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第一話:探し物
【8】
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『待って、ダメだよ! 僕たちがいなくなったら、お母さんまた病気になっちゃう』
桜子は母を気遣う優しい弟に向かって悲し気に微笑み、しゃがみ込んで目線を合わせた。
『仕方がないのよ。私たちには何もしてあげられない。ママはママの意志で立ち直るしかないの』
とても中学生とは思えない達観した意見だった。でも、そういいながら、彼女の声色にも諦観の色が含まれている。
『でも、お母さん僕が見えたら元気になったよ。僕たちが一緒にいてあげればお母さんずっと元気でいられるよ。ね、お姉ちゃん。お母さんのところに帰ろ』
おそらく五郎少年は、母が認識できるのは自分だけだと知らないのだ。
絶大な妖力を秘めた蝶の力を借りている彼は、霊感のない者の肉眼にもとらえられるが、何の後ろ盾もない姉は母といても、存在を勘付いてすらもらえない。
『ダメなの。お姉ちゃんはママには見えないから、会っても意味ないわ。それにごっちゃんもね、行かなきゃいけないところがあるのよ。いつまでもここに残ってちゃだめ。ここは生きている人のための世界なんだから』
『なら、僕が通訳してあげる。それなら、お姉ちゃんもお母さんと話せるよ?』
まだ小学生の少年に死について理解しろというのは、あまりにも酷な話なのかもしれない。それに彼はあくまでも母親のために現世にとどまり続けようとしている。
これは、やはり母親のほうを説得する必要があるだろう。そう考えた一美は寿幸を見上げた。
寿幸も一美と同じ判断に至ったらしく、苦い顔をしている。
『通訳……。そう、そうね。その手があったわ』
だが、寿幸が大変な仕事を引き受けようとするより早く、彼女が迷いが晴れたような顔をする。
「探偵さん。お願いがあります」
そして、決意に満ちた表情で寿幸に協力を要請した。
寿幸、一美両名は松波姉弟とともに、松波 麗子が暮らすアパートを訪ねた。
「ごっちゃん。どこ行ってたの! なかなか帰ってこないから心配したのよ!」
麗子は五郎少年の帰りが普段より少し遅れただけで、他人がそばにいるにも関わらずヒステリーを起こした。甲高い悲鳴に一美は耳鳴りを覚える。
『ご、ごめんなさい』
しかし五郎少年が泣きそうな顔になって謝ると、母親は蒼白して小さな体を抱きすくめる。
「お母さんこそ怒鳴ったりしてごめんなさい。ううん。お母さんが悪かったわ。だから許してちょうだい。お願いだから、どこにも行かないでね。お母さんのそばにいてね」
我が子に痛ましいほどしがみついて懇願する。
情緒が乱れやすいのは、それだけ精神的に追い詰められている証拠である。やはり説得は困難を極めそうだ。
果たして彼女にできるだろうか。一美はパンツスーツ姿のまま弟に泣きつく母を悲哀な表情で見下ろす桜子を見守る。
「あ、あの。貴方たちは……?」
そこでようやく寿幸たちに気付いた母親が訝しそうに尋ねる。何かを察したのか、彼女は五郎少年を抱き上げて一歩距離を取った。
『ごっちゃん。ママに伝えて。お姉ちゃんがここに居るって』
寿幸と一美はまだ名乗らない。代わりに、桜子が勇気を振り絞った。
『うん。ねえ、お母さん。お姉ちゃんがそこにいるよ』
五郎は姉に言われた通り、姉を指さす。
「えっ、さ、さくがいるの? さく、さくちゃん?」
五郎の指さす方向を目を眇めてまで注視しても、彼女の目には娘の姿が映らない。
『いるよ。ママ。私はここにいる』
視線はたしかに交差しているのに、その姿をとらえることができるのは片方だけ。その証拠に麗子の視線は常に落ち着きなくさまよっている。
『ママ。みんな居なくなっちゃって悲しいのはわかるよ。私もごっちゃんも、ママともっと一緒に居たかった』
桜子は弟がきちんと伝えることができるように、ゆっくりとした語調を心がけて説得を開始した。
姉の無念を弟の口を介して聞いて、麗子の目から涙があふれる。
『でもね。もうできないんだよ。私もごっちゃんも、パパのところに行かないとだめなの。わかるでしょ?』
しかし弟と引き離されようしているのだと気づくと、とたんに麗子の涙が引っ込んだ。目が血走り、柳眉を逆立て鬼のような形相に変わる。
「いやっ、いやよ! ごっちゃんまで居なくなったら私はどうしたらいいの! お願い、さく! この子は連れて行かないで!」
金切り声を上げて五郎を力いっぱい抱きしめる麗子は、桜子があの世から五郎を連れに来たと思い込んだらしい。
彼女がずっと弟を探していたとは知らず、また精神的に追い詰められているとはいえ、実母に敵意のこもったまなざしを向けられる悲しみはどれほどのものか。
家族のいない一美には想像することしかできないが、きっと胸が抉られるような痛みに違いない。
桜子は母を気遣う優しい弟に向かって悲し気に微笑み、しゃがみ込んで目線を合わせた。
『仕方がないのよ。私たちには何もしてあげられない。ママはママの意志で立ち直るしかないの』
とても中学生とは思えない達観した意見だった。でも、そういいながら、彼女の声色にも諦観の色が含まれている。
『でも、お母さん僕が見えたら元気になったよ。僕たちが一緒にいてあげればお母さんずっと元気でいられるよ。ね、お姉ちゃん。お母さんのところに帰ろ』
おそらく五郎少年は、母が認識できるのは自分だけだと知らないのだ。
絶大な妖力を秘めた蝶の力を借りている彼は、霊感のない者の肉眼にもとらえられるが、何の後ろ盾もない姉は母といても、存在を勘付いてすらもらえない。
『ダメなの。お姉ちゃんはママには見えないから、会っても意味ないわ。それにごっちゃんもね、行かなきゃいけないところがあるのよ。いつまでもここに残ってちゃだめ。ここは生きている人のための世界なんだから』
『なら、僕が通訳してあげる。それなら、お姉ちゃんもお母さんと話せるよ?』
まだ小学生の少年に死について理解しろというのは、あまりにも酷な話なのかもしれない。それに彼はあくまでも母親のために現世にとどまり続けようとしている。
これは、やはり母親のほうを説得する必要があるだろう。そう考えた一美は寿幸を見上げた。
寿幸も一美と同じ判断に至ったらしく、苦い顔をしている。
『通訳……。そう、そうね。その手があったわ』
だが、寿幸が大変な仕事を引き受けようとするより早く、彼女が迷いが晴れたような顔をする。
「探偵さん。お願いがあります」
そして、決意に満ちた表情で寿幸に協力を要請した。
寿幸、一美両名は松波姉弟とともに、松波 麗子が暮らすアパートを訪ねた。
「ごっちゃん。どこ行ってたの! なかなか帰ってこないから心配したのよ!」
麗子は五郎少年の帰りが普段より少し遅れただけで、他人がそばにいるにも関わらずヒステリーを起こした。甲高い悲鳴に一美は耳鳴りを覚える。
『ご、ごめんなさい』
しかし五郎少年が泣きそうな顔になって謝ると、母親は蒼白して小さな体を抱きすくめる。
「お母さんこそ怒鳴ったりしてごめんなさい。ううん。お母さんが悪かったわ。だから許してちょうだい。お願いだから、どこにも行かないでね。お母さんのそばにいてね」
我が子に痛ましいほどしがみついて懇願する。
情緒が乱れやすいのは、それだけ精神的に追い詰められている証拠である。やはり説得は困難を極めそうだ。
果たして彼女にできるだろうか。一美はパンツスーツ姿のまま弟に泣きつく母を悲哀な表情で見下ろす桜子を見守る。
「あ、あの。貴方たちは……?」
そこでようやく寿幸たちに気付いた母親が訝しそうに尋ねる。何かを察したのか、彼女は五郎少年を抱き上げて一歩距離を取った。
『ごっちゃん。ママに伝えて。お姉ちゃんがここに居るって』
寿幸と一美はまだ名乗らない。代わりに、桜子が勇気を振り絞った。
『うん。ねえ、お母さん。お姉ちゃんがそこにいるよ』
五郎は姉に言われた通り、姉を指さす。
「えっ、さ、さくがいるの? さく、さくちゃん?」
五郎の指さす方向を目を眇めてまで注視しても、彼女の目には娘の姿が映らない。
『いるよ。ママ。私はここにいる』
視線はたしかに交差しているのに、その姿をとらえることができるのは片方だけ。その証拠に麗子の視線は常に落ち着きなくさまよっている。
『ママ。みんな居なくなっちゃって悲しいのはわかるよ。私もごっちゃんも、ママともっと一緒に居たかった』
桜子は弟がきちんと伝えることができるように、ゆっくりとした語調を心がけて説得を開始した。
姉の無念を弟の口を介して聞いて、麗子の目から涙があふれる。
『でもね。もうできないんだよ。私もごっちゃんも、パパのところに行かないとだめなの。わかるでしょ?』
しかし弟と引き離されようしているのだと気づくと、とたんに麗子の涙が引っ込んだ。目が血走り、柳眉を逆立て鬼のような形相に変わる。
「いやっ、いやよ! ごっちゃんまで居なくなったら私はどうしたらいいの! お願い、さく! この子は連れて行かないで!」
金切り声を上げて五郎を力いっぱい抱きしめる麗子は、桜子があの世から五郎を連れに来たと思い込んだらしい。
彼女がずっと弟を探していたとは知らず、また精神的に追い詰められているとはいえ、実母に敵意のこもったまなざしを向けられる悲しみはどれほどのものか。
家族のいない一美には想像することしかできないが、きっと胸が抉られるような痛みに違いない。
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