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貧乏神の成果
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ご飯は炊きたてよりも、昨日炊いたものを使ったほうが、赤茄子と一緒に煮るときにご飯が軟らかくなり過ぎない。そういえばお雑炊をつくるときだって、一度ご飯を洗ったときのほうが粘りが出ずに出汁が染み込みやすくなるのだから、そのほうが味がよくて糊みたいな食感にならないんだろう。
そして卵。これは贅沢に二個も使ってしまう。閉じるのっててっきり上から卵をかけるのかと思っていたら、片手鍋に溶き卵ふたつ分を油を敷いた上で入れ、薄焼き卵風にする。風というのは、まだ卵が固まってない間に赤茄子ご飯を入れるからだ。
ふんわりとした卵で包まれたご飯。そこにビーフシチューをかける。
「……おいしそうです。これ、なんて名前の料理ですか?」
「最近は洋食が流行っておりますから。たしか卵の料理がオムレツ……ですから、さしずめこれはオムライスなんでしょうねえ」
「オムライス! すごい!」
「奥様も召し上がりますか?」
「私の分も作ってもいいんですか?」
「どうぞ」
「それじゃあ……」
言われたとおりに作ってみるものの、たしかに手順はちょっと難しい上に、瓦斯のある場所でなかったら、こんなにとんとん拍子につくることはできない。
おまけにひと口いただいたビーフシチューの肉はほろほろに崩れ、いったいどれだけ煮込んだかがわからない。これだけ柔らかくなるまでかまどで炊くとなったら、もう一日仕事のはずだ。瓦斯ってすごい。
私のぶんはオムレツにビーフシチュー、赤茄子ご飯という形になり、桃矢様のものとは若干違うようになった。
カートを貸してもらい、それを押して持っていく。
「私、朝から洋食を食べるのは初めてです」
「あら。それでは坊ちゃまと仲良く食べてくださいまし」
「はいっ」
いい匂い。体が悪くて、食べれるものが限られている方が、卵は体にいいからという言葉で、どうにか卵を食べようと努力している。
今日はカステラも焼いたし、これに合う玄米茶も淹れよう。少しずつ起きていられる時間を増やして、少しでもお話できるようになったら。
「私のこと、ちゃんと妻として扱ってもらえるのかな……」
今の私と桃矢様の関係は、お世辞にもいいものとは言えない。
一緒の部屋で寝泊まりしている隣人であって、間違っても夫婦ではない。
今までの貧乏生活を思えば夢のような生活をしているとは思うものの、桃矢様のお体を丈夫にするために結婚したようなものなのに、彼に対してまだなにもできてないのはどうかと思う。
少しは夫婦らしいことができるようにならないと、多分貧乏神の体だけは頑丈だという能力も意味をなさないだろう。
そう思いながら、カートを押して離れへと急いで行った。
ふたりで温かい食事を食べよう。そう心の底から願いながら。
****
私が離れに戻ると、布団からようやっと桃矢様が起き上がり、私の用意した朝食を見てきょとんとしていた。
「……オムライスですね」
「ああ、桃矢様はご存じでしたか」
「自分は卵はなんとか食べられるので、皆があの手この手で卵を食べさせようとするんですよ。柔らかいご飯を卵で包んで……かかっているのは?」
「ビーフシチューだそうです。私が今持っているのと同じですね」
私はそう言いながら、自分の持ってきた器に盛られたビーフシチューを見せる。これは野菜も肉もゴロゴロ入っている。さすがに牛肉は今までの桃矢様の食べてきたものを見ていると、いきなり食べたら体がびっくりしてしまうかもしれない。
そして私のオムレツ、赤茄子ご飯を桃矢様はまじまじと見た。
「不思議ですね……バラバラに分解したら、もう別の料理に見えます」
「そういえばそうですね。女中さんたちがつくってくださったんです。召し上がりましょう」
「いただきます」
こうして私たちは朝餉をいただきはじめた。
オムレツは味付けは塩だけと簡素だけれど、卵がおいしいんだろう。教えられた通りにつくったにしては、上手くできた。桃矢様は私のつくったオムライスをゆっくりと食べて、咀嚼している。
「……これは」
「あの、どうですか?」
「……もしかして、これをつくってくださったのはいろりさんですか?」
そう言われて、ドキリと心臓が跳ね上がる。
「……どうしてそう思うんですか?」
「いえ。普段うちの女中がつくってくれる場合、卵がこんなに固くないんで」
「失敗してしまいましたか……」
見様見真似でつくったけれど、たしかに女中さんがご飯を入れるとき、私が卵を閉じようとしたときは、結構違ったから、その間に火が通って固まってしまったのかも。
せっかく桃矢様においしいものを食べて欲しいと思ったのに。私は心底がっかりしながら「申し訳ございません……」と肩を落としていたけれど。
「いえ。むしろ完全に固まっていたほうが、卵の味がはっきりしますし、中に入っているご飯との一体感も増すように思います。かかっているビーフシチューもおいしいですしね」
「それは……ありがとうございます。ビーフシチューをつくってくださったのは女中さんですけれど」
「それでも、自分のためにオムライスをつくってくださったのでしょう? ありがとうございます。卵料理からどんどんつくれるものが増えていっていますね」
そうふんわりと桃矢様が笑った途端、私の中でブワリと帯びる熱を感じた。
家族に食事を出したときには感じたことのない熱だ。
「……カステラもつくったんですよ」
「あれ? いつの間に……」
「桃矢様が眠ってらした中、女中さんたちに教わってつくっていました。今日もお勤めはございますか?」
「ええ……咲夜さんがいらっしゃったら普通に仕事はありますが」
「そのとき。そのとき一緒にいただきましょう。風水師の仕事は、毎日全速力で走っているようなもので、桃矢様が毎度毎度すぐ倒れてしまうのもそれが原因だと伺いましたから……疲れたときに、すぐなにかを食べられたら、少しは負担は減らないかなと思いました……どう、でしょうか?」
必死にしゃべっていると、自分でもなにがなんだかわからなくなる。
私の言葉をきょとんとしたまま聞いていた桃矢さんだけれど、だんだん破顔して、クスリと声を上げて笑った。
「……まさか、いろりさんにそこまでしていただけるとは思ってもいませんでした。本当にいきなりの嫁入りで、知らない場所に慣れるまでに時間がかかるだろうと思っていましたから」
「い、いえ……そこまでお気遣いなくっ!」
私は慌てる。
そう、そこまで桃矢様が思う必要はない。
持参金もなしで嫁ぐことができる婚姻なんで、鎮目邸から来たものだけだった。打算しかない婚姻を、そこまで喜ぶことはしなくていい。
私がそう思っていたら、「おや」と桃矢さんが私のほうを見た。
「ビーフシチュー気に入られてましたね。おいしかったですか?」
「え? はい……実家だとあんまり野菜が食べられなかったので、肉もそうなんですが、野菜がゴロゴロ入っているのが嬉しくって……」
「なるほど。だから慌てて食べたんですね。口元に付いてます」
「はい?」
思わず口に触れると、思いっきりべったりと付いていたことに気付き、私は顔を火照らせる。
……こんな情けない顔でいい話をしようとしていたのか。私は顔をお手拭きで拭おうとしたところで、桃矢さんの手が伸びてきた。
彼の手は私のものよりも大きい上に、食事中にも関わらず指先が驚くほど冷たい。乾いているのは、体が弱いせいで乾燥気味なんだろうか。その指が躊躇いなく私の口元を拭い落とすと、ビーフシチューで濡れた指をレロリと舐めた。彼の舌先は白くて不健康だ。
「……ええ、ビーフシチューおいしいですね。またお願いしますとお伝えねがえますか?」
「は、はい……」
ただの同室に住む隣人みたいなやり取りしかしていなかったところで、いきなり夫婦とは違うなにかをするのはやめてほしい。
おいしかったはずのビーフシチューとオムレツの味が飛んでしまったのは、ここだけの話だ。
****
その日も咲夜さんがやってきたので、私は咲夜さんにお茶を出すと、咲夜さんは意外そうな顔をして見ていた。
「奥様がわざわざ出迎えてくれるとは思わなかったのですが」
「いえ……先日は留守してしまって申し訳ございません。まだ風水師の妻という肩書きを理解しておらず……」
「まあ……鎮目家からしてみても、切羽詰まった問題でしょうからね。当主が跡継ぎを持てないというのは」
それに私は思わず視線を彷徨わせる。夫婦らしいことは、本当になにひとつしてないからだ。咲夜さんは一瞬怪訝な顔をしたものの、桃矢様はにこにこと笑って話を変える。
「それで、今日の予定は?」
「はい……このところ帝都は大規模工事が多いせいで、気の淀みが多く、現場に派遣している風水師だけだと淀みを鎮めるのが追いついておりません」
「帝都は人が多いですからね。景観がいきなり変わって気が淀むのも仕方がありません。わかりました。こちらに淀みを流してください。場を鎮めますから」
隣で話を聞いていた私はハラハラした。
たしかに帝都は開発が進み、どこでもずっと工事を続けている。いきなり見慣れた景色が変わってしまったら混乱する人だっているだろうし、中には寺社仏閣の移動のせいで気が乱れることだってあるだろう。
でも……そんな気の淀みをいきなり桃矢様が引き受けて大丈夫なんだろうか。
私がハラハラしている中、桃矢様がニコリと笑う。
「あとで甘味をいただきましょう」
「あっ……はい!」
私は慌てて昨日つくったカステラを台所で切り分けると、包んで持っていく。そもそもが桃矢様が倒れたとき用につくったものなんだから、今持っていかないといけない。
咲夜さんが「それではよろしくお願いします」と言い置いてから立ち去ると、私は桃矢様と一緒に庭に出て行く。
私が包みを持って桃矢さんと一緒に庭に出ると、ふたりで歩いていると彼方さんがこちらが歩いてきているのを笑った。
「おや、今日は夫婦で参りましたか」
「こんにちは。今日はふたりで伺いました」
「そりゃまあ、どうも」
彼方さんは少し肩を竦めると、咲夜さんは会釈をしてからしずしずと前に出た。
昨日と同じように、静かに扇子を広げて舞いはじめたけれど、気のせいか昨日よりも体が重い。さっきまで比較的元気だと思っていたから、あからさまに重い足取りに、見ているこっちも心配になる。
傍で見ている彼方さんは顔をしかめた。
「ああ……咲夜さん、相当桃矢様に無理なことおっしゃったでしょう」
「わかるんですか?」
「ええ。ちょっと多いくらいの淀みだったら、桃矢様は簡単に鎮めますが……これはちょっと多いなんて量じゃない。いったいどこの淀みを……」
「……帝都の開発工事のものと、おっしゃってましたけど……」
「これ場所どこなんですかね。この淀みは……」
彼方さんがなにかを言おうとした途端、場の空気が一瞬重くなったものの、それもすぐにかき消えた。おそらくは、鎮目邸に招き入れた淀みを、全て桃矢様が鎮め終えたのだ。その代わり、グラリと桃矢様が体を崩した。
私は慌てて走り寄ると、桃矢様を一旦寝かせて、私の膝の上に頭を乗せる。呼吸がいつもよりも荒く、私はただただ彼の頭を撫でていた。
「お疲れ様です、お疲れ様です。お体は……」
「……たしかに疲れてはいるんですが……不思議ですね」
「はい?」
昨日倒れたときは、もっと声が枯れて掠れていたように思うが。不思議と今の桃矢様の声はそこまで枯れてはおらず、落ち着いているように聞こえた。
少し汗をかきながらも、桃矢様はいつものようにほがらかに笑った。
「少しだけ……本当に少しだけですが、息をするのが楽なんです」
「我慢なさってませんか?」
「いえ。本当に。ねえ、彼方?」
同意を求められた彼方さんは、頭を引っ掻いた。
「奥様、なにかやりました? 疲れてはいますが、たしかにいつもよりも余裕あるんですよ」
「そ、そうだったんですか? 私がやったのなんて、せいぜい桃矢様に食事をつくって持っていったくらいで」
「たしかに、それだけじゃなにもありませんね」
それだったら、昨日ポッディングつくったときも、もっと楽になっていたはずだ。昨日は意識失うほどくたびれて倒れてしまったし、彼方さんに運んでもらわなかったら離れに寝かせることもできなかった。
あとは……せいぜい私の口元に付いたビーフシチューを拭われたくらいで……。
……そこで少しだけ気付いた。私はそもそも、貧乏神の貧乏になる代わりに体だけは頑丈になる体質目当てで婚姻を打診されたんだった。
まさかと思うけれど。
「……桃矢様。あとでお叱りを受けるんだったらいくらでも受けます」
「はい?」
桃矢様に有無を言わさず、そのまま彼の唇を塞いだ。
そして卵。これは贅沢に二個も使ってしまう。閉じるのっててっきり上から卵をかけるのかと思っていたら、片手鍋に溶き卵ふたつ分を油を敷いた上で入れ、薄焼き卵風にする。風というのは、まだ卵が固まってない間に赤茄子ご飯を入れるからだ。
ふんわりとした卵で包まれたご飯。そこにビーフシチューをかける。
「……おいしそうです。これ、なんて名前の料理ですか?」
「最近は洋食が流行っておりますから。たしか卵の料理がオムレツ……ですから、さしずめこれはオムライスなんでしょうねえ」
「オムライス! すごい!」
「奥様も召し上がりますか?」
「私の分も作ってもいいんですか?」
「どうぞ」
「それじゃあ……」
言われたとおりに作ってみるものの、たしかに手順はちょっと難しい上に、瓦斯のある場所でなかったら、こんなにとんとん拍子につくることはできない。
おまけにひと口いただいたビーフシチューの肉はほろほろに崩れ、いったいどれだけ煮込んだかがわからない。これだけ柔らかくなるまでかまどで炊くとなったら、もう一日仕事のはずだ。瓦斯ってすごい。
私のぶんはオムレツにビーフシチュー、赤茄子ご飯という形になり、桃矢様のものとは若干違うようになった。
カートを貸してもらい、それを押して持っていく。
「私、朝から洋食を食べるのは初めてです」
「あら。それでは坊ちゃまと仲良く食べてくださいまし」
「はいっ」
いい匂い。体が悪くて、食べれるものが限られている方が、卵は体にいいからという言葉で、どうにか卵を食べようと努力している。
今日はカステラも焼いたし、これに合う玄米茶も淹れよう。少しずつ起きていられる時間を増やして、少しでもお話できるようになったら。
「私のこと、ちゃんと妻として扱ってもらえるのかな……」
今の私と桃矢様の関係は、お世辞にもいいものとは言えない。
一緒の部屋で寝泊まりしている隣人であって、間違っても夫婦ではない。
今までの貧乏生活を思えば夢のような生活をしているとは思うものの、桃矢様のお体を丈夫にするために結婚したようなものなのに、彼に対してまだなにもできてないのはどうかと思う。
少しは夫婦らしいことができるようにならないと、多分貧乏神の体だけは頑丈だという能力も意味をなさないだろう。
そう思いながら、カートを押して離れへと急いで行った。
ふたりで温かい食事を食べよう。そう心の底から願いながら。
****
私が離れに戻ると、布団からようやっと桃矢様が起き上がり、私の用意した朝食を見てきょとんとしていた。
「……オムライスですね」
「ああ、桃矢様はご存じでしたか」
「自分は卵はなんとか食べられるので、皆があの手この手で卵を食べさせようとするんですよ。柔らかいご飯を卵で包んで……かかっているのは?」
「ビーフシチューだそうです。私が今持っているのと同じですね」
私はそう言いながら、自分の持ってきた器に盛られたビーフシチューを見せる。これは野菜も肉もゴロゴロ入っている。さすがに牛肉は今までの桃矢様の食べてきたものを見ていると、いきなり食べたら体がびっくりしてしまうかもしれない。
そして私のオムレツ、赤茄子ご飯を桃矢様はまじまじと見た。
「不思議ですね……バラバラに分解したら、もう別の料理に見えます」
「そういえばそうですね。女中さんたちがつくってくださったんです。召し上がりましょう」
「いただきます」
こうして私たちは朝餉をいただきはじめた。
オムレツは味付けは塩だけと簡素だけれど、卵がおいしいんだろう。教えられた通りにつくったにしては、上手くできた。桃矢様は私のつくったオムライスをゆっくりと食べて、咀嚼している。
「……これは」
「あの、どうですか?」
「……もしかして、これをつくってくださったのはいろりさんですか?」
そう言われて、ドキリと心臓が跳ね上がる。
「……どうしてそう思うんですか?」
「いえ。普段うちの女中がつくってくれる場合、卵がこんなに固くないんで」
「失敗してしまいましたか……」
見様見真似でつくったけれど、たしかに女中さんがご飯を入れるとき、私が卵を閉じようとしたときは、結構違ったから、その間に火が通って固まってしまったのかも。
せっかく桃矢様においしいものを食べて欲しいと思ったのに。私は心底がっかりしながら「申し訳ございません……」と肩を落としていたけれど。
「いえ。むしろ完全に固まっていたほうが、卵の味がはっきりしますし、中に入っているご飯との一体感も増すように思います。かかっているビーフシチューもおいしいですしね」
「それは……ありがとうございます。ビーフシチューをつくってくださったのは女中さんですけれど」
「それでも、自分のためにオムライスをつくってくださったのでしょう? ありがとうございます。卵料理からどんどんつくれるものが増えていっていますね」
そうふんわりと桃矢様が笑った途端、私の中でブワリと帯びる熱を感じた。
家族に食事を出したときには感じたことのない熱だ。
「……カステラもつくったんですよ」
「あれ? いつの間に……」
「桃矢様が眠ってらした中、女中さんたちに教わってつくっていました。今日もお勤めはございますか?」
「ええ……咲夜さんがいらっしゃったら普通に仕事はありますが」
「そのとき。そのとき一緒にいただきましょう。風水師の仕事は、毎日全速力で走っているようなもので、桃矢様が毎度毎度すぐ倒れてしまうのもそれが原因だと伺いましたから……疲れたときに、すぐなにかを食べられたら、少しは負担は減らないかなと思いました……どう、でしょうか?」
必死にしゃべっていると、自分でもなにがなんだかわからなくなる。
私の言葉をきょとんとしたまま聞いていた桃矢さんだけれど、だんだん破顔して、クスリと声を上げて笑った。
「……まさか、いろりさんにそこまでしていただけるとは思ってもいませんでした。本当にいきなりの嫁入りで、知らない場所に慣れるまでに時間がかかるだろうと思っていましたから」
「い、いえ……そこまでお気遣いなくっ!」
私は慌てる。
そう、そこまで桃矢様が思う必要はない。
持参金もなしで嫁ぐことができる婚姻なんで、鎮目邸から来たものだけだった。打算しかない婚姻を、そこまで喜ぶことはしなくていい。
私がそう思っていたら、「おや」と桃矢さんが私のほうを見た。
「ビーフシチュー気に入られてましたね。おいしかったですか?」
「え? はい……実家だとあんまり野菜が食べられなかったので、肉もそうなんですが、野菜がゴロゴロ入っているのが嬉しくって……」
「なるほど。だから慌てて食べたんですね。口元に付いてます」
「はい?」
思わず口に触れると、思いっきりべったりと付いていたことに気付き、私は顔を火照らせる。
……こんな情けない顔でいい話をしようとしていたのか。私は顔をお手拭きで拭おうとしたところで、桃矢さんの手が伸びてきた。
彼の手は私のものよりも大きい上に、食事中にも関わらず指先が驚くほど冷たい。乾いているのは、体が弱いせいで乾燥気味なんだろうか。その指が躊躇いなく私の口元を拭い落とすと、ビーフシチューで濡れた指をレロリと舐めた。彼の舌先は白くて不健康だ。
「……ええ、ビーフシチューおいしいですね。またお願いしますとお伝えねがえますか?」
「は、はい……」
ただの同室に住む隣人みたいなやり取りしかしていなかったところで、いきなり夫婦とは違うなにかをするのはやめてほしい。
おいしかったはずのビーフシチューとオムレツの味が飛んでしまったのは、ここだけの話だ。
****
その日も咲夜さんがやってきたので、私は咲夜さんにお茶を出すと、咲夜さんは意外そうな顔をして見ていた。
「奥様がわざわざ出迎えてくれるとは思わなかったのですが」
「いえ……先日は留守してしまって申し訳ございません。まだ風水師の妻という肩書きを理解しておらず……」
「まあ……鎮目家からしてみても、切羽詰まった問題でしょうからね。当主が跡継ぎを持てないというのは」
それに私は思わず視線を彷徨わせる。夫婦らしいことは、本当になにひとつしてないからだ。咲夜さんは一瞬怪訝な顔をしたものの、桃矢様はにこにこと笑って話を変える。
「それで、今日の予定は?」
「はい……このところ帝都は大規模工事が多いせいで、気の淀みが多く、現場に派遣している風水師だけだと淀みを鎮めるのが追いついておりません」
「帝都は人が多いですからね。景観がいきなり変わって気が淀むのも仕方がありません。わかりました。こちらに淀みを流してください。場を鎮めますから」
隣で話を聞いていた私はハラハラした。
たしかに帝都は開発が進み、どこでもずっと工事を続けている。いきなり見慣れた景色が変わってしまったら混乱する人だっているだろうし、中には寺社仏閣の移動のせいで気が乱れることだってあるだろう。
でも……そんな気の淀みをいきなり桃矢様が引き受けて大丈夫なんだろうか。
私がハラハラしている中、桃矢様がニコリと笑う。
「あとで甘味をいただきましょう」
「あっ……はい!」
私は慌てて昨日つくったカステラを台所で切り分けると、包んで持っていく。そもそもが桃矢様が倒れたとき用につくったものなんだから、今持っていかないといけない。
咲夜さんが「それではよろしくお願いします」と言い置いてから立ち去ると、私は桃矢様と一緒に庭に出て行く。
私が包みを持って桃矢さんと一緒に庭に出ると、ふたりで歩いていると彼方さんがこちらが歩いてきているのを笑った。
「おや、今日は夫婦で参りましたか」
「こんにちは。今日はふたりで伺いました」
「そりゃまあ、どうも」
彼方さんは少し肩を竦めると、咲夜さんは会釈をしてからしずしずと前に出た。
昨日と同じように、静かに扇子を広げて舞いはじめたけれど、気のせいか昨日よりも体が重い。さっきまで比較的元気だと思っていたから、あからさまに重い足取りに、見ているこっちも心配になる。
傍で見ている彼方さんは顔をしかめた。
「ああ……咲夜さん、相当桃矢様に無理なことおっしゃったでしょう」
「わかるんですか?」
「ええ。ちょっと多いくらいの淀みだったら、桃矢様は簡単に鎮めますが……これはちょっと多いなんて量じゃない。いったいどこの淀みを……」
「……帝都の開発工事のものと、おっしゃってましたけど……」
「これ場所どこなんですかね。この淀みは……」
彼方さんがなにかを言おうとした途端、場の空気が一瞬重くなったものの、それもすぐにかき消えた。おそらくは、鎮目邸に招き入れた淀みを、全て桃矢様が鎮め終えたのだ。その代わり、グラリと桃矢様が体を崩した。
私は慌てて走り寄ると、桃矢様を一旦寝かせて、私の膝の上に頭を乗せる。呼吸がいつもよりも荒く、私はただただ彼の頭を撫でていた。
「お疲れ様です、お疲れ様です。お体は……」
「……たしかに疲れてはいるんですが……不思議ですね」
「はい?」
昨日倒れたときは、もっと声が枯れて掠れていたように思うが。不思議と今の桃矢様の声はそこまで枯れてはおらず、落ち着いているように聞こえた。
少し汗をかきながらも、桃矢様はいつものようにほがらかに笑った。
「少しだけ……本当に少しだけですが、息をするのが楽なんです」
「我慢なさってませんか?」
「いえ。本当に。ねえ、彼方?」
同意を求められた彼方さんは、頭を引っ掻いた。
「奥様、なにかやりました? 疲れてはいますが、たしかにいつもよりも余裕あるんですよ」
「そ、そうだったんですか? 私がやったのなんて、せいぜい桃矢様に食事をつくって持っていったくらいで」
「たしかに、それだけじゃなにもありませんね」
それだったら、昨日ポッディングつくったときも、もっと楽になっていたはずだ。昨日は意識失うほどくたびれて倒れてしまったし、彼方さんに運んでもらわなかったら離れに寝かせることもできなかった。
あとは……せいぜい私の口元に付いたビーフシチューを拭われたくらいで……。
……そこで少しだけ気付いた。私はそもそも、貧乏神の貧乏になる代わりに体だけは頑丈になる体質目当てで婚姻を打診されたんだった。
まさかと思うけれど。
「……桃矢様。あとでお叱りを受けるんだったらいくらでも受けます」
「はい?」
桃矢様に有無を言わさず、そのまま彼の唇を塞いだ。
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