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八百比丘尼
四
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百合は城主に食事と一緒に、疲労回復薬を持っていったとき、当然ながら城主は困惑した顔をしていた。子供舌な人であり、薬の類いはとことん苦手な人であった。
「百合……これはいったい」
「いえ、お館様。食事を終えてからでかまいませんので、どうぞ飲んでくださいませ。お館様は戦続きのせいで疲労が抜けきっておらず、ちっともお役目を果たせてはいませんから」
その百合のひと言に、あからさまに城主は「うっ……」と喉を詰まらせた。
「……わかった。飲もう……」
しかしそれをひと口飲んだ途端、今にも口から吐き出しそうな顔をするのに、百合は慌てた。
「そこまでまずいものでしたか!? それとも……なにやら体に不具合でも!?」
百合がおろおろする中、本当に吐き出しそうなのを堪えて飲み下した。
「……本当におそろしくまずいが……不思議なものだな。体がぽかぽかする」
「ぽかぽかですか」
「ああ……この薬師は誰が? これを他の者たちにも分けてやれば、戦続きでくたびれた者たちを元気づけることもできよう」
「私が習ったものですが……ただ材料が少々込み入っておりまして、なかなかたくさんはつくれないかと思います」
「そうか。それは残念だなあ」
城主に百合は寄り添うと、城主もまた百合の肩にもたれかかる。
夫婦らしいことなど、本当に共に食事を摂るくらいのもので、共寝が文字通り一緒に寝るだけでそれ以上のことができなかった夫婦だったが、そのときは初めて、夫婦らしいことができたのだ。
百合はぼんやりと思う。
(あの尼僧様には感謝しないと。どうにか……恩赦が与えられないか、お館様に話を付けてみよう。それに、お礼に行かないと)
百合の性根の美しさは、この時代においては稀少価値が高く美徳である。
しかしその性根の美しさは、必ずしも報われるとは限らない。特に海千山千の者にとって、性根の快活さというものは単純に見え、利用されがちなのだ。百合はそのことをよくわかってはいなかった。
****
その日は本当に珍しく寝坊し、それを女中たちにくすくすと笑われるのを気恥ずかしく思いながら、百合は急いで粟の握り飯を用意し、ついでに汁物に香の物も添えた。牢屋に品数を三つも持っていくことは滅多にないものだが、それだけのことはしてもらった以上、礼をしなければならなかった。
見張りに頭を下げ、ついでに品数が多い御膳を不審に思われないよう、彼にも握り飯をひとつ賄賂に差し出してから、中に入る。
尼僧はそんな百合を物珍しく眺め、口元を歪ませた。
「なんだ、ひと皮剥けたような顔をしおって」
「……先日の疲労回復薬、大変にありがたいものでした。おかげで」
「なんだ、夫婦で無事に睦み合えていい夜を過ごすことができたから、礼に来たとでも言うのか。ずいぶん暢気なものよの」
尼僧にケタケタと笑いながら言われて、思わず百合は恥ずかしがって俯いた。そして尼僧はのんびりと汁をすすり、パリパリと漬物を囓る。
「でもまあ……これで私も貴様の願いを聞き届けたのだから、私の話も聞くべきだろうな」
「それは。しばらくはお館様は戦に出ませんから、その間に民を説得してもらって、あなたを釈放してもらえるようになさいますから。これで無罪放免であなたも外に出られますよ」
「ふーむ。本当に脳天気な姫君よな」
その言葉に、百合は少し止まった。
先程のからかい交じりなケタケタ笑いではなく、あからさまに口調の中に侮蔑が混ざっていたのだ。それに百合は狼狽える。
「尼僧様……?」
「私はここからいつでもすぐに出られるよ。それで、どうして私がここに逃げることなく普通に入れられていると素直に思っているんだ?」
「なにをおっしゃって……」
尼僧はニヤリと笑って、牢の柵をギチリと鳴らした。竹と麻縄でできた牢の柵が揺れる。
「私はなあ、魂を好きな場所に飛ばすことができる。この国の敵対国に、私の魂を飛ばしておるよ。貴様は私が黙っていても、城主の情報を好き勝手ペラペラしゃべってくれているからなあ。その情報を今、流しているところだよ」
「…………っ!?」
言っていることは、本来ならば突拍子もないことだった。人は魂を飛ばすことなんてできないし、ましてやその魂に自分が見知った情報を伝達させることなんて不可能だ。しかしそれを尼僧はやったと言い張るのだ。
しかし。百合は尼僧の誘導尋問に乗ってしまい、さんざん城内の情報を流してしまっている。見張り番だって置いているのだから、ここは安全だと、そう高を括って。
(ありえないはず。そんなこと、いくら妖術使いの人間だって、できる訳が……でも)
薬師に言われてしまったのだ。この尼僧が教えた披露会服薬の処方は、この時代だったらほぼ忘れられてしまっている調剤方法だと。
彼女の言っていることが嘘か本当かははっきりとはしないが、それを放置しているとまずいということくらいは、百合にだってわかった。
「ど、どうしたらよろしいのですか!? それに、本当に情報を教えて!?」
「嘘かどうかわからないのならば、今すぐに城主にでも言って偵察情報を聞けばいい。もしこの国に攻め入ろうとしている者たちが現れたのならば……私を殺してでも止めておくべきだろうなあ」
「あなたは……私のことを助けたかと思ったらそのようなおそろしい真似をして! いったい何が目的なのですか!?」
百合の悲鳴交じりの抗議の声にも、尼僧は鼻で嘲笑うのだ。
「決まっておろう。私が私になるためだよ」
「訳がわかりませんっ……!」
その間にも綺麗に片付いた御膳を百合はひったくるように持つと、急いで食器を台所に返却して、城主の元へと走った。
「お館様……お館様……!!」
走って行った先で、城主が鳥の足筒に入れていた手紙を読んでいるところだった。それに百合は止まった。
「……今日は休みと伺っていましたが、執務中でしたか」
「ああ、本当ならば本当に久々の休日と行きたいところだったが、これは無意味なものになるやもしれぬ。敵がこちらに攻め入ろうとしている……なにぶん、本来ならばうちなんて放っておけばいいものを、他の地よりもやや高台にあるからな。今のうちに掌握しておきたいと考える者もいるだろうな」
「ああ……」
思わず百合は崩れ落ちてしまった。城主の言っていることは、ほぼほぼ尼僧が言い当てた内容そのものだったのだ。百合のうろたえた顔に、城主はきょとんとしたあとにはにかんだ。
「どうした、ここが戦場になることがそんなに怖いか?」
「い、いえ……また百姓たちに無理難題を押しつけなければならなくなりますね」
「全くだ。百姓一同を戦に駆り立てたくとも、うちでは土地を分けるにもたかが知れているし。それに牢にいる者たちも、そろそろ邪魔になるから始末しなくてはならなくなるな」
「……っ!」
牢に入れている者たちの処分が終わってないまま敵軍が来た場合、稀に敵軍に寝返る場合がある。他国に渡って美味い汁を吸おうとするものがいるのは、いつの世も同じなのだ。
つまりは、現状保留にしていた尼僧の始末がついてしまいそうなのだ。
百合からしてみれば、あの尼僧は憎むべき相手である。国の情報を他国に売り渡し、自分を捉えた国も民も滅んでしまえなんて考え、百合は好きにはなれない。が。
本当にそれでいいのだろうかという疑問が付きまとう。
(民からしてみれば備蓄泥棒で、我々からしてみれば国の情報を売った裏切り者で……たしかに生かす理由なんてどこにもないけれど……でも……本当にそれでいいの?)
罪人は放っておけば、落ち武者狩りになり、敵味方双方にとって面倒な相手になる。しかし、そもそも尼僧は女性なのだ。そんなおそろしい真似をするだろうか。
なによりも。百合は城主との夜を思い出した。
尼僧の助言がなかったら、きっと夫婦は今でも気まずいままであった。彼女のやった非道なことを差し引いて、なんとかならないんだろうか。百合はそればかりを模索している。
「百合……これはいったい」
「いえ、お館様。食事を終えてからでかまいませんので、どうぞ飲んでくださいませ。お館様は戦続きのせいで疲労が抜けきっておらず、ちっともお役目を果たせてはいませんから」
その百合のひと言に、あからさまに城主は「うっ……」と喉を詰まらせた。
「……わかった。飲もう……」
しかしそれをひと口飲んだ途端、今にも口から吐き出しそうな顔をするのに、百合は慌てた。
「そこまでまずいものでしたか!? それとも……なにやら体に不具合でも!?」
百合がおろおろする中、本当に吐き出しそうなのを堪えて飲み下した。
「……本当におそろしくまずいが……不思議なものだな。体がぽかぽかする」
「ぽかぽかですか」
「ああ……この薬師は誰が? これを他の者たちにも分けてやれば、戦続きでくたびれた者たちを元気づけることもできよう」
「私が習ったものですが……ただ材料が少々込み入っておりまして、なかなかたくさんはつくれないかと思います」
「そうか。それは残念だなあ」
城主に百合は寄り添うと、城主もまた百合の肩にもたれかかる。
夫婦らしいことなど、本当に共に食事を摂るくらいのもので、共寝が文字通り一緒に寝るだけでそれ以上のことができなかった夫婦だったが、そのときは初めて、夫婦らしいことができたのだ。
百合はぼんやりと思う。
(あの尼僧様には感謝しないと。どうにか……恩赦が与えられないか、お館様に話を付けてみよう。それに、お礼に行かないと)
百合の性根の美しさは、この時代においては稀少価値が高く美徳である。
しかしその性根の美しさは、必ずしも報われるとは限らない。特に海千山千の者にとって、性根の快活さというものは単純に見え、利用されがちなのだ。百合はそのことをよくわかってはいなかった。
****
その日は本当に珍しく寝坊し、それを女中たちにくすくすと笑われるのを気恥ずかしく思いながら、百合は急いで粟の握り飯を用意し、ついでに汁物に香の物も添えた。牢屋に品数を三つも持っていくことは滅多にないものだが、それだけのことはしてもらった以上、礼をしなければならなかった。
見張りに頭を下げ、ついでに品数が多い御膳を不審に思われないよう、彼にも握り飯をひとつ賄賂に差し出してから、中に入る。
尼僧はそんな百合を物珍しく眺め、口元を歪ませた。
「なんだ、ひと皮剥けたような顔をしおって」
「……先日の疲労回復薬、大変にありがたいものでした。おかげで」
「なんだ、夫婦で無事に睦み合えていい夜を過ごすことができたから、礼に来たとでも言うのか。ずいぶん暢気なものよの」
尼僧にケタケタと笑いながら言われて、思わず百合は恥ずかしがって俯いた。そして尼僧はのんびりと汁をすすり、パリパリと漬物を囓る。
「でもまあ……これで私も貴様の願いを聞き届けたのだから、私の話も聞くべきだろうな」
「それは。しばらくはお館様は戦に出ませんから、その間に民を説得してもらって、あなたを釈放してもらえるようになさいますから。これで無罪放免であなたも外に出られますよ」
「ふーむ。本当に脳天気な姫君よな」
その言葉に、百合は少し止まった。
先程のからかい交じりなケタケタ笑いではなく、あからさまに口調の中に侮蔑が混ざっていたのだ。それに百合は狼狽える。
「尼僧様……?」
「私はここからいつでもすぐに出られるよ。それで、どうして私がここに逃げることなく普通に入れられていると素直に思っているんだ?」
「なにをおっしゃって……」
尼僧はニヤリと笑って、牢の柵をギチリと鳴らした。竹と麻縄でできた牢の柵が揺れる。
「私はなあ、魂を好きな場所に飛ばすことができる。この国の敵対国に、私の魂を飛ばしておるよ。貴様は私が黙っていても、城主の情報を好き勝手ペラペラしゃべってくれているからなあ。その情報を今、流しているところだよ」
「…………っ!?」
言っていることは、本来ならば突拍子もないことだった。人は魂を飛ばすことなんてできないし、ましてやその魂に自分が見知った情報を伝達させることなんて不可能だ。しかしそれを尼僧はやったと言い張るのだ。
しかし。百合は尼僧の誘導尋問に乗ってしまい、さんざん城内の情報を流してしまっている。見張り番だって置いているのだから、ここは安全だと、そう高を括って。
(ありえないはず。そんなこと、いくら妖術使いの人間だって、できる訳が……でも)
薬師に言われてしまったのだ。この尼僧が教えた披露会服薬の処方は、この時代だったらほぼ忘れられてしまっている調剤方法だと。
彼女の言っていることが嘘か本当かははっきりとはしないが、それを放置しているとまずいということくらいは、百合にだってわかった。
「ど、どうしたらよろしいのですか!? それに、本当に情報を教えて!?」
「嘘かどうかわからないのならば、今すぐに城主にでも言って偵察情報を聞けばいい。もしこの国に攻め入ろうとしている者たちが現れたのならば……私を殺してでも止めておくべきだろうなあ」
「あなたは……私のことを助けたかと思ったらそのようなおそろしい真似をして! いったい何が目的なのですか!?」
百合の悲鳴交じりの抗議の声にも、尼僧は鼻で嘲笑うのだ。
「決まっておろう。私が私になるためだよ」
「訳がわかりませんっ……!」
その間にも綺麗に片付いた御膳を百合はひったくるように持つと、急いで食器を台所に返却して、城主の元へと走った。
「お館様……お館様……!!」
走って行った先で、城主が鳥の足筒に入れていた手紙を読んでいるところだった。それに百合は止まった。
「……今日は休みと伺っていましたが、執務中でしたか」
「ああ、本当ならば本当に久々の休日と行きたいところだったが、これは無意味なものになるやもしれぬ。敵がこちらに攻め入ろうとしている……なにぶん、本来ならばうちなんて放っておけばいいものを、他の地よりもやや高台にあるからな。今のうちに掌握しておきたいと考える者もいるだろうな」
「ああ……」
思わず百合は崩れ落ちてしまった。城主の言っていることは、ほぼほぼ尼僧が言い当てた内容そのものだったのだ。百合のうろたえた顔に、城主はきょとんとしたあとにはにかんだ。
「どうした、ここが戦場になることがそんなに怖いか?」
「い、いえ……また百姓たちに無理難題を押しつけなければならなくなりますね」
「全くだ。百姓一同を戦に駆り立てたくとも、うちでは土地を分けるにもたかが知れているし。それに牢にいる者たちも、そろそろ邪魔になるから始末しなくてはならなくなるな」
「……っ!」
牢に入れている者たちの処分が終わってないまま敵軍が来た場合、稀に敵軍に寝返る場合がある。他国に渡って美味い汁を吸おうとするものがいるのは、いつの世も同じなのだ。
つまりは、現状保留にしていた尼僧の始末がついてしまいそうなのだ。
百合からしてみれば、あの尼僧は憎むべき相手である。国の情報を他国に売り渡し、自分を捉えた国も民も滅んでしまえなんて考え、百合は好きにはなれない。が。
本当にそれでいいのだろうかという疑問が付きまとう。
(民からしてみれば備蓄泥棒で、我々からしてみれば国の情報を売った裏切り者で……たしかに生かす理由なんてどこにもないけれど……でも……本当にそれでいいの?)
罪人は放っておけば、落ち武者狩りになり、敵味方双方にとって面倒な相手になる。しかし、そもそも尼僧は女性なのだ。そんなおそろしい真似をするだろうか。
なによりも。百合は城主との夜を思い出した。
尼僧の助言がなかったら、きっと夫婦は今でも気まずいままであった。彼女のやった非道なことを差し引いて、なんとかならないんだろうか。百合はそればかりを模索している。
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