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決着

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 アブニールは渾身の力でヴェレーノ侯爵の頬を殴りつけた。ヴェレーノ侯爵の身体が衝撃で傾ぎ、かろうじて出来た隙をついて飛び退り距離を取る。

「う……っ」

 鼓動が異常なほど早まっているのは、正体不明の薬品を注入されたことに対する恐怖ばかりではなかった。フラムのおかげで軽くなっていた身体が、上から圧力をかけられるように少しずつ重くなっていく。覚えのある重ったるさに襲われ、嫌な予感に鳥肌が立った。
 さらには意識が虫食いのように冒され、正常な判断力が失われていく。
 自分の中から人格が削り取られていく恐怖は想像を絶する。こんな恐ろしい体験をかつての仲間たちが経験したのかと思うと、目の前の男に対する殺意がさらに高まって抑えきれないほどだ。

「一つ訂正しておかなければな。私はお前の事を覚えていた。いや、思い出したというべきかな」

 ヴェレーノ侯爵はほくそ笑みながら近づいてくる。アブニールは血の巡りを少しでも遅くしようと二の腕を握り締めているが、この程度の圧迫で堰き止められるものではない。

「十年前の、小生意気な目をした子供が生き残っていれば、ちょうどお前くらいの年頃になっているはずだ。陛下の宮でその挑発的な目を見た時、あの時の子供だと確信したよ。そしてお前も私に気付いた。だから、必ず復讐に来ると踏んでいた」

 男の手のひらの上で踊らされていたのだと今頃気付いたところで、尻尾を巻いて逃げ出すことは出来ない。アブニールに残された時間は、もうそれほど長くないのだ。
 ならばせめて忌々しいこの男の喉笛を食い破り、仲間たちの無念を晴らしてやりたい。そうしたらアブニールも大手を振って仲間たちのもとに逝けるのだから。
 消えゆく理性をかき集め、アブニールは今度こそ躊躇わないようにとナイフを握る手に力を籠める。

(……あ)

 だが、今度は思わぬ妨害が入った。アブニールは一時戦意を喪失し、呆然と扉の方へと視線を送る。
 なぜ、なぜ今、あの男が現れるのか。
 夜も更けた時間だというのににわかに廊下が騒がしくなる。複数の足音、それに、馴染みのある匂いが近づいてきた。
 地響きを立てて近づいてきた一団は、乱暴に扉を開き室内に雪崩れ込んできた。

「なっ……何事だ!」

 ヴェレーノ侯爵がはじめて動揺した。ぎょっと目を剥いて視線を転じた先に自分の甥御を見つけ、忌々しげに歯噛みする。

「貴様、こんな夜更けに何用か!」

 フラムは恐ろしい程の無表情だった。赤ら顔で激昂するヴェレーノ侯爵がいっそ滑稽に見えるほどの無で、しかし肌がぴりぴりと痺れるほどの怒気を放っている。
 激怒していると分かり、ヴェレーノ侯爵ばかりでなくアブニールまでも何も言い出せなくなる。
 後から現れたくせにフラムは一瞬にしてこの場を支配してしまった。誰もその気迫に逆らうことは出来ない。

「ヴェレーノ侯爵。あなたを逮捕、連行いたします」

 冷然とフラムは言い放った。

「な、何……? いきなり何を言い出すかと思えば……。確固たる証拠もなしに犯罪者の虚言をうのみにして、私を罪人に仕立て上げようというのか?」

 フラムのただならぬ気配に圧倒されていたヴェレーノ侯爵が、そのフラムの宣言でにわかに余裕を取り戻す。
 アブニールもフラムの大胆な行動に仰天していた。まさか男爵の証言のみで侯爵を投獄するつもりなのか。証拠不十分で不起訴になるのは目に見えているのに。

「雪国の憩い場、紳士の嗜み、蒼い海の楽園……」

 一転してまくし立てるヴェレーノ侯爵に対し、フラムは謎の単語を呟き始めた。
 アブニールには意図が読めないが、ヴェレーノ侯爵には効果てきめんだったようだ。盛り返して本来の不遜な態度を取り戻したはずが、目に見えて青ざめていく。

「すべて 会員制酒場クラブの店名ですが、聞き覚えがありませんか?」

「し、知らぬ……」

 ヴェレーノ侯爵はじりじりと後退しながら声を震わせた。フラムはヴェレーノ侯爵が喚こうが怯えようがずっと冷徹な態度を貫いている。

「そうですか。あくまでも白を切るおつもりなら私のほうからお教えしましょう。これらの店の店主及び給仕から、貴方と男爵、そのほか数人の貴族、豪商が密談していたこと、漏れ聞いた内容を証言として入手しました」

「ばっ、馬鹿な……! はったりだ! そもそも、こんなにわずかな時間で回り切れるはずがない!」

 ヴェレーノ侯爵は唾を飛ばしながら怒鳴る。すると、ここへきてフラムははじめて表情を変えた。にっこりと微笑んで見せたのだ。その笑顔が今までで一番恐ろしく、アブニールは身震いした。

「いかな駿馬を操る騎士であっても不可能でしょうな。しかし私の愛馬は自慢の両翼のおかげで悪路も急峻な山道も関係ありませんので。おかげで幼いころは何度も死地から救われました」

 フラムのスピリットアニマルである羽の付いた馬……つまり天馬は、その名の通り天を駆ける馬だ。
 短時間で長距離を移動を可能にした方法は分かったが、アブニールはそれでも驚嘆してしまう。何しろガイドはセンチネルほどスピリットアニマルの能力を使いこなすことが出来ないと本に書いてあったのだ。
 だというのにフラムは、この男はどこまで規格外なのか。アブニールは今度は心からの尊敬で身体を震わせた。

「王暗殺教唆の罪で貴方を逮捕いたします。本来ならばあなたのような高貴なお方は罪状が決まるまでは屋敷に幽閉する決まりですが、逃亡の恐れありとみなし、王都の監獄へ連行いたします。よろしいですね?」

 フラムが片手を上げると、控えていた騎士が前に出てヴェレーノ侯爵を拘束した。ヴェレーノ侯爵もさすがに証拠を揃えられては異を唱えることも出来ないのか。抵抗もせず縄を掛けられる。だが、部屋を連れ出される最後まで、フラムを恐ろしい形相で睨みつけていた。

「お前さえ生まれなければ……。お前さえ、」

 ヴェレーノ侯爵の恨み言が、項垂れた背中が、閉じゆく扉の向こうへと消える。皆の視線が扉の方へ集まった隙にアブニールは窓から脱出した。
 もう限界だった。自分が自分で無くなる瞬間が確実に近づいている。
 フラムの呼び止める声を背中に浴びながら、アブニールは宵闇を疾走した。
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