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偽夫婦、トラブルに対処します
4話
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学生街なだけあり、学生のご用達の店舗だけでなく、中学生や高校生対象の塾講師や、診療所の受付など、結構探せば見つかる。
「学生の授業に一番融通が利きそうなのは、この辺りですね。季節限定のバイトでしたら、もうちょっといろいろあるんですけど、早川さんの家庭環境を考えれば、定期的にバイト代が入ったほうがいいでしょうから」
「これだけ見つかったんだから、あとは早川さんにどれか選んでもらって、バイトを辞めるって言えばいいんですよね」
「はい……ちゃんと辞められるといいんですけど」
持ってきたバイト情報をファイルに詰めていたところで、管理人室の電話が鳴った。普段からここの電話は、日名大の事務所や寮の維持管理に使っている業者くらいからしか需要はないんだけれど。
「はい、青陽館管理人室です」
『管理人さん!? あの、迎えに来てもらっていいですか!?』
普段落ち着いているのに声が裏返っているけど……これは琴吹さんだよな。
「ええっと……その声は、琴吹さん? どうかしたかな?」
『早川さんが倒れて……ちょっと打ち所が悪くって救急車で運ばれて……今病院なんです!』
「えっ。ちょっと待って。今どこの病院?」
琴吹さんから病院の名前と場所を聞き出し、電話しながらスマホで位置検索を済ませる。おいおい……いつかは絶対にこうなるだろうと思っていたけど、病院って……まずいだろ。
電話を切ったあと、俺は慌てて財布の中身を確認する。身分証明書はあるから、なんとかなるだろう。
「すいません。ちょっと病院に行ってきます。早川さんが倒れて救急車で運ばれたらしくって……」
「まあ! でしたら、そのときに診断書もらってきてくださいね」
「えっと……? 早川さんそんなに大変なんですか?」
「いえ、これを使ってバイトをさっさと辞めます」
俺は意味がわからないまま「はあ……」とだけ言って、スマホで確認した病院まで出かけることにした。
着いたのはこの辺りでも一番大きい病院で、救急車用の出入り口がわからず受付で聞こうとしたら「管理人さん!」と声をかけられた。琴吹さんだ。
「連絡ありがとう、琴吹さん。早川さんは?」
「あっちです! 緊急のところに!」
救急車で運ばれたからか。琴吹さんに案内されて、俺はそちらへと向かう。
薬品のにおいの漂うそこは、今は急患がいないらしく、人気がない。基本的に物がなにもないのは、ここで応急処置を行っているせいなんだろう。その真ん中にあるストレッチャーに乗って早川さんは寝ていた。
「すみません、彼女の入寮している寮の管理人の黒林です。早川さんは大丈夫でしょうか?」
「ああ、こんにちは。脳震盪を起こしてましたが、しばらく安静にしていたら大丈夫です。念のため、レントゲンはしないといけませんが」
「そんなに悪く?」
「頭を打ちましたので、本当に念のためですよ。ただ頭を打ったことよりも、彼女の状態のほうが心配です。彼女、過労気味ではありませんか? 体自体は健康なんですが、少し疲労が溜まっているように見受けられました。これは監督不行き届きです」
「はい……本当に申し訳ありません」
彼女の担当をしてくれたお医者さんには、さんざん怒られてしまった。医者が怒るって、そりゃ相当まずいんじゃないか。俺は何度も何度も頭を下げてから、最後に「彼女の診断書を書いてもらってもいいでしょうか?」と尋ねる。
「もちろんそれはかまいませんが。どうか彼女にきちんとした生活を送らせてあげてください。働かないといけない理由はいろいろあるんでしょうが……学生の内から健康寿命を削るべきではありません」
そうきっぱりと言い切られて、俺は本当に深く「ありがとうございます」と頭を下げていた。
と、ようやく早川さんは目が覚めたようで、辺りを見て驚いたように目を見開いた。
それを見計らって先生は言う。
「頭を打ちましたから、念のため検査をします。なにもなければ今日はお帰りくださって結構ですから」
そのまま彼女はストレッチャーごと運ばれて行き、看護師さんにより連れて戻ってきたのは、それから一時間後だった。
早川さんは心底申し訳なさそうな顔で、縮こまっている。
「あの……今日は本当に……申し訳ありませんでした。私、授業行く途中で階段から落ちたらしくって……管理人さんも、琴吹さんも、本当に申し訳ありません」
何度も何度も謝る早川さんに、俺よりも早く琴吹さんのほうが駆け寄って、彼女の手をぎゅっと掴む。
「そんなことどっちでもいいから! 検査はどうだった?」
「問題ないって……本当に、ごめんなさい」
そう何度も何度も謝られると、こちらがいじめたようにも感じる。
俺は琴吹さんと早川さんに「とりあえず、タクシー呼ぶからそれで帰ろう」と言って、さっさと帰ることにした。
とにかく、なにがなんでも早川さんに今のバイトを辞めさせないとまずい。休ませないと授業だってまともに受けられないだろうに。でもなあ……。
わかってはいるけれど、その説得に彼女が応じてくれるのかなと、そればかり気を揉んでいる。
****
青陽館に戻ったら、玄関には早川さんと同学年らしい子たちが、心配そうな顔をして集まっていた。
「今日、学校に救急車来たって言ってたけど、大丈夫?」
「病院でどうって?」
それに早川さんもあわあわと答えている。
「ほ、本当に大したことないから! 心配かけてごめん」
「本当?」
「ホントだから……!」
そう話しているのを見ながら、俺は一緒に帰ってきた琴吹さんにこっそりと声をかけておく。
「今、俺が呼び出したら大事扱いされそうだから、琴吹さんのほうから早川さんにあとで管理人室に来るよう言ってくれる? 素子さんもいるから」
「わかりました……あの、早川さんをあんまり怒らないでくださいね? その……病み上がりですし」
「んー。俺も別に早川さんに対してはちっとも怒ってないからなあ。ただブラックバイトは考えもんだなって思ってるだけでさ」
寮監ってだけで、なんでもかんでも琴吹さんに任せるべきでもないけど。俺が心底申し訳なく思いつつもそう言うと、琴吹さんは少しだけ考え込んだように顎に手を当てて視線を落としたあと、ぱっとこちらに顔を上げる。
「まあ、管理人さんたちは優しいですし、あんまり決めつけてこないんで。早川さんをどうぞよろしくお願いします」
そう会釈して団らん室へと去っていった。
彼女にそう言われて、俺は苦笑していた。優しいのは素子さんのほうであって、俺ではないと思うんだけどなあ。ただ頼れる人がいない中、お金がない、仕事がない、住むところまでなくなるかもしれない恐怖を知っているだけで。
年だけ食っていても、大人のふりして説得できる気がしない。このところ細々忙しかったせいで、ちっとも酒を飲めてなかったけど、久しぶりに酒でも飲んでから話をはじめようか……とそこまで考えてすぐに止めた。
酒を入れて寮生の説得なんて無理だろと。
俺は管理人室へ戻ったら、事務仕事をしていた素子さんが顔を上げた。
「素子さん、無事早川さん連れて帰ってきました」
「まあお帰りなさい! それで、診断書は書いていただけましたか?」
「うん。書いてもらったけど。でもこれってどうするんですか?」
診断書を使ってどうのこうのっていうのは、俺の記憶上ちっともない。俺がわからず首を傾げていると、素子さんが淡々と説明する。
「本当だったら、仕事などって辞めるときには二週間以上前には言わないと辞めることができないんですよ。雑過ぎる子だったら、メールやメッセージアプリひとつで辞めるって子もいるんですけど」
「え……じゃあどうするんですか?」
「裏ワザと言いますか、診断書でドクターストップが入ったと証明して、辞めると宣言した上で、残りの働かないといけない日の有給を取ります。元々早川さんは休日にも呼び出しを受けていましたから、アルバイト分の有休を消化してないでしょうからね。有給分もアルバイト料は得られますから、その間に休んで次のバイトに移行するんです」
そう説明されて、俺は目を白黒とさせた。
「……辞めたきゃいつでも辞めればいいと、早川さんはなにも悪くないからと、そう思っていました。アルバイトですし」
「もちろん早川さんはなにも悪くないですから、さっさと辞めるのがベストですけど。ただきちんとした手続きを踏まなかったら、なにかしら言いがかりを付けられてまだ未払いの今月分の給料を支払ってもらえない可能性がありますから」
なるほど正式な手続き踏むっていうのは、給料回収の意味もあるのか。元々早川さんが辞めたくても辞められなかった理由はそこにあるんだから、当然っちゃ当然か。俺はようやく素子さんがもろもろをきっちりしたがっていた意図がわかって納得した。だとしたら、あとは本当に早川さんに辞めるよう説得すればいいんだな。
俺たちは炊飯器に残っていたご飯をさらってお茶漬けにして昼ご飯を済まし、早川さんを待った。しばらく待っていたら、ようやく管理人室のドアが鳴った。
「はい」
「あ、あの……早川です」
控えめな声がかけられた。
「どうぞ」
「あの、失礼します……さっきは、本当にありがとうございました……」
そのまま俺たちは座布団を勧めて、早川さんを招き入れた。
さっきまでストレッチャーでぐうぐう寝ていたせいか、顔色は少しだけよくなっている。俺がどう切り出そうと思っていたら、先に素子さんのほうが口を開いた。
「体はもう大丈夫そう? 救急車で運ばれたっていうから、心配してたんですよ」
「あ……少し寝かせてもらいましたから、もう大丈夫です。ですから、もうバイト……」
おい、おい。 なんで倒れて救急車で運ばれたと思っているんだよ。そこはもう、せめてバイトを休むって言うところだろうよ。
思わず俺は、声を上げていた。
「あーあーあーあー……悪いけど早川さん。あのバイトはもう辞めたほうがいい。念のため近所を見て回ったら、意外といいバイトは転がっていたから、そっちに移ったほうがいい」
「え……ですけど……」
「……俺たちもなにも、早川さんに学業に専念しろって説教したい訳じゃない。ただブラックバイトを体を壊してまで続ける必要はないってだけで」
「でも……」
早川さんは本当に迷った顔をして、膝の上で手を握って視線をさまよわせている。
「……いきなり私が辞めたら、バイト先に迷惑がかかりますから……」
そ・れ・かぁ……。俺は天井を仰ぐ。
あれだ、一生懸命働いていたから、余計に一緒に仕事した人に迷惑をかけるとか考えてしまっているんだ。残念だけれど、働いている人間を大事にしない人とずっと仕事していても、プライベートを削られるからいいことなんてないと思うけど。
俺はどう言ったものかと考えて、ふと思いついた。
「あのさあ、早川さんって本は読む?」
「はい?」
「亮太くん?」
いきなり全く知らない話を投げかけた途端、早川さんも素子さんも困った顔でこちらを窺った。そりゃそうなるよな、残念ながら俺も、自分以外で本を読む人間なんて同業者以外知らないし。
どう言ったもんかなあと思いながら、俺は座卓に置いている仕事用のアイデアメモを手に取る。
「俺も管理人の仕事をしつつも小説書くのを仕事にしているんだけどさあ。仕事していても、ときどき極端に話が合わない人に会うことがあるんだよな。なにが合わないのかっていうのが、これが上手く言葉にできない。多分あっちは人間的にはいい人なんだと思うけど、仕事する相手としては全然合わないってことがたまにあるんだよなあ。そういう人と仕事していると、あれ? あれ? っていうのがひとつ、またひとつと続いていく。それが原因でだんだんと筆が鈍くなる。そうなったらはっきり言って仕事にならない。作品が完成しないし。だから、逃げた」
「……逃げて、いいんですか?」
「というか、早川さんは逃げずに頑張り過ぎたせいで、体を壊したんだ。でも体を壊したほど頑張ったんだから、もうこれ以上頑張らなくってもいい。今だったら、逃げ切ることもできるし、少し体を休めてから、また新しいバイトをはじめていいんだからさあ」
俺が言いたいことを言うと、横で話を聞いていた素子さんが、言葉を継いでくれた。
「診断書を書いてもらいましたから、それと一緒に退職届を出したら、その日のうちに辞められると思いますし、働いた分の給料も支払われるはずです。心配なら、私たちも着いていきますよ」
そこまで言い切ると、早川さんは堰を切ったかのように泣きはじめた。管理人室の大して広くない部屋に、早川さんのすすり泣く声だけが響く。
「……あの……ありがとうございます……ありがとうございます……でも……どうしてそこまで親切にしてくれるんですか……?」
そう尋ねられて、俺も素子さんも顔を見合わせた。
ふたりとも、それなりに苦労していると思う。人からは大したことないと言われてしまうかもしれないけど、本人たちからしてみれば重要なことなんて、いくらでもある。
「まあ、管理人だし? 俺たちもここで一生懸命働いているから」
「はい。ですから、ここに住んでいる子たちを家族……というには図々しいかもしれないですけど、せめて気持ちよく過ごして欲しいですから。それじゃあ、駄目ですか?」
「……本当に、ありがとうございます」
そうわんわん泣いた早川さんを、宥めすかせて泣き止ませてから、どうにか部屋まで帰らせた。
さて、あとは。早川さんを無事に辞めさせるだけだ。
「あ、早川さんが退職届を出すとき、一緒についていってあげてください」
そう素子さんに言われて、俺はきょとんとした。
「そりゃあの状態の早川さんひとりで行かせるのは心元ないけど……それって過保護っぽくないですか?」
「いえ、そのほうが絶対に早川さん、すぐに辞められますから」
そうなのか。保護者がいるのといないのだったら、どこも違うのかな。俺はひたすら首を傾げつつも「ええ、まあ」と頷いた。
「学生の授業に一番融通が利きそうなのは、この辺りですね。季節限定のバイトでしたら、もうちょっといろいろあるんですけど、早川さんの家庭環境を考えれば、定期的にバイト代が入ったほうがいいでしょうから」
「これだけ見つかったんだから、あとは早川さんにどれか選んでもらって、バイトを辞めるって言えばいいんですよね」
「はい……ちゃんと辞められるといいんですけど」
持ってきたバイト情報をファイルに詰めていたところで、管理人室の電話が鳴った。普段からここの電話は、日名大の事務所や寮の維持管理に使っている業者くらいからしか需要はないんだけれど。
「はい、青陽館管理人室です」
『管理人さん!? あの、迎えに来てもらっていいですか!?』
普段落ち着いているのに声が裏返っているけど……これは琴吹さんだよな。
「ええっと……その声は、琴吹さん? どうかしたかな?」
『早川さんが倒れて……ちょっと打ち所が悪くって救急車で運ばれて……今病院なんです!』
「えっ。ちょっと待って。今どこの病院?」
琴吹さんから病院の名前と場所を聞き出し、電話しながらスマホで位置検索を済ませる。おいおい……いつかは絶対にこうなるだろうと思っていたけど、病院って……まずいだろ。
電話を切ったあと、俺は慌てて財布の中身を確認する。身分証明書はあるから、なんとかなるだろう。
「すいません。ちょっと病院に行ってきます。早川さんが倒れて救急車で運ばれたらしくって……」
「まあ! でしたら、そのときに診断書もらってきてくださいね」
「えっと……? 早川さんそんなに大変なんですか?」
「いえ、これを使ってバイトをさっさと辞めます」
俺は意味がわからないまま「はあ……」とだけ言って、スマホで確認した病院まで出かけることにした。
着いたのはこの辺りでも一番大きい病院で、救急車用の出入り口がわからず受付で聞こうとしたら「管理人さん!」と声をかけられた。琴吹さんだ。
「連絡ありがとう、琴吹さん。早川さんは?」
「あっちです! 緊急のところに!」
救急車で運ばれたからか。琴吹さんに案内されて、俺はそちらへと向かう。
薬品のにおいの漂うそこは、今は急患がいないらしく、人気がない。基本的に物がなにもないのは、ここで応急処置を行っているせいなんだろう。その真ん中にあるストレッチャーに乗って早川さんは寝ていた。
「すみません、彼女の入寮している寮の管理人の黒林です。早川さんは大丈夫でしょうか?」
「ああ、こんにちは。脳震盪を起こしてましたが、しばらく安静にしていたら大丈夫です。念のため、レントゲンはしないといけませんが」
「そんなに悪く?」
「頭を打ちましたので、本当に念のためですよ。ただ頭を打ったことよりも、彼女の状態のほうが心配です。彼女、過労気味ではありませんか? 体自体は健康なんですが、少し疲労が溜まっているように見受けられました。これは監督不行き届きです」
「はい……本当に申し訳ありません」
彼女の担当をしてくれたお医者さんには、さんざん怒られてしまった。医者が怒るって、そりゃ相当まずいんじゃないか。俺は何度も何度も頭を下げてから、最後に「彼女の診断書を書いてもらってもいいでしょうか?」と尋ねる。
「もちろんそれはかまいませんが。どうか彼女にきちんとした生活を送らせてあげてください。働かないといけない理由はいろいろあるんでしょうが……学生の内から健康寿命を削るべきではありません」
そうきっぱりと言い切られて、俺は本当に深く「ありがとうございます」と頭を下げていた。
と、ようやく早川さんは目が覚めたようで、辺りを見て驚いたように目を見開いた。
それを見計らって先生は言う。
「頭を打ちましたから、念のため検査をします。なにもなければ今日はお帰りくださって結構ですから」
そのまま彼女はストレッチャーごと運ばれて行き、看護師さんにより連れて戻ってきたのは、それから一時間後だった。
早川さんは心底申し訳なさそうな顔で、縮こまっている。
「あの……今日は本当に……申し訳ありませんでした。私、授業行く途中で階段から落ちたらしくって……管理人さんも、琴吹さんも、本当に申し訳ありません」
何度も何度も謝る早川さんに、俺よりも早く琴吹さんのほうが駆け寄って、彼女の手をぎゅっと掴む。
「そんなことどっちでもいいから! 検査はどうだった?」
「問題ないって……本当に、ごめんなさい」
そう何度も何度も謝られると、こちらがいじめたようにも感じる。
俺は琴吹さんと早川さんに「とりあえず、タクシー呼ぶからそれで帰ろう」と言って、さっさと帰ることにした。
とにかく、なにがなんでも早川さんに今のバイトを辞めさせないとまずい。休ませないと授業だってまともに受けられないだろうに。でもなあ……。
わかってはいるけれど、その説得に彼女が応じてくれるのかなと、そればかり気を揉んでいる。
****
青陽館に戻ったら、玄関には早川さんと同学年らしい子たちが、心配そうな顔をして集まっていた。
「今日、学校に救急車来たって言ってたけど、大丈夫?」
「病院でどうって?」
それに早川さんもあわあわと答えている。
「ほ、本当に大したことないから! 心配かけてごめん」
「本当?」
「ホントだから……!」
そう話しているのを見ながら、俺は一緒に帰ってきた琴吹さんにこっそりと声をかけておく。
「今、俺が呼び出したら大事扱いされそうだから、琴吹さんのほうから早川さんにあとで管理人室に来るよう言ってくれる? 素子さんもいるから」
「わかりました……あの、早川さんをあんまり怒らないでくださいね? その……病み上がりですし」
「んー。俺も別に早川さんに対してはちっとも怒ってないからなあ。ただブラックバイトは考えもんだなって思ってるだけでさ」
寮監ってだけで、なんでもかんでも琴吹さんに任せるべきでもないけど。俺が心底申し訳なく思いつつもそう言うと、琴吹さんは少しだけ考え込んだように顎に手を当てて視線を落としたあと、ぱっとこちらに顔を上げる。
「まあ、管理人さんたちは優しいですし、あんまり決めつけてこないんで。早川さんをどうぞよろしくお願いします」
そう会釈して団らん室へと去っていった。
彼女にそう言われて、俺は苦笑していた。優しいのは素子さんのほうであって、俺ではないと思うんだけどなあ。ただ頼れる人がいない中、お金がない、仕事がない、住むところまでなくなるかもしれない恐怖を知っているだけで。
年だけ食っていても、大人のふりして説得できる気がしない。このところ細々忙しかったせいで、ちっとも酒を飲めてなかったけど、久しぶりに酒でも飲んでから話をはじめようか……とそこまで考えてすぐに止めた。
酒を入れて寮生の説得なんて無理だろと。
俺は管理人室へ戻ったら、事務仕事をしていた素子さんが顔を上げた。
「素子さん、無事早川さん連れて帰ってきました」
「まあお帰りなさい! それで、診断書は書いていただけましたか?」
「うん。書いてもらったけど。でもこれってどうするんですか?」
診断書を使ってどうのこうのっていうのは、俺の記憶上ちっともない。俺がわからず首を傾げていると、素子さんが淡々と説明する。
「本当だったら、仕事などって辞めるときには二週間以上前には言わないと辞めることができないんですよ。雑過ぎる子だったら、メールやメッセージアプリひとつで辞めるって子もいるんですけど」
「え……じゃあどうするんですか?」
「裏ワザと言いますか、診断書でドクターストップが入ったと証明して、辞めると宣言した上で、残りの働かないといけない日の有給を取ります。元々早川さんは休日にも呼び出しを受けていましたから、アルバイト分の有休を消化してないでしょうからね。有給分もアルバイト料は得られますから、その間に休んで次のバイトに移行するんです」
そう説明されて、俺は目を白黒とさせた。
「……辞めたきゃいつでも辞めればいいと、早川さんはなにも悪くないからと、そう思っていました。アルバイトですし」
「もちろん早川さんはなにも悪くないですから、さっさと辞めるのがベストですけど。ただきちんとした手続きを踏まなかったら、なにかしら言いがかりを付けられてまだ未払いの今月分の給料を支払ってもらえない可能性がありますから」
なるほど正式な手続き踏むっていうのは、給料回収の意味もあるのか。元々早川さんが辞めたくても辞められなかった理由はそこにあるんだから、当然っちゃ当然か。俺はようやく素子さんがもろもろをきっちりしたがっていた意図がわかって納得した。だとしたら、あとは本当に早川さんに辞めるよう説得すればいいんだな。
俺たちは炊飯器に残っていたご飯をさらってお茶漬けにして昼ご飯を済まし、早川さんを待った。しばらく待っていたら、ようやく管理人室のドアが鳴った。
「はい」
「あ、あの……早川です」
控えめな声がかけられた。
「どうぞ」
「あの、失礼します……さっきは、本当にありがとうございました……」
そのまま俺たちは座布団を勧めて、早川さんを招き入れた。
さっきまでストレッチャーでぐうぐう寝ていたせいか、顔色は少しだけよくなっている。俺がどう切り出そうと思っていたら、先に素子さんのほうが口を開いた。
「体はもう大丈夫そう? 救急車で運ばれたっていうから、心配してたんですよ」
「あ……少し寝かせてもらいましたから、もう大丈夫です。ですから、もうバイト……」
おい、おい。 なんで倒れて救急車で運ばれたと思っているんだよ。そこはもう、せめてバイトを休むって言うところだろうよ。
思わず俺は、声を上げていた。
「あーあーあーあー……悪いけど早川さん。あのバイトはもう辞めたほうがいい。念のため近所を見て回ったら、意外といいバイトは転がっていたから、そっちに移ったほうがいい」
「え……ですけど……」
「……俺たちもなにも、早川さんに学業に専念しろって説教したい訳じゃない。ただブラックバイトを体を壊してまで続ける必要はないってだけで」
「でも……」
早川さんは本当に迷った顔をして、膝の上で手を握って視線をさまよわせている。
「……いきなり私が辞めたら、バイト先に迷惑がかかりますから……」
そ・れ・かぁ……。俺は天井を仰ぐ。
あれだ、一生懸命働いていたから、余計に一緒に仕事した人に迷惑をかけるとか考えてしまっているんだ。残念だけれど、働いている人間を大事にしない人とずっと仕事していても、プライベートを削られるからいいことなんてないと思うけど。
俺はどう言ったものかと考えて、ふと思いついた。
「あのさあ、早川さんって本は読む?」
「はい?」
「亮太くん?」
いきなり全く知らない話を投げかけた途端、早川さんも素子さんも困った顔でこちらを窺った。そりゃそうなるよな、残念ながら俺も、自分以外で本を読む人間なんて同業者以外知らないし。
どう言ったもんかなあと思いながら、俺は座卓に置いている仕事用のアイデアメモを手に取る。
「俺も管理人の仕事をしつつも小説書くのを仕事にしているんだけどさあ。仕事していても、ときどき極端に話が合わない人に会うことがあるんだよな。なにが合わないのかっていうのが、これが上手く言葉にできない。多分あっちは人間的にはいい人なんだと思うけど、仕事する相手としては全然合わないってことがたまにあるんだよなあ。そういう人と仕事していると、あれ? あれ? っていうのがひとつ、またひとつと続いていく。それが原因でだんだんと筆が鈍くなる。そうなったらはっきり言って仕事にならない。作品が完成しないし。だから、逃げた」
「……逃げて、いいんですか?」
「というか、早川さんは逃げずに頑張り過ぎたせいで、体を壊したんだ。でも体を壊したほど頑張ったんだから、もうこれ以上頑張らなくってもいい。今だったら、逃げ切ることもできるし、少し体を休めてから、また新しいバイトをはじめていいんだからさあ」
俺が言いたいことを言うと、横で話を聞いていた素子さんが、言葉を継いでくれた。
「診断書を書いてもらいましたから、それと一緒に退職届を出したら、その日のうちに辞められると思いますし、働いた分の給料も支払われるはずです。心配なら、私たちも着いていきますよ」
そこまで言い切ると、早川さんは堰を切ったかのように泣きはじめた。管理人室の大して広くない部屋に、早川さんのすすり泣く声だけが響く。
「……あの……ありがとうございます……ありがとうございます……でも……どうしてそこまで親切にしてくれるんですか……?」
そう尋ねられて、俺も素子さんも顔を見合わせた。
ふたりとも、それなりに苦労していると思う。人からは大したことないと言われてしまうかもしれないけど、本人たちからしてみれば重要なことなんて、いくらでもある。
「まあ、管理人だし? 俺たちもここで一生懸命働いているから」
「はい。ですから、ここに住んでいる子たちを家族……というには図々しいかもしれないですけど、せめて気持ちよく過ごして欲しいですから。それじゃあ、駄目ですか?」
「……本当に、ありがとうございます」
そうわんわん泣いた早川さんを、宥めすかせて泣き止ませてから、どうにか部屋まで帰らせた。
さて、あとは。早川さんを無事に辞めさせるだけだ。
「あ、早川さんが退職届を出すとき、一緒についていってあげてください」
そう素子さんに言われて、俺はきょとんとした。
「そりゃあの状態の早川さんひとりで行かせるのは心元ないけど……それって過保護っぽくないですか?」
「いえ、そのほうが絶対に早川さん、すぐに辞められますから」
そうなのか。保護者がいるのといないのだったら、どこも違うのかな。俺はひたすら首を傾げつつも「ええ、まあ」と頷いた。
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