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幸福湯の女中さん
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温泉の匂いがする。温泉というと硫黄がすぐに思い浮かぶけど、なんだかサラリとした匂い。現世と幽世の間の場所だと、また勝手が違うのかもしれない。
あおじが羽を叩いて皆に「おもてなしですよ!」と宣伝していたところで、パタパタと草履が地面を擦る音が響いてきた。
「おかえりなさいませ、店主様! そしてようこそおこしくださいました!」
その姿を見て、私は「あれ?」と目を瞬かせた。
すずめばかりで温泉宿をやっているのかと思いきや、そこに立っていたのは赤い着物に前掛けを付けた女中さんだった。
髪は三つ編みお下げを丸く輪っかにしてふたつぶら下げている。明らかにすずめではない。
「彼女は?」
「ああ! うちのじょちゅうをしております、つるこさんです」
「はぁい、機織鶴子と申します! 今回は店主様の恩人様のおもてなしということで、恩人様付きの女中になりますので、どうぞよろしくお願いしますね! それでは、お荷物お持ちして、お部屋にご案内しますね」
「あ、はい。どうぞよろしくお願いします」
彼女は細身ながらも、軽々と私のカートを持ち上げると、玄関まで案内してくれた。玄関で靴を脱ぐと、履き物をくれた。それに履き替えて、幸福湯に入っていく。
鶴子さんの後ろをついていきながら、私は幸福湯の様子を眺めていた。
どうも中を入ってすぐは共通スペースらしく、浴衣姿の人たちが寛いでいる。従業員も玄関を掃除していたすずめたちだけでなく、鶴子さんみたいなひとたちも着物だったりはっぴを羽織っていたりして、パタパタと歩いている。
客は私だけでなく、もっといろいろといるようだった。
どう見ても着物の合わせ目が左右逆な三角巾をしたひとに、どう見ても首が長いひと。何故か火の玉がぽわぽわと浮かんでいて、シュールな光景だった。
幽霊に、ろくろっ首に、狐の妖怪……多分火の玉に見えるあれは、狐火だろう。
「あらあら、恩人様はあまり驚かないんですねえ? 人間のお客様は、幸福湯の様子を見た途端に驚いたり腰を抜かしたりしてしまうんですけれど」
「いやねえ。私も神経衰弱気味だから、ちょっとやそっとじゃ驚かなくなっているというのがひとつ。私も売文業をしているもんだから、資料で見たことあるなと思ったものには、なかなか驚かなくなるなというのがひとつ、かな」
「売文業ですか。ご職業は記者かなにかで?」
「小説家です。今は開店休業状態ですけれどね。だからあおじの誘いに乗ってみることにしたんですよ。私もネタがなくって困ってましたから」
「まあまあまあ」
「ところで、私もあおじを助けたのは偶然だし、恩人様だといちいち長ったらしいんで、呼び方変えませんか、鶴子さん」
「あらまあ。そうですねえ……店主様、よろしいですか?」
あおじは可愛い姿をしているけれど、どうも皆から尊敬されているようだった。このすずめ、私がわからないだけで、すずめはすずめでも妖怪大すずめだったりするんだろうか。
あおじは鶴子さんの台詞に「そうですねえ」と答えた。
「それでは、おなまえよろしいですか?」
「はい……ええっと、ひとつだけ質問。ここは現世と幽世だけれど、私の真名は教えて大丈夫?」
「いまのじだい、うつしよではあざなをつけるぶんかはないでしょう? こちらもしんめいをつかってわるさをすることはございませんよ」
「そっか」
小説家としての性分なのだ。どうにも資料でファンタジーのことばかり触れているせいで、名前を教えるというのには抵抗がある。ネットに本名流した途端に大惨事になってしまうようなことが、ファンタジーな文化圏だとたびたびあるらしいから。
あおじもそういう質問には慣れっこなのか、こちらの質問をおかしいとも思ってないようなのがありがたかった。
私は「ありがとう」と言ってからあおじと鶴子さんに教える。
「土岐奥菜だから、土岐でも奥菜でも好きなように」
「そうですか、では奥菜様で!」
「……名前ですかぁ」
「いえ、奥菜は翁と読みが同じですから、だぁれも悪さができなくなりますよお」
そう鶴子さんが教えてくれた。
……なるほど。『舌切り雀』だって、すずめを可愛がってくれたのは優しいおじいさんだった。皆おじいさんが好きだから、おじいさんには悪さをしないってことなのかも。
私は優しいおじいさんとは程遠い開店休業中な小説家だけれど。
こうして私は、皆から「奥菜様」ということで通されることになった。
****
長い廊下を通り、「こちらです!」と鶴子さんに案内されたのは、ひとりで使うには少々……どころかかなり広い部屋だった。
「わあ……」
「窓を開けてくださいませ。ここから庭が眺められますよ」
そう言いながら鶴子さんが窓の襖を開ける。その庭の光景に、私は目を奪われた。
まだ季節から外れているというのに、赤々とした紅葉に、白い桜が咲いている。
「あれ、紅葉と桜?」
季節が真逆なのに、私が戸惑っていると、「ちゅちゅん」とあおじが教えてくれた。
「こちらのさくらはあきざきなのですよ。そしてにわのもみじは、このきせつにあかくなるよう、じゅうぎょういんのみなみなさまがたんせいこめてかんりをしております」
「なるほど……だとしたら、秋に一番綺麗に見える部屋がここって訳なんだ……」
「はい。また、うちぶろでもおんせんをたのしめますが、おおきなろてんぶろはいりぐちからはいってすぐのばしょでおたのしみください」
「ちなみに食事の時間は朝は八時、夜は七時になります。ちなみに奥菜様は昼食は部屋で召し上がりますか? 宿内の食堂は奥菜様のお名前を出してくだされば、無料で召し上がれますよ」
「うーん」
家に篭もりっきりなのが原因で、企画が全然通らなくなったんだもんな。取材がてら、幸福湯の中だけでも探索してしまいたい。写真は駄目とはあおじが言っていたけれど、メモ書きなら大丈夫だろう。
「昼食は食堂でいただきます。朝と夜はそのままでお願いします」
「はい、かしこまりましたぁ。ちなみに浴衣は着付けられますか?」
「一応は」
「ならそちらに置いておきますからね。おもてなしのお茶菓子はそちら。湯飲みに茶瓶はそちらにございますから、どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ」
私の肩に乗っていたあおじはピョーンと鶴子さんの肩に移ると、最後に私のほうにペコリと頭を下げた。
「どうぞおきなさま。ひとつきかんとなりますが、どうぞたのしんでくださいませ。すずめはおんをわすれませんから」
「うん。ありがとう、あおじ」
こうして賑やかだったふたりが去って行き、ひとり静かな部屋に残される。
ひとまず窓を閉めて浴衣に袖を通してみる。糊が利いていてパリッとした浴衣に、帯を締めるとなかなかいっぱしの温泉客みたいになる。
「さて、まずは取材と。その前に」
ポットは電気は通ってないみたいだけど、出てくるお湯は熱々だ。魔法瓶……なのかもしれない。茶瓶に備え付きのお茶っ葉を入れ、お湯を注ぐ。
そして置いてあるお茶菓子。すずめの絵の描かれた饅頭だった。
温泉宿と言ったら、まずは備え付けのお茶を飲み、饅頭をいただく。あんこは程よくしょっぱい粒あんで、煎茶との相性もばっちりだ。
窓で紅葉と桜を愛でながら、しばしお茶と饅頭を楽しむのだった。
あおじが羽を叩いて皆に「おもてなしですよ!」と宣伝していたところで、パタパタと草履が地面を擦る音が響いてきた。
「おかえりなさいませ、店主様! そしてようこそおこしくださいました!」
その姿を見て、私は「あれ?」と目を瞬かせた。
すずめばかりで温泉宿をやっているのかと思いきや、そこに立っていたのは赤い着物に前掛けを付けた女中さんだった。
髪は三つ編みお下げを丸く輪っかにしてふたつぶら下げている。明らかにすずめではない。
「彼女は?」
「ああ! うちのじょちゅうをしております、つるこさんです」
「はぁい、機織鶴子と申します! 今回は店主様の恩人様のおもてなしということで、恩人様付きの女中になりますので、どうぞよろしくお願いしますね! それでは、お荷物お持ちして、お部屋にご案内しますね」
「あ、はい。どうぞよろしくお願いします」
彼女は細身ながらも、軽々と私のカートを持ち上げると、玄関まで案内してくれた。玄関で靴を脱ぐと、履き物をくれた。それに履き替えて、幸福湯に入っていく。
鶴子さんの後ろをついていきながら、私は幸福湯の様子を眺めていた。
どうも中を入ってすぐは共通スペースらしく、浴衣姿の人たちが寛いでいる。従業員も玄関を掃除していたすずめたちだけでなく、鶴子さんみたいなひとたちも着物だったりはっぴを羽織っていたりして、パタパタと歩いている。
客は私だけでなく、もっといろいろといるようだった。
どう見ても着物の合わせ目が左右逆な三角巾をしたひとに、どう見ても首が長いひと。何故か火の玉がぽわぽわと浮かんでいて、シュールな光景だった。
幽霊に、ろくろっ首に、狐の妖怪……多分火の玉に見えるあれは、狐火だろう。
「あらあら、恩人様はあまり驚かないんですねえ? 人間のお客様は、幸福湯の様子を見た途端に驚いたり腰を抜かしたりしてしまうんですけれど」
「いやねえ。私も神経衰弱気味だから、ちょっとやそっとじゃ驚かなくなっているというのがひとつ。私も売文業をしているもんだから、資料で見たことあるなと思ったものには、なかなか驚かなくなるなというのがひとつ、かな」
「売文業ですか。ご職業は記者かなにかで?」
「小説家です。今は開店休業状態ですけれどね。だからあおじの誘いに乗ってみることにしたんですよ。私もネタがなくって困ってましたから」
「まあまあまあ」
「ところで、私もあおじを助けたのは偶然だし、恩人様だといちいち長ったらしいんで、呼び方変えませんか、鶴子さん」
「あらまあ。そうですねえ……店主様、よろしいですか?」
あおじは可愛い姿をしているけれど、どうも皆から尊敬されているようだった。このすずめ、私がわからないだけで、すずめはすずめでも妖怪大すずめだったりするんだろうか。
あおじは鶴子さんの台詞に「そうですねえ」と答えた。
「それでは、おなまえよろしいですか?」
「はい……ええっと、ひとつだけ質問。ここは現世と幽世だけれど、私の真名は教えて大丈夫?」
「いまのじだい、うつしよではあざなをつけるぶんかはないでしょう? こちらもしんめいをつかってわるさをすることはございませんよ」
「そっか」
小説家としての性分なのだ。どうにも資料でファンタジーのことばかり触れているせいで、名前を教えるというのには抵抗がある。ネットに本名流した途端に大惨事になってしまうようなことが、ファンタジーな文化圏だとたびたびあるらしいから。
あおじもそういう質問には慣れっこなのか、こちらの質問をおかしいとも思ってないようなのがありがたかった。
私は「ありがとう」と言ってからあおじと鶴子さんに教える。
「土岐奥菜だから、土岐でも奥菜でも好きなように」
「そうですか、では奥菜様で!」
「……名前ですかぁ」
「いえ、奥菜は翁と読みが同じですから、だぁれも悪さができなくなりますよお」
そう鶴子さんが教えてくれた。
……なるほど。『舌切り雀』だって、すずめを可愛がってくれたのは優しいおじいさんだった。皆おじいさんが好きだから、おじいさんには悪さをしないってことなのかも。
私は優しいおじいさんとは程遠い開店休業中な小説家だけれど。
こうして私は、皆から「奥菜様」ということで通されることになった。
****
長い廊下を通り、「こちらです!」と鶴子さんに案内されたのは、ひとりで使うには少々……どころかかなり広い部屋だった。
「わあ……」
「窓を開けてくださいませ。ここから庭が眺められますよ」
そう言いながら鶴子さんが窓の襖を開ける。その庭の光景に、私は目を奪われた。
まだ季節から外れているというのに、赤々とした紅葉に、白い桜が咲いている。
「あれ、紅葉と桜?」
季節が真逆なのに、私が戸惑っていると、「ちゅちゅん」とあおじが教えてくれた。
「こちらのさくらはあきざきなのですよ。そしてにわのもみじは、このきせつにあかくなるよう、じゅうぎょういんのみなみなさまがたんせいこめてかんりをしております」
「なるほど……だとしたら、秋に一番綺麗に見える部屋がここって訳なんだ……」
「はい。また、うちぶろでもおんせんをたのしめますが、おおきなろてんぶろはいりぐちからはいってすぐのばしょでおたのしみください」
「ちなみに食事の時間は朝は八時、夜は七時になります。ちなみに奥菜様は昼食は部屋で召し上がりますか? 宿内の食堂は奥菜様のお名前を出してくだされば、無料で召し上がれますよ」
「うーん」
家に篭もりっきりなのが原因で、企画が全然通らなくなったんだもんな。取材がてら、幸福湯の中だけでも探索してしまいたい。写真は駄目とはあおじが言っていたけれど、メモ書きなら大丈夫だろう。
「昼食は食堂でいただきます。朝と夜はそのままでお願いします」
「はい、かしこまりましたぁ。ちなみに浴衣は着付けられますか?」
「一応は」
「ならそちらに置いておきますからね。おもてなしのお茶菓子はそちら。湯飲みに茶瓶はそちらにございますから、どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ」
私の肩に乗っていたあおじはピョーンと鶴子さんの肩に移ると、最後に私のほうにペコリと頭を下げた。
「どうぞおきなさま。ひとつきかんとなりますが、どうぞたのしんでくださいませ。すずめはおんをわすれませんから」
「うん。ありがとう、あおじ」
こうして賑やかだったふたりが去って行き、ひとり静かな部屋に残される。
ひとまず窓を閉めて浴衣に袖を通してみる。糊が利いていてパリッとした浴衣に、帯を締めるとなかなかいっぱしの温泉客みたいになる。
「さて、まずは取材と。その前に」
ポットは電気は通ってないみたいだけど、出てくるお湯は熱々だ。魔法瓶……なのかもしれない。茶瓶に備え付きのお茶っ葉を入れ、お湯を注ぐ。
そして置いてあるお茶菓子。すずめの絵の描かれた饅頭だった。
温泉宿と言ったら、まずは備え付けのお茶を飲み、饅頭をいただく。あんこは程よくしょっぱい粒あんで、煎茶との相性もばっちりだ。
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