白蜘蛛探偵事務所

葉薊【ハアザミ】

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第一話:探し物

【26】

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 高校一年生のころ、彼女には憧れてやまない一人の先輩がいた。

 しかし彼は野球部のエース。

 さらに明るく朗らかで裏表のない性格から男女ともに人気があり、学年も違う自分には声をかけることすら許されない相手だった。

 それでも、どうしても諦めきれず、たった一度でいいから、一言でもいいから話がしたいと願っていた。

 そんな矢先、彼女にまたとないチャンスが訪れた。

 そのきっかけを作ってくれたのは、長らく入院していたが手術を経て退院し、高校生になって初めて登校してきたクラスメイトの男の子。

 名前は佐伯 虎太郎といって、おとなしそうな子だった。

 その虎太郎が、憧れの先輩が以前持っていた覚えがあるお守りを所持していることに気付き、思い切って聞いてみた。

「それ、どうしたの?」

「ああ、これは、竜真くんから借りたんです。手術が成功して学校に通える様になったら、返す約束をしていて……」

 この時、彼女の中に狡い感情が芽生えてしまった。

 普通に話しかけたら、先輩たちに睨まれてしまうけれど、このお守りさえあれば、先輩に声をかけるきっかけができる。

 だから彼女は、隙を見てお守りを盗んでしまった。

 ごめんなさい。佐伯君。私、どうしても先輩と話したいの。

 心の中で懺悔しながらも、彼女は手を止めることはしなかった。出来なかった。

 佐伯君には明日謝ればいいよね。そんなふうに軽く考えていた。

 だが、その「明日」は訪れなかった。

 翌日も、翌々日も、虎太郎は登校してこなかった。

 三日が経って、先生から行方不明になったと聞かされて始めて、彼女は事の重大さに打ちのめされた。

 たった一度登校しただけの生徒だ。クラスメイト達はあっという間に彼のことを忘れたが、彼女は大人になった今でも忘れられずにいる。

 先輩とたった二言三言とはいえ会話が出来た喜びなど、重い悔恨に押しつぶされて消えてしまった。

 誰にも打ち明けられないまま、彼女はずっと暗闇の中を歩いている。

 だからまさか、こんな偶然が起こるだなんて夢にも思わなかった。

 ふと視界の端に現れた赤い蝶をなんとなく追いかけて、導かれた先にあったカフェに立ち寄った。

 店内では、カウンター席に座る三人が店主を交えて話をしていた。その会話の内容に衝撃を受けた。

(佐伯君のことだ……!)

 どこかで生きていてほしいと願った虎太郎はすでに亡くなっていて、それにもショックを受けたが、さらに彼が未だにあのお守りを探して現世を彷徨っていると知って愕然とした。

 虎太郎に本当のことを伝えなくてはいけない。そして謝らなければいけない。

 もちろん、許されたいだなんて考えてはいない。けれど、真実を伝えるのは自分の役目……いや、義務だと考えた。

 それから数時間、手掛かりもないまま、彼女は虎太郎を探し続けている。

 あの日以来引きこもりがちになってしまった彼女は、実に数年ぶりに何時間も歩きまわっていた。
 
 だから靴擦れが出来て白いパンプスの後ろが真っ赤になってしまっているが、そんなことは全く気にならなかった。

「もしもし、お嬢さん」

 どんどん日が暮れて、どんどん人気のない場所へと向かってしまっている。そんなことにも気づかないくらい一心不乱になっていた。

 そんな彼女に後方から声をかけてくる者がいた。

 そこには一見気さくそうな中年の男性が立っている。

「かかとのところ血が出てるよ? 痛いでしょう」

 男性は一見親切さを装って近寄ってくるが、彼女は彼に得体のしれないものを感じていた。

「へ、平気です……」

 逃げなければいけないと思った。理由は分からない。だが、心が警鐘を鳴らしていた。

「まあ、そういわないで。おじさん、ばんそうこう持ってるから。手当してあげるよ」

「だ、大丈夫ですから……」

 逃げろ逃げろ、心が叫んでいる。心臓が激しく打ち鳴らされている。

 彼女は唐突に駆け出した。

 しかし、長らく歩くこと自体久しぶりだった彼女の足は疲労しきっていて、思うように動いてくれない。

 倒けつ転びつ逃げながら、ふと後ろを振り返る。

(つ、ついてきてる……!)

 男性は明らかに彼女を追ってきていた。

 彼女の心は恐慌で満たされた。あまりの恐怖に吐き気すらこみあげてくる。体は震え、心臓は乱打されるが、足を止めるわけにはいかない。

 恐怖の絶頂にいる彼女に、落ち着いて考えるなどという心の余裕はない。

 男性をくことに必死になるあまり、複雑に入り組んだ道を選んでしまい、自ら袋小路に入ってしまった。

「どうして逃げるのかなあ……」

 絶望の表情で眼前に立ちはだかる壁を見上げる女性の足元に人影が差し込む。

 振り向いた彼女は悲鳴も出せなかった。

 男がすぐ後ろに迫っている。その手に、夕日に銀色を反射する包丁を握って。

 やはり彼女の勘は正しかった。男性は普通ではなかったのだ。

(私、殺されるの……?)

 こんな暗い路地裏で、人知れず命を落とすことになるのだろうか。

(ああ、でも……、これは罰なのかもしれない)

 あるいは報いなのか。どちらにせよ、そう考えると抗ってはいけない気分になる。

 彼女が殺めてしまった虎太郎も、きっとこんなふうに孤独に逝ったのだ。だとしたら、彼女も逃げてはいけないと思えた。

「あれ、もう諦めちゃったの。面白くないなあ」

 その言葉とは裏腹に、男は口角を上げて不気味に嗤っていた。歯をむき出し、興奮から頬を紅潮させて、呼吸を乱して近づいてくる。

 彼女は心の中で両親に別れを告げた。

 お父さん、お母さん、最後まで迷惑かけてごめんなさい。
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