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八百比丘尼
六
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ブスブスと焦げたにおいがする。
「……ううう」
呻き声は未だに百合には馴染みのない低い声。気付けば百合はぐったりと倒れて地面に落ちていたのだ。そこで気付いた。
あれだけ焦げたにおいがするにも関わらず、今の百合……尼僧の体躯には火傷がひとつもない。せいぜい火刑で炙られたときに被った煤で肌が黒ずんでいるだけで、肌はどこも焼け爛れていないのだ。
(あれだけ燃やされたのに……どうして……)
それにしても。あれだけ憎悪を向けられていたにもかかわらず、誰ひとりとしてここにはいない。百合はのそりと起き上がり、気が付いた。肌がいくら爛れていなくても服はそうもいかず、彼女の着ていたはずの袈裟は焦げて破片だけがかろうじて尼僧に貼り付いているだけのみっともない状態だと。
火刑が行われたのは城内の広場だが、この辺りはだだっ広く感じた。いったいなにがあったのだろう。
とにかく百合は歩くことにした。今まで、百合は城内で台所の管理をし、くるくる走り回るくらいしか仕事をしていなかった。いったい今はなにがどうなっているのだろう。
百合は視線を見る。
そこで気付いた……草木が枯れている頃合いにもかかわらず、畑になにも実っていない。
草木が色付いて枯れるまでの間に、田畑は収穫を迎えている。しかし、その田畑は荒れ果てたまま、なにも実ってはいないのだ。
(どういうこと? 田畑に誰の手もかけられていない……そもそも、城はどこ? こんなにだだっ広い草原、うちの国には……)
百合は寝て起きたらなにもかもが変わっていた、その不気味さの中も、必死に己を奮い立たせて歩いていた。
やがて、ぽつんと明かりが見えてきた。寺である。
それに慌てて走って行った。百合は尼僧の宗派を知らない。宗派によっては叩き出されるかもしれないが、それでも走らずにはいられなかった。
「だ、誰か、誰かいぬか!?」
その声に百合は絶望する。その声も口調も百合のものではなかったのだから。しかし、叫ばなければ、誰の耳にも届かない。
寺の門に必死に叫び声を上げ続けていたら、やっとのことで門がかすかに開いた。
「どちらで?」
清廉な女性の声だった。袈裟を着て、現世のしがらみから一切断ち切れたかのような、蓮のように清々しい女性が、じっと百合を見つめていたのだ。
百合の最後の記憶では、体中に憎悪を向けられたまま、燃え尽きた覚えしかなく、人間らしい目で見られたのは久方振りのような気がした。百合はぽろぽろと涙を溢す。
「泊めて欲しい……そして、尋ねたい。そこにあった城はどうなった?」
「城? 今は城跡しかないはずですが」
「……城跡?」
「先の戦で、この辺りは大国同士の小競り合いで大量に人が亡くなりました。おかげで未亡人も増え、こうして私が亡くなられた皆様の弔いに寺を開いて残っている次第です」
なにやら話がおかしい。
自国が大国同士の戦に巻き込まれる話なんて、百合が最後に聞いた限りではなかったはずだ。百合が混乱しているのに気付いてか、彼女は門を大きく開いてくれた。
「お上がりなさい。粥くらいならば出せますよ」
「あ、ありがたい……!」
こうして、百合は寺に入れられた。
****
武士の未亡人になるというものほど悲しいものはない。
戦勝国の報償として下げ渡されるのは、もし子が残っていた場合はそうするしかあるまいが、まだ子を成してない女は、ただの売女として扱われる。
敗戦国の女は、美しければ使い道があるが、そうでなければ奴隷のようにこき使われて死んでいく。無縁仏になって捨てられる。
そんな憐れな女たちを弔うべく、この寺は建てられたらしい。まだ大国の中でも心のある女たちによるものだった。
百合が粥をいただいたときも、外には寺の下働きとして若い女が、寺の見張りとして長刀をかまえている女が、そして菩提を弔い続けている髪を丸めた女が、寺のあちこちに点在しているようだった。
百合は自分の覚えているあらましをあらかた伝えると、尼僧は丸い顎に手を当てた。
「そうですか……」
「……なにが起こったのか、なにもわからないのだ。私も、どうしてこのようなことに」
体を勝手に入れ替えられた。そして百合は口を開けば尼僧の口調でのみ話せ、だんだん自分の口調を忘れていきそうなのがまた怖い。
なんで。どうして。なにもわからず混乱している中、尼僧は口を開いた。
「八百比丘尼《やおびくに》はご存じですか?」
「……八百比丘尼……か? 尼僧か?」
「はい。古くは数百年ほど前におられたとされる女性です。彼女が八百比丘尼と呼ばれているのは……今から八百年ほど前、人魚の肉を食らって不老不死になったからだと伝わっております」
百合にはぴんと来なかった話だが。「まさか」という気持ちと同時に「道理で」という気持ちが沸き立つ。
尼僧は続けた。
「彼女はなにをやっても死ななかったそうです。歩き巫女たちが布教活動の一環で彼女の話を口伝で伝え歩いていたそうですが、この数年ほどこの話が途絶えています。そこで、つい最近、玉藻《たまも》の前《まえ》を封印した殺生石が割れたという話を伝聞でお聞きしました」
「……玉藻の前?」
「時の帝にお仕えしたとされている女狐です。京を乱したとして、追放された後、殺生石に封印されたのですが……どうも玉藻の前の封印を解いたのが、その八百比丘尼だと言われております」
百合には話が大事過ぎて上手く飲み込めない。そもそも不老不死の八百比丘尼と世を乱す女狐の玉藻の前が話が合うとも思えなかったのだ。
その中、尼僧はなおも話を重ねてくる。
「そこから、我が寺にも奇妙な客人が、あなた様と全く同じ姿で現れるようになりました。あなた様含めて、これで三度目です」
「……ええ?」
「最初のお方は、あなた様と同じように『何者かに体を乗っ取られた。どうしたらいいのかわからない』と嘆き悲しんでおられました。最初はその方にもお粥を進め、しばらく寺の手伝いをしてもらっていたのですが、ある日突然いなくなりまして……二人目のあなた様が現れました」
「……どうして、ずっと私と同じことを言っているのだ?」
「あくまで推測ですが……最初のお方は本物の八百比丘尼と体を入れ替えられたのではないですか?」
「ど、うして……そんな」
「八百比丘尼は、死にたがっていました。日ノ本津々浦々に目撃情報がある以上、彼女が旅をしていたのは本当でしょう。彼女は人魚を探しているようでしたよ。でも、見つからなかったのでしょうね……人魚の肉を食らって不老不死になった者は、人魚の生き肝を食らわなければ元の体に戻れぬと、そう言い伝えられております」
頭がクラクラするが、だんだん百合にも事の真相が読めてきた。
数百年前に人魚の肉を食らって不老不死になってしまった八百比丘尼……尼僧の言い分だと、どうして不老不死になったのかは語られていないが、人間に戻りたがっている以上は不慮の事故で食べてしまったのだろう……人魚を探して元の体に戻ろうとしても、戻れなかった。
痺れを切らして、元の体に戻れずとも、死ねる体を求めた結果、玉藻の前に当たったのだろう。玉藻の前は大陸から渡ってきた女狐として知られている。玉藻の前は大陸では代々王朝の妃に乗り移り、その都度王朝を滅ぼしてきたとされている。
その歴代の妃に乗り移る術を知っている玉藻の前ならば、八百比丘尼にも同じ方法が教えられると、そう思ったのだろう。
それが、今までの娘たちの体の乗っ取りだとしたら。百合は頭が痛くなった。
つまりは、八百比丘尼はもう誰かの体を乗っ取って死ぬことができた。だが、肝心の八百比丘尼の体はいつまで経っても死ぬことがなく、歴代の持ち主が人の体を乗っ取って寿命を得て、乗っ取られた人々の魂が八百比丘尼の体を器にして、この世に留まり続けていたのだ。
「……ううう」
呻き声は未だに百合には馴染みのない低い声。気付けば百合はぐったりと倒れて地面に落ちていたのだ。そこで気付いた。
あれだけ焦げたにおいがするにも関わらず、今の百合……尼僧の体躯には火傷がひとつもない。せいぜい火刑で炙られたときに被った煤で肌が黒ずんでいるだけで、肌はどこも焼け爛れていないのだ。
(あれだけ燃やされたのに……どうして……)
それにしても。あれだけ憎悪を向けられていたにもかかわらず、誰ひとりとしてここにはいない。百合はのそりと起き上がり、気が付いた。肌がいくら爛れていなくても服はそうもいかず、彼女の着ていたはずの袈裟は焦げて破片だけがかろうじて尼僧に貼り付いているだけのみっともない状態だと。
火刑が行われたのは城内の広場だが、この辺りはだだっ広く感じた。いったいなにがあったのだろう。
とにかく百合は歩くことにした。今まで、百合は城内で台所の管理をし、くるくる走り回るくらいしか仕事をしていなかった。いったい今はなにがどうなっているのだろう。
百合は視線を見る。
そこで気付いた……草木が枯れている頃合いにもかかわらず、畑になにも実っていない。
草木が色付いて枯れるまでの間に、田畑は収穫を迎えている。しかし、その田畑は荒れ果てたまま、なにも実ってはいないのだ。
(どういうこと? 田畑に誰の手もかけられていない……そもそも、城はどこ? こんなにだだっ広い草原、うちの国には……)
百合は寝て起きたらなにもかもが変わっていた、その不気味さの中も、必死に己を奮い立たせて歩いていた。
やがて、ぽつんと明かりが見えてきた。寺である。
それに慌てて走って行った。百合は尼僧の宗派を知らない。宗派によっては叩き出されるかもしれないが、それでも走らずにはいられなかった。
「だ、誰か、誰かいぬか!?」
その声に百合は絶望する。その声も口調も百合のものではなかったのだから。しかし、叫ばなければ、誰の耳にも届かない。
寺の門に必死に叫び声を上げ続けていたら、やっとのことで門がかすかに開いた。
「どちらで?」
清廉な女性の声だった。袈裟を着て、現世のしがらみから一切断ち切れたかのような、蓮のように清々しい女性が、じっと百合を見つめていたのだ。
百合の最後の記憶では、体中に憎悪を向けられたまま、燃え尽きた覚えしかなく、人間らしい目で見られたのは久方振りのような気がした。百合はぽろぽろと涙を溢す。
「泊めて欲しい……そして、尋ねたい。そこにあった城はどうなった?」
「城? 今は城跡しかないはずですが」
「……城跡?」
「先の戦で、この辺りは大国同士の小競り合いで大量に人が亡くなりました。おかげで未亡人も増え、こうして私が亡くなられた皆様の弔いに寺を開いて残っている次第です」
なにやら話がおかしい。
自国が大国同士の戦に巻き込まれる話なんて、百合が最後に聞いた限りではなかったはずだ。百合が混乱しているのに気付いてか、彼女は門を大きく開いてくれた。
「お上がりなさい。粥くらいならば出せますよ」
「あ、ありがたい……!」
こうして、百合は寺に入れられた。
****
武士の未亡人になるというものほど悲しいものはない。
戦勝国の報償として下げ渡されるのは、もし子が残っていた場合はそうするしかあるまいが、まだ子を成してない女は、ただの売女として扱われる。
敗戦国の女は、美しければ使い道があるが、そうでなければ奴隷のようにこき使われて死んでいく。無縁仏になって捨てられる。
そんな憐れな女たちを弔うべく、この寺は建てられたらしい。まだ大国の中でも心のある女たちによるものだった。
百合が粥をいただいたときも、外には寺の下働きとして若い女が、寺の見張りとして長刀をかまえている女が、そして菩提を弔い続けている髪を丸めた女が、寺のあちこちに点在しているようだった。
百合は自分の覚えているあらましをあらかた伝えると、尼僧は丸い顎に手を当てた。
「そうですか……」
「……なにが起こったのか、なにもわからないのだ。私も、どうしてこのようなことに」
体を勝手に入れ替えられた。そして百合は口を開けば尼僧の口調でのみ話せ、だんだん自分の口調を忘れていきそうなのがまた怖い。
なんで。どうして。なにもわからず混乱している中、尼僧は口を開いた。
「八百比丘尼《やおびくに》はご存じですか?」
「……八百比丘尼……か? 尼僧か?」
「はい。古くは数百年ほど前におられたとされる女性です。彼女が八百比丘尼と呼ばれているのは……今から八百年ほど前、人魚の肉を食らって不老不死になったからだと伝わっております」
百合にはぴんと来なかった話だが。「まさか」という気持ちと同時に「道理で」という気持ちが沸き立つ。
尼僧は続けた。
「彼女はなにをやっても死ななかったそうです。歩き巫女たちが布教活動の一環で彼女の話を口伝で伝え歩いていたそうですが、この数年ほどこの話が途絶えています。そこで、つい最近、玉藻《たまも》の前《まえ》を封印した殺生石が割れたという話を伝聞でお聞きしました」
「……玉藻の前?」
「時の帝にお仕えしたとされている女狐です。京を乱したとして、追放された後、殺生石に封印されたのですが……どうも玉藻の前の封印を解いたのが、その八百比丘尼だと言われております」
百合には話が大事過ぎて上手く飲み込めない。そもそも不老不死の八百比丘尼と世を乱す女狐の玉藻の前が話が合うとも思えなかったのだ。
その中、尼僧はなおも話を重ねてくる。
「そこから、我が寺にも奇妙な客人が、あなた様と全く同じ姿で現れるようになりました。あなた様含めて、これで三度目です」
「……ええ?」
「最初のお方は、あなた様と同じように『何者かに体を乗っ取られた。どうしたらいいのかわからない』と嘆き悲しんでおられました。最初はその方にもお粥を進め、しばらく寺の手伝いをしてもらっていたのですが、ある日突然いなくなりまして……二人目のあなた様が現れました」
「……どうして、ずっと私と同じことを言っているのだ?」
「あくまで推測ですが……最初のお方は本物の八百比丘尼と体を入れ替えられたのではないですか?」
「ど、うして……そんな」
「八百比丘尼は、死にたがっていました。日ノ本津々浦々に目撃情報がある以上、彼女が旅をしていたのは本当でしょう。彼女は人魚を探しているようでしたよ。でも、見つからなかったのでしょうね……人魚の肉を食らって不老不死になった者は、人魚の生き肝を食らわなければ元の体に戻れぬと、そう言い伝えられております」
頭がクラクラするが、だんだん百合にも事の真相が読めてきた。
数百年前に人魚の肉を食らって不老不死になってしまった八百比丘尼……尼僧の言い分だと、どうして不老不死になったのかは語られていないが、人間に戻りたがっている以上は不慮の事故で食べてしまったのだろう……人魚を探して元の体に戻ろうとしても、戻れなかった。
痺れを切らして、元の体に戻れずとも、死ねる体を求めた結果、玉藻の前に当たったのだろう。玉藻の前は大陸から渡ってきた女狐として知られている。玉藻の前は大陸では代々王朝の妃に乗り移り、その都度王朝を滅ぼしてきたとされている。
その歴代の妃に乗り移る術を知っている玉藻の前ならば、八百比丘尼にも同じ方法が教えられると、そう思ったのだろう。
それが、今までの娘たちの体の乗っ取りだとしたら。百合は頭が痛くなった。
つまりは、八百比丘尼はもう誰かの体を乗っ取って死ぬことができた。だが、肝心の八百比丘尼の体はいつまで経っても死ぬことがなく、歴代の持ち主が人の体を乗っ取って寿命を得て、乗っ取られた人々の魂が八百比丘尼の体を器にして、この世に留まり続けていたのだ。
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