貧乏神の嫁入り

石田空

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つつじの花の咲く頃に

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 雨が降って止んで。そのたびにお風呂を沸かして桃矢さんに入らせ、担いできてくれた彼方さんと一緒に飴湯を飲ませる。
 そんな日々を繰り返していたところで、ようやっと天気が晴れた。

「わあ…………!」

 庭のつつじが、見事なまでに咲いていたのだ。艶々とした花がたっぷりと咲いて、のどかな雰囲気によく合う。

「見事に咲きましたね。このところ雨が多かったですから、今年はもうつつじを見る間もなく季節が終わると思っていましたが」

 桃矢様も感心してつつじを見つめていた。
 ようやくティータイムができる。私は女中さんたちに頼んで、テーブルと椅子を用意してもらって運びはじめた。
 女中さんたちは少しだけ慌てている。

「奥様! これくらいならば奉公人たちがしますから!」
「いえ。これは私が桃矢様と彼方さんのためにしようと思ったことですから。お忙しい奉公人の皆さんの手を煩わせる訳には!」
「それはたしかにありがたいんですけど!」

 西洋風の長テーブルに、椅子が三脚。続いてお茶を運びはじめる。
 エゲレスでは本来は紅茶を使ってティータイムをするけれど、紅茶は飲み慣れていないと喉に貼り付いた感じがするから今回はやめておいた。代わりにほうじ茶を用意した。
 お菓子は女中さんたちにずっと習って、やっと時間通りに焼くことのできたワッフルをリンゴの甘露煮と一緒に。あとそれだけだと、桃矢様だったらともかく彼方さんはお腹が空くかも知れないと気遣って、ビスケットも並べておいた。
 桃矢様は、私が用意したワッフルを見ると、少し驚いたようにこちらに振り返った。

「いろりさん……これはいったいいつに知って?」
「あはは……いろいろありまして、最近知りました」
「それは」

 桃矢様は顔を真っ赤に染めて、俯いてしまった。
 うん、桃矢様からしてみれば、かつての傲慢でわがままだった自分のことは、闇に葬ってしまいたいだろう。でも、私はその話を聞いて心底ほっとしたんだ。
 私からしてみれば、貧乏神の末裔でもなかったら、こんなところに嫁ぐことなんてまずなかった。健康以外に特に取り柄がないし、それ以外だったら貧乏神の血筋のせいで皆が皆、貧乏になってしまう。
 そんな私を娶ってくれた人は、ただただいい人なだけではなく、いろいろあった末に、いい人になろうとしている人だった。そのことにほっとしてしまうのだ。
 この人と一緒になれてよかったと。
 桃矢様は「先に席に着きますね」と言うので、私は席を引いて「どうぞ」と桃矢様を座らせた。さて、彼方さんはどうなったんだろう。
 しばらくしたら、土の匂いを漂わせて彼方さんがやってきた。

「すみません。ちょっと玄関のほうの剪定に手間取りまして」
「ああ、この時期は松の生え替わりが早いですしね」
「ええ、ええ。放っておいたらすぐにみすぼらしくなりますんで。はあ……」

 彼方さんもまた、桃矢様と同じくワッフルを凝視していた。途端に彼は照れたように笑われた。

「いやあ……こうやって自分がガキの頃頑張っていたことを並べられると、照れてしまいますね」
「あら、そうだったんですか?」
「ええ。お袋は体が弱ってましたし、桃矢様に気に入られないと死活問題でしたし」
「自分そこまで彼方にひどい態度を取っていましたか……」

 桃矢様が肩を落としてしょんぼりとするので、彼方さんは慌てた。

「いやいやいや、物のたとえと言いますか」
「いえ。言ってくれてよかったんですよ」
「そこで変に落ち込まないでくださいよぉー!」

 彼方さんが悲鳴を上げているのに、私はなんとなく嬉しくなった。

「お茶淹れますね」

 コポコポと漂う、香ばしいほうじ茶の匂い。
 そこに焼きたてのワッフルの匂いに、りんごの甘露煮の匂いが合わさる。少しワッフルをナイフで切るとサクリと表面は音を立て、中身はもっちりとした触感が伝わる。りんごの甘露煮をかけながら食べると、それは何故か郷愁を思わせた。
 私が元々住んでいたのは長屋で、気付けば親子三人で肩を寄せ合いながら生活していたから、こんな贅沢はしたことがなかったんだけれど。
 ワッフルの甘さとほうじ茶のほんのりとした渋みがよく合った。口直しに置いておいたビスケットもまた、香ばしくておいしい。
 私がつくったワッフルを、桃矢様と彼方さんも食べていた。元々桃矢様は食が細いものの、フォークやナイフの使い方は綺麗で、音を立てないのには驚いていたけれど、その仕草は彼方さんも同じだった。そういえば一緒に食事を取ったときも、あの人お膳に全く音を立てていなくて私しか音が立っていなかったな。
 こんなところまで異母兄弟なんだと思わずにはいられない。
 桃矢様は穏やかに私に伝えた。

「最初は庭でお菓子を食べ、お茶を飲むののなにがそんなに楽しいのかはわからなかったんですけど……外は明るいですね」

 離れにだって電球は入っているし、窓もあるけれど。それでも日の下には負けてしまう。そして外が明るいと、相手の顔がよく見えるのだ。
 桃矢様も彼方さんも、互いに気を遣い過ぎて、相手の顔をよく見ていなかった。
 日の下にさらされた互いの顔に、少しはほっとできたんだろうか。
 そうであってほしい。私はそう祈りながら、ほうじ茶を飲んだ。ほうじ茶の香ばしさは、今の季節によく合った。

****

 ティータイムでたくさん食べたから、私はともかく桃矢様は入るんだろうかと思っていたら「今日は久々に食欲が沸きましたから」と言うので、本邸の台所に行って、「桃矢様のいただきますが、できる限り軽いもので」と注文したら、ふたり揃ってうどんを出された。たしかにうどんだったらお腹にも優しいだろう。
 私はそれを持って帰ると、ちょうど桃矢様が庭を眺めていた。もう日は暮れているから、灯りがぽつんぽつんと灯っているだけで、庭の様子はよく見えない。

「桃矢様、夕餉いただいてきました。一緒に食べましょう」
「ええ……今日は、本当にありがとうございます」

 私がお膳を置いたところで、ペコリと桃矢様に頭を下げられた。それに私は慌てて手を振る。

「いえ……私はただ、自分がしたかったことをしただけですから。余計なお世話じゃないかと心配していたところです」
「そんなことはありません。あんなに間近で彼方の顔を見たのは久し振りでしたから」

 そうしみじみと桃矢様に言われた。そのことに、私はほっとする。余計なお世話だと言われてしまったら、どうしようと思っていたからだ。
 私は鎮目邸に嫁いでからというもの、まだ妻らしいことはなにもしていない。せいぜい桃矢様が自由に動けるようにと、お菓子や食事を食べやすくしたり、具合が悪くなったら看病したりと、それらしいことしかしていない。
 だから、ここで暮らしていくのに少しでも桃矢様と私の味方を増やしたかった。私たちふたりがきちんとした夫婦になるまでの時間稼ぎとして。
 そう思っていたことを見透かされているようで、私はお膳に視線を落とした。

「冷めてしまいますし伸びてしまいますから、早くいただきましょう」
「ええ、そうですね」

 ふたりで手を合わせて、うどんをすする。
 今日は昼間にたくさん食べたせいか、うどんもいつも食べる量より少なかったものの、ちょうどよくお腹を膨らませた。
 再び手を合わせて、「ごちそうさまでした」と食べ終えた桃矢様のお膳を回収し、それらを洗い場まで持っていく。帰ってきてから、布団の準備をしていたところで、「いろりさん」と声をかけられた。

「はい?」
「……いろいろと心配をかけて申し訳ございませんでした」

 いきなり謝られて、私は戸惑って桃矢様のつむじを見ていた。桃矢様は初めて会ったとき、痩せぎすで身がなくて大丈夫なんだろうかと思ったものの、今は少しだけ肉が付いたように思える。
 食べ過ぎはもちろん駄目だけれど、桃矢様はそもそも毎日毎日お勤めで全速力で走るほどに栄養を消費しているから、身がなくならないように気を付けて食事を摂れるようにしないと全部なくなってしまう。
 そうぼんやりとしていたら、桃矢様に声をかけられ、ふつりと思考が途切れた。

「どうして謝るんですか?」
「あなたに心労をかけてしまったことです。自分は次期当主ですが、体が弱くて当主としての勤めを果たすことができませんでした。あなたが自分に嫁ぐということは、そこで心労を与えることに他なりませんでした」
「……大丈夫ですよ。私、皆さんにはよくしてもらっています。ここの奉公人さんたちは、皆親切ですから」
「ええ……それはいろりさん。あなたが皆によくしてくれたからです。本当に、ありがとうございます……そこでなんですが」
「はい?」

 桃矢様は私の手を取ると、いきなり自分の胸に手を押し当ててきた。それに驚いて、少しだけ踵が浮いてしまう。

「……どうなさいました?」
「……今晩は一緒に寝ませんか?」

 その言葉に、私の心臓が大きく跳ね上がる気がした。そして、思わずまじまじと口にした。

「……あのう、お体大丈夫でしょうか……?」
「最後までしませんから。ただ、一緒に寝るだけです」
「……それでしたら」

 私はふたつの布団をひとつにくっつけ、掛け布団もできるだけ重なるようにして被せ直した。寝間着に着替えると、ふたりでごそごそと布団の中に潜り込む。日頃からこの人の寝る顔はずっと見ているというのに、こうして呼吸の音が聞こえるほど近くに寄って寝るのは初めてだ。

「いろりさん」

 呼ばれて隣を見ると、桃矢様の顔が近い。彼にぺたぺたと頬に触れられる。こうして顔を触られるのは初めてだ。今は春半ばな上、風呂も入ったはずなのに、桃矢様の指先は驚くほどに熱がない。
 顔に触れながら、続いて唇に触れられる。既に口付けだけは何度もしている仲だ。そもそも桃矢様との口付けは夫婦の営み関係なく、人命救助に寄るものだから、こんな布団の中で触れるのとは意味合いが違う。

「……口付けしたいんですか?」

 私が尋ねると、桃矢様が怖々と私に触れるだけの口付けを送ってきた。そして、私の耳元で囁いた。

「……今晩はこれだけしかできませんから」

 それは心底名残惜しそうな声だった。
 私もそれを聞いて、桃矢様の頬を撫でた。私の手は温かい。少しでも彼に熱を分けられるようにと、彼の輪郭をなぞる。私の頬肉よりも痩せているのは、彼があまり食べないからだけでなく、男と女の肉付きの違いだろう。
 私は桃矢様に告げた。

「お待ちしております」

 いつかは私たちも本当の夫婦になるだろうけれど、それは今じゃない。
 桃矢様が自信が付くまで待とう。そう覚悟を決めながら、その日は手を繋いで眠ることにした。
 覚悟を決めたらスコンとよく眠れる夜だった。
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