ファムファタールの函庭

石田空

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六日目

ファムファタールに選ばれど

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 鞄を振り回しながら、頭に血が昇るのを感じながらも、美羽は石坂の話を聞いていた。
 翔太のことは嘘だとわかっている。そもそも勝手に好かれていても、善意も好意も伝えてこない相手に罪悪感を覚えるほど、美羽は優しい人間ではない。その点も翔太と美羽は違う。
 そしていきなり聞かされた浜松と中柴に至っては、聞かされた内容があまりに突飛過ぎて、嘘なのかでたらめなのか、美羽を惑わそうとしているのかすらわからない。
 ただ、石坂の今までの善意が全て演技であり、嘘だったということだけはわかった。
 翔太がいなくなってしまい、誰かに寄りかからなければ立っていられない気持ちを、付け込まれた。
 人の弱気を利用された。そこに美羽は怒りを感じている。美羽の顔を見て、石坂は鮮やかに笑った。それは嘲笑だった。

「……素晴らしい。その顔が見たかったのですよ。ほんのわずかにでもあった好意が踏みにじられた末に、絶望に落ち、その絶望が殺意に切り替わる瞬間を……!」
「……あんたは……! あんたは……!」
「せっかくの位置を、あなたは生かせなかったじゃないですか! 館内にいて、可哀想な少女のままでいたら、あなたはいくらでも優しくされたし、励まされた! 現にあなたに声をかけてきた人間はいくらでもいたでしょう? その好意すらも踏みにじって生き延びたのはあなたでしょう? 清音さんの殺意は、全てあなたへの好意でしたよ! それは常人であるあなたが到底受け入れられるものではなかったですがねえ!」
「いらないもの押し付けないで!」

 たしかに榛は、美羽に「守ってあげよっか?」と言ってきたが、そんなものは受け入れられなかった。快楽殺人のためにおもちゃにされるのが目に見えていたのだから。

「沖矢さんもあなたに声をかけていたでしょう? ですが、ホストだからと受け入れなかった! あなたは可哀想ではあっても、人にレッテルを貼って区分して、価値を勝手に決めていた!」
「……うるさい!!」

 そこで美羽がわずかに揺らいだ。
 紅はたしかに、なにもしていないのだ。本人の距離感の掴み方のおかしかったのは間違いないが、自分に危害を加えたかというと、答えは否だ。
 そもそも彼は、蒸し殺されるほどのことをしたんだろうか。
 それにとうとう美羽が鞄を振り回す背後に回り、立石が鞄を振りかぶった。相変わらず重いそれが、やっと石坂の横っ面をひっぱたいた。わずかに石坂の体勢がぐらつく。
 その隙に、美羽は必死に石坂の脳天目掛けて鞄を振り下ろし続けていた。

「……紅さんは、死ぬ必要なんてなかった。あなたでしょう? 紅さんを蒸し殺したのは」
「……し、て、ま、せん、よ……」

 ガツンッガツンッガツンッと音がする。脳天を揺さぶられ続ければ、いくらなんでも起き上がれない。美羽は夢中で鞄を振り下ろした。

「……あたしだって、誰にも死んでほしくなかった! 翔太と逃げられたらそれでよかった! でも……翔太死んじゃった。あたしは多分、誰かの好意の元に生かされてるだけで、いつ死んでもおかしくなかったんだと思う……でも!!」

 美羽は吐き出した。

(翔太……あたし、やっぱり翔太みたいにはなれないよ)

 彼氏は美羽にはもったいないくらいの善人だったが、美羽は彼ほど優しい人間ではいられない。この七日近くの軟禁生活でそれを思い知ってしまった。
 彼らの話を聞いていたら、榛は殺人鬼だが、彼が手をかけていなかったらまずい場面もあったのかもしれない。紅を見殺しにするよう言ったのだって彼で、もし無理矢理助け出そうとしたら、バックドラフトで全滅していた危険だってある。
 紅だって、外ではどれだけ悪人であったとしても、美羽には害意は向けなかった。だが。
 その理屈で言えば、浜松だって美羽になにもしていないのだ。中柴だけは、美羽と壁をつくってしまい、最後まできちんと話すことはできなかったが。
 美羽はがなり立てる。

「善意って、全部感謝しないと駄目なの!? 押し付けられたものまでしなきゃ責められるもんなの!? だったら、いらない……! 翔太の以外、本当になにもいらなかったのに……!!」

 そう言いながら、鞄を叩きつけた。
 本来、人は鞄で殴りつけられたくらいでは死なない。ただ、条件が揃えば少し殴られただけで死ぬ。
 ひとつ。頭が固い場所にある。このつるりとした脱出路は、自動車でも出入りしていたのだろう。そこそこ道幅も広い上に舗装されていた。
 ひとつ。逃げられないように固定されている。美羽は起き上がる暇を与えないほどに、石坂を殴打し続けていた。おまけに立石に不意打ちで殴られたことにより、石坂は目の裏がチカチカとして、立ち上がることができなかった。
 ひとつ。同じ場所を何度も何度も殴打され続ける。同じ場所にずっと刺激が入り続ければ。特に頭には神経というものが詰まっている。
 条件が揃っている中で、殴り続ければ、人はどれだけ強靭な人間でも死ぬ。立石がたまりかねて、「明空さん、ストップ、ストップ」と止めるまで、美羽は鞄で殴り続けるのを辞めなかった。

「……その辺にしておけ。君がこれを殺す価値はない」
「……でも、でも……こいつのせいで……こいつのせいで……皆……」

 美羽はぜいぜいと息を切らした。
 石坂は女性の美羽に殴り続けられても、脳天を何度も何度も殴られたせいか、とうとう泡を吹いて倒れてしまっていた。立石は黙って鞄から拘束バンドを取り出すと、石坂の手首と足首を縛りはじめた。

「……なんでこんなの持ってるんですか」
「資料を縛るために本来持ってたんだが……まさか人を縛るために使うことになるとは思わなかった。こんな機会、もう二度と来て欲しくはないんだが」
「そうですね」

 石坂を縛り、ついでに目も縛って隠してしまったあと、ふたりは出口を求めて歩きはじめた。
 本来だったら食事を探すはずだったのだが、それどころではなかったため、食べられてはいないが。元来た道を帰って食料を探すか、出口を求めてこのまま歩くかだったら、後者のほうが実りがありそうな気がしたので、そのまま歩きはじめた。

「……あの人置いてきたけど、いいんですかね」
「榛か? あれの行動理念は面白いか面白くないかだから、面白かったほうを選ぶだろう。こちらを殺しに来ないってことは、多分そこそこお目にかかったんだろう」
「……嫌な奴」
「あんまりそう言ってやるな……あいつは少なくとも、自分の指令達成条件の三人残すの中に、君を入れていた」

 それに美羽は石坂の言葉を思い返す。

(……面白いか面白くないか、楽しいか楽しくないかの基準でしか物事判断しないのに、あたしのことは面白いのほうに入れてくれてたんだ)

 それに感謝すべきかすべきでないかは、微妙なところであったが、今なんとか生きているのは榛のおかげではあった。
 その一方で、美羽は立石を見た。

「でも……立石さんはなんであたしを助けてくれたんですか?」
「俺か?」
「都市伝説であったら、男だらけの中女がひとりだけ放り込まれて、女ひとりを巡って男が争い合う……みたいなのだったんですけど、そんな『やめて、あたしのために争わないで』って感じはしなかったんで」
「……君がさっき石坂さん相手にがなっていたのと、だいたい同じでいいと思う」
「あたし、気合入れるためにかなりいい加減なことばかり叫んでたと思いますけど、どれのこと言っていますか?」
「善意や好意の押し付けはいらないと。俺もそれには同感だから、これ以上は言えない」
「それ、どういう意味ですかあ」

 他愛のない会話だった。
 美羽は気のせいか、本当に久々に気が抜けている。歩き続けて足が痛いし、先が見えなくって不安になるはずなのに。
 人を気絶するまで殴り続け、カラオケに行ったときのように喉の奥が痛くなるまで叫んだおかげで、すっきりとしている。
 感情を削られ続ける痛みが、やっとストップしたのだった。

****

「えー……」

 榛はポッタポッタと歩いていた。
 できる限り遠くで、暗闇から、石坂を殴り続ける美羽を観察していた。
 青臭い叫び声を上げて、ひたすら石坂を鞄で殴り続けている。その殴り続けている鞄は翔太のものだったことに、榛はうっとりとしたものを浮かべていた。
 美羽は本質的に自己中心的な女子だった。ただ、善人の彼氏の真似をして、できる限りいい人に見える言動を取っていたが、そのメッキは館内での生活を通して、ひとつまたひとつと剥がれ落ちつつあった。
 榛は立石の持ち掛けた話に応じながらも、醒めた目で美羽を観察していた。
 あとひとつ背中を押せば、簡単に落ちる。
 彼女が自己満足、自己憐憫のために殺人を犯す。そのとき、ようやく自分の好みの女が完成すると、そう思って見つめていたのだが。
 それを自分に契約を持ちかけてきた立石に止められてしまったのだ。このままずっと殴り続ければ、いずれ死んだだろうに。ギリギリ気絶だけで踏みとどまり、彼女が殺人を犯すことはとうとうなかった。
 榛は面倒臭そうに、縛り上げられた石坂の傍にしゃがみ込むと、拘束バンドで固定された腕のほうに、自前のナイフの刃を入れる。

「こんだけ憎まれ口叩かれて、なんで殺さなかったかねE……いや、ミナトと女の趣味が合わねえだけかぁ」

 そう言いながら、機械的にざっくりと石坂をナイフで切り裂く。それは面白みがなく、急所にナイフを入れて確実に殺すための作業であった。

「まっ、いっかぁ。ようやく外に出られた訳だし、また殺せるし」

 野に放たれた殺人鬼は恍惚的な表情を浮かべる。
 ルールに縛られたゲームは、殺人として面白みが欠ける。美羽を追い詰めて恐怖させるにはいささか足りなかったが、外は違う。いくらでも彼女を自分好みに仕立てることができる。
 そう満足して、赤い舌をレロリと動かしたのだった。
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