19 / 37
強制脱出ゲームと記憶の檻
しおりを挟む<ラファエロ・サンティ、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ(ウルビーノ公)、教皇ユリウス2世、ミケランジェロ・ブオナローティ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、マルガリータ・ルティ>
対ヴェネツィアで各国(フランス、神聖ローマ帝国、スペイン、フェラーラ、マントヴァ、フィレンツェなど)が参戦したカンブレー同盟戦争は、ヴェネツィアが和睦を申し入れたことで、あらぬ方向に進むことになる。
教皇ユリウス2世は、「ヴェネツィアを叩きつぶす」と、噛みつくような調子でまくし立てたにも関わらず、ヴェネツィアの破門を解き、和睦に応じることにした。領地の返還や聖職者への税負担をなくすなど教皇側が提示した数々の条件をヴェネツィアがのむというのが前提である。
ヴェネツィアはのんだ。しかし、心底から履行するつもりはなかった。
いずれにしても、敵国がいなくなったのだから、これでカンブレー同盟戦争も当初目的を達成して終了ということになるのが自然だろう。しかし、そうはならなかった。敵国がいなくなったことで、新たな敵国ができるのである。
カンブレー戦争は主体である同盟が水のように流動的な状態で8年も続くことになるのだ。
おおもとはユリウス2世である。強硬な態度に出ておいて徹頭徹尾通せない。すぐ変更しまうというのは、この教皇に見られる特徴かもしれない。それが戦争を長く泥沼化させる要因にもなる。しかし、教皇にも不変のものがあった。芸術への愛である。アレクサンデル6世がこの世を去り、続いて短い任期で終わったピオ3世のあとにローマの宮殿(教皇庁)のあるじとなったユリウス2世は、キリスト教の精神を荘厳に伝えるような芸術作品でローマを埋め尽くしたいと思っていたのだ。
それだけのものを描ける芸術家がいたということでもある。
この頃、ミケランジェロ・ブオナローティをはじめ、多くの芸術家がローマに集められている。何度か書いているが、このときレオナルド・ダ・ヴィンチはミラノにいて、シャルル・ダンボワーズ伯の庇護を受けて活動している。なのでローマにはいない。そして彼はじきにフランスに去ることになる。
1509年、ミケランジェロは34歳である。すでにその高名は10代後半には確固となっていた。ダ・ヴィンチ不在の今、彼が頂点の位置にある芸術家である。
このとき、彼はシスティーナ礼拝堂の天井画の制作に入っている。この天井画は1508年から1512年まで、4年の月日をかけて描かれた。
この天井画はフレスコ画という技法で描かれている。天井壁面に漆喰(しっくい)を塗り、それが生乾きのうちに絵を描いていくのである。したがって、一度にたくさんの絵は描けない。その間に漆喰が乾いてしまうからである。少しずつ漆喰を塗り、そこに少しずつ絵を描いていくのである。従来は下絵を元に穴を開けてマーキングしておくのだが、ミケランジェロはそれもせず直接描いていたという。頭の中に正確な完成図がなければできないことであろう。「天地創造」の重要なモチーフがひとつひとつ天井に描かれ、まだ新しいこの礼拝堂(築30年である)に天地創造の色を添えていく。しかし、高所に足場を組んでずっと頭を天井に向けての作業だったので、首と背中にかかる負担と疲労は並大抵のものではなかった。
一方、フィレンツェから呼ばれた一人の芸術家がローマに到着し、活動を始めたところである。
彼はローマの中心を流れるティベレ川のほとりを歩く。
向こう岸には堅牢な教皇庁の城、カスタル・サンタンジェロが見える。それに沿って歩いていくとサン・ピエトロ大聖堂をはじめとする教皇庁の建造物群を見渡すことができる。フィレンツェからここに呼ばれた画家はその道を散歩することが好きだった。サン・ピエトロ大聖堂は少し古くなっており、教皇庁でも改修の設計案を建築の専門家に作らせているところだった。
これからこの景色はどんどん変わるのだろう。新しい聖堂ができて、新しい広場ができて、そしていたるところに自分の作品が置かれることになる。26歳になったばかりの、まだ若い画家はふっとつぶやいた。
「壮大な仕事だ。もし自分の頭の中で描いた通りにこの聖なる街を隅々まで作り変えることができたら、どんなに素晴らしいだろう」
画家は背筋がゾクゾクするような感覚を覚える。そして、その作業に携わっているもう一人の芸術家のことを思う。偉大な先駆者、ミケランジェロ・ブオナローティだ。
実はまだこの画家はミケランジェロとそれほど懇意(こんい)ではない。システィーナ礼拝堂の別の装飾はこの若い画家も後で依頼されることになるものの、仲良くなるのはなかなか難しそうだった。誰に聞いても、「天才、しかし偏屈、頑固者」という評価しか出てこないのだ。実際、そのような評判通りの人なのだが、そうでなければあれだけ表現することに執着できなかったのかもしれない。
「でも、あの人と一緒に仕事ができたら、本当に、本当にすごいものができると思うんだけどな……」
ふと、自分を呼ぶ声がしたような気がして、彼は振り返る。
「サンティ様、ウルビーノ公がお越しですので、すぐにお戻りください」
自分の工房の職人が呼びに来たのだ。画家は少し慌てた。
「それはいけない、うっかり忘れていた」
画家の名はラファエロ・サンティという。
1483年、ウルビーノ公国で生まれる。彼の父ジョヴァンニ・サンティはウルビーノ公国の宮廷画家だった。ウルビーノ公国はフェデリーコ3世(さきにあげた有名な傭兵隊長)、グイドバルド(チェーザレに敗北した)と続いて、現在フランチェスコ・マリーア(男性)が当主を継いでいる。グイドバルドの代にはチェーザレのイタリア半島中部攻略戦の中で追放の憂き目にもあったのだが、血縁者でもあるユリウス2世が教皇についたことにより、甥にあたるフランシスコ・マリーアの現在の立場は安定している。
グイドバルドはその平穏を長く享受する間もなく、この前年、1508年に亡くなった。
ラファエロは、早くからその才能を花開かせ、20代になるまでウルビーノで、21歳から25歳までフィレンツェに招かれて仕事をした。フィレンツェではレオナルド・ダ・ヴィンチが滞在していた時期と2年ほど重なっており、その間にラファエロはダ・ヴィンチの工房に何度も顔を出した。その作品をみずからの血肉にしようと努めたのだ。ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」に影響を受けたと思われるものも含めて、聖母子像をここでいくつも描いている。そして、ウルビーノに縁のある教皇に招かれてローマで仕事をすることになったのである。
さすがにその待遇は素晴らしいものだった。前金をたっぷりと持たされ、工房も用意された。勝てば官軍、ということである。
その工房に戻ると、フランチェスコ・マリーアが待っていた。そして工房にあるたくさんのデッサン画を眺めている。
「お待たせしてすみません。ちょっとティベレ川のほとりを散歩していました」とラファエロが遅れたことを詫びる。
「ああ、構わない。ここにいると時間をつぶすのに困らない。しかし、また使っている職人が増えたような気がするが」とフランチェスコ・マリーアは笑う。
この時代の芸術家は工房を構え、たくさんの画家や職人を雇っていた。完成した作品は工房として出している。現在残っている絵画でも、「有名な画家の工房の誰それが制作した」あるいは「有名な画家の工房で作者未詳」というクレジットが見られる。それは上記のような事情による。ラファエロの工房はかなり大きいもので職人もたくさんいる。
今日における漫画やアニメーション制作と共通する部分があるかもしれない。
その例外はミケランジェロで弟子も取らず、ひとりでいることを好んだ。
ラファエロは人好きのする性格である。宮廷画家の息子で、小さい頃から上流階級のサロンに馴染んでいたことが大きく影響しているのかもしれない。つぶらな瞳が印象的で美しく、華奢な少年のような相貌である。本人が意図するまでもなく、権力を持つ者に可愛がられ、女性を惹き付けるという術を自然に身に付けていた。
ただ、それは持って生まれた性格や環境によるものなので、本質的な才能までそこに帰するものではない。
ラファエロは美しいものを見る目と、それを描くだけの腕と、偉大な先達(せんだつ)のすべてを吸収して自らに昇華しようとする情熱を持っている。それがここで見るべきいちばんの点である。
「どうですか、ヴェネツィアとの戦争は。ヴェネツィアには素晴らしい絵や彫刻がたくさんあると聞いていますから、それが破壊されなければいいのですが」とラファエロが尋ねる。
「教皇様はヴェネツィアをお赦しになるつもりだよ。しばらくは平穏なのではないか。ルイ12世が何と言うか分からないが」とフランチェスコ・マリーアは答える。
「それならいいのですけれど……」とラファエロ。少し疲れた様子である。
フランチェスコ・マリーアは椅子に腰掛けてラファエロも座るように言う。
ウルビーノの当主はラファエロより7歳下でまだ19歳、ラファエロは子どもの頃から知っている。フランチェスコ・マリーアの肖像画を描いたこともあるのだ。礼節を踏まえてではあるが、二人は気心の知れた友人のようなものだった。
二人はテーブルをはさんで向かい合う。
「どうだ? 進捗は順調? 疲れているようだが、工房は上手く回せているのか」
ウルビーノ公のねぎらうような言葉にラファエロは笑う。
「ああ、大丈夫です。仕事の大きさを考えると武者震いするというか……だって光栄じゃありませんか。この永遠の都に自分の仕事を刻み込むことができるのですよ。今描いている絵が完成すれば……一息つけるかもしれませんね」
その絵とは「アテナイの学堂」である。今日も残るこの有名な絵は、ギリシア時代のアカデメイア(学園)を模したと思われる建物の中央にプラトンとアリストテレスが議論をしながら歩き、周囲に多くの人間が集まっているという構成である。後世までラファエロの最高傑作と評する人も多い。
「あの絵はもうかなり進んでいるだろう。指定された期限より早くできるのではないか」
「まだ細部の詰めがありますので、相応にかかるでしょう」とラファエロが微笑む。
「あれは……寓意画というか、どことなくギリシア人ではないようにも思えるが」とフランチェスコ・マリーアが言葉を選びながら言う。その様子を見て、ラファエロは微笑んでうなずく。そしてひょうきんな調子で答える。
「そうですよ。あれは学舎(アカデメイア)の絵ですが、実のところ…………ギリシアの偉大な学者たちと、ここイタリア半島の比類なき芸術家を重ねているのです」
「ああ、やっぱり…………教皇様は何か言っていなかったか?」
ウルビーノ公は心配らしい。教皇庁内の広間に飾られる絵なのだから、それなりの格式が必要なことは自明の理だ。ラファエロの言うような趣旨がおおっぴらに言われたら、悪くすれば描き直しである。それだけは避けたい事態である。
「大丈夫です。プラトンとアリストテレスをご覧になって褒めていただきました。ギリシアの学者は網羅していますから、安心してください。他の人間の絵はあまり見ておられなかったかと思いますよ。そうそう、フランチェスコ・マリーア様ももちろん描いてあります」
「えっ、気付かなかったぞ。どこに?」と公爵は仰天する。
「お探しになってみてください」とラファエロは笑っている。
フランチェスコ・マリーアはそろそろ、と言って席を立つ。ラファエロが見送りに出る。
外では馬と馬丁が待ちかねている。工房の出口で、フランチェスコ・マリーアはラファエロにつぶやいた。
「聖母子のデッサンがあったが……ウルビーノやフィレンツェの頃とだいぶ変わったな」
ラファエロは首をかしげて彼を見る。
「聖母の顔、前はこう、無表情で少し年長の、僕らの母親と言った雰囲気のものが多かったけれど、今は若くてふっくらとして、純粋さに満ちた女性の顔になっている」とフランチェスコ・マリーアは言う。
「そうですか……」とラファエロはふっと暗い表情をした。フランチェスコ・マリーアはそれを見て苦笑いする。
「ラファエロ、シエナのパン屋の娘は結婚したそうだよ。じゃ、また」
ラファエロはフランチェスコ・マリーアが去るのを見送って工房に戻った。もう夕刻になったので、職人たちは帰りはじめている。それを横目に見ながら、ラファエロは真新しい紙を取って、椅子にどかっと腰掛けた。少しいらだっているようだ。彼は赤いチョークを握ると、取り憑かれたようにそれを紙に走らせ続けた。
みるみるうちに、彼が走らせた軌跡は美しい女性、聖母ではない女性の姿になっていく。
「マルガリータ、マルガリータ、マルガリータ……」
ラファエロはそうつぶやいてから、自分が描いた絵の想い人に唇をそっと押し付ける。
そして、テーブルに突っ伏して呻くように泣き始めた。
ローマの夜が静かに過ぎていく。
対ヴェネツィアで各国(フランス、神聖ローマ帝国、スペイン、フェラーラ、マントヴァ、フィレンツェなど)が参戦したカンブレー同盟戦争は、ヴェネツィアが和睦を申し入れたことで、あらぬ方向に進むことになる。
教皇ユリウス2世は、「ヴェネツィアを叩きつぶす」と、噛みつくような調子でまくし立てたにも関わらず、ヴェネツィアの破門を解き、和睦に応じることにした。領地の返還や聖職者への税負担をなくすなど教皇側が提示した数々の条件をヴェネツィアがのむというのが前提である。
ヴェネツィアはのんだ。しかし、心底から履行するつもりはなかった。
いずれにしても、敵国がいなくなったのだから、これでカンブレー同盟戦争も当初目的を達成して終了ということになるのが自然だろう。しかし、そうはならなかった。敵国がいなくなったことで、新たな敵国ができるのである。
カンブレー戦争は主体である同盟が水のように流動的な状態で8年も続くことになるのだ。
おおもとはユリウス2世である。強硬な態度に出ておいて徹頭徹尾通せない。すぐ変更しまうというのは、この教皇に見られる特徴かもしれない。それが戦争を長く泥沼化させる要因にもなる。しかし、教皇にも不変のものがあった。芸術への愛である。アレクサンデル6世がこの世を去り、続いて短い任期で終わったピオ3世のあとにローマの宮殿(教皇庁)のあるじとなったユリウス2世は、キリスト教の精神を荘厳に伝えるような芸術作品でローマを埋め尽くしたいと思っていたのだ。
それだけのものを描ける芸術家がいたということでもある。
この頃、ミケランジェロ・ブオナローティをはじめ、多くの芸術家がローマに集められている。何度か書いているが、このときレオナルド・ダ・ヴィンチはミラノにいて、シャルル・ダンボワーズ伯の庇護を受けて活動している。なのでローマにはいない。そして彼はじきにフランスに去ることになる。
1509年、ミケランジェロは34歳である。すでにその高名は10代後半には確固となっていた。ダ・ヴィンチ不在の今、彼が頂点の位置にある芸術家である。
このとき、彼はシスティーナ礼拝堂の天井画の制作に入っている。この天井画は1508年から1512年まで、4年の月日をかけて描かれた。
この天井画はフレスコ画という技法で描かれている。天井壁面に漆喰(しっくい)を塗り、それが生乾きのうちに絵を描いていくのである。したがって、一度にたくさんの絵は描けない。その間に漆喰が乾いてしまうからである。少しずつ漆喰を塗り、そこに少しずつ絵を描いていくのである。従来は下絵を元に穴を開けてマーキングしておくのだが、ミケランジェロはそれもせず直接描いていたという。頭の中に正確な完成図がなければできないことであろう。「天地創造」の重要なモチーフがひとつひとつ天井に描かれ、まだ新しいこの礼拝堂(築30年である)に天地創造の色を添えていく。しかし、高所に足場を組んでずっと頭を天井に向けての作業だったので、首と背中にかかる負担と疲労は並大抵のものではなかった。
一方、フィレンツェから呼ばれた一人の芸術家がローマに到着し、活動を始めたところである。
彼はローマの中心を流れるティベレ川のほとりを歩く。
向こう岸には堅牢な教皇庁の城、カスタル・サンタンジェロが見える。それに沿って歩いていくとサン・ピエトロ大聖堂をはじめとする教皇庁の建造物群を見渡すことができる。フィレンツェからここに呼ばれた画家はその道を散歩することが好きだった。サン・ピエトロ大聖堂は少し古くなっており、教皇庁でも改修の設計案を建築の専門家に作らせているところだった。
これからこの景色はどんどん変わるのだろう。新しい聖堂ができて、新しい広場ができて、そしていたるところに自分の作品が置かれることになる。26歳になったばかりの、まだ若い画家はふっとつぶやいた。
「壮大な仕事だ。もし自分の頭の中で描いた通りにこの聖なる街を隅々まで作り変えることができたら、どんなに素晴らしいだろう」
画家は背筋がゾクゾクするような感覚を覚える。そして、その作業に携わっているもう一人の芸術家のことを思う。偉大な先駆者、ミケランジェロ・ブオナローティだ。
実はまだこの画家はミケランジェロとそれほど懇意(こんい)ではない。システィーナ礼拝堂の別の装飾はこの若い画家も後で依頼されることになるものの、仲良くなるのはなかなか難しそうだった。誰に聞いても、「天才、しかし偏屈、頑固者」という評価しか出てこないのだ。実際、そのような評判通りの人なのだが、そうでなければあれだけ表現することに執着できなかったのかもしれない。
「でも、あの人と一緒に仕事ができたら、本当に、本当にすごいものができると思うんだけどな……」
ふと、自分を呼ぶ声がしたような気がして、彼は振り返る。
「サンティ様、ウルビーノ公がお越しですので、すぐにお戻りください」
自分の工房の職人が呼びに来たのだ。画家は少し慌てた。
「それはいけない、うっかり忘れていた」
画家の名はラファエロ・サンティという。
1483年、ウルビーノ公国で生まれる。彼の父ジョヴァンニ・サンティはウルビーノ公国の宮廷画家だった。ウルビーノ公国はフェデリーコ3世(さきにあげた有名な傭兵隊長)、グイドバルド(チェーザレに敗北した)と続いて、現在フランチェスコ・マリーア(男性)が当主を継いでいる。グイドバルドの代にはチェーザレのイタリア半島中部攻略戦の中で追放の憂き目にもあったのだが、血縁者でもあるユリウス2世が教皇についたことにより、甥にあたるフランシスコ・マリーアの現在の立場は安定している。
グイドバルドはその平穏を長く享受する間もなく、この前年、1508年に亡くなった。
ラファエロは、早くからその才能を花開かせ、20代になるまでウルビーノで、21歳から25歳までフィレンツェに招かれて仕事をした。フィレンツェではレオナルド・ダ・ヴィンチが滞在していた時期と2年ほど重なっており、その間にラファエロはダ・ヴィンチの工房に何度も顔を出した。その作品をみずからの血肉にしようと努めたのだ。ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」に影響を受けたと思われるものも含めて、聖母子像をここでいくつも描いている。そして、ウルビーノに縁のある教皇に招かれてローマで仕事をすることになったのである。
さすがにその待遇は素晴らしいものだった。前金をたっぷりと持たされ、工房も用意された。勝てば官軍、ということである。
その工房に戻ると、フランチェスコ・マリーアが待っていた。そして工房にあるたくさんのデッサン画を眺めている。
「お待たせしてすみません。ちょっとティベレ川のほとりを散歩していました」とラファエロが遅れたことを詫びる。
「ああ、構わない。ここにいると時間をつぶすのに困らない。しかし、また使っている職人が増えたような気がするが」とフランチェスコ・マリーアは笑う。
この時代の芸術家は工房を構え、たくさんの画家や職人を雇っていた。完成した作品は工房として出している。現在残っている絵画でも、「有名な画家の工房の誰それが制作した」あるいは「有名な画家の工房で作者未詳」というクレジットが見られる。それは上記のような事情による。ラファエロの工房はかなり大きいもので職人もたくさんいる。
今日における漫画やアニメーション制作と共通する部分があるかもしれない。
その例外はミケランジェロで弟子も取らず、ひとりでいることを好んだ。
ラファエロは人好きのする性格である。宮廷画家の息子で、小さい頃から上流階級のサロンに馴染んでいたことが大きく影響しているのかもしれない。つぶらな瞳が印象的で美しく、華奢な少年のような相貌である。本人が意図するまでもなく、権力を持つ者に可愛がられ、女性を惹き付けるという術を自然に身に付けていた。
ただ、それは持って生まれた性格や環境によるものなので、本質的な才能までそこに帰するものではない。
ラファエロは美しいものを見る目と、それを描くだけの腕と、偉大な先達(せんだつ)のすべてを吸収して自らに昇華しようとする情熱を持っている。それがここで見るべきいちばんの点である。
「どうですか、ヴェネツィアとの戦争は。ヴェネツィアには素晴らしい絵や彫刻がたくさんあると聞いていますから、それが破壊されなければいいのですが」とラファエロが尋ねる。
「教皇様はヴェネツィアをお赦しになるつもりだよ。しばらくは平穏なのではないか。ルイ12世が何と言うか分からないが」とフランチェスコ・マリーアは答える。
「それならいいのですけれど……」とラファエロ。少し疲れた様子である。
フランチェスコ・マリーアは椅子に腰掛けてラファエロも座るように言う。
ウルビーノの当主はラファエロより7歳下でまだ19歳、ラファエロは子どもの頃から知っている。フランチェスコ・マリーアの肖像画を描いたこともあるのだ。礼節を踏まえてではあるが、二人は気心の知れた友人のようなものだった。
二人はテーブルをはさんで向かい合う。
「どうだ? 進捗は順調? 疲れているようだが、工房は上手く回せているのか」
ウルビーノ公のねぎらうような言葉にラファエロは笑う。
「ああ、大丈夫です。仕事の大きさを考えると武者震いするというか……だって光栄じゃありませんか。この永遠の都に自分の仕事を刻み込むことができるのですよ。今描いている絵が完成すれば……一息つけるかもしれませんね」
その絵とは「アテナイの学堂」である。今日も残るこの有名な絵は、ギリシア時代のアカデメイア(学園)を模したと思われる建物の中央にプラトンとアリストテレスが議論をしながら歩き、周囲に多くの人間が集まっているという構成である。後世までラファエロの最高傑作と評する人も多い。
「あの絵はもうかなり進んでいるだろう。指定された期限より早くできるのではないか」
「まだ細部の詰めがありますので、相応にかかるでしょう」とラファエロが微笑む。
「あれは……寓意画というか、どことなくギリシア人ではないようにも思えるが」とフランチェスコ・マリーアが言葉を選びながら言う。その様子を見て、ラファエロは微笑んでうなずく。そしてひょうきんな調子で答える。
「そうですよ。あれは学舎(アカデメイア)の絵ですが、実のところ…………ギリシアの偉大な学者たちと、ここイタリア半島の比類なき芸術家を重ねているのです」
「ああ、やっぱり…………教皇様は何か言っていなかったか?」
ウルビーノ公は心配らしい。教皇庁内の広間に飾られる絵なのだから、それなりの格式が必要なことは自明の理だ。ラファエロの言うような趣旨がおおっぴらに言われたら、悪くすれば描き直しである。それだけは避けたい事態である。
「大丈夫です。プラトンとアリストテレスをご覧になって褒めていただきました。ギリシアの学者は網羅していますから、安心してください。他の人間の絵はあまり見ておられなかったかと思いますよ。そうそう、フランチェスコ・マリーア様ももちろん描いてあります」
「えっ、気付かなかったぞ。どこに?」と公爵は仰天する。
「お探しになってみてください」とラファエロは笑っている。
フランチェスコ・マリーアはそろそろ、と言って席を立つ。ラファエロが見送りに出る。
外では馬と馬丁が待ちかねている。工房の出口で、フランチェスコ・マリーアはラファエロにつぶやいた。
「聖母子のデッサンがあったが……ウルビーノやフィレンツェの頃とだいぶ変わったな」
ラファエロは首をかしげて彼を見る。
「聖母の顔、前はこう、無表情で少し年長の、僕らの母親と言った雰囲気のものが多かったけれど、今は若くてふっくらとして、純粋さに満ちた女性の顔になっている」とフランチェスコ・マリーアは言う。
「そうですか……」とラファエロはふっと暗い表情をした。フランチェスコ・マリーアはそれを見て苦笑いする。
「ラファエロ、シエナのパン屋の娘は結婚したそうだよ。じゃ、また」
ラファエロはフランチェスコ・マリーアが去るのを見送って工房に戻った。もう夕刻になったので、職人たちは帰りはじめている。それを横目に見ながら、ラファエロは真新しい紙を取って、椅子にどかっと腰掛けた。少しいらだっているようだ。彼は赤いチョークを握ると、取り憑かれたようにそれを紙に走らせ続けた。
みるみるうちに、彼が走らせた軌跡は美しい女性、聖母ではない女性の姿になっていく。
「マルガリータ、マルガリータ、マルガリータ……」
ラファエロはそうつぶやいてから、自分が描いた絵の想い人に唇をそっと押し付ける。
そして、テーブルに突っ伏して呻くように泣き始めた。
ローマの夜が静かに過ぎていく。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説

婚約者に毒を飲まされた私から【毒を分解しました】と聞こえてきました。え?
こん
恋愛
成人パーティーに参加した私は言われのない罪で婚約者に問い詰められ、遂には毒殺をしようとしたと疑われる。
「あくまでシラを切るつもりだな。だが、これもお前がこれを飲めばわかる話だ。これを飲め!」
そう言って婚約者は毒の入ったグラスを渡す。渡された私は躊躇なくグラスを一気に煽る。味は普通だ。しかし、飲んでから30秒経ったあたりで苦しくなり初め、もう無理かも知れないと思った時だった。
【毒を検知しました】
「え?」
私から感情のない声がし、しまいには毒を分解してしまった。私が驚いている所に友達の魔法使いが駆けつける。
※なろう様で掲載した作品を少し変えたものです

変な転入生が現れましたので色々ご指摘さしあげたら、悪役令嬢呼ばわりされましたわ
奏音 美都
恋愛
上流階級の貴族子息や令嬢が通うロイヤル学院に、庶民階級からの特待生が転入してきましたの。
スチュワートやロナルド、アリアにジョセフィーンといった名前が並ぶ中……ハルコだなんて、おかしな

【完結】婚約破棄寸前の悪役令嬢に転生したはずなのに!?
21時完結
恋愛
現代日本の普通一般人だった主人公は、突然異世界の豪華なベッドで目を覚ます。鏡に映るのは見たこともない美しい少女、アリシア・フォン・ルーベンス。悪役令嬢として知られるアリシアは、王子レオンハルトとの婚約破棄寸前にあるという。彼女は、王子の恋人に嫌がらせをしたとされていた。
王子との初対面で冷たく婚約破棄を告げられるが、美咲はアリシアとして無実を訴える。彼女の誠実な態度に次第に心を開くレオンハルト
悪役令嬢としてのレッテルを払拭し、彼と共に幸せな日々を歩もうと試みるアリシア。
バッドエンド後の乙女ゲームでこれ以上なにをどう頑張れと言うのですか
石田空
恋愛
奨学金返済のために昼の事務職と夜のキャバ嬢の二重生活の果てに無事完済したものの、過労で死亡。
仕事の息抜きでしていた乙女ゲーム『華族ロマネスク』の世界に転生してしまったが、超世間知らずが故に、ヒロインの登紀子は既にバッドエンドの吉原ルートに直行。借金完済まで逃げられなくなってしまっていた。
前世でも借金に喘いでいたのに、現世でもこれかよ!?
キレた登紀子改めときをは、助けに来ない攻略対象なんぞ知らんと、吉原で借金完済のために働きはじめた。
しかし攻略対象ヤンデレオンリーな中で、唯一の癒やし要員兼非攻略対象の幸哉と再会を果たしてしまい……。
なんちゃって大正時代を舞台に、信じられるのはお金のみな守銭奴ヒロインと、優しい故に影が薄い元婚約者の恋愛攻防戦。
サイトより転載になります。
ピクシブでも公開中。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

淡泊早漏王子と嫁き遅れ姫
梅乃なごみ
恋愛
小国の姫・リリィは婚約者の王子が超淡泊で早漏であることに悩んでいた。
それは好きでもない自分を義務感から抱いているからだと気付いたリリィは『超強力な精力剤』を王子に飲ませることに。
飲ませることには成功したものの、思っていたより効果がでてしまって……!?
※この作品は『すなもり共通プロット企画』参加作品であり、提供されたプロットで創作した作品です。
★他サイトからの転載てす★

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される
風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。
しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。
そんな時、隣国から王太子がやって来た。
王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。
すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。
アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。
そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。
アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。
そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。

転生したら乙女ゲームの主人公の友達になったんですが、なぜか私がモテてるんですが?
rita
恋愛
田舎に住むごく普通のアラサー社畜の私は車で帰宅中に、
飛び出してきた猫かたぬきを避けようとしてトラックにぶつかりお陀仏したらしく、
気付くと、最近ハマっていた乙女ゲームの世界の『主人公の友達』に転生していたんだけど、
まぁ、友達でも二次元女子高生になれたし、
推しキャラやイケメンキャラやイケオジも見れるし!楽しく過ごそう!と、
思ってたらなぜか主人公を押し退け、
攻略対象キャラからモテまくる事態に・・・・
ちょ、え、これどうしたらいいの!!!嬉しいけど!!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる