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幸せを噛み締めたくても
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雨が降っている。人の家の庭先ではあじさいが青く咲いている。それを見ながら、私と榎本くんはドラッグストアへと向かった。
私がドラッグストアに行ったことがないことを言ったら、榎本くんは少しだけ困った顔をした。雨のせいか、彼の癖毛はぶわりと広がり、困った顔をするとパグを思わせた。
「ドラッグストアは、ポイントとか溜めて使えば、スーパーよりも安く買える場合があるけど」
「近所にないっていうのがひとつ。人通り多い場所に行っちゃ駄目って言われ続けていたから、どうしてもセールの多い場所に行けなかったのがひとつ。中学になって家事全般任せられるようになるまで、スーパーすら行ったことなかったけど、スーパーに行くようになってからは、本当にスーパーのチラシアプリばっかり見てたからなあ……」
十代にしてはあまりにも主婦じみた発想で、我ながら世間からずれ過ぎている。それを聞いていた榎本くんは「そっかあ」と言った。
「スーパーであれこれ買って、チラシアプリ使うんだったら、まあたしかにそうなるのかもな」
「うん、安いところ求めて自転車で走り回ってたから」
「しっかししてるんだなあ」
「単純に、渡されたお金が思ってるより少ないだけだよ」
ふたりでそう言い合っていたら、見覚えのある看板が見えてきた。
ショッピングモールに入っているような小さな店ではなくて、一店舗どっしりと郊外に構えているドラッグストアは、駐車場や駐輪場も広く、警備員がせかせかと整備をしなかったら、どこかで事故が起こりそうな勢いだった。
「大きい。すごい」
「郊外のスーパーもこんなもんじゃない? ホームセンターとかも」
「私、本当にこういうところに行ったことがないんだよ。家電屋とかも行ってみたくても行ったことないし」
私がうきうきしている間に、榎本くんはカゴを手に取って中へと入っていった。私も慌てて着いていく。
手前にはアプリや通販で使えるカード類が引っ掛けてあり、歯ブラシコーナー、文房具コーナー、ペットコーナーとあり、その奥にようやく薬や生活用品が置いてある。
「……ドラッグストアって言っている割には、意外と薬とかって売ってないね?」
「ちゃんとした薬って、薬剤師や販売員がいないと売っちゃ駄目だから。この手の店って、薬剤師がいるときといないときとあるんだよ」
「へえ……」
教えられれば納得する話も、聞かないと案外わからない。
私が榎本くんと物珍しげに介護コーナーに向かう途中。コスメコーナーが大きく展開してあるのに目が留まった。
「ああ……」
「なに? 東上さんもああいうの、興味あるの?」
「……あるというか……興味あっても、持ってないというか……」
一番ニキビがひどかった頃に、ニキビを洗い流しやすい洗顔料や炎症止めのクリームを買って以来、この手のものからは縁遠かった。ニキビ対策以外だったら、せいぜい薬用リップクリームくらいだ。興味はあっても、家事で年不相応にかさかさした手では、なんだかもったいないような気がして手が伸びなかった。
でも……ひとつくらいは欲しい。安くて綺麗なものはないか。私はキョロキョロと視線を彷徨わせている中、それらを黙って見ていた榎本くんは「ちょっとばあちゃんの買ってくるね」と言い残して、私をコスメコーナーに置き去りにした。私は「う、うん」と言いながら、怖々と見ていた。
綺麗な色の口紅。夏に使えそうな日焼け止め入りBBクリーム。汗でも流れないファンデーション。どれを買えばいいのか、どれを使えばいいのかわからず、そわそわとしていたところで「お探しの商品はありますか?」と声をかけられて固まった。
綺麗な化粧をしたお姉さんだった。どうも化粧品メーカーから出向の人らしく、いちブース設けられてそこにいた。私はあわあわとする。
「……化粧品、持ってなくって。なにを買えばいいのか」
「高校生ですと、あんまり濃い化粧品ですと綺麗な肌が台無しになってしまいますからねえ。お客様の肌も綺麗ですし、最初はBBクリームを塗ってから、色つきのリップクリームがよろしいですよ」
そう言って、お姉さんはBBクリームの見本を三点と、色つきリップクリームの見本を三点持ってきてくれた。
「肌色がありますから、どれが合うかはあらかじめ見本を手の甲に載せて、薄く伸ばしてから確認してくださいね」
「どうなったら、合ってるってことになるんでしょうか?」
「そうですねえ。たとえば伸ばしたときに、あまりに地の肌とクリームの色が浮きすぎてしまった場合、それは相性がよろしくないですね。肌が焼けやすい人と、焼きにくい人ですと、素肌の落差が大きいですから」
そう言いながら、見本を三つそれぞれ手の甲に載せてくれ、「伸ばしてどれが一番いいか見てみてくださいね」と教えてくれた。私が一番肌に合ったのは、一番濃い色だった。すぐ日に焼ける肌は、濃い色が一番よかったらしい。
それを確認したら、お姉さんはオレンジ系のリップクリームを出してくれた。
「この肌色でしたら、このリップクリームが一番似合いますよ」
「そう……なんですか。でも」
値段をちらりと見た。私のお小遣いでは、とてもじゃないけど買えそうもない。ここまでしてもらったのに、買えないのも……。私がそれを困って言い淀んでいたところで。
私がお姉さんから手渡されたリップクリームが後ろからひょいと取り上げられた。
買い物が終わったらしい榎本くんは、値段を一瞥すると「これ欲しいんで、商品ください」と言った。私はそれに開いた口が塞がらなくなった。
「い、いいよ……! 悪いよ! 私、ただドラッグストアに行ってみたかっただけで……」
「いや。俺の買い物に付き合ってくれたから」
「いやいやいや、私が単純に行きたいとついてきたからであって……」
「というより、普段からのお礼だから」
お姉さんの視線は気のせいか生暖かい。それを受けながら、榎本くんはいつものマイペースさでレジにUターンしていく。
「お礼って?」
「一緒にご飯食べて、ノートコピーさせてくれてるお礼。さすがに何度も何度もノートをコピーさせてもらってるのに、こっちはなんにも返せてねえから」
「さくらんぼとか、くれたじゃない……!」
「あれはばあちゃんからのお礼で、俺全然できてねえもん」
そう言って本当に軽いノリでレジに言って、シールだけ貼っている剥き身のそれを、ポンと私の手に渡してくれた。
そして、渡したあとに「んーんーんーんー……」と首を捻ってしまった。
「……でもよくよく考えたら、付き合ってもいないのにリップクリームって、キモいか? ごめん。考えが足りなかった」
「キ、キモくなんか」
「うん?」
「……キモくなんか、ないよ。榎本くん。ありがとう。大事に使うから」
それでも校則じゃ化粧は禁止だし、色つきのリップクリームだってグレーゾーンだ。せいぜい休みの日に塗るので精一杯だ。
私が鞄の中に入れたのに、榎本くんは「うん」と頷いた。
****
ふたりで店を出た頃、雨もそうだけれど風もどんどんと強くなってきた。榎本くんの持っている介護用品の入った袋だって、ふたりで傘をくっつけていても、横から流れてきた風と雨粒で濡れてしまう。
なによりも。さっきから私の傘がバキバキと音を立てている。
「東上さん、傘大丈夫?」
「古い訳じゃないんだけど……百均の傘だからかなあ……」
あまり高い傘ではないけど普通の雨でだったらなんともないから普通に使っていたけれど。こうも風になぶられて帰ったことはなく、だんだんバキバキという音と一緒に、ブチブチという音まで聞こえてきた。
とうとう傘に張り巡らせていた布が、風になぶられて飛ばされてしまった。
「ああっ!」
「わあ」
榎本くんは黙って私に傘を差し出すのに、私は慌てる。
「濡れちゃうよ!」
「でも……傘、俺のしかないし」
「一緒に入ろう! 私が袋持つから、榎本くんは傘持って!」
「……いや、悪いよ」
「榎本くんのほうが背が高い」
実際にのっそりと歩く榎本くんだけれど、身長は170は越えているから、160ない私よりも身長は高い。私の言葉に榎本くんは「んー……」と言いながら、私に「重いよ」と言ってから袋を渡してくれた。
たしかに指に食い込んで、思いの外重い。私に袋を手渡してから、傘を大きく上に掲げてくれた。これで濡れないけれど。
少しだけ肩と腕がぶつかる。そこで「ごめん」とどちらがともなく離れるものの、離れ過ぎると傘から出てしまうため、結局は触れるか触れないかで一緒に歩くこととなった。
傘に散らばる雨の音。ときおり吹き抜ける強い風。制服が貼り付く湿気。どことなく気まずい傘の下。なんとか空気を変えたくて、私は口を開いた。
「リップクリーム、ありがとう……嬉しい」
「いや、別に。本当に」
「大事に使うから」
「いや、そこまで大事にしなくっても……なんというか。臭くない?」
「どうして?」
「……ばあちゃんの介護をするようになってから、そうよく言われるから」
それにどう答えたらいいのかわからなかった。
彼からするにおいは、わかる人にはわかるにおいだから、わかる人だったらわざわざ口にはしない。でもわからない人からしてみれば、なに悪臭撒き散らして学校に来るんだになってしまう。
どうして学校に来るときの榎本くんが、寄る辺なく見えるのかがなんとなくわかってしまった。私はしばらく考えてから、言葉を選んだ。
「いいにおいじゃないとは思う。でもこのにおいがなかったら、私は榎本くんに会えなかった」
「どういう意味?」
「……うちの家、お姉ちゃんの病気のことが原因でガッタガッタだったから。私も中学時代には、友達のグループからはみ出ちゃったから、どうしたらいいのかわからなかった。そのときに、知っているにおいを嗅いで、仲間だと思った……実際には、いろいろ違うのかもしれないけれど」
不謹慎だと言われてしまったらそれまでだ。不謹慎だと言われてしまったら、もう黙るしかなくなるから。その中でも、私は初めて仲間だと思える人に会えた……きっと日本のあちこちには私みたいな人がいるのかもしれないけれど、大したことないって言われてしまったらそれまでだけれど、私の町では見つからなかったから、見つけられたことが嬉しかったんだ。
「だから、嬉しかったんだ……ありがとう」
「……うん。そっか。そっか」
雨の音。むせかえるように背中から流れる汗。茂みに潜んだ虫の声。
ただこうして歩いているときだけは、私たちは普通の高校生になれたような気がした。私たちはふたりとも普通からはみ出てしまって途方に暮れていたけれど、今だけは、お姉ちゃんに買ってきている少女マンガの登場人物になれたような気がした。
私がドラッグストアに行ったことがないことを言ったら、榎本くんは少しだけ困った顔をした。雨のせいか、彼の癖毛はぶわりと広がり、困った顔をするとパグを思わせた。
「ドラッグストアは、ポイントとか溜めて使えば、スーパーよりも安く買える場合があるけど」
「近所にないっていうのがひとつ。人通り多い場所に行っちゃ駄目って言われ続けていたから、どうしてもセールの多い場所に行けなかったのがひとつ。中学になって家事全般任せられるようになるまで、スーパーすら行ったことなかったけど、スーパーに行くようになってからは、本当にスーパーのチラシアプリばっかり見てたからなあ……」
十代にしてはあまりにも主婦じみた発想で、我ながら世間からずれ過ぎている。それを聞いていた榎本くんは「そっかあ」と言った。
「スーパーであれこれ買って、チラシアプリ使うんだったら、まあたしかにそうなるのかもな」
「うん、安いところ求めて自転車で走り回ってたから」
「しっかししてるんだなあ」
「単純に、渡されたお金が思ってるより少ないだけだよ」
ふたりでそう言い合っていたら、見覚えのある看板が見えてきた。
ショッピングモールに入っているような小さな店ではなくて、一店舗どっしりと郊外に構えているドラッグストアは、駐車場や駐輪場も広く、警備員がせかせかと整備をしなかったら、どこかで事故が起こりそうな勢いだった。
「大きい。すごい」
「郊外のスーパーもこんなもんじゃない? ホームセンターとかも」
「私、本当にこういうところに行ったことがないんだよ。家電屋とかも行ってみたくても行ったことないし」
私がうきうきしている間に、榎本くんはカゴを手に取って中へと入っていった。私も慌てて着いていく。
手前にはアプリや通販で使えるカード類が引っ掛けてあり、歯ブラシコーナー、文房具コーナー、ペットコーナーとあり、その奥にようやく薬や生活用品が置いてある。
「……ドラッグストアって言っている割には、意外と薬とかって売ってないね?」
「ちゃんとした薬って、薬剤師や販売員がいないと売っちゃ駄目だから。この手の店って、薬剤師がいるときといないときとあるんだよ」
「へえ……」
教えられれば納得する話も、聞かないと案外わからない。
私が榎本くんと物珍しげに介護コーナーに向かう途中。コスメコーナーが大きく展開してあるのに目が留まった。
「ああ……」
「なに? 東上さんもああいうの、興味あるの?」
「……あるというか……興味あっても、持ってないというか……」
一番ニキビがひどかった頃に、ニキビを洗い流しやすい洗顔料や炎症止めのクリームを買って以来、この手のものからは縁遠かった。ニキビ対策以外だったら、せいぜい薬用リップクリームくらいだ。興味はあっても、家事で年不相応にかさかさした手では、なんだかもったいないような気がして手が伸びなかった。
でも……ひとつくらいは欲しい。安くて綺麗なものはないか。私はキョロキョロと視線を彷徨わせている中、それらを黙って見ていた榎本くんは「ちょっとばあちゃんの買ってくるね」と言い残して、私をコスメコーナーに置き去りにした。私は「う、うん」と言いながら、怖々と見ていた。
綺麗な色の口紅。夏に使えそうな日焼け止め入りBBクリーム。汗でも流れないファンデーション。どれを買えばいいのか、どれを使えばいいのかわからず、そわそわとしていたところで「お探しの商品はありますか?」と声をかけられて固まった。
綺麗な化粧をしたお姉さんだった。どうも化粧品メーカーから出向の人らしく、いちブース設けられてそこにいた。私はあわあわとする。
「……化粧品、持ってなくって。なにを買えばいいのか」
「高校生ですと、あんまり濃い化粧品ですと綺麗な肌が台無しになってしまいますからねえ。お客様の肌も綺麗ですし、最初はBBクリームを塗ってから、色つきのリップクリームがよろしいですよ」
そう言って、お姉さんはBBクリームの見本を三点と、色つきリップクリームの見本を三点持ってきてくれた。
「肌色がありますから、どれが合うかはあらかじめ見本を手の甲に載せて、薄く伸ばしてから確認してくださいね」
「どうなったら、合ってるってことになるんでしょうか?」
「そうですねえ。たとえば伸ばしたときに、あまりに地の肌とクリームの色が浮きすぎてしまった場合、それは相性がよろしくないですね。肌が焼けやすい人と、焼きにくい人ですと、素肌の落差が大きいですから」
そう言いながら、見本を三つそれぞれ手の甲に載せてくれ、「伸ばしてどれが一番いいか見てみてくださいね」と教えてくれた。私が一番肌に合ったのは、一番濃い色だった。すぐ日に焼ける肌は、濃い色が一番よかったらしい。
それを確認したら、お姉さんはオレンジ系のリップクリームを出してくれた。
「この肌色でしたら、このリップクリームが一番似合いますよ」
「そう……なんですか。でも」
値段をちらりと見た。私のお小遣いでは、とてもじゃないけど買えそうもない。ここまでしてもらったのに、買えないのも……。私がそれを困って言い淀んでいたところで。
私がお姉さんから手渡されたリップクリームが後ろからひょいと取り上げられた。
買い物が終わったらしい榎本くんは、値段を一瞥すると「これ欲しいんで、商品ください」と言った。私はそれに開いた口が塞がらなくなった。
「い、いいよ……! 悪いよ! 私、ただドラッグストアに行ってみたかっただけで……」
「いや。俺の買い物に付き合ってくれたから」
「いやいやいや、私が単純に行きたいとついてきたからであって……」
「というより、普段からのお礼だから」
お姉さんの視線は気のせいか生暖かい。それを受けながら、榎本くんはいつものマイペースさでレジにUターンしていく。
「お礼って?」
「一緒にご飯食べて、ノートコピーさせてくれてるお礼。さすがに何度も何度もノートをコピーさせてもらってるのに、こっちはなんにも返せてねえから」
「さくらんぼとか、くれたじゃない……!」
「あれはばあちゃんからのお礼で、俺全然できてねえもん」
そう言って本当に軽いノリでレジに言って、シールだけ貼っている剥き身のそれを、ポンと私の手に渡してくれた。
そして、渡したあとに「んーんーんーんー……」と首を捻ってしまった。
「……でもよくよく考えたら、付き合ってもいないのにリップクリームって、キモいか? ごめん。考えが足りなかった」
「キ、キモくなんか」
「うん?」
「……キモくなんか、ないよ。榎本くん。ありがとう。大事に使うから」
それでも校則じゃ化粧は禁止だし、色つきのリップクリームだってグレーゾーンだ。せいぜい休みの日に塗るので精一杯だ。
私が鞄の中に入れたのに、榎本くんは「うん」と頷いた。
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ふたりで店を出た頃、雨もそうだけれど風もどんどんと強くなってきた。榎本くんの持っている介護用品の入った袋だって、ふたりで傘をくっつけていても、横から流れてきた風と雨粒で濡れてしまう。
なによりも。さっきから私の傘がバキバキと音を立てている。
「東上さん、傘大丈夫?」
「古い訳じゃないんだけど……百均の傘だからかなあ……」
あまり高い傘ではないけど普通の雨でだったらなんともないから普通に使っていたけれど。こうも風になぶられて帰ったことはなく、だんだんバキバキという音と一緒に、ブチブチという音まで聞こえてきた。
とうとう傘に張り巡らせていた布が、風になぶられて飛ばされてしまった。
「ああっ!」
「わあ」
榎本くんは黙って私に傘を差し出すのに、私は慌てる。
「濡れちゃうよ!」
「でも……傘、俺のしかないし」
「一緒に入ろう! 私が袋持つから、榎本くんは傘持って!」
「……いや、悪いよ」
「榎本くんのほうが背が高い」
実際にのっそりと歩く榎本くんだけれど、身長は170は越えているから、160ない私よりも身長は高い。私の言葉に榎本くんは「んー……」と言いながら、私に「重いよ」と言ってから袋を渡してくれた。
たしかに指に食い込んで、思いの外重い。私に袋を手渡してから、傘を大きく上に掲げてくれた。これで濡れないけれど。
少しだけ肩と腕がぶつかる。そこで「ごめん」とどちらがともなく離れるものの、離れ過ぎると傘から出てしまうため、結局は触れるか触れないかで一緒に歩くこととなった。
傘に散らばる雨の音。ときおり吹き抜ける強い風。制服が貼り付く湿気。どことなく気まずい傘の下。なんとか空気を変えたくて、私は口を開いた。
「リップクリーム、ありがとう……嬉しい」
「いや、別に。本当に」
「大事に使うから」
「いや、そこまで大事にしなくっても……なんというか。臭くない?」
「どうして?」
「……ばあちゃんの介護をするようになってから、そうよく言われるから」
それにどう答えたらいいのかわからなかった。
彼からするにおいは、わかる人にはわかるにおいだから、わかる人だったらわざわざ口にはしない。でもわからない人からしてみれば、なに悪臭撒き散らして学校に来るんだになってしまう。
どうして学校に来るときの榎本くんが、寄る辺なく見えるのかがなんとなくわかってしまった。私はしばらく考えてから、言葉を選んだ。
「いいにおいじゃないとは思う。でもこのにおいがなかったら、私は榎本くんに会えなかった」
「どういう意味?」
「……うちの家、お姉ちゃんの病気のことが原因でガッタガッタだったから。私も中学時代には、友達のグループからはみ出ちゃったから、どうしたらいいのかわからなかった。そのときに、知っているにおいを嗅いで、仲間だと思った……実際には、いろいろ違うのかもしれないけれど」
不謹慎だと言われてしまったらそれまでだ。不謹慎だと言われてしまったら、もう黙るしかなくなるから。その中でも、私は初めて仲間だと思える人に会えた……きっと日本のあちこちには私みたいな人がいるのかもしれないけれど、大したことないって言われてしまったらそれまでだけれど、私の町では見つからなかったから、見つけられたことが嬉しかったんだ。
「だから、嬉しかったんだ……ありがとう」
「……うん。そっか。そっか」
雨の音。むせかえるように背中から流れる汗。茂みに潜んだ虫の声。
ただこうして歩いているときだけは、私たちは普通の高校生になれたような気がした。私たちはふたりとも普通からはみ出てしまって途方に暮れていたけれど、今だけは、お姉ちゃんに買ってきている少女マンガの登場人物になれたような気がした。
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