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偽夫婦、解散宣言をしちゃいますか……?
1話
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気付けば長かった秋も終わりを迎え、年末の足音が近付きつつあった。
この辺りはほとんど雪は降らないはずだけれど、ときどき金平糖みたいな粉雪が散らばるような、寒い冬になっていた。
電気ストーブのジィー……という音を耳にしながら、俺は佐々木さんと電話をしていた。夏からずっと格闘していた企画書のGOサインがようやく出たのだ。
いつもクールな対応の佐々木さんの声が、気のせいか熱い。
『すごいですね。何度も何度も企画書を書き直しましたけれど、書き直すとどんどん迷走してやけっぱちのネタが突っ込まれることって多いんですけれど、くろばやし先生の場合はどんどん面白くなる一方でした。高校生ふたりが管理人代行として一年間かりそめ夫婦になって寮生活の世話をするというのが大変面白かったです。しかも女の子のほうの秘密が切なくって……編集会議でも大好評でした』
「ありがとうございます」
いつにも増して熱い佐々木さんのコメントに、俺も胸が熱くなる。
一向に通る気配のない企画書に、何度全部消してイチから書き直そうと思ったかわからない。ただ日頃から辛口の佐々木さんの食いつきが異常によかったから、これを捨ててしまうのも惜しいと思って、ついつい食らいついてしまった。
そうやって何度も何度も企画書を書き直して、無事に高校生の寮生活ありのラブコメとして、企画が無事に編集会議を通過したのだ。
佐々木さんは『ぜひともこれを書いてください。スケジュールもメールで送りますから』と言って、電話のやり取りは終わった。
俺は電話を切ると「んー……」と伸びをして、畳に転がった。毛羽立っている黄ばんだ畳の匂いも、最初は途方に暮れたものの、今はすっかりと慣れ親しんでいる。
と、玄関のほうで音がした。黒いコートを着ている素子さんだった。
「ただいま帰りましたー」
俺は慌てて起き上がると、素子さんはにこにこ笑って管理人室に入ってきた。
「ああ、お帰りなさい、素子さん。試験はどうでしたか?」
「はい。この感触だと無事に資格試験は通ったんじゃないかなと思います。あとは……本命の面接が通ったらということですけど」
「ああ……はい、そうですね。それが一番ですから」
素子さんは素子さんで、秋からこつこつと資格試験を受け続けて、順調に転職に有利な資格の取得を繰り返していた。半年以上ここで衣食住の心配もなく、貯金も貯めることができたから、じっくりと自分の資格や待遇の合う転職先を探しているところだ。
素子さんはにこにこ笑ったまま、コートを脱いでハンガーにかけた。下にはリクルートスーツを着ていた。冬だとかなり寒そうに見えるので、俺は慌ててストーブの位置を彼女に当たるようずらして、ガスを点けてやかんを沸かしはじめた。
座卓に並んでいるメモを見て、素子さんは目を瞬かせた。
「亮太くんも、夏からずっとやっていた企画、どうなりましたか? あんなに企画って通らないものなのかって、横で見ていて驚きましたけど」
「あー……心配かけてすみません。例の企画、無事に通りました。スケジュールが送られてき次第、小説書きはじめます」
「わあ、おめでとうございます! 私たち、ようやく再スタートを切れそうですね」
そうにこやかに言われて、俺は内心「うっ」と呻いた。
まさか言えないもんなあ。今の状況のほうが居心地がいいから、夫婦生活を終わらせないでくれなんて。
俺も無事に次の原稿が決まったし、素子さんだって次の就職先が決まったら……もうここで働く理由だってないんだから。
最初からそういう取引だったしな。俺たちが次の仕事が決まるまで、夫婦のふりをしようっていう。ただ。
素子さんは俺よりも年上な上に、社会経験もあるから、いざというとき俺よりもよっぽど頼りになった。たおやかに見えて、芯がかなり強い人だとは、ここでずっと働いていて何度も思い知ったことだ。
そこで俺がガキみたいなこと言って引き留める権利は、どこにもないもんな……。
お湯が沸いたところで、素子さんにお茶を淹れてあげた。素子さんみたいに丁寧に淹れるのが苦手な俺は、器に移し替えて少しだけ冷ましてから急須の葉っぱにお湯を入れるという手順を真似しても、どうしても彼女の淹れたものほどおいしくならない。
それでも素子さんは俺が湯呑に注いだお茶を、おいしそうに飲んでくれた。
「そういえば、日名大のほうも、もうそろそろ冬休みですね」
彼女が話を向けてくれたことで、俺は思考を打ち切って「そういえばそうですね」と頷いた。
「夏休み中は実家に帰らない子たち多かったですけど、年末年始はどうなるんでしょうねえ」
「皆にアンケートを取りましたけど、なんか戻らない子が多いですよね」
年末年始は基本的に事務所も休みだ。当然食材は送られてこないから、食事の用意も自主的にしてもらうことになる。
この辺りだったら年末年始でも営業しているファミレスもあるし、コンビニやスーパーもあるから、年末年始の一週間くらいだったら、どんなに料理が苦手な子でも生きながらえそうなんだよな。
アンケートを取っているのは、年末年始の一週間、俺たちが食事の世話をしたほうがいいのかよくないのかという意味もある。まあ俺も素子さんも年末年始は、久々の休暇を惰眠で終わらせるんだろうなとは思っているけど。
でも。ひとりだけ未だにアンケートを出してない子がいる。寮監を任せられ、基本的に優等生なはずの琴吹さんだけ、未だにアンケートを返してくれない。
「どうしたんでしょうねえ、普段だったらアプリのグループチャットでもすぐに返事をくれますのに」
「実家に帰るか帰らないか、バイトのシフトとかでギリギリ決まらないとかですかねえ」
彼女の働いている輸入系の石鹸屋だったら、クリスマスプレゼントなどにも使われるだろうから、年末年始ギリギリまで大忙しっていうのはありえそうだなと思う。
と、青陽館の外で声が聞こえる。
「本当に私帰らなくって大丈夫? ……うん……それが心配なんだけど」
この声は琴吹さんで、どうも電話しているらしい。今は皆共通スペースの団らん室でどこかのバンドのライブ映像見るとかではしゃいでいたから、管理人室にいる俺と素子さんくらいしか聞いてないだろうけど。
普段はびっくりするくらいにしっかりした琴吹さんが、少し心配そうな声を上げているのが気がかりだった。
何度か相手に確認するようにしゃべったあと、最後に「体に気を付けてね。私は元気でやってるから」と言って電話を切った。そのまま「ただいまー」と言いながら青陽館の中に入ってくる。
俺はひょっこりと管理人室の窓から顔を出して「お帰りー」と言うと、彼女は少しびっくりしたように背中を仰け反らせた。今年は暖冬らしいけれど、それでも琴吹さんは電話の間ずっと外にいたせいか、鼻が少し赤くなってしまっている。
「ストーブで温まってく? お茶もあるけど」
「ええっと……いいんですか? 管理人さんたちは」
「今は他の子たちはライブではしゃいでるから、琴吹さんもちょっと落ち着いてから行ったほうがいいんじゃないかと思って」
今の話に、管理人だからと言ってどうこう口出しはできないんだけど。でも年末年始のアンケートに答えてもらってないから、ちょっとは話を聞いても悪くないと思う。素子さんは自分のお茶を飲んでから、黙って琴吹さんの分のお茶を淹れはじめた。
琴吹さんは少し困った顔をしたあと、「お邪魔します」と管理人室に入ってきた。
「寒かったでしょう、ストーブどうぞ」
そう言って素子さんは自分が座っていた位置をずらして、琴吹さんにストーブの熱が当たるように配慮する。
「ありがとうございます……すいません、実家の話なんて聞かせちゃって」
「さっきの電話?」
俺が尋ねると、琴吹さんは黙って頷いた。素子さんは「お茶をどうぞ」と琴吹さんにお茶を勧めると、「ありがとうございます」と彼女は湯呑を受け取った。それを両手で掴んで掌を温めるように持つと、彼女は湯呑にふうふうと息を吹きかけてから、ひと口飲んだ。
「実家に戻ってくるなって、親に言われたんですよ。自分は心配だから戻りたいんですけど」
「ん……?」
俺は一瞬意味がわからないでいると、素子さんは少しだけ険しい表情を浮かべた。
琴吹さんはしみじみとした声で続ける。
「うち、かなりの田舎なんですよね。今時女子は高校を出たら、すぐに結婚しろなんて時代錯誤な常識がまかり通っているくらいには」
「それは……」
そういう話は、てっきり大昔の大衆ドラマの中のもので、今時流行らないと思っていた。まさか令和にもなって、その常識を持ち出すような場所があるとは思ってもいなかった。
俺が絶句していると、素子さんがやんわりと口を出す。
「実家に戻ってくるなと言うのは、未だに琴吹さんのご家族の中には、あなたの進学を反対する人がいらっしゃるんですか?」
「お恥ずかしながら、いるんですよねえ。買い物に行くだけで、その日の献立から家族の誰が病気なのかまで、全部地元にばら撒かれてしまうくらいに狭い田舎です。娯楽が他にないんで、人の噂をする以外になにもできないんです。男子としゃべっただけで、その男子と結婚するのかどうかまで、話が勝手に捏造されるなんてのもありました。抜け出すとしたら、遠方に嫁入りするか、進学してそのまま就職を決めるかして、地元と縁を切る以外ないんです」
それは昭和の田舎にありがちな話として耳にしたことはあっても、元号がふたつ変わっても人間なにも変わらないのかと、絶句した。
俺がなにも言えないでいたら、琴吹さんが慌てて「ああ、ごめんなさい管理人さん!」と謝る。
「変な話聞かせちゃって。自分も地元の話は寮の子たちにはできませんから。怖がらせたくないんですよ。あそこをいいところとは思いませんけど、悪いところってレッテル貼るのもなんか違いますから」
「いやあ……俺は別にいいんだけど。大変だったねえ……」
本当にそれしか言えることがなかった。それに素子さんも大きく頷いた。
「今年は残るんでしたら、結構寮に残る子もいますし、皆でカンパして、おせちでも用意しましょうか」
素子さんの提案に、琴吹さんは慌てたように首を振る。
「いや、そんな。悪いですよ! おせちって結構お金かかりますし! つくるのもかなり手間がかかりますから! それに残ってる子たちも、おせちよりも鍋つついてたほうが楽しい子たちばっかりですから!」
「じゃあ、どこかで皆で鍋食べましょうか。料理苦手な子たちが一週間コンビニ弁当だけでも体にあんまりよくないですし」
素子さんの提案に、ようやく硬い表情をしていた琴吹さんの表情も綻んだ。
「わかりました! 完全に年末になったら野菜も高いですから、今の内にカンパを募って買いに行きましょう!」
「はい、そうしましょう。亮太くんもそれで構いませんか?」
「あ、はい。俺は全然大丈夫です」
ふたりが楽しそうに笑っていることに、俺は少なからずほっとした。
普段はしっかりしていて頼りになると思っていた琴吹さんの、あまりにもヘビーな話を目の当たりにしたから、途方に暮れてしまったというのがある。
この辺りはほとんど雪は降らないはずだけれど、ときどき金平糖みたいな粉雪が散らばるような、寒い冬になっていた。
電気ストーブのジィー……という音を耳にしながら、俺は佐々木さんと電話をしていた。夏からずっと格闘していた企画書のGOサインがようやく出たのだ。
いつもクールな対応の佐々木さんの声が、気のせいか熱い。
『すごいですね。何度も何度も企画書を書き直しましたけれど、書き直すとどんどん迷走してやけっぱちのネタが突っ込まれることって多いんですけれど、くろばやし先生の場合はどんどん面白くなる一方でした。高校生ふたりが管理人代行として一年間かりそめ夫婦になって寮生活の世話をするというのが大変面白かったです。しかも女の子のほうの秘密が切なくって……編集会議でも大好評でした』
「ありがとうございます」
いつにも増して熱い佐々木さんのコメントに、俺も胸が熱くなる。
一向に通る気配のない企画書に、何度全部消してイチから書き直そうと思ったかわからない。ただ日頃から辛口の佐々木さんの食いつきが異常によかったから、これを捨ててしまうのも惜しいと思って、ついつい食らいついてしまった。
そうやって何度も何度も企画書を書き直して、無事に高校生の寮生活ありのラブコメとして、企画が無事に編集会議を通過したのだ。
佐々木さんは『ぜひともこれを書いてください。スケジュールもメールで送りますから』と言って、電話のやり取りは終わった。
俺は電話を切ると「んー……」と伸びをして、畳に転がった。毛羽立っている黄ばんだ畳の匂いも、最初は途方に暮れたものの、今はすっかりと慣れ親しんでいる。
と、玄関のほうで音がした。黒いコートを着ている素子さんだった。
「ただいま帰りましたー」
俺は慌てて起き上がると、素子さんはにこにこ笑って管理人室に入ってきた。
「ああ、お帰りなさい、素子さん。試験はどうでしたか?」
「はい。この感触だと無事に資格試験は通ったんじゃないかなと思います。あとは……本命の面接が通ったらということですけど」
「ああ……はい、そうですね。それが一番ですから」
素子さんは素子さんで、秋からこつこつと資格試験を受け続けて、順調に転職に有利な資格の取得を繰り返していた。半年以上ここで衣食住の心配もなく、貯金も貯めることができたから、じっくりと自分の資格や待遇の合う転職先を探しているところだ。
素子さんはにこにこ笑ったまま、コートを脱いでハンガーにかけた。下にはリクルートスーツを着ていた。冬だとかなり寒そうに見えるので、俺は慌ててストーブの位置を彼女に当たるようずらして、ガスを点けてやかんを沸かしはじめた。
座卓に並んでいるメモを見て、素子さんは目を瞬かせた。
「亮太くんも、夏からずっとやっていた企画、どうなりましたか? あんなに企画って通らないものなのかって、横で見ていて驚きましたけど」
「あー……心配かけてすみません。例の企画、無事に通りました。スケジュールが送られてき次第、小説書きはじめます」
「わあ、おめでとうございます! 私たち、ようやく再スタートを切れそうですね」
そうにこやかに言われて、俺は内心「うっ」と呻いた。
まさか言えないもんなあ。今の状況のほうが居心地がいいから、夫婦生活を終わらせないでくれなんて。
俺も無事に次の原稿が決まったし、素子さんだって次の就職先が決まったら……もうここで働く理由だってないんだから。
最初からそういう取引だったしな。俺たちが次の仕事が決まるまで、夫婦のふりをしようっていう。ただ。
素子さんは俺よりも年上な上に、社会経験もあるから、いざというとき俺よりもよっぽど頼りになった。たおやかに見えて、芯がかなり強い人だとは、ここでずっと働いていて何度も思い知ったことだ。
そこで俺がガキみたいなこと言って引き留める権利は、どこにもないもんな……。
お湯が沸いたところで、素子さんにお茶を淹れてあげた。素子さんみたいに丁寧に淹れるのが苦手な俺は、器に移し替えて少しだけ冷ましてから急須の葉っぱにお湯を入れるという手順を真似しても、どうしても彼女の淹れたものほどおいしくならない。
それでも素子さんは俺が湯呑に注いだお茶を、おいしそうに飲んでくれた。
「そういえば、日名大のほうも、もうそろそろ冬休みですね」
彼女が話を向けてくれたことで、俺は思考を打ち切って「そういえばそうですね」と頷いた。
「夏休み中は実家に帰らない子たち多かったですけど、年末年始はどうなるんでしょうねえ」
「皆にアンケートを取りましたけど、なんか戻らない子が多いですよね」
年末年始は基本的に事務所も休みだ。当然食材は送られてこないから、食事の用意も自主的にしてもらうことになる。
この辺りだったら年末年始でも営業しているファミレスもあるし、コンビニやスーパーもあるから、年末年始の一週間くらいだったら、どんなに料理が苦手な子でも生きながらえそうなんだよな。
アンケートを取っているのは、年末年始の一週間、俺たちが食事の世話をしたほうがいいのかよくないのかという意味もある。まあ俺も素子さんも年末年始は、久々の休暇を惰眠で終わらせるんだろうなとは思っているけど。
でも。ひとりだけ未だにアンケートを出してない子がいる。寮監を任せられ、基本的に優等生なはずの琴吹さんだけ、未だにアンケートを返してくれない。
「どうしたんでしょうねえ、普段だったらアプリのグループチャットでもすぐに返事をくれますのに」
「実家に帰るか帰らないか、バイトのシフトとかでギリギリ決まらないとかですかねえ」
彼女の働いている輸入系の石鹸屋だったら、クリスマスプレゼントなどにも使われるだろうから、年末年始ギリギリまで大忙しっていうのはありえそうだなと思う。
と、青陽館の外で声が聞こえる。
「本当に私帰らなくって大丈夫? ……うん……それが心配なんだけど」
この声は琴吹さんで、どうも電話しているらしい。今は皆共通スペースの団らん室でどこかのバンドのライブ映像見るとかではしゃいでいたから、管理人室にいる俺と素子さんくらいしか聞いてないだろうけど。
普段はびっくりするくらいにしっかりした琴吹さんが、少し心配そうな声を上げているのが気がかりだった。
何度か相手に確認するようにしゃべったあと、最後に「体に気を付けてね。私は元気でやってるから」と言って電話を切った。そのまま「ただいまー」と言いながら青陽館の中に入ってくる。
俺はひょっこりと管理人室の窓から顔を出して「お帰りー」と言うと、彼女は少しびっくりしたように背中を仰け反らせた。今年は暖冬らしいけれど、それでも琴吹さんは電話の間ずっと外にいたせいか、鼻が少し赤くなってしまっている。
「ストーブで温まってく? お茶もあるけど」
「ええっと……いいんですか? 管理人さんたちは」
「今は他の子たちはライブではしゃいでるから、琴吹さんもちょっと落ち着いてから行ったほうがいいんじゃないかと思って」
今の話に、管理人だからと言ってどうこう口出しはできないんだけど。でも年末年始のアンケートに答えてもらってないから、ちょっとは話を聞いても悪くないと思う。素子さんは自分のお茶を飲んでから、黙って琴吹さんの分のお茶を淹れはじめた。
琴吹さんは少し困った顔をしたあと、「お邪魔します」と管理人室に入ってきた。
「寒かったでしょう、ストーブどうぞ」
そう言って素子さんは自分が座っていた位置をずらして、琴吹さんにストーブの熱が当たるように配慮する。
「ありがとうございます……すいません、実家の話なんて聞かせちゃって」
「さっきの電話?」
俺が尋ねると、琴吹さんは黙って頷いた。素子さんは「お茶をどうぞ」と琴吹さんにお茶を勧めると、「ありがとうございます」と彼女は湯呑を受け取った。それを両手で掴んで掌を温めるように持つと、彼女は湯呑にふうふうと息を吹きかけてから、ひと口飲んだ。
「実家に戻ってくるなって、親に言われたんですよ。自分は心配だから戻りたいんですけど」
「ん……?」
俺は一瞬意味がわからないでいると、素子さんは少しだけ険しい表情を浮かべた。
琴吹さんはしみじみとした声で続ける。
「うち、かなりの田舎なんですよね。今時女子は高校を出たら、すぐに結婚しろなんて時代錯誤な常識がまかり通っているくらいには」
「それは……」
そういう話は、てっきり大昔の大衆ドラマの中のもので、今時流行らないと思っていた。まさか令和にもなって、その常識を持ち出すような場所があるとは思ってもいなかった。
俺が絶句していると、素子さんがやんわりと口を出す。
「実家に戻ってくるなと言うのは、未だに琴吹さんのご家族の中には、あなたの進学を反対する人がいらっしゃるんですか?」
「お恥ずかしながら、いるんですよねえ。買い物に行くだけで、その日の献立から家族の誰が病気なのかまで、全部地元にばら撒かれてしまうくらいに狭い田舎です。娯楽が他にないんで、人の噂をする以外になにもできないんです。男子としゃべっただけで、その男子と結婚するのかどうかまで、話が勝手に捏造されるなんてのもありました。抜け出すとしたら、遠方に嫁入りするか、進学してそのまま就職を決めるかして、地元と縁を切る以外ないんです」
それは昭和の田舎にありがちな話として耳にしたことはあっても、元号がふたつ変わっても人間なにも変わらないのかと、絶句した。
俺がなにも言えないでいたら、琴吹さんが慌てて「ああ、ごめんなさい管理人さん!」と謝る。
「変な話聞かせちゃって。自分も地元の話は寮の子たちにはできませんから。怖がらせたくないんですよ。あそこをいいところとは思いませんけど、悪いところってレッテル貼るのもなんか違いますから」
「いやあ……俺は別にいいんだけど。大変だったねえ……」
本当にそれしか言えることがなかった。それに素子さんも大きく頷いた。
「今年は残るんでしたら、結構寮に残る子もいますし、皆でカンパして、おせちでも用意しましょうか」
素子さんの提案に、琴吹さんは慌てたように首を振る。
「いや、そんな。悪いですよ! おせちって結構お金かかりますし! つくるのもかなり手間がかかりますから! それに残ってる子たちも、おせちよりも鍋つついてたほうが楽しい子たちばっかりですから!」
「じゃあ、どこかで皆で鍋食べましょうか。料理苦手な子たちが一週間コンビニ弁当だけでも体にあんまりよくないですし」
素子さんの提案に、ようやく硬い表情をしていた琴吹さんの表情も綻んだ。
「わかりました! 完全に年末になったら野菜も高いですから、今の内にカンパを募って買いに行きましょう!」
「はい、そうしましょう。亮太くんもそれで構いませんか?」
「あ、はい。俺は全然大丈夫です」
ふたりが楽しそうに笑っていることに、俺は少なからずほっとした。
普段はしっかりしていて頼りになると思っていた琴吹さんの、あまりにもヘビーな話を目の当たりにしたから、途方に暮れてしまったというのがある。
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