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馨が部屋に篭もっている中、木葉は一生懸命甘いものをつくりはじめた。
卵を一生懸命に混ぜる。本当に一生懸命に混ぜる。卵は一生懸命に混ぜるとふわふわとした黄色の泡になり、そこに砂糖とざるでふるった小麦粉を合わせ、今度は菜箸から木べらに持ち替えてさっくりと混ぜる。
それを鉄板に流し入れて瓦斯火で焼くのだ。だんだんと、甘くて香ばしい匂いが立ちこめてきた。
その匂いがどこからか漏れてきたのだろうか。馨が珍しく仕事部屋から出てきた。
「これはいったいなんだい?」
「ああ、馨さん。お仕事はどうですか? 休憩時間に食べていただこうとお菓子をつくっていたんですよ」
「お菓子? なにやら甘くて懐かしい匂いがするが……」
「かすてらですね」
「かすてら? 店で買わないと食べられないものだと思っていたけれど」
「うふふ、腕力が必要ですけれど、家でもつくろうと思えばつくれるんですよ。さあ、もうそろそろですかね」
そう言って瓦斯台から鉄板を下ろし、皿の上にとんとんと叩いて出した。
するとふかふかとした綺麗な黄色いかすてらが顔を出したのだ。それに馨は目を瞬かせた。
「これは……たしかにかすてらだね……」
「どうなさいますか? 本当はもうちょっと冷ましてから出す予定だったんですけれど」
「いや、このままいただこう。お茶もいただけるかね?」
「はい」
ほうじ茶を用意して淹れると、かすてらをひとつ切り分けて馨に差し出す。
馨はそれをシャクッシャクッと食べはじめた。それを木葉はハラハラとしながら守る。
「あのう……どうですか?」
「……美味いものだね、かすてらは」
それに心底ほっとした顔をした。馨は出されたかすてらを食べ終えたあと、ほうじ茶の湯飲みを手に取った。
「少しばかり昔話をしていいかい?」
「はい。どうぞ」
「前にもこれに似たものを食べに通ったことがあるんだよ。かすてらにアンコ挟んだ、シベリアだね」
「はい」
「その喫茶店で、シベリアと女給目当てに通っていたんだよ。通いはじめた頃は貧乏が過ぎて、珈琲一杯頼むので精一杯だったけれど、原稿料を少しずつもらえるようになってから、一品一品頼めるようになってね。そこでようやく女給と話ができるようになったんだ……嬉しかった」
その言葉を木葉は切なく聞いていた。
豆腐小僧の言葉を信じるのならば、そのあと……。
馨は吐き出すように言い捨てた。
「……彼女に告白しようとしたのはそれからだよ。文をしたためてそれを送った……彼女の職場に迷惑がかかるからと、それが精一杯さ……そしたら、次の日喫茶店に行ったら、彼女は神隠しに遭ったというのさ」
「……」
「あやかしは勝手だよ。人が少しでも向けた情を、必ずしも返してくれると信じて疑ってないのだからね。人間同士でさえ、嫌われたくない、相手を困らせたくないという葛藤が働くというのに、身勝手にも程があるんだよ」
その言葉に、とうとうたまらず木葉は涙をぽろりと溢した。
木葉はそれにうろたえる。
「……どうしたのかね?」
「わたしには、その女給さんがどんな人だったのかはわかりませんし、女給さんを連れ去ってしまったあやかしがどんなひとなのかはわかりません……ただ、あやかしは一途が過ぎてしまうんでしょうねと、そう思いました」
「……君は、あやかしの味方をするのかね」
馨の言葉は冷ややかだ。その冷ややかさに木葉はブルブルと震えるが、必死で声を張る。
「あやかしも、きっと人間に好きになってもらいたいんです。でも、間違えちゃうんです。あやかしは恋をしたら、それを伝えるのが正しいことだって信じてしまうから。間違えたら、ちゃんとそれは間違っていると教えないと駄目です。そのあやかしを叱る人が、誰もいなかったんでしょうね……だから女給さんも、馨さんも。そのさらってしまったあやかしも、可哀想なんだと思います……」
鬼の情は深いのだから、もしかしたら女給は無事かもしれないが。なにも知らない女給も馨も、あやかしの考え方が理解できないから、身勝手にしか見えないのだ。
人間とあやかしの間には、深くて長い溝がある。それでも。
互いに話し合って埋めていくしかない。
馨はしばらく黙って木葉を眺めていたが、やがて嘆息した。
「……君に八つ当たったとしても、もう終わってしまった話だよ。一緒に残りも食べてしまおう……すまなかったね」
「い、いえ……!」
ふたりで、かすてらを食べてほうじ茶を飲む。
木葉は大きな口でモシャモシャと食べていく馨を見ながら、小さくパクンパクンと食べていく。
(……好かれなくってもかまわないわ。でも、嫌われてしまったら駄目ね)
彼の中にはまだ、焦がれていた女給がいる。
きっと名前すら名乗り合ってない、淡い関係だったのだろう。彼女のことを今すぐ忘れてなんて、長いこと馨に片思いしていた木葉には残酷なことだとよくわかる。
だから今は、長い片思いの延長を楽しむことにしたのだ。
<了>
卵を一生懸命に混ぜる。本当に一生懸命に混ぜる。卵は一生懸命に混ぜるとふわふわとした黄色の泡になり、そこに砂糖とざるでふるった小麦粉を合わせ、今度は菜箸から木べらに持ち替えてさっくりと混ぜる。
それを鉄板に流し入れて瓦斯火で焼くのだ。だんだんと、甘くて香ばしい匂いが立ちこめてきた。
その匂いがどこからか漏れてきたのだろうか。馨が珍しく仕事部屋から出てきた。
「これはいったいなんだい?」
「ああ、馨さん。お仕事はどうですか? 休憩時間に食べていただこうとお菓子をつくっていたんですよ」
「お菓子? なにやら甘くて懐かしい匂いがするが……」
「かすてらですね」
「かすてら? 店で買わないと食べられないものだと思っていたけれど」
「うふふ、腕力が必要ですけれど、家でもつくろうと思えばつくれるんですよ。さあ、もうそろそろですかね」
そう言って瓦斯台から鉄板を下ろし、皿の上にとんとんと叩いて出した。
するとふかふかとした綺麗な黄色いかすてらが顔を出したのだ。それに馨は目を瞬かせた。
「これは……たしかにかすてらだね……」
「どうなさいますか? 本当はもうちょっと冷ましてから出す予定だったんですけれど」
「いや、このままいただこう。お茶もいただけるかね?」
「はい」
ほうじ茶を用意して淹れると、かすてらをひとつ切り分けて馨に差し出す。
馨はそれをシャクッシャクッと食べはじめた。それを木葉はハラハラとしながら守る。
「あのう……どうですか?」
「……美味いものだね、かすてらは」
それに心底ほっとした顔をした。馨は出されたかすてらを食べ終えたあと、ほうじ茶の湯飲みを手に取った。
「少しばかり昔話をしていいかい?」
「はい。どうぞ」
「前にもこれに似たものを食べに通ったことがあるんだよ。かすてらにアンコ挟んだ、シベリアだね」
「はい」
「その喫茶店で、シベリアと女給目当てに通っていたんだよ。通いはじめた頃は貧乏が過ぎて、珈琲一杯頼むので精一杯だったけれど、原稿料を少しずつもらえるようになってから、一品一品頼めるようになってね。そこでようやく女給と話ができるようになったんだ……嬉しかった」
その言葉を木葉は切なく聞いていた。
豆腐小僧の言葉を信じるのならば、そのあと……。
馨は吐き出すように言い捨てた。
「……彼女に告白しようとしたのはそれからだよ。文をしたためてそれを送った……彼女の職場に迷惑がかかるからと、それが精一杯さ……そしたら、次の日喫茶店に行ったら、彼女は神隠しに遭ったというのさ」
「……」
「あやかしは勝手だよ。人が少しでも向けた情を、必ずしも返してくれると信じて疑ってないのだからね。人間同士でさえ、嫌われたくない、相手を困らせたくないという葛藤が働くというのに、身勝手にも程があるんだよ」
その言葉に、とうとうたまらず木葉は涙をぽろりと溢した。
木葉はそれにうろたえる。
「……どうしたのかね?」
「わたしには、その女給さんがどんな人だったのかはわかりませんし、女給さんを連れ去ってしまったあやかしがどんなひとなのかはわかりません……ただ、あやかしは一途が過ぎてしまうんでしょうねと、そう思いました」
「……君は、あやかしの味方をするのかね」
馨の言葉は冷ややかだ。その冷ややかさに木葉はブルブルと震えるが、必死で声を張る。
「あやかしも、きっと人間に好きになってもらいたいんです。でも、間違えちゃうんです。あやかしは恋をしたら、それを伝えるのが正しいことだって信じてしまうから。間違えたら、ちゃんとそれは間違っていると教えないと駄目です。そのあやかしを叱る人が、誰もいなかったんでしょうね……だから女給さんも、馨さんも。そのさらってしまったあやかしも、可哀想なんだと思います……」
鬼の情は深いのだから、もしかしたら女給は無事かもしれないが。なにも知らない女給も馨も、あやかしの考え方が理解できないから、身勝手にしか見えないのだ。
人間とあやかしの間には、深くて長い溝がある。それでも。
互いに話し合って埋めていくしかない。
馨はしばらく黙って木葉を眺めていたが、やがて嘆息した。
「……君に八つ当たったとしても、もう終わってしまった話だよ。一緒に残りも食べてしまおう……すまなかったね」
「い、いえ……!」
ふたりで、かすてらを食べてほうじ茶を飲む。
木葉は大きな口でモシャモシャと食べていく馨を見ながら、小さくパクンパクンと食べていく。
(……好かれなくってもかまわないわ。でも、嫌われてしまったら駄目ね)
彼の中にはまだ、焦がれていた女給がいる。
きっと名前すら名乗り合ってない、淡い関係だったのだろう。彼女のことを今すぐ忘れてなんて、長いこと馨に片思いしていた木葉には残酷なことだとよくわかる。
だから今は、長い片思いの延長を楽しむことにしたのだ。
<了>
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