に快復に向かっている千影の姿に、律も肩を撫で下ろした。
千影の中に潜む霊を祓うために、何をおいても千影に健康になってもらう必要があった。そうでなければ、運よく除霊できたとしても千影の身体がもたない。
「ありがとう。お母さんもきっと千影君に喜んでもらえてうれしいと思うよ。あとで伝えておくね」
嘘ではなかった。
律の母は家族の健康を守るのは自分の役目だと、家事に情熱を燃やしている人だ。
毎度おかゆのほかに様々な小鉢を添えていたのも、どれか一つでも食べられるものがあればという母の工夫だろうから、手料理を褒めてもらえたらきっと喜ぶ。
「うん。よろしくな。……それにしても、律の家って朝早いんだな。もう二時間位前からみんな起きてたよな?」
「うん。朝食の前に、いろいろとやることがあるからね。学校も遠いから、このくらいの時間に朝食なのがちょうどいいけど……。あっ、もしかして起こしちゃった?」
冬にはそれこそ日も昇りきらない時間に起きて、掃除に日供祭に玉串作り……神社は朝から目が回る程忙しい。その分夜は早く寝る、という生活は律にとっては当たり前だったが、慣れない千影には大変だったかもしれない。
「ううん。早起きすると気持ちいいし、暗いのは嫌いだから夜は早く寝たいからちょうどいい」
千影はそう答えると、律の傍らに置かれているランドセルを見やった。
「学校、どのくらい遠いんだ?」
「バスで三十分くらいかな」
「そ、そんなに?」
千影が仰天した様子で目を丸くした。
聞けば千影の学校は忘れ物をしたとしても休み時間にこっそり取りに帰れるくらいの距離なのだという。
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