麗しき未亡人

石田空

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「八百屋お七って知っていますか?」

 市議の事務所で働いている事務員の加奈子から唐突に言われた。
 冠婚葬祭で出かけようとした際に、天気にそぐわぬ傘を持っていこうとしたので、彼女に「先生の名前使って変なことしちゃ駄目ですよ」と咎められたのだ。
 仕方がないから、傘のいきさつを話したら、彼女にはこう尋ねられた。

「歌舞伎の演目ですっけ?」
「まあ江戸時代のお話ですよね。八百屋で働いていたお七さんは、ある日火事で家をなくし、しばらくの間寺で避難生活を送っていました。そこで働いている小姓と恋に落ち、仲良くなったものの、家が建て直されたら当然ながら帰りますが、そこでお七は考えてしまったんです……もう一度家が燃えたら、またここで暮らせるんじゃないかって」
「江戸時代に放火は死罪だろう? そんな馬鹿な話だったのかい、これって」
「いやいやいや。元々恋愛っていうのは脳のエラーだっていう話だってありますし。脳がエラー状態だったら、そんな司法的な考えできないんじゃないですか?」
「……まさかと思うけど、傘の人を八百屋お七だって言いたいのかな?」
「わかりませんけど。でも鈴本さん、今は議員秘書で大きく名前出てる訳もないですし、普段先生の名義で仕事なさってますから、相手だって名前知らないでしょ。知らない人とどうやって会うかと言ったら、会える方法考えるんじゃないですか?」
「……馬鹿なこと言うんじゃない」

 そう言い残して、出かけることにした。
 市議秘書に恋するあまりに、そう何人も殺されていたらかならない。
 そう思いながらも、あまりに会う彼女に返すために、傘は持っていくことにした。
 外は晴天。雲ひとつない中で傘を持ち歩くのは気恥ずかしい気がしたが、仕方がないのでそれを持って背筋を伸ばした。

****

 意外なことに、彼女はその日、葬儀には来ていなかった。
 それどころか。

「え……」

 今日の葬儀の相手は女性だと思っていたが、まさかの傘を貸してくれた本人であった。
 周りはひそひそと話をしていた。

「本当にお気の毒ね、光恵さん。結婚するたびに相手が死んでいたんでしょう?」
「ずっと看取り続けていたら、そりゃ心身病むわね。若いのに」

 噂は概ねこうだった。
 彼女が結婚相談所で出会った人は、彼女よりもだいぶ年を取っていたらしい。くも膜下出血で即死だったらしい。
 彼女はどうにか葬儀を行っていたところで、参列者からひと目惚れされて求婚される。ひとりで葬儀の準備と遺品の処理をしなければいけなかった彼女は心身ともにくたくたで、誰かいないとやってられなくて、年が離れていることも考えることなく、そのまま受け入れたという。
 それを繰り返し、彼女に遺産が転がり込むたびに、周りから揶揄される声が響く。
 彼女はもしかして、後妻業を行っていたのではないかと。しかし彼女はいつも身内がひとりしかいない夫のために生活していただけ。くたくたで考える暇もなく、次の結婚をしただけ。
 どの夫もたしかに彼女を愛していたらしいが、残念ながら看取りのことまで考えていたとはお世辞にも言えないという。
 康隆はなんとも言えない顔で、念仏を聞き、やがて帰ろうとする中。

「あのう……市議さんの秘書さんってあなたですか?」

 声をかけられて振り返ると、今日葬儀を終えていた女性の面影のある人であった。

「姉が傘を貸せたと言っていたので。天気がこれで傘をお持ちしていたので」
「ああ……傘、お返しできませんでした」
「……姉、最初の結婚からなにもかも駄目で、遺産だけは増えていくものの、どんどん周りが冷たくなっていくのに耐えきれなくなったんですよ」
「……それは」
「自殺ではありませんよ。ただの栄養失調です。それで頭を打ち付けて亡くなったそうですよ」

 康隆は彼女に傘を返すと、彼女の妹らしき人は心底ほっとした。

「……姉は、運がありませんでしたけど、あなたと会ったときだけは幸せだったみたいですよ」

 それだけ言われた。
 康隆はなんとも言えないしこりを胸に、葬儀会場を後にする。
 結局、なにが真実はなにもわからない。
 ただなぜか顔見知りになった女性に傘を貸したと思ったら、その傘の持ち主に先立たれただけ。
 彼女を悲しむほどの仲にはならなかったが、知り合いがいなくなったという、心のどこかの擦り切れた音だけは聞こえた。

 彼女は八百屋お七ほどの奔放さもなく、相手に会いたいという欲深さもなく、流され続けた人生の中で、ただひとつ見つけた大切なものを抱えて生きていただけだった。

<了>
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