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呼び起こされた記憶

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 打ち解けたとまでは言えないが、比較的穏やかな空気のまま会話は終わった。おそらく、弟の気に入りが敵か味方か見極めたかったのだろう。表向き友好的に振舞いながらも終始アブニールの出方を窺っている節があった。
 優しいだけでは一国の王は務まらない。王の慎重さにはむしろ好感がもてた。
 長居をしては疲れるだろうという配慮で、挨拶の時間はごく短かい時間だった。また来てほしいという社交辞令にアブニールは出来うる限りの笑顔で答え、フラムとともに王の私室を辞した。
 こんな愛想笑いは商談の時ですらしたことがない。ずっと口角を上げていたせいか両頬が突っ張るような感覚があった。

「お疲れさん。ほんとに悪かったな」

 さっきは柄にもなく緊張しているアブニールを嘲笑ったくせに、今は心から労っているようだ。
 ふんと鼻で笑い「あのくらいなんでもねえよ」と強がってやった。本当は今でも鼓動が普段より早いくらいなのだが、離れて歩いているぶんには悟られまい。

「……ん? なんか入り口のほうが騒がしいな」

 優れた聴覚が進行方向から聞こえる言い争いをいち早く察知した。アブニールに一歩遅れて、フラムも足を止める。

「確かに、かすかに声が聞こえるな。何かあったのか?」

 アブニールとフラムは視線を交し合ってしばし考えた後、何食わぬ顔で入り口の方へ向かった。

「いくら貴方様とは言え、陛下の許可がない方をお通しするわけにはまいりません。どうぞお引き取りを」

「ええい。一介の使用人の分際で誰にものを申しておる」

 どうやら侍従と予定のない客が言い争っているようだ。
 一応貴族の出のはずの侍従を使用人呼ばわりするからには相当の地位があるのだろう。それにしても横柄な物言いに辟易する。貴族という奴はどうしてこうも偉そうなやつばかりなのだか。
 だが、ふいに隣から感じた気配が、アブニールの心を驚愕で満たした。

(フラム……?)

 アブニールは単に尊大な態度の貴族に対する嫌悪感だったが、フラムの激憤はアブニールの比にならなかった。フラムの激怒の理由は直後に明らかになる。

「騒々しいですよ。叔父上」

 声の主が誰か判明するなり歩く速度を上げたフラムが、口ひげを蓄えた男の無礼な態度を嗜める。
 アブニールはハッとした。フラムの声を聞くなり、憤怒の表情でこちらを向いた男は、やはりフラムと、そして先ほどあったばかりの王との血筋を感じさせる、整った顔立ちの男だった。
 すでに中年に差し掛かるだろう王の叔父なのだからさらに年嵩なのだろうに、年齢を感じ支えない若々しい風貌をしている。しかし髭を生やしている分年相応に落ち着いた印象も受ける。まあ、今は怒り狂っている所為でせっかくの印象も台無しなのだが。

「軽々しく叔父などと呼ぶな。獣と血がつながっていると思うだけで虫唾が走る。それになぜ、獣がここにいる」

 声だけで相手を呪うようなありったけの憎しみを籠めた声色だった。やはり彼の……ヴェレーノ侯爵のフラムに対する怨恨は相当のものだ。

「兄上に呼ばれたもので、侯爵こそなぜここに? あなたが此度の一件に関わっているかどうかの是非は数日後の会議で話し合われるはずではありませんでしたか?」

「話し合う必要もなく、私は無実だ。大方、私を蹴落としたい者が自らの破滅の道ずれにしようとしているのだろうよ。私は陛下にお会いし、身の潔白を訴えに来たのだ。そもそも何の証拠もないというのに、犯罪者の証言だけで罪人に仕立て上げられたらたまったものではないのでな」

「もちろん証拠はありませんが、火のない所に煙は立たぬとも申します。それにわざわざ遠いところいらっしゃらなくとも、兄は個人的な恨みで人を裁いたりはいたしませぬよ。法のもと、平等に善悪を判断なさるでしょう」

「ええい、黙れ。獣風情が人間の猿真似で政治を語るな」

 射殺すような眼光をものともせず、フラムは冷然と話す。
 一方アブニールの方は平静ではいられなかった。ヴェレーノ侯爵の顔を一目見た瞬間から、激しい頭痛に襲われていた。
 まるで、記憶の奥底に閉じ込めておいた記憶を無理矢理掘り起こしているようで、出来るなら座り込みたい気分だった。それでもフラムの手前気丈に振舞い、冷や汗をかきながら歯を食いしばって様子を見る。

「猿真似とおっしゃられるが、今のあなたの行動は高尚な人間としてふさわしいのですか? 甥御とはいえ、他人の家に事前の連絡もなく上がり込むことが?」

 フラムの痛烈な一言に、ヴェレーノ侯爵は牙を鳴らした。涼しい顔をしているフラムをオーガのような醜悪な表情で睨みつける。
 しかし返答に窮したのか、渋面を浮かべて去っていった。その際、ちらりとアブニールに視線を寄こした気がしたが、今のアブニールに他者を構う余裕などはなかった。
 ヴェレーノ侯爵が足音荒く帰っていく。その後ろ姿が遠のくと、凄まじい痛みも治まった。だが、その激痛はアブニールの中に残酷な置き土産を残していった。
 遡ること十年前、養父率いる傭兵団はとある貴族の依頼を受けた。
 まだ子供だったアブニールは、難しい話しなどほとんど理解できなかったから、あの時の会話は断片的にしか覚えていない。
 だがひとつ、思い出してしまった。
 貴族の家を去る養父を呼び止め、貴族は己の従者に持たせた酒を手渡してきた。あの時に見た男の顔。そして、胸元に輝いていたエンブレム。あれはどちらもヴェレーノ侯爵のものだった。
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